杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『未知との遭遇』と『ふしぎなキリスト教』

2012-03-04 10:57:48 | 本と雑誌

 引き続きエンターテイメントのお話です。

 昨日(3日)、BSで久しぶりに『未知との遭遇(ファイナルカット版)』を観ました。1978年の日本公開時、高校生だった私には少し難解で、同時期に公開された『スターウォーズ』のほうがエンターテイメントとして楽しめたものですが、この歳になると、ホント、凄さが解りますね。

 

 とりわけ印象に残ったのが、ラスト近く、宇宙船に乗りこむ選ばれし人間たちが、神に祈りを捧げるシーンです。高校生の私だったらまったくスルーしていただろうし、ちょっと前の私なら、科学者の神頼みシーンの矛盾を嗤っていたと思います。

 

 

 ああいうちょっとしたシーンに目が留まるようになったのは、最近読んだ『ふしぎなキリスト教』という新書本のおかげです。2012年新書大賞第1位のベストセラーで、読まれた方も多いと思います。

 

 

 この本は橋爪大三郎氏と大澤真幸氏という2人の社会学者が、キリスト教の謎や近代社会への影響までを、対談形式で解説したもので、私は恥ずかしながら書店の新書大賞作品コーナーで初めて知って、一応目を通しておくか程度の軽い気持ちで買ったんですが、840円の新書で読んじゃっていいの?と思えるくらいコストパフォーマンスの高い内容。中学~高校で6年間も聖書を読まされ、「隣人を愛せよ」とか「愛は寛容なり」なんて女子学生が好みそうな詩的表現を暗記するだけで終わった感があったキリスト教の輪郭が、初めてクッキリ見えた気がしました。

 最近の富士山取材で知った、日本人の自然観や神道の特異性も、西洋社会の根っこにあるキリスト教を理解することで改めて見えてきた気がします。宗教学者ではなく、社会学者だからこそ、きわめて論理的で解りやすく解説できたんですね。

 

 

 とても興味深かったのは、自然科学も資本主義もキリスト教から発現したという指摘です。科学革命の担い手は、熱心なキリスト教徒でもあるという逆説的事実。16~17世紀、宗教改革と科学革命の時期が重なっていることに触れ、「とくにプロテスタントの中では人間の理性に対する信頼が育まれ、同時に世界を神が創造したと固く信じていた。この2つが自然科学の車の両輪だった」とズバリ指摘します。

 

 

 日本の神道だと、山にも森にも動物や植物にもそれぞれにカミがいて、自然に手を加えようとするとカミと衝突してしまう。だからそのつど地鎮祭をやったりする。浅間大社も富士山のカミの怒り(噴火)を鎮めるために造られた社ですね。・・・もともと地球上には、日本のような多神教の共同体のほうが圧倒的に多かったのです。

 

 ちなみに、なぜ一神教でGODが唯一無二の存在になったかといえば、大小数多くの民族が入り乱れていた大陸では、“安全保障してくれる存在”が必要となった。人間にとってGODは、預言者という仲介役によって「守ってください」とお願いし、保障契約する相手になったという解釈です。わけのわからない預言者の言葉が列記される旧約聖書の存在意義が、これでやっと解りました・・・

 

 

 

 

 一神教では、神が創造した世界は、神の残した“作品”であって、そこには神はもういない、後は人間に主権が託されたと考える。橋爪氏は「空き家になった地球を人間が管理・監督する権限がある。その権限には自由利用権も含まれていて、クジラを獲ってロウソクをつくってもいいし、石炭を掘り出してもいいし・・・こんなことはキリスト教徒しかやらない」「世界は神がつくったが、そのあとはただのモノ。ただのモノである中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が生まれる。・・・だから敬虔なキリスト教徒が優秀な自然科学者になる。優秀な仏教徒や、優秀な儒教の官僚などは、自然科学者になりません」と解説してくれます。

 

 

 ユダヤ教やイスラム教も一神教ですが、宗教法という絶対的な規律があって、優れた知識人はまず宗教法の解明と発展から入る。しかしキリスト教には宗教法がないので、信徒は一生懸命、祈りの方法を考えたり神学や哲学を極めようとした。思想の創意工夫の結果が自然科学なんですね。

 

 橋爪氏は西洋近代社会の本質として、「神を絶対化すれば、物質社会を前にしたとき、理性を備えた自分を絶対化できる。理性を通じて神と対話するやり方の一つが自然科学。数学の場合もデカルトみたいな考え方になり、公理系による数学の再構成が始まる。政治の場合には絶対王政や主権国家の考え方になる。教会の権威に頼らず自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれらを真剣に発展させて行きやすい」と論じます。

 

 しかし、21世紀の今、誰の目から見ても、神から地球という留守宅を預かって勝手し放題やって、行き着くところまで来たのです。スピルバーグ監督は地球外生物をも神の創造物と考えて、「地球はもう手を尽くしましたから新たなフロンティアを与えてください、とりあえず道中の安全保障をしてください」とあのシーンで祈らせたんだろうか。別の意味もあるんだろうか・・・。日本人がああいう映画を創るとしたら、どんな“祈り”のシーンにするんだろう。

 自分が今、取り組んでいる酒造りのドキュメンタリーには、極めて自然に、祈りのシーンが撮れてしまったけれど、それにも意味があるんだろうか・・・。なんだか深く考えさせられます。

 

 

 とにもかくにも、この本もあの映画も、私のような宗教や自然科学のド素人にも、考えるきっかけをくれたのですから、世の中の現象や価値や、過去の検証、未来への提言・・・学者も映像作家もライターも、人々にちゃんと伝わるようにちゃんと伝える、という責任を忘れてはいけないと、つくづく思いました。

 

コメント (2)
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