だいぶ報告が遅くなりましたが、10月31日(月)の静岡県朝鮮通信使研究会では、北村欽哉先生が、駿府城に朝鮮国の宦官が被虜人として連れて来られ、大御所家康の奥方衆に可愛がられていたという、すごい興味深い歴史トリビアを紹介してくれました。
宦官というのはご承知のとおり、去勢され、宮廷の奥向きに仕える人。少女マンガ風にイメージすれば、中性的でビジュアル系の美少年って感じ?韓流ファンなら人気絶頂の某美形俳優を想像するかも?? ま、美形だったかどうかは別にして、朝鮮王朝の宦官が被虜になって大御所時代の駿府城に居たなんて、静岡の郷土史に詳しい人でも知らなかったのでは???
秀吉が朝鮮半島に攻め入った壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)では、ハッキリ勝敗がつかなかったため、秀吉軍の武将たちは戦功の証しとして多くの朝鮮人を被虜として連れ帰りました(*相手軍の兵士は捕虜、一般人は被虜と書き分けます)。被虜として知られるのが陶工ですね。有田や伊万里や唐津等の名窯は彼らの技術によるものです。
と同時に、朝鮮侵攻時には、日本から「ひとあきない」(人身売買商人)も半島に渡り、はなっから「ひとあきない」を目的に暗躍していたそうです。
豊後臼杵城主太田一吉の従軍僧だった慶念が書き残した『朝鮮日々記』には、「日本よりも、よろつのあき人もきたりしなかに、人あきないせるもの来り。奥陣ヨリあとにつきあるき、男女老若かい取て、なわにてくひをくくりあつめ、さきへおひたてあゆひ候はねハあとよりつへにておつたて、うちはらしらかすの有様は、さなから、あぼう(地獄の役人)・らせつ(悪鬼)の罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る」とあり、相当乱暴な“拉致行為”を働いたことが判ります。もっとも「ひとあきない」は、当時の日本国内でもごく日常的に行われていた、立派な?経済行為だったようです。
そんなこんなで、日本に連れて来られた被虜は、数万人とも数十万人ともいわれ、家康が朝鮮側と戦後処理交渉したときは、当然ながら被虜の扱いが大きな議題となり、1607年の第1回朝鮮通信使は正式には「回答兼刷還使」と言いました。この時点ではまだ友好使節団ではなく、朝鮮国王の国書に対する回答をもらい、被虜を刷還(連れ戻す)するための使者という意味です。ついでに日本が二度と朝鮮に攻め込んで来ないかどうか国情を探るという目的もありました。
そして第1回(1607)刷還使に伴って1418人、第2回(1617)は321人、第3回(1624)で146人、確認できた数で計1901人の朝鮮被虜が帰国しました。
年々、帰国者が減少するのは、日本側が帰すのを嫌がったわけではなく、被虜たちも日本での暮らしが長くなって、帰りづらくなったからでしょう。家康は最初から「故郷に帰る意思のある者をちゃんと帰すように」と命じていました。
家康の側近・本多正信が朝鮮側の外務次官に宛てた返書では「(わが殿は)、貴国の人々が帰国する意思がなければそれぞれ思い通りにしてやり、帰国の意思がある者はすみやかに準備をしてやるように厳命しております。たとえわが殿の中で養育した士人でも、帰る心が切なるものであれば、許可いたしました。古今を問わず、仁政でなければ国を治めることは出来ません」(第1回使行録「海槎録」より)とあります。
あるとき、吉田村(豊橋あたり)から駿府に逃げてきた朝鮮被虜数名を、主人が追いかけて抑留を強制しようとし、役人が「将軍様の命に逆らうのか」と主人を叱責し、退去させたという記録も残っています。
さて、そんな中、駿府城には朝鮮国の軍官・槙忠義の使用人だった允福(インプク)という名の閹人(えんじん=去勢された者・宦官)が住んでいました。彼は壬辰の乱(1591)のとき、16歳で被虜となって連れて来られ、どんないきさつかはわかりませんが、家康の後宮で働くようになり、大変信頼が厚く、食禄も多かったと海槎録に残っています。
1607年、第1回回答兼刷還使がやってきたときは、すでに30歳を超えていた允福ですが、清見寺まで面会に行き、一行が駿府を通り過ぎるときは家康や側室たちといっしょに駿府城の層楼に登って見学するなど、故郷の人々との再会を「はなはだ喜んでいた」そうです。
彼は帰国を希望し、「家康の許可をもらい、新関白(秀忠)にも話を通した」と書状をもって刷還使のもとにやってきます。家康の印はちゃんとあるのかと聞かれ、「以前はあったが部下に偽造されたので、その部下を罰し、今は現存しない」と答えたそうです。
ところが海槎録では、『対馬で允福はほしいままに酒を飲み、刀を抜いたので、人々はみな驚いて逃げた。人をして刀を奪わせ、人家に閉じ込めた』という記録を最後に、彼の消息は不明のまま。彼が乱心した理由も、今は想像するしかありません。
宦官の身で被虜となり、しかも仕えていたのが家康公。朝鮮の使節団や他の被虜人たちから見ると、同郷人とはいえ、特別な目で見ざるを得なかったろうと思います。また彼のほうも、特別な意識があったろうと想像します。そんなもろもろの精神的ストレスが、故郷を目前にして一気に暴発してしまったのでしょうか・・・。いやあ、いろんなドラマが妄想できますよねえ(妄想ではやはり美形であってほしい)。
NHK大河ドラマでは、今ちょうどこの時期が舞台にもかかわらず、家康と秀忠とその嫁と乳母の内輪のモメゴトしか描かれていないようですが、韓流ブームの火付け役だったNHKならば、家康の日朝平和外交の功績と、陰にこんなトリビアがあったこともちゃんと取り上げてって言いたくなります。
駿府城を再建するしないの議論が盛り上がっているようですが、まず先に、家康をあいも変わらず腹黒いタヌキ親父として描く戦国ドラマにダメ出しをし、平和を構築した名宰相としてきちんと評価するよう、静岡から変えていくべきですね。朝鮮通信使の存在は、その一助になるはずです。