杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

臨済寺ZENカルチャー「茶の湯の中の禅」

2015-09-22 13:52:53 | 仏教

 シルバーウィーク期間中、静岡市の駿府城公園では徳川家康公顕彰400年祭「駿府天下泰平まつり」が開催されています。初日19日の夕方、仕事帰りにちょこっとのぞいてみたら、ちょうど朝鮮通信使のイベントをやっていました。せっかくの400年祭、イベント行列やパフォーマンスばかりじゃなく、終戦70年という節目に鑑みて、朝鮮通信使という格好の教材をもとに家康の平和外交について学術的なシンポジウムでもあれば、と期待していたんですが、観光や商業活性化につながるイベント・パフォーマンスの類にしか予算がつかないんでしょうね・・・。イベント会場をスルーして、知り合いの飲食店主が出展しているビール&地酒ブースへ直行。サッポロ生ビールと磯自慢をクイッといただいて、ほろよい気分で帰りました。

 

 先週は国会での安保法案可決を通して、政治への関心がひときわ高まった一週間でした。世論が分かれる問題に政治家が判断を下すときというのは、やはり政治家自身の知性や人格が試されると実感しました。それら資質は若い頃から積み重ねてきた教養―とくに歴史や地理や哲学といった、入試ではあまり重視されない人文系の科目をしっかり学んで得る人間力に相違ない・・・。そういうことも、家康公の人生から読み解くことができると思います。今川人質時代、臨済寺の太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)から得た教養は、治世者となって政治基盤を築く際に大きな影響を与えたといえるでしょう。

 

 

 家康公の政治家としての資質人格を養ったであろう臨済寺で、9月15日、一般向けの教養講座・臨済寺ZENカルチャーが開かれ、静岡文化芸術大学の熊倉功夫学長が【茶の湯の中の禅】と題した講義を行ないました。長年、臨済寺の茶会に参加されている裏千家の望月静雄先生から聴講を勧められ、主催する駿河茶禅の会でもちょうど熊倉先生が訳注した『山上宗二記』を輪読中ということもあり、行って来ました。以下に先生の講義の聞き書きを勝手にまとめます。私の勝手な解釈が入っていますが、ご容赦ください。

 

 茶の湯と禅が出合ったのは室町時代。いわゆる中世です。政治や文化が、宗教なしでは生まれ得なかった時代であり、ヨーロッパでも同じ。この頃の芸術はキリストを題材にした宗教画や彫刻がほとんどでした。これと対照的に、神仏ではなく人間が主役になったのが近世。日本では江戸時代、ヨーロッパではルネサンス時代ということになります。確かに、モナリザのような俗人が肖像画のモチーフになったことで、人間主役の時代に替わった、といえますね。

 時代を戻して神仏主役の中世。能、連歌、水墨画、歌舞伎、茶の湯などを生み出したのは、社会的に身分が低く、差別を受けていた下層階級出身者でした。森鴎外の『山椒大夫』で凶暴な人買い荘園主として知られた山椒大夫は、大夫が語源で、とは人が住まない場所=役立たずの場所=河原を指し、河原の住人の親分、という意味だったそう。歌舞伎役者もかつては「」と蔑まれていたんですよね。

 そんな下層階級者に救いの手を差し伸べたのが、遊行で知られた時宗の一遍上人(1239~1289)でした。貴賎を問わず民衆の中に飛び込んで、誰でも「南無阿弥陀仏」を唱えれば救われると説いた人。国宝の一遍聖画には乞食や身体障害者もリアルに描かれています。下層出身者である芸能者の多くも、時宗に入信し、「○○阿弥陀仏」という法名をもらいます。「観阿弥」「世阿弥」といった名前がそうですね。時宗の得度を受けた形になれば、出自を問わず、貴人の側に仕えることができるようになるのです。私は以前、臨済寺にほど近い丸山町にある時宗・安西寺のホームページコンテンツ(こちら)を手伝ったことがあり、時宗について調査し、臨済寺ならびに駿河の仏教寺院については、こちらでも考察しています。それにしても、一遍上人なくては日本の芸能は発展しなかったことを改めて教わって、鳥肌が立ちました。

 

 阿弥号を持つ芸能者は、貴人の側に仕える雑務役として同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれるようになります。彼らが力を持ち始めた14~15世紀頃になると、時宗の勢力が衰え、清廉な芸能者にとっては精神的支柱となる別の宗教が必要となりました。注目されたのが禅です。

 禅宗はご存知の通り、6世紀に達磨大師によって始まり、鎌倉時代、日本から栄西と道元が宋に渡り、それぞれ臨済宗と曹洞宗を学んで開きました。臨済宗では宋の渡来僧や日本人僧によって各地に禅道場が開かれ、14の本山が築かれました。このうち政権の精神的支柱となったのが、いわゆる京都五山。無窓疎石(1275~1351)が中国の五山制度を取り入れ、南禅寺(別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、建仁寺(第三位)、東福寺(第四位)、万寿寺(第五位)というランク付けを行ないました。このランク付けは京都すべての禅寺ランキングではなく、この6寺の中で室町・足利政権にとって重要かどうかのランク付けだそうです。

 一方、五山には入っていない、いわば在野派の代表格が大徳寺。開山は大燈国師です。大燈国師のお師匠さん大応国師はわが静岡の井宮出身で、鎌倉建長寺の住持を務めた人です。で、大燈国師のお弟子さん関山慧玄は京都妙心寺の開山。この3人の法系〈応―燈―関〉が、臨済禅の柱になったのですね。その後、ごちゃごちゃになって勢力を失った臨済禅法系を江戸中期の白隠禅師が再興し、今日のZENを築いた、というわけです。

 

 話がずれましたが、在野の禅堂・大徳寺の歴代住職で筆頭に上がるのが一休禅師でしょう。反骨で変わり者といわれた一休さんですが、エリート五山僧とは違い、貴賎を問わず芸能者に禅を説き、庶民に愛されました。やはり静岡に縁のある連歌師宗長は一休さんの大ファンで、大事な家宝の源氏物語写本を売り払って大徳寺三門を寄進。侘び茶の創始者である村田珠光は一休さんから圜悟禅師(「碧厳録」を著した中国の名僧)の墨蹟をもらい、草庵に墨蹟を飾って茶を点てる茶道の原型を築きました。墨蹟とは「喫茶去」「日々是好日」「看脚下」といったお馴染みの禅語ですね。茶室では墨蹟を高僧その人に見立てて礼を尽し、教えを乞う場として位置づけたのです。珠光が弟子の古市播磨法師に書き記した「心の文」には、「此の道、第一わろき事ハ心のかまんかしやう(我慢我執=己の慢心と執着)也」とあり、茶の湯が単なる喫茶文化ではなく、禅の道そのものであると伝えました。

  

 珠光の孫弟子にあたるのが堺の豪商・武野紹鴎。その弟子が千利休です。紹鴎は大徳寺の大林宗套に禅を学び、利休も大林宗套や、大徳寺歴代管首が住持を勤める堺・南宗寺の笑嶺宗訴や古渓宗陳に参禅。利休宗易という法名をもらいました。

 話はまたまた逸れますが、この南宗寺には、徳川家康公の墓があるそうです。大阪夏の陣の茶臼山の戦いで家康は敵から逃げる際に乗っていた駕籠(かご)ごと後藤又兵衛の槍に突かれて重傷を負い、南宗寺に運ばれて絶命したという伝説が残っていて、その伝説に沿うように建てられたとか。太平洋戦争の後、水戸徳川家家老の末裔・三木啓次郎氏が東照宮跡碑として建立し、墓の裏にある賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏の名前も。家康公没後400年の記念事業真っ只中の駿府静岡人からしたら「・・・んな、馬鹿な!」と仰天しちゃいますが、徳川秀忠、家光の両将軍が相次いで同寺を参拝している記録もあり、徳川家にとって特別な場所であることは間違いなさそう。駿河茶禅の会でぜひ一度訪ねて検証してみます!

 

 さて利休はそれまで茶室には中国の高僧の墨蹟を飾っていた伝統を破り、あるとき、一休さんが書いた達磨大師の一行句を飾り、「卒塔婆を飾るようでとても良い」と言われたとか。中国高僧の墨蹟は長文で読みづらいし、客人も読む気になれない。でも分かりやすい一行句、しかも日本人が親しむ一休さんの墨蹟なら、墨蹟そのものを一休さんの卒塔婆に見立て、茶を献上するという気持ちになれるというわけです。

 

 利休は、連歌師宗長が寄進した大徳寺三門(金毛閣)を二階建てに建て増ししました。ここに雪駄履きの利休木像が置かれたことから太閤秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられたと伝えられます。真相はさだかではありませんが、熊倉先生は「利休は生死をかけて禅に向き合っていたのではないか」と説きます。一休の墨蹟を卒塔婆に見立てたり、三門への難癖に反論せず黙って切腹を受け容れた。先生が訳注された【南方録】には、利休の教えとして、

 「家ハもらぬほど 食事ハ飢えぬほどにてたる事也。是仏の教 茶の湯の本意也。水を運び 薪をとり 湯をわかし茶をたてゝ 仏にそなへ 人にもほどこし 吾ものむ。花を立て香をたく みなゝゝ仏祖の行ひのあとを学ぶ也」

 と書かれています。雨露しのげる家と飢えない程度の食事があればよいというのが茶の湯の本意とし、茶はまず仏さまに、次に客人に、最後に自分にも、という教え。「茶は、“吾ものむ”で初めて完成する。すなわち、利他と自利の円満なる姿が仏の教え」と熊倉先生。あっそうなんだ・・・と気づかされました。

 茶の湯の精神=おもてなしの原点とは、ひたすら他者に誠意を尽すことだと考えていたのですが、熊倉先生は「客が亭主の心遣いに気づいて感謝する。双方向の思いによって完成するもの」と指摘されました。・・・確かに、いくら亭主が心を尽しても、客が何も気づかず、感じないままで帰ってしまったのでは、その茶席で過ごした時間は互いに無駄になってしまいますね。そう考えると、ときに、秀吉や家康にも茶を点てたという時間は、利休にしてみれば、まさに生死をかけた時間だったのだ・・・と迫ってきます。

 

 利休の孫で千家3代目の千宗旦は81歳まで長生きし、3人の息子に大名家のパトロンをつけて表千家・裏千家・武者小路千家を興した功労者ですが、30歳から60歳ぐらいまでうつ病をわずらい、まともに人にも会えず、“乞食宗旦”と呼ばれていたそうです。唯一話し相手になっていたのが大徳寺の僧たち。生活苦のため、利休から受け継いだ貴重な茶道具を売り払ってしまい、それでも足りないときは大徳寺の僧が墨蹟を書いて売って助けたとか。これも、茶の湯と禅のかかわりを物語るエピソードですね。

 

 江戸時代以降、形式や権威付けによって、茶人は“我慢我執の権化”と揶揄されるようになってしまいました。「日本の芸道は好きもの=数寄もの=風流に執着するものによって発展した。執着しすぎて出家までする武士もいたほど」と熊倉先生。利休の精神から乖離したように見える茶の湯ですが、21世紀の今、形式や権威付けのために学ぼうとする日本人はいないと思う。今こそ初心に戻って、珠光の “我慢我執を捨てよ” と、利休の “仏にそなへ 人にもほどこし、吾ものむ” 精神を見つめなおすときではないでしょうか。

  茶道同様、家康公400年祭のような顕彰イベントも、形式再現で終わるのではなく、顕彰すべき先人の教えや精神を現代に生かす学びの機会にしてほしいと願います。



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