杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

茶禅一味の京都課外授業その2

2014-06-24 18:30:08 | 駿河茶禅の会

 大徳寺黄梅院を後にし、タクシーに分乗して鷹峯に今年4月開館した古田織部美術館に向かいました。

 

Imgp0391  美術館は、戦前、生糸で財を成した川村湖峯の本宅として造られた『太閤山荘』の土蔵を改築したもの。時間がなくて山荘自体は見学しませんでしたが、現在の建物は昭和初期の数寄屋造りで、天然の北山杉など貴重な銘木が使われているそうです。300坪の内苑、1500坪の外苑があり紅葉の名所としても知られています。

 

 

 

Imgp0389  土蔵を活用したということで、想像よりもコンパクトな造りでしたが、織部の直筆の書をはじめ、織部作の竹茶杓、利休、織田有楽斎、秀吉の直筆の手紙など博物館級の古文書がズラリ。黒織部や志野織部などお馴染みの織部焼茶碗や、織部好みと伝わる茶道具があわせて50点ほど展示されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

  古田織部については、学生時代にバイトしていた京料亭で斬新なデザインの器に出会ってから、陶芸家だとばかり思っていました。利休が好んだ地味で渋~い楽焼茶碗に比べ、織部焼の茶碗はあきらかな“変化球”。師匠の利休にへつらわない反骨アーティストなんだろうと思っていましたが、7年前、映画【朝鮮通信使】のロケで出会った京都堀川寺之内の興聖寺が織部建立の寺で、彼が大阪夏の陣で徳川方に一族もろとも処刑された武将と知りました。

 

 

 朝鮮通信使の映画は家康の外交功績を称える内容でしたので、興聖寺の和尚さんからは最初、「徳川は敵や、そんな映画に協力はせぇへん」と断られてしまいました(苦笑)。「マスコミ取材はお断りだが坐禅に来る者は拒まない」と言われた私は、数回坐禅に通い、お目当ての松雲大師(家康と外交交渉した朝鮮国の高僧)の掛け軸を撮影させていただけることに。以来、仕事を離れて年に数回、坐禅に通っているのです。

 

 

 

 ご承知の通り、古田織部はその後、漫画で人気になり、興聖寺にもファンから問合せが来るようになりましたが、私自身は作者の創意が加わった漫画や小説は避け、桑田忠親氏(文学博士・元東京大学史料編纂官補)の『古田織部伝』など歴史学者が書いた本で織部の人となりを学びました。

 

 織部は最初、美濃の土岐氏に仕え、美濃が織田信長に平定されてからは織田家に仕え、ちょうど今、大河ドラマ軍師官兵衛で描かれている毛利攻め等で活躍。その後、秀吉に仕え、武力&知力&センスで三万五千石の大名にのし上がった生え抜きの戦国武将です。最後は家康に仕え、2代将軍徳川秀忠、本阿弥光悦、小堀遠州等の茶の師として重用されますが、大坂方のスパイ疑惑をかけられ、一切弁明をしなかったことから、大坂落城の折、切腹して果てたのでした。利休が秀吉から因縁をつけられても弁明せずに切腹したのと似ています。

 

 

 織部は利休死後の茶の湯の名人として、豊臣氏よりもむしろ徳川氏に優遇され、関ヶ原合戦前後から天下の大名たちを門下に収めたのですが、門弟たちを徳川方や大坂方に分けることなく、平等につきあったようです。

 実際、織部は駿府城の家康の元でも茶を点て、『駿府記』に「織部は現在数寄の宗匠である。幕下(将軍)ははなはだ織部を崇敬し給うので、諸士のうち、茶の湯を好む輩は織部について学び、朝に晩に茶の湯を催している」と紹介されています。その一方で、大坂方の重臣大野治房や、家康が大坂方にいちゃもんをつけた方広寺鐘銘事件で鐘銘を起草した清韓禅師を堂々と茶会に招いたりしていました。

 

 「徳川氏の政令や家康の思惑などを無視し、それよりも茶の世界の秩序を重んじ、その信念の元に行動していたのである。この点は、前代の茶の湯の名人・千利休も同様であった。織部は日頃尊敬する清韓禅師の心の痛手を癒すために茶のもてなしをしたのである。それが、茶人としてなすべきことだと信じていたようだ」と桑田氏。なるほど、こういう人物は、天下人やその取り巻きにとっては疎ましく思えるでしょう。秀吉にとっての利休がそうであったように、家康にとっての織部は、次第に政権秩序を乱す危険人物となったのです。

 

 

 

 

 さらにいえば、織部焼茶碗に代表されるような革新的デザインは、利休を茶聖と崇める門弟たちから見たら異端に見えたはず。織部が利休七哲(利休の7人の優れた弟子)に数えられるようになったのは、ずいぶん後の時代のようです。

 

 桑田氏は「利休が静中に美を求めたのに対し、織部は動中に美をとらえようとした。それは武人としての本質から出発したものであり、武家風の雄大な、力強いものだ。同じく侘びた趣向であっても織部好みの侘びはさらに明るく、多様多彩である」としながらも、「利休の茶事の作意はきわめて自由闊達であり、形式と虚構を忌み嫌っている。利休に言わせれば、作意とは人まねをすることではない。新しい発見をすること。創意を凝らすことなのである。茶事の趣向はつねに新鮮でなければならぬ。新鮮であればこそ魅力があり、客を楽しませ、もてなすことができる。その点織部は、師匠利休の教えどおりを実施している。利休のまねをせず、むしろ極端にその反対を行なった。・・・もし、利休が生きていたなら、門弟中、わが道を最も正しく伝えたものは織部だ、とおそらく言うに違いない」と評します。

 

 

 

 

 

 

Imgp0393  古田織部美術館を後にし、堀川寺之内の表・裏千家の“本丸”界隈を散策し、今日庵の前で記念写真。その後、堀川通りを隔てた西側にある興聖寺へ。織部の墓をお参りした後、夜18時から、古田織部四百年忌記念行事の一環で開かれた筝とチェロのコンサートを皆で鑑賞しました。

 

 

 

 

 

 

 Imgp0398 筝とチェロ・・・実に珍しい組み合わせの合奏です。チェリストの玉木光さんは赤ん坊のころから興聖寺の和尚さんに可愛がっていただいたというご縁があり、2013年までインディアナ州フォートウェイン・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者、フライマン弦楽四重奏団の一員として活躍されました。現在、ニューヨークを拠点に活動中で、妻の木村伶香能さんが箏・三味線を演奏する夫婦合奏も話題になっています。この日は織部に捧げるオリジナル楽曲もお披露目されました。

 

 

 

 

 

 Imgp0400_2 「芸術を愛した織部さんにちなんで、変わった趣向で四百年忌を迎えました。織部さんも喜んでくれると思います」と和尚さん。筝とチェロの不思議な調律に身を委ねていたら、大徳寺黄梅院で見た『主人公』の文字が浮かんできました。なにものにも流されない、そんな生き方を織部はほんとうに貫いたんですね・・・。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


茶禅一味の京都課外授業その1

2014-06-24 09:42:40 | 駿河茶禅の会

 6月14~15日、静岡県ニュービジネス協議会の有志勉強会『茶道に学ぶ経営哲学研究会』の仲間10人で京都をまわりました。

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 3年前の発足以来、裏千家インターナショナルアソシエーション運営理事を務める望月静雄(宗雄)先生を師に、茶道の基本的な所作はもちろん、茶の歴史を禅宗とのかかわりの中で学んできたのですが、たまたま私が坐禅に通う京都・堀川寺之内の興聖寺で、今月、古田織部400年忌の記念行事があることから、京都で課外授業を行なうことに。望月先生の特別アテンドで、修学旅行や観光旅行でもなかなか行けない貴重なスポットを訪ねました。定期的に京都に通う私にとっても初めての場所が多く、実に有意義な2日間でした。

 

 

 

 

 

Photo 14日は京都駅に10時前に集合し、まず当夜の宿泊先、相国寺の側にある京町家・相国寺庵(こちらを参照)に荷物を置きました。古い町家を1棟まるごと借りるシステムで、管理会社にネットで予約し、玄関ロックの暗証番号を教えてもらい、チェックインやチェックアウト時も管理人と顔を合わせることなく我が家のように利用できる。家族やグループで何泊かするときは便利です。以前から京町家に泊まってみたかったという平野斗紀子さんがお膳立てしてくれました。

 

 

 

 

 

 最初に相国寺承天閣美術館を見学する予定でしたが、運悪く展示入替えで休館中(よかったら5年前に訪ねたときの記事をどうぞ)。同志社大学のキャンパスを脇に見ながら、タクシーで大徳寺へ。最初に千利休の墓がある大徳寺塔頭聚光院(非公開)を訪ねました。

 

 

 

 

 

 Photo_4 千利休と三千家の菩提所である聚光院は、茶道を嗜む人にとってのいわば“聖地”。永禄9年(1566)、三好義継が、大徳寺第107世笑嶺和尚を開祖に招いて建立した寺で、千利休はこの笑嶺和尚の俗弟子にあたり、院に多額の浄財を喜捨しました。院内にある茶室「閑隠席」は、寛保元年(1741)、利休の150回忌に表千家如心斎が寄進した、利休の茶禅一味の心境を表す三畳の茶室。利休の月命日にあたる28日には三千家交替で茶会が催されるそうです(院内の撮影は遠慮しときました)。

 

 

 

 

 

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 利休居士の墓は仏塔のような形をしていました。亡くなる2年前に一族の供養のために利休本人が建てたそうです。

 

 侘びのこころを映すというのか、想像よりも小さくて素朴で、パッと見、茶人というより宗教家の墓って感じです・・・。

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 昼食は大徳寺塔頭大慈院内にある【泉仙】の精進鉄鉢料理をいただきました。鉄鉢とは、僧が食物を受けるために用いた鉄製のまるい鉢のことで、奈良時代にインPhoto_5ドから伝わり、托鉢の僧が用いたといわれています。

 泉仙では鉄鉢様の漆器に、穀物、豆類、野菜などの自然食材を使用した精進料理を色鮮やかに盛り付けます。 ごま豆腐の上品な味付けはさすが。冷酒をクイッといきたいところでしたが、今回は”茶禅一味”の旅ですから、アルコールはグッと我慢です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後14時に予約したこちらも非公開の黄梅院を訪ねるまで少し時間があったので、一般公開されている大仙院に行ってみました。

 

 何度か来たことがありますが、今回は運よく住職の大和宗貴和尚が名勝枯山水庭園の構造や重要文化財の襖絵・墨書等をユーモアたっぷりに解説してくれました。ネットで見たら、和尚さん、富士ゼロックスにお勤めの元サラリーマンだったよう。リーマン時代に得度を受け、10年勤務した後に雲水の道に進まれたようです。落語家顔負けのトーク上手で、我々を修学旅行生扱い(笑)。

 

 師匠の尾関宗園和尚は、昔、テレビのワイドショーの司会までされていた名物和尚さん。この日は売店コーナーにちゃっかりお座りになっていて、氏のPhoto_6 著書を購入した客にサインサービスをし、一緒に写真撮り。合言葉の「坊主とポーズ!」でお客さんは大喜びです。

 

 禅道の精神に触れる静寂な寺院・・・という雰囲気ではありませんでしたが、現代人向けに敷居の低い、親しみのあるこんなお寺があってもいいのかなと思いました。仏教に限らず、優れた芸術や食文化にしても、大衆に分かりやすく伝える立場や存在が必要です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 次いで訪ねた黄梅院(非公開)、門をくぐったら、織田、毛利、小早川、蒲生と、大河ドラマに出てくるような有名武将の墓所である石標がお出迎えです。永禄4年(1561年)、織田信長が父の供養のために創建した黄梅庵が前身で、天正14年(1586年)豊臣秀吉が本堂を、小早川隆景が庫裡を、加藤清正が鐘楼を改築して黄梅院と改称したそうです。

 

 

 織田と毛利と小早川って今の大河ドラマで確かガチンコ対決しているはず。同じ寺に眠ってるって不思議だなあと思いましたが、住職の小林太玄和尚から、時の権力に組せず、中立の立場に徹し、禅道を説いた歴代名僧の話をうかがって、和尚が書かれた『主人公』『随処作主』『立処皆真』の軸を眺めていたら腑に落ちました。

 

 

 

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  禅語の『主人公』とは一人ひとりの主体性を意味します。周囲に振り回され、うろたえたり、自身の人間性を失ってはならないということ。『随処作主(ずいしょにしゅとなる)』は“いついかなるときでも己を見失わず主人公たれ”、『立処皆真(りっしょみなしんなり)』は“そうすればすべて真実となる”―順調なときも逆境のときも主人公として毅然とふるまい、自分の分を果たしなさいという教えで、臨在録に出てくる有名な対句だそうです。

 こういう教えを、戦国武将たちは心の支えにしていたんですね。乱世の時代に禅宗と茶道が広まったというのも、なるほどナットクです。

 

 

 

 

 

 

Imgp0383  このお寺の目玉は庭と茶室です。利休の師・武野紹鴎が好んだとされる四畳半の茶室「昨夢軒」。堺の豪商今井宗及によって作られたそうです。上段の貴人床があり、書院座敷の続く一室を茶室として用い、屏風で区切った“囲え込み式”の茶室だそうです。席は北面に一間床、本勝手(客が主人の右手に座る茶席)で、床に向って右の壁の前で亭主が点前を行う点前座という構造です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 Imgp0372 庭は利休が庭した「直中庭」。ちょうどアジサイの花が咲いていましたが、よく見るテンコ盛りのアジサイではなく、一輪~二輪とひかえめに植えられています。利休の時代から変わらないというからビックリ。シンプル・イズ・ベストのガーデンデザインですね。

 

 

 

 

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 黄梅院は春と秋に特別一般公開されます。今秋は10月11日から12月7日まで。望月先生曰く紅葉の時期は絶景だとか!想像できますね。こちらを参照してください。(つづく)