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杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

伊豆の古道「浦路」と仲子姫伝説

2011-03-05 11:00:35 | 歴史

 文化活動支援団体の取材がひととおり終わり、原稿執筆に追いまくられています。関心あるテーマの取材だったので、書き始めるとノッてくるんですが、ついつい文字量が膨らんでしまって、セルフリライトするのにまた時間がかかる・・・。

 

 そんな中、どうしてもリライトして文字を削るのが残念で、ダメもとで文字オーバーのまま入稿してしまったのが、『伊豆歩倶楽部』さんでした。伊豆全域で活動するウォーキング愛好者団体で、今日(5日)と明日(6日)は「伊豆早春フラワーウォーキング」の南伊豆菜の花ツーデーマーチ、4月2~3日には伊豆松崎なまこ壁と桜のツーデーマーチの運営にも協力されていると思います。

 

 

 健康づくりや観光地を巡る目的のウォーキング団体なら、いまどきの元気な中高年の余暇活動、ぐらいにしか思わなかったかもしれないけど、私が惹かれたのは、この団体が伊豆の歴史古道を発掘し、新たに地図を書き起こしているという、すごくハイレベルの文化事業に取り組んでいることでした。

 

 メンバーはとくに歴史好きとか、郷土史を研究しているというわけではなく、ごく普通のウォーカー感覚で、「仲間を増やすには、何か歩く目的があるといいね」「ウォーキングはおしゃべりが許される唯一のスポーツ。目的があって仲間がいれば、10キロ20キロなんて苦も無く歩ける」と言います。 「一般に知られていないウォーキングルートを開拓しよう」と地域をくまなく歩くうちに、伊豆東海岸には湯河原から下田まで海岸沿いに『東浦路』と呼ばれる古道があり、鎌倉時代から人々の往来があったことを知ったそうです。

 

 

 江戸から下田に向かうルートは、三島を経由する「下田街道」が知られていますが、箱根や天城山など厳しい山越えが続く難路。“天城越え”なんて歌にも描かれるほどですからね。

 

 

 一方、海岸の集落をたどる東浦路は、唯一の難所・網代峠も標高288mと、格段に歩きやすく、実際、幕府の巡視行列等もこちらを利用することが多かったそうです。

外国船が日本沿岸に接近していた江戸後期、老中松平定信が海防のため伊豆巡視を行った際、小田原から下田まで伊豆東浦路を4日がかりで歩いたという記録があります。昨年、稲取を取材した時、松平定信の命で『海防の松』が沿岸に植樹されたことを知り、このブログにも紹介しましたが、彼はまさに東浦路を通ってきたんですね!

 

黒船来航時には韮山代官の江川太郎左衛門が徹底調査し、幕末の志士吉田松陰も、神奈川沖から下田に向かった黒船を追いかけ、熱海から下田までこの道を歩いたのです。途中の網代峠には松陰が腰かけた石が今でも残っているとか。

「そんなスゴイ歴史古道なら、なんとしてでも歩いてみよう!」と伊豆歩倶楽部では、郷土史家の協力を得て、201056月、湯河原から下田までの東浦路古道を徹底調査しました。

 

古道がそっくり残っているところもあれば、山中の道なき道を古文書の記録を頼りに探索することもあったそうですが、山登りが得意なメンバーや設計や測量の仕事をしているメンバーが手分けをし、下田を起点に全102.4㎞を延べ45時間、146千歩余で踏破。25千分の1の地図上に古道を復活させ、ルート上に残る石仏、神社、仏閣、旧跡等をくまなく記録しました。調査結果は『伊豆東浦路現況調査報告書』として20107月に作成・発行されています。

 

 

 

 今年からは、東浦路よりさらに古く平安時代から使われていたとされる『伊豆西浦路』の調査を始めたそうです。流刑の地といわれる南伊豆~西伊豆には、都落ちした公家や罪人となった武人の悲話が点在しており、地元通のメンバーでも知らない伝説が多いとのこと。

原稿ではあまりにも文字オーバーだったので、伝説紹介は泣く泣くカットしたんですが、ここで伊豆歩倶楽部のみなさんから提供していただいた資料の一部をちょこっと紹介しますね。

 

『仲子姫とお安の悲話』

江戸幕府の誕生まもない1605年、新島に遠島を命ぜられた前中納言中院道勝の娘・仲子姫の船が難破し、南伊豆海岸に流れ着き、土地の人々に庇護された。姫が遠島されたきっかけは、宮中で起きた『禁中桃色事件』(すごい名前ですねどんな事件だったか後で調べておきます)。

ときの後陽成天皇は、宮中支配をねらう新将軍・徳川家康の顔色をうかがい、磔刑男女各1名、死刑男子1名、遠島男子5名女子4名という厳しい処分を下したものの、自らも退任の憂き目にあう。姫の父・道勝は源氏物語の研究で知られた文学者で、兄・道村は後任の後水尾天皇から信頼されていたので、元和9年(1623)、姫は恩赦された。このとき姫は30歳。

姫を庇護した南伊豆二条久田家の侍女お安は、姫を14年間にわたって献身的に支え、京への帰還を心待ちにしていた。ようやく念願かなったとき、お安は身重だったため、京への付き添いはかなわず、それでも姫との別れを惜しんで下田港まで見送る。道中の青市で産気づき、土地の人々の必死の看護もむなしく、お安はお腹の子ともども絶命する。彼女は死ぬ間際まで姫の無事を祈っていたという。

京へ戻った姫は、その後、青市のへ子安神社を奉納し、自身は京で出家して80歳の長寿を全うした。紫式部ゆかりの廬山寺に墓がある。

 

 

 

南伊豆には、「一条」「二条」「三条」「九条」「上賀茂」「下賀茂」といった地名があります。これは、かつて京からこの地に赴任してきた役人たちが、都を偲んで命名したともいわれます。

流人制度は奈良時代に唐の制度に倣って始まったそうで、伊豆に流されたのは政争や戦の敗北者、宗教の弾圧等に遭った人々でした。小野小町一族、保元の乱の鎮西八郎義朝、平治の乱の源頼朝、日蓮、関ヶ原の宇喜多秀家等など・・・伊豆だけで『流刑史』が一冊編集できるくらいですね。

流罪は明治維新後に廃止され、168人の流人が恩赦を受けて解放されました。終身刑の地・八丈島に流された宇喜多家の子孫7人は、260年経てようやく許されたわけです。

 

 

このような歴史トリビアのみならず、地質学的な発見も多く、伊豆半島のユニークな地形の成り立ちに焦点を置いた『伊豆ジオパーク構想』に何らかの協力ができるのでは、と期待を膨らませる伊豆歩倶楽部のみなさん。

 

「歴史や地理を知り、ウォーキングコースとして活用することは、地域の観光開発や住民の健康づくりに必ず役立つと思う」「伊豆はいくら歩いても歩き尽きない。その魅力を多くの人に伝えたい」―ウォーキングに新たな目的と使命を見出したメンバーは、今日も元気に歩いておられることでしょう。

 

伊豆は母が生まれ育った土地でもあり、自分にとっては第二の故郷なんですが、いつも移動は車。恥ずかしながら、歩いた記憶ってないんです・・・。時間が出来たら、好きな歴史ドラマを紡いで歩きたいと思います。

 

 

なお、伊豆歩倶楽部主催のウォーキング企画『伊豆東浦路を歩こう』が4月29日開催されますので、興味のある方はぜひ!

 


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