杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

私的桜譜

2015-03-18 13:32:41 | 歴史

 急に春めいてきました。来週には静岡県清酒鑑評会一般公開(23日12時~グランシップ・入場無料・申込不要)があり、桜の開花予報が出て本格的な春の到来を実感します。昨日(17日)の段階で城北公園の枝垂桜がこの状態。桜の開花って今までさほど意識したことはなく、ああ咲いたなあ~、ああ散ったなあ~で終わっていたのですが、今年は少し気持ちを込めてお花見しようと思っています。

 

 

 14日(土)、東京農業大学「食と農」の博物館で開催された生き物文化誌学会園芸例会【サクラをもっと知ろう~その文化、由来、管理】に参加しました。この学会(こちらを)は日本国中で例会が開かれ、遠方の例会にはなかなか参加できないため、東京や京都での例会はテーマに関係なく積極参加しています。理系(おもに生物学)の識者がたが文化論や文明論を探求されるユニークな学会。以前プランクトンについて学んだ例会(こちらを)は本当に眼からウロコの連続でした。

 今回のテーマは、ずばり、サクラ。学会会長で一般財団法人進化生物学研究所・湯浅浩二先生の「花が咲く、というだけのことが、テレビや新聞のトップ項目になる国は世界中探してもほかにはない」という冒頭の挨拶でハッとさせられました。サクラってやっぱり特別な花なんですね・・・。

 

 まずは、言葉を扱う仕事をしているのに知らなくて恥ずかしくなったのが、「サクラ」の語源です。なんとなく「咲く」「等」がくっついた言葉だとウラ覚えしていたのですが、実は「サ」「クラ」がくっついたという説が最近の主流だそうです。

 「サ」とは、五月、五月雨、早乙女、早苗に象徴される「稲」のこと。

 「クラ」は、盤座(いわくら)、鞍、倉に通じる言葉で、「神の座」のこと。

 前年の秋、収穫に感謝する秋祭りが終わって山の神様が里を去られた。冬を越して春になり、神様がふたたび里へお戻りになり、田の神になってさあ稲作が始まる。サクラとは、神様が里に帰ってこられた証しとして咲かせた花、という意味です。花見の風習は世界各国それぞれですが、日本のように昼間から集団でサクラの木の下で酒を飲んで踊って騒ぐという国民はない。訪日外国人にはクレイジーに見えるかもしれないけれど、日本人にとってサクラがそういう存在だと解れば納得してもらえそうな気がします。・・・こういうことを当の日本人がちゃんと説明できなきゃマズイですよね。

 

 サクラの品種。ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヤエザクラぐらいしか知らない花オンチの私ですが、日本には10種類の原種があるそうです。

 ●ヤマザクラ 宮城・新潟以西

 ●オオヤマザクラ 北海道、東北地方

 ●カスミザクラ 北海道~四国

 ●オオシマザクラ 関東沿岸、伊豆諸島

 ●エドヒガン 本州、四国、九州

 ●マメザクラ 関東~中部、北陸~近畿、中国

 ●タカネザクラ 北海道、本州中部以北

 ●チョウジザクラ 岩手~広島

 ●ミヤマザクラ 北海道~九州の深い山

 ●カンヒザクラ 沖縄

 

 また海外原産のサクラでは、ヒマヤラザクラ(ネパール~ブータン~ミャンマー~ラオス北部~中国雲南省)、ヒマヤラザクラ・カンヒザクラ系(中国南部~台湾)、シナミザクラ(中国)などがあります。

 ヤエザクラは原種ではなく、自然交雑したもので、2系統あるそうです。1つは奈良八重桜(カスミザクラ×ヤマザクラ)。聖武天皇が三笠山で発見したと伝わります。

 もう1つは里桜でこちらが現在のヤエザクラの主流。オオシマザクラ系統で鎌倉時代、京都千本ゑんま堂引接寺で咲いた「普賢象」が、最古の里桜系ヤエザクラといわれます。オオシマザクラは関東沿岸や伊豆諸島の一部でしか自生していなかったのですが、鎌倉期の武家や宗教家たちが接木の技術によって全国に広めたそう。ちなみにソメイヨシノは明治24年、オオシマザクラとエドヒガンの自然交雑で上野公園で発見され、ちょうど4月の入学式頃に満開になるので学校や兵舎に一気に普及。河津桜は昭和30年、オオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑で伊豆の河津町で発見。枝垂桜はエドヒガン系が多くいろんな種類があるようです。

 今、日本で咲いているサクラの大半が、オオシマザクラ系なんですね。自生地は限られているのに遺伝子は強い!

 

 それにしても「普賢象」って花の名前にしてはユニークです。雌しべが葉っぱのように長くスーッと伸びて、普賢菩薩がお乗りになっている象の鼻に似ていることからその名が付いたそう。鎌倉にある「普賢堂」という谷(切通し)が語源になっているともいわれます。画像は千本ゑんま堂のHPで確認してみてください。

 

 七年不見普賢堂   蹀亦東西難過墻   乱後逢花春夢似   一枝晴雪満衣香

 (七年ぶりに見るこの桜  東西の対立は長引いたが、 戦乱の後で出逢った花は夢のよう 雪に見まがう香が満ちる)

 

 これは、応仁の乱のとき、東軍細川勝元に仕えていた禅僧・横川景三(おうせんけいさん)が、西軍エリアに咲いていた普賢象を、終戦後、7年ぶりに見ることができた喜びを詠ったものです。

 普賢象というサクラは、咲き終わったらソメイヨシノみたいに花びらがハラハラと散るのではなく、椿のように花ごとボトッと落ちる。打ち首になった囚人にも喩えられたようです。千本ゑんま堂のある一帯は、「化野」「鳥辺野」と並んで平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたります。ゑんま堂から蓮台野の間に石仏や卒塔婆が無数に建立されたことから「千本」の地名が残ったそう。そして引接寺の「引接」とは、「引導」と同じ意味。そんな場所で生まれたサクラですから、仏に仕える身で戦闘に参加した横川景三が格別な思いを抱くのも無理からぬことだと思います。

 

 17日夜、志太杜氏発祥の地である旧大井川町藤守地区に伝わる国指定重要無形民俗文化財【藤守の田遊び】に行ってきました。室町末期の元亀年間(1570~1573)頃から始まった伝統芸能で、一年の豊作を願い、田んぼの耕作から収穫・奉納まで25場面を演じて踊ります。クライマックスの21番猿田楽では、8人の青年が紅白の万燈花で飾ったショッコをかぶって踊ります。その華やかさといったら、さながら満開の夜桜を観ているようでした。サクラとチューリップが同時鑑賞できるはままつフラワーパーク(昨年4月初め)の夜桜ライトアップと比べてみてください。

 

 

 里に神が降りてきた喜びを表現する一方で、首を落とされた武士や囚人たちへの慰霊を象徴し、今は人生の節目や門出を祝うサクラ。どんな時代でも、どんな自然条件でも、異なる品種との交雑をいとわず生き延びてきた植物としての強さと美しさに、何か学ぶものがあるような気がします。

 ・・・とりあえずこの春は、千本ゑんま堂の普賢象を観に行こうかな、と思います。