杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

素晴らしき柱(メンター)たち

2021-01-09 13:59:40 | 日記・エッセイ・コラム

 昨年末以来ご報告したいことが山ほどありすぎて、まとめる時間がないうちに年が改まってしまい、正月、公私ともにお世話になっていた恩人の訃報を受け、喪に服す気持ちで松の内を過ごしていました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 昨年12月16日から22日まで、西武池袋本店『静岡ごちそうマルシェ』の地酒コーナーのコンサル&販売業務を担当させていただきました。食の催事は時節柄、出店者数を絞り、試飲試食は不可、大々的にコマーシャルも出来ず、例年とは違う様相でしたが、こういう時だから出来ること、気づくことの多かった貴重な7日間。仕込み繁忙期をおして杉錦の蔵元杉井均乃介さん、英君蔵元の望月裕祐さん、また日本酒ライターの大先輩である松崎晴雄さんと藤田千恵子さん、同志のフォトグラファー多々良栄里さん、書道家岩科蓮花さん、藤枝から稲作農家松下明弘さんが駆けつけてくれて、本当に心強かったです。ありがとうございました。

 

 最終日にはヴィノスやまざきの種本祐子社長が、慰労のディナーをご馳走してくれました。酒類をめぐる環境が激変する中で、つねに一歩も二歩も先を見据えて思い切った判断をされる祐子さんの行動力、こういう時期だからこそ一層頼もしく思います。今年2021年は、1996年発足のしずおか地酒研究会25周年の節目にあたるため、東京でも何か仕掛けられたら、とワクワクするお話ができました。

 

 12月28日には上川陽子さんの新刊『難問から、逃げない。』が静岡新聞社から発売となりました。ご一緒しているコミュニティFMの番組〈かみかわ陽子ラジオシェイク〉の2014年から2020年までの放送内容をベースに、3度目となる法務大臣就任にあたっての所感や憲法改正議論等、硬派な内容もしっかり組み込んでまとめたものです。ラジオトークの書き起こしや編集作業を請け負ったのが、ちょうど昨年4月から5月にかけての緊急事態宣言下で、秋口の発行を目指して準備をしてきました。急転直下の入閣で慌ただしくなり、時間切れ寸前でしたが、それでも国会議員になって20年という節目の2020年に出版したいというご本人の熱意が結実したのでした。

 『難問から、逃げない。』でも取り上げたのが、再犯防止に向けての更生保護活動。再犯防止は法務省の大きな活動テーマであり、陽子さんが誘致に尽力し、1年延期の労を経て今年4月に開催される国連犯罪防止刑事司法会議・京都コングレスのメインテーマにもなっています。私もラジオシェイクを通してこの分野で長年地道に尽力されている保護司や協力雇用主の方々の存在を知りました。

 静岡にも静岡県就労支援事業者機構(こちらという保護司・協力雇用主の団体があります。偶然、この機構の後藤清雄理事長と酒縁のあった私は、12月初旬に開催された機構総会での記念講演会を拝聴する機会に恵まれました。講師は三宅晶子さん。三宅さんが立ち上げた㈱ヒューマンコメディ(こちらは、全国の協力雇用主の情報をまとめた受刑者向けの就職情報誌CHANCE!!の出版で知られ、昨年はNHKの『逆転人生』『ハートフルTV』等でも紹介されました。

 HPに公開されている三宅さんのプロフィールを再掲すると、

1971年生まれ。新潟市出身。中学時代から非行を繰り返し、高校を1年で退学。地元のお好み焼き屋に就職していた時に大学進学を志す。早稲田大学第二文学部卒業。貿易事務、中国・カナダ留学を経て、2004年商社に入社。2014年退職後、人材育成の道に進むことを決め、生きづらさを抱える人を知るため受刑者支援の団体等でボランティアをおこなう。その活動中、非行歴や犯罪歴のある人の社会復帰が困難な現状を知る。
2015年7月、(株)ヒューマン・コメディ設立。受刑者等の採用支援・教育支援をおこなう。2018年3月、日本初の受刑者等専用求人誌『Chance!!(チャンス)』創刊。アンガーマネジメントファシリテーター。依存症予防教育アドバイザー。

 起業のきっかけは、少年院から届いた一通の手紙。ある施設で親しくなった17歳の女の子で、両親が健在ながら15年以上施設で過ごし、腕にはリストカットの跡がいくつもある。彼女からの手紙を読んで、身元引受人になって一緒に生活することに。そして自ら少年院・刑務所等を出た方を支援する事業を起そうと決意。2015年7月、彼女の誕生日に会社を登記しました。毎年、会社の記念日に「生まれてきてくれて、ありがとう」と伝えたかったため、だそうです。

 ヒューマン・コメディという社名には、「人生は、いくらでも変えられる。誰かを笑顔にして、最後は自分も笑って死ねるように生きる。許された人は許す人になる。そうしてやさしい社会をつくる」という思いが込められています。

 総会の後、後藤理事長が三宅さんと会食する席を用意してくれました。新潟ご出身の三宅さんは日本酒もお好きとのことで、地酒ネタですっかり盛り上がってしまいました。

 以前このブログ記事(こちら)で紹介させていただいた静岡勧善会の近藤理事長とも相席が叶い、まったく異なるチャンネルをつなげてくれた地酒の縁に心から手を合わせたくなりました。

 

 静岡ごちそうマルシェ会期中、滞在していた池袋のホテルの隣がグランドシネマサンシャインという新しいシネコンで、日本屈指のIMAXスクリーンがあるということで、話題の『鬼滅の刃』をレイトショー鑑賞しました。

 漫画やアニメは未見で、10月下旬、京都の亀甲屋さんで偶然出会った静岡出身の大手雑誌編集者に、『杯が満ちるまで』を進呈した返礼に『鬼滅の刃』の特集号を送ってもらい、市松模様の羽織の主人公と金髪ギョロ目の剣士の名前を取り違えていた事を知ったレベル。そんな浅い初心者でも、スクリーンの迫力と相まって全身&目頭が熱くなり、栄養ドリンク1週間分飲んだぐらいの元気をもらい、西武の催事を乗り切った観がありました。

 お正月の三が日は、多くの初心者ファン同様、漫画全巻を電子版で読破し、今はNetflixでアニメ版を順に観ています。日本古来の民俗伝承や禅の調息法、ロード・オブ・ザ・リングにも似た圧倒的巨悪に対峙する小さき仲間と柱の勇者たちとのフェローシップ等々、自分が好んできた世界との親和性も高く、久々に、誰かが創った〈物語〉に夢中になれた自分にホッとしています。魘夢役とレゴラス役の声優さんが同一人物と知って驚愕しましたが(笑)。

 柱である煉獄さんが炭治郎たちに示した姿勢のように、今、心から信頼できるメンターの存在が求められているのだろうと思います。煉獄さんはアニメの世界の理想に過ぎない存在かもしれませんが、現実に向き合い、課題を克服しようとするとき、どこかに「こうあらねばならぬ」という至高の願いがある人とない人では、周囲に与える影響力が格段に違ってきます。

 上川さんが日本という国を背負って政治に向き合う姿勢、種本さんや三宅さんが取引先や社員や要支援者に向き合う姿勢には、現実を冷静に分析しながらも、そこに安易な妥協や緩みを感じません。責務を担った者の潔い生き方は心から美しいと思う。煉獄さんにそういう思いを感じた観客が、日本の映画の動員記録を塗り替え、現実に、苦境に在った出版業界やコラボ商品を企画した各企業に利益をもたらしたのですから、理想が現実を救うというのは確かなんですね。

 実は昨年12月、三宅さんにお会いする前日の夜、静岡市女性会館が企画したメンターカフェのゲストに呼ばれ、自分の経験や生き方についてお話しする機会がありました。自分が取材した分野の話ではなく、自分自身のことを人前で話すというのは初めての経験で、自己肯定力の弱い自分がメンターと呼ばれることに戸惑いもあったので、ここでは自分の好きな『我唯知足』『自未得度先度他』『動中工夫勝静中』という禅語を、自分の生き方の理想として伝えました。口でしゃべっただけなので、まさにこれから、煉獄さんのように己の姿勢で示さなければなりません。

 そんなこんなで、更新頻度はゆっくりになってしまうかもしれませんが、理想の実現を求めつつ、今年も『杯が乾くまで』をどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 


清水と相良の歴史アーカイブ

2020-11-22 13:36:03 | 朝鮮通信使

 コロナの影響で休会続きだった静岡県朝鮮通信使研究会の今年初めての例会が11月21日に開かれました。テーマは『宗像神社の鳥居を寄進した興津忠通~朝鮮通信使崔天秀殺害事件と入江一族の子孫たち』。我らが先導役・北村欽哉先生が今回も大いに知の刺激を与えてくださいました。

 このテーマを聞いてパッと内容が解る人は、たぶんいらっしゃらないだろうと思います。静岡県の朝鮮通信使研究のトップランナーである北村先生でさえ初見のネタということですから、我ら門弟が理解しようもありません。そんなトリビアがまだまだ身近に散在していたとは、歴史好きにとって朝鮮通信使は知の金脈に違いない!と再認識した次第。

 前置きはさておき、今回も北村先生が綿密に調査された内容を、キーワード別にかいつまんでご報告したいと思います。

 

①宗像神社と興津氏

 世界遺産に認定された北九州の宗像神社は天照大神の三人の姫を辺津宮(本土)、中津宮(大島)、沖津宮(沖ノ島)に祀り、田心姫神を祀る沖津宮は女人禁制の孤島として知られています。全国に7千余ある同系神社のうち、静岡市清水区興津にある宗像神社は、沖津宮の田心姫神が米俵に乗ってこの地にやってきて弁天様として祀られ、沖津⇒興津という地名になったとか。

 平安中期、駿河国司として赴任した藤原時信の子惟清(これきよ)は、入江地域の土地開発を行い、〈入江庄〉を作って入江姓を名乗ります。その一族が吉川、船越、矢部、三沢、岡部、興津などに分かれて土地開発を行い、豊かになった民衆がそれぞれの土地を守るために武力を持つようになり、武士階級となって台頭、やがて鎌倉幕府の御家人として活躍するようになります。

 ちなみに入江一派の御家人たちは、源頼朝に義経のことを讒言し頼朝死後に幕府を追放された梶原景時と清水の狐ヶ崎で合戦し、梶原一族の滅亡に加担したことでも知られます。このあたりは再来年の大河ドラマ〈鎌倉殿の13人〉でも描かれるでしょう。楽しみですね! 

 

 興津氏は、その名の通り興津エリアを収めた入江一族の一派。入江惟清が藤原氏の氏神である春日神社を、吉川氏が鶴岡八幡宮を勧請したのに倣い、興津の弁天様にゆかりのある宗像神社を勧請しました。

 今回のお話に登場する興津忠通は江戸中期の人で、初代入江惟清から21代後。現在、興津の宗像神社に立つ三の鳥居には〈宝暦九己卯年九月 藤原朝臣忠通建〉との刻印が残っています。現鳥居は昭和47年に再建されたもので、その脇に、安政大地震で倒壊したとされる鳥居の柱片が安置されており、ここにも確かに〈忠通建〉の文字が残されています。

 忠通は、宝暦7年(1757)に大坂町奉行に任命され、赴任のため、この地を通行しており、地元の郷土史愛好家がまとめた『興津地区年表』によると、通行中に奥さんが急に産気づき、難産だったため、弁天様にご祈願したところ無事出産。そのお礼と先祖の地たる縁として弁財天の逗子と石鳥居を奉納し、10両を寄進したそうです。

 北村先生は、興津忠通が大坂に赴任した宝暦7年と、石鳥居が建立された宝暦9年の“2年差”に着目し、調査を重ね、

●妻がこの地で出産した記録はなし。出産間近の身重の妻が大坂まで同行したとも考えにくい。

●宗像神社の石鳥居は大坂原産の桜みかげ石=駿河では採れない石。

●昭和48年に宗像神社を大改修した際の記録が見つかり、鳥居は大坂で設計施工し、船で運搬されて奉納されたことが判明。

ということで、興津忠興が大坂町奉行の就任祝いに大坂で造って寄進しただろうとの結論に至りました。奥さんの出産は確かにドラマチックなエピソードですが、史実に余計な “盛り” だったようですね。

 ところで、最初に入江氏が本拠地を置いたのが現在の清水区春日町~桜橋あたり。私は実は桜橋にあった松永産婦人科医院で産声を上げたので、その話を聞いてがぜん親近感が湧いてきました!

 

②朝鮮通信使崔天秀殺害事件

 第1回(1607)から第12回(1811)に及ぶ朝鮮通信使の歴史の中で、特筆すべき大事件が、第11回の宝暦14年(1764)4月に大坂で起こった朝鮮通信使殺人事件です。殺されたのは崔天秀(チェ・チョンジョン)という中官。犯人は対馬藩の通訳鈴木伝蔵。些細な諍いがきっかけのようですが、理由はハッキリせず、鈴木は犯行後に逃亡。朝鮮通信使は江戸時代、日本唯一の正式な外交使節団ですから、外交官が道中、日本人に殺されたとなれば一大事です。

 朝鮮通信使の通行は対馬藩が幕府から運営委任されていたので、まずは対馬藩で検死を行うことに。他殺では大問題になるから自殺で処理しようという向きもあったようですが、犯人の鈴木が逃亡したことが明らかとなり、幕府への通報もやむなしということで、大坂町奉行だった興津忠通が処理に当たることになりました。事件発生から11日目、江戸から目付役が到着した日に鈴木は有馬温泉で逮捕されます。

 取り調べで鈴木は犯行の理由について、崔天秀から日本人を侮辱する発言があり、反論したら人前で鞭で打たれ辱めを受けたためと供述。この時の通信使正使・趙曮(チョ・アム)はこれを否定し、逆に鈴木が崔天秀所有の鏡を盗んだため馬鞭を加えたと反論します。

 この第11回朝鮮通信使は、ソウルを8月3日に出発し、帰着は翌年7月8日。この事件以外にも大雨等で河川通行止めが相次ぎ、実に11カ月(通常は7~8カ月)に及び、途中で病死する随行員も続出。正使趙曮はイライラの頂点にいました。使行録には日本側を「狡猾な倭人」等と罵る記述がある中、「大坂城代の阿部正允が江戸の沙汰を待たずに犯人を迅速に逮捕し、刑罰について自分たちの意見を尊重してくれた」「大坂町奉行の興津忠通も調査を厳密に行う気骨ある人物だった」と評価。滞在中に鈴木は処刑され、趙曮も面目を保ったということです。

 

③相良と入江氏のつながり

 朝鮮通信使殺人事件はたちまち世に知れ渡り、歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなりました。通信使が通った東海道筋から離れた榛原郡相良町の川田家文書にも「五月中旬の咄シニ、唐人未大坂二留逗ト及聞、此訳中官ころされ、其せんぎ大分むつかしきよし之上なるよし也」との記述。事件から1カ月過ぎで相良の村まで届いたのですから、かなりのビッグニュースだったというか、当時は我々が想像する以上にニュースが伝搬するスピードが速かったようです。

 ところで、北村先生のお話の中で、ひときわ心に残ったのが、清水の入江一族と相良とのつながりでした。

 相良町の般若寺には県指定文化財の大般若波羅蜜多経(大般若経)が残されています。大般若経はご存知玄奘三蔵がインドから持ち帰り漢訳した全600巻にも及ぶ仏教の基礎的教典で、長い歴史の中で多くの人々の手によって写経され、伝わってきました。

『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』によると、この大般若経には「藤原(入江)惟清」「久能寺」「村松八幡宮」「有度八幡宮」が関係しており、もともとは駿河国府中周辺で写経されたもののよう。最古の第373巻に入江惟清の署名があることから、入江一族の配下にあった久能寺や村松八幡宮、有度八幡宮が所蔵していたものが、遠江国相良庄に伝来したと考えられます。

 私は入江一族拠点の清水桜橋で生まれましたが、私の父は相良町の生まれ。何やら不思議な縁を感じ、この経典が駿河国入江庄から遠江国相良庄へ伝来した理由を知らずにはいられず、午前中の研究会が終了後、車を飛ばして牧之原市史料館まで行って『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』のコピーをいただいたのでした。

 『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』には、

●大般若経が国家や地域の安穏を祈念する経典として地域社会にとって極めて重要なツール。

●鎌倉後期の段階でそれ以前に各地で書写されたものが相良庄に寄せ集められていた。

●それ以降も、巻によって散逸・盗難・焼亡・劣化等のたびに新たに書き加えられ、江戸後期に現在の般若寺所蔵のものとなった。

●その間も駿河国から遠江国へと国をまたいで移動があり、清水港と相良港という海運の存在を考えないといけない。

と書かれていました。

 

 北村先生によると「今川時代に入江庄の新田開発を行って今川から所有を認められた人物が、大井川河口の新田開発も手掛け、同様に土地を安堵されたことが関連しているのでは」とのこと。その人物について現段階ではよくわからないため、この先の宿題としておこうと思います。

 

 夕方、牧之原市史料館から興津の宗像神社まで移動し、興津忠通が寄進した石鳥居をくぐり、弁財天様に手を合わせてきました。

 北九州の沖ノ島から米俵に乗ってやってきたという姫神にも、その裏で実際に社を勧請した人物がいたはず。地域の神社や寺は、我々が想像するよりはるかに広く深く、人間の行動や移動の記録・記憶を孕んだ貴重な地域史アーカイブであることを、改めて噛み締めた一日でした。

 

 

 

 


国勢調査100年

2020-10-20 16:38:55 | 国際・政治

 10月20日は、5年に1度の「国勢調査」の回答期限日。19日の段階で回答率80.9%との報道で、8割超えているならいいほうだと思いがちですが、未回収率は回を増す毎に高まっていて、1995年は0.5%、2000年には1.7%、2005年には4.4%、2010年は8.8%、前回2015年は13.1%に達したそうです。このままだと2020年は20%近い未回答率を記録してしまうことになりますね。

 

 国勢調査については、今年が調査開始100年という節目にあたることから、上川陽子さんとのラジオ番組で取り上げるのに、いろいろ調べた経緯があります。そして、国勢調査のもととなる人口調査が、明治時代に静岡藩で初めて行われたことを知りました。

 国勢調査は今からちょうど100年前の大正9年(1920年)、欧米各国と肩を並べるために国是として始まったものですが、それより約50年前、明治政府ができて間もない頃、 杉亨二という役人が静岡藩で住民に関する人口調査を試みたのです。

 杉亨二は、肥前国長崎の生まれ。医者の書生から、緒方洪庵の適塾に学び、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船来航の年に勝海舟と出会い、その私塾長となります。その後、勝海舟の推薦で老中阿部正弘の顧問となり、幕末まで幕府に仕え、維新後も徳川家に仕えて、静岡藩へやってきたというわけです。来年の渋沢栄一を主人公にした大河ドラマでも取り上げられると思いますが、徳川慶喜公が滞在した静岡は、本当に人材の宝庫だったのですね。

 

 静岡藩での調査は一部地域での調査と集計にとどまりましたが、彼の能力を買った明治政府が杉を呼び寄せ、明治12年、今度は山梨県で「甲斐国現在人別調」を行いました。ここから今の時代のように全国調査へ広がればよかったのですが、当時のリーダーには理解がなく、その必要がないと言われ、予算が付かなかったようです。

 明治27年の日清戦争時に、スイスの万国統計協会から「欧米各国と歩調を合わせ、相互に比較可能な形で人口センサスを実施してください」と言われました。人口センサスとは人口を数える全数調査、すなわち今でいう国勢調査のことですが、すぐには実行されません。

 政治家で最初に国勢調査の重要性を説いたのは大隈重信侯でした。8年後の明治35年に「国勢調査ニ関スル法律」が定められ、さらに3年後の明治38 年、第一回国勢調査を行い、世界人口センサスに参加することになりました。ところがその前年に日露戦争が始まり、莫大な予算が必要な国勢調査どころではなくなってしまいました。

 次に予定された大正4年も第一次世界大戦で流れてしまいますが、大正6年に「国勢調査施行ニ関スル建議案」が衆議院で可決、大正9年の実施が決定し、大正7 年度の予算に国勢調査に関する予算が組み入れられました。国勢調査の実施に人生を懸けた杉亨二は、予算案が公表されたその日に息を引き取ったのです。

 

 第一回国勢調査は大正9年(1920年)10月1日に実施されました。杉亨二が「甲斐国現在人別調」を実施してから40年後、大隈公が説いた「国勢調査ニ 関スル法律」が定められてから18年後のことでした。

 第1回の調査は日本国中がお祭り騒ぎだったようです。当時、国民は国勢調査がどういったものなのかよく知りませんから、全国民に宣伝しなくてはいけないということで、政府もいろいろと考えたようで、まず分かりやすい標語を募集し、「国勢調査は文明国の鏡」「一家の為は一国の為になる」というストレートな標語から、「一人の嘘は万人の実を殺す」「申告は一に正直、二に正確」 という諌めの標語もあったようです。

「宣伝歌謡」も作られました。いわゆるコマーシャルソングですね。唱歌、数え歌、和歌、標語、川柳、都々逸、一口噺、安来節など民謡の数々、はては「センサス節」というのもあり、歌集は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。

 

 上川陽子さんは法務大臣として以前から無戸籍問題について取り組んでおり、「国勢調査で一人一人の戸籍を確認できなければ、さまざまな政策が立案・運用できない」と強調されていました。「同じ時期に同じ規模で5年ごとの定点観測をしてこそ判ることがたくさんある」と。

 たとえば人口ピラミッドのかたち。1920年の第1回は日本の人口は裾の広い「富士山型」でした。1965年の第10回は戦争の爪痕とベビーブームを象徴する「釣り鐘型」、前回2015年の第20回は「つぼ型」で出生数は100年前から半減しました。今の出生数は86万ぐらいですから100万人を切っているのです。

 このまま推移すると、将来は年齢間の凸凹がほぼなくなり、なめらかに下すぼまりのタワマン形になると予想されます。100歳以上の女性の多さも目立つようになるそう。

 人口ピラミッドは出生と死亡、国際的な人口移動等によって推計され、5年ごとの調査で補正されていきます。100年続く実施調査がなければ将来予測も立てられないということです。

 

 これまでの国勢調査は町内会の皆さんが手弁当で準備し、訪問調査をされてきましたが、コロナによって訪問調査がままならず、調査員自体も集まらない状況のよう。今回はネット回答率5割以上を目標にしたそうです。私は前回からネット回答しており、今回は前回よりも入力がカンタンでした。

 静岡で“試運転”を行った国勢調査、ぜひ実りあるデータサイエンスにつなげていただきたいですね。

 

 

 

 


伊豆の黎明と仏の里

2020-10-07 14:33:18 | 地酒

 私が長年応援してきた下田のご当地PB酒『黎明』が、誕生20周年を迎え、9月28日に開かれたお祝いの会へ行ってきました。

 『黎明』のプロジェクトに関わるようになったのは、2000年開催の伊豆新世紀創造祭がきっかけ。下田のまちおこしグループ『にぎわい社中』が創造祭で伊豆の陶芸家作品と料理を楽しむプログラム〈下田テイスティ・アート〉を企画し、社中で中心的に活動していた楠山俊介さんと植松酒店さんからお声かけをいただいて、しずおか地酒研究会でも出張お泊まり地酒サロン〈下田温泉・地酒夜話〉を開催したのでした。

 当時、伊豆の観光振興に尽力されていた坂野真帆さん((株)そふと研究室)や佐藤雄一さん(コンセプト(株))にもご協力いただき、伊豆にご縁の深い国際ラリーライダー&エッセイストの山村レイコさんをゲストにお迎えし、初亀、喜久醉、正雪の蔵元も参加して大いに盛り上がりました。

Img0932000年開催のしずおか地酒サロン〈下田温泉・地酒夜話〉

 

 下田テイスティ・アート実行委員会側で尽力された楠山俊介さんは、名刺に〈歯科医〉とあり、観光イベントのボランティアをやってもメリットがないのに、ずいぶんフットワークのいい歯医者さんだなあと思いましたが、「マユミさんも、酒のイベントやっても自分の儲けはないでしょ?好きでやっているんでしょ?同じだよ」とニコニコしながら楽しそうに飲む、そのエビス様みたいな顔が印象的で、行政に対しては、ちゃんとモノ申す人。地元愛が結実し、2012年には下田市長選に出馬して無投票当選を果たされました。

 創造祭の翌年2001年、にぎわい社中と下田市内の酒販店十数店で結成した下田自酒倶楽部が企画して『黎明』プロジェクトがスタート。行政等の補助金に一切頼らず、市民から会員を募り、下田市内でコメの田植えから稲刈りを体験し、新酒を買い取るというご当地PB酒の先駆けでした。『黎明』という酒銘は下田在住の女優有馬稲子さんの命名。醸造は富士高砂酒造に委託し、ピーク時は会員200名超の一大プロジェクトに。私はしずおか地酒研究会の活動や取材ワークを通し、このプロジェクトを陰ながら応援し続けてきました。

 その後、楠山さんが下田市長になったり、下田地酒倶楽部のリーダーだった植松酒店さんも店をたたむなど紆余曲折ありましたが、現在、事務局を預かる下田ケーブルテレビ渡邉社長のご尽力で、市民が買い支えるご当地PB酒が20年続くという快挙を成し遂げました。全国の観光地に数あるPB酒の多くが、酒造・酒販業者の企画商品あるいは行政や観光業団体の補助商品であることを考えると本当に凄いことだと思います。

 20周年の集いでは駅前の蕎麦店で久しぶりに楠山さんや渡邉さん、米生産者の土屋明さんにお会いし、『黎明』のほか、南伊豆産愛国米で志太泉が醸造した『身上起』、下田産キヌヒカリで正雪が醸した『黒船マシュー』、伊豆唯一の蔵元・万大醸造で醸した『下田美人』をたっぷり飲み比べ。20年前を思うと、伊豆でこんなに多くの静岡酒が愛飲されるようになったとは夢のようです。

 GoToキャンペーンでは高級ホテル旅館が人気のようですが、地元の店で、地の酒や地のつまみを囲んで地の人々と語り合う今この瞬間が、どんなゴージャスな観光メニューよりも貴重で得難いかをしみじみ噛み締めました。

 

 28日は下田へ行く前、函南町の「かんなみ仏の里美術館」を初訪問しました。平成24年(2012)に開館した函南町立の美術館で、函南町桑原地区に残る平安時代の薬師如来像や鎌倉期の阿弥陀三尊像ほか24体の仏像群を保存展示しています。

 函南町といえば、3年前に静岡新聞社の旅行雑誌『Tabi-tabi』で丹那トンネルの歴史を執筆した際に駅周辺を取材したことがありますが、プライベートで訪問する機会はなかった町。仏の里美術館についても、ちょっとした観光施設ぐらいの認識でいたのですが、大間違いでした。

 伊豆半島の付け根、熱海の西に隣接する函南は、箱根山からなだらかに傾斜する中間の交通要所にあり、昔から箱根大権現、伊豆山走湯大権現、三嶋大明神など神仏習合の寺社の影響を受けた地域でした。

 『箱根山縁起并序』によると、平安時代の817年、桑原の里に七堂伽藍を有する 新光寺が建立され、 薬師如来像はこの新光寺の本尊だったとのこと。阿弥陀三尊像は、『吾妻鏡』に石橋山合戦で戦死した北条宗時(北条時政の嫡男)の墳墓堂が伊豆国桑原郷にあったと記されており、源頼朝の舅である時政が、戦死した息子の慰霊のために慶派の仏師・実慶に造像させたと考えられています。

 中でも一目惚れしてしまったのが、阿弥陀三尊像の勢至菩薩様(国重要文化財)。奈良興福寺を本拠とした仏師工房『慶派』の実慶の作です。頭と体幹部をヒノキの一材から掘り出し、玉眼を嵌め込んだ漆箔の立像。実慶は修禅寺の大日如来の造立(1210)で知られており、ここの阿弥陀三尊像はそれより前に制作されたよう。実慶の作品は国内でこの計4体しか判明しておらず、運慶一派の継承を考える上でも貴重な文化財といえるそうです。

 三尊像の中で私はごく自然に勢至菩薩様に惹かれたのですが、帰り際に購入した図録の表紙にも勢至菩薩様を見つけ、この美術館を代表する美仏なんだと嬉しくなりました。


 阿弥陀三尊像を含む24体の貴重な仏像群は、明治の廃仏毀釈芽で散逸しないよう、明治30年代に里人の有志が『桑原観音堂』を建てて大切に守ってきました。私は8月に静岡市の建穂寺観音堂を訪ね、駿河の高野山と謳われた大伽藍・建穂寺(廃寺)の仏像群を、里の人々が観音堂を建てて地道に守り続ける姿に感動したばかりだったので、自治体規模でははるかに小さな函南町がこんな立派な美術館を造って保管展示していることに、少なからずショックを受けました。

かんなみ仏の里美術館

建穂観音堂と秘仏千手観音菩薩・不動明王像(静岡市)

 

 老朽化した桑原観音堂は修繕をしながら、今は町民の集いの場として活用されているようです。古い御堂に、子どもたちが描いたと思われる仏さまの墨絵が並んでいたのを見て、今は文化財として美術館のガラスケースに収まる仏さまと、ここまで仏さまを守り通した人々の素朴な思いが確かにつながっていることを実感し、じんわり感動しました。出来うることなら静岡市の建穂寺仏像群も、そうあってほしいと願わずにはいられません。


上川陽子 視点を変えれば見えてくる

2020-09-16 19:23:10 | 国際・政治

 2020年9月16日に発足した菅内閣で、上川陽子さんが三たび法務大臣に就任されました。岸田派の陽子さんが入閣するのは難しいだろうと思っていましたが、菅さんは派閥の理屈よりも実力重視で選んだようだとニュースで聞いて、改めて、歴戦錬磨の政治家仲間からも高い評価を受けているんだ!と我がことのように嬉しくなりました。

 テレビ報道での事前の入閣予想リストに陽子さんの名前が挙がることはなく、女性で候補に挙がるのは知名度だけは高いマスコミ受けする人ばかり。途中から陽子さんの名前が出始めると、顔写真の用意がないためボードに手書きで名前を走り書きして貼る、なんて失礼な番組もありました。

 私は幸いなことに、1996年に陽子さんが初めて衆院選に挑戦する以前からご縁をいただき、2011年4月から放送が始まったコミュニティFMの番組『かみかわ陽子ラジオシェイク』で毎月、陽子さんとご一緒し、この10年の陽子さんの政治活動をつぶさに知る立場にありましたから、マスメディアが上川陽子を知らなすぎることに多少の義憤を感じています。今回の組閣でも女性が少ないため、政界における女性の人材不足が話題にされていますが、地盤・看板・カバンのなかった陽子さんがこれまでどれほどの努力をされてきたのかしっかり取材し、そこから見える女性政治家を取り巻く課題をしっかり分析してほしいと思います。

 …ということで、ありがたいことに、このブログも〈上川陽子〉で検索して来た訪問者が急増しています。今日は、2018年10月に法務大臣(2度目)を離任したときのことをラジオシェイクで話された一部を紹介し、視点を変えれば見えてくる政治家上川陽子の姿勢をお伝えしたいと思います。

かみかわ陽子ラジオシェイク

第168回「法務大臣就任一年2ヶ月を振り返って」(2018年10月27日収録/11月6日オンエア)

           

(上川)リスナーの皆さま、こんばんは。上川陽子です。

 

(鈴木)コピーライターの鈴木真弓です。どうぞよろしくお願いいたします。今日は陽子さんが第100代法務大臣を退任されてから初めての収録になります。陽子さん、まずはおつかれさまでした。退任時は省内でどんなふうに見送っていただいたのですか?

 

(上川)法務大臣に就任し、丸1年2ヶ月法務省の中で走り抜きました。前週から留任の期待の声も聞かれましたが、私としてはけじめをつけることが大事だと思い、荷物を片づけ、大臣室のスタッフの皆さんと記念写真を撮りました。

 引き継ぎの日の朝、法務省の車の中で「今日は水曜日だね」という話になりました。アットホームプランとして定時退社を促す曜日で、朝9時30分ぐらいに管内一斉放送で「今日は水曜日ですから定時に帰りましょう」と呼びかけるのです。そのアナウンスを私にやらせてもらえないかとお願いし、到着早々、放送ルームに向かい、「前法務大臣の上川陽子です。今日は一斉退庁の日です」と呼びかけました。

 次いで「1年2ヶ月、チームとしてご一緒していただき、ありがとうございました」と申し上げたところ、各室から拍手が湧き上がったそうです。後から聞いて感動しました。

 その後、1回目の法相時代に大臣政務官を務めてくださった山下新大臣に引き継ぎを行い、終了後は一番若い男性スタッフから花束をいただきました。玄関には幹部の皆さんがズラッと並び、最後はずっと務めてくれた運転手さん、守衛さんとも笑顔で手を差し伸べ、握手で見送ってくれました。

 

(鈴木)なかなかそうまでして見送ってもらえる大臣っていないのでは?

 

(上川)いつもみんなと一緒にチームとして活動するという思いで過ごしましたから。いい仲間に恵まれ、今思い出しても感動が甦ります。いったん句読点を打つということになりましたので、今後は地道に充電しながら自分の仕事をしていこうと思っています。

 

(鈴木)ラジオシェイクでは一般リスナーが報道では知り得なかった法務省の仕事についてたくさん教えていただきました。振り返っていかがですか?

 

(上川)私自身、深く掘り下げれば掘り下げるほど、司法というものが日本という国家の基本的な土台であり、これがしっかりしなければ国は揺らぐということを実感しました。国という大きな組織は司法がマネジメントできなければ信頼の基盤が消えてしまうのです。信頼が長続きしない組織は崩壊します。

 たとえば成人年齢を20歳から18歳に引き下げた民法改正は実に140年ぶりの改正でした。つまり140年も維持される、賞味期限が極めて長いものです。それが揺らいでいるかどうか、リトマス試験紙のように今の国の有り様を確かめることができる貴重な機会でした。100代目の法相を担うことになった意義とは、基本的な司法の価値を気づかせてくれたことだと思っています。

 

(鈴木)法相を拝命されたことは政治家上川陽子にとっても大きかったわけですね。

 

(上川)とくに力を入れた司法外交(注)ですが、国という組織もガバナンスが高くなければ安定して活動できません。これは民間企業と同じで、ガバナンスが低下し基盤が揺らいでいる国が海外にたくさんあります。日本も、最先端のことをやっているから強い国だという議論ではなく、司法というものにしっかりとした基盤を持っているかどうかで国力が判断されることに気づき、日本はその点で自信を持って司法外交を展開していけると確信し、行動できました。

 この先も国民生活が豊かになるために、日本の国の基盤という大切な部分が揺らいでいないかどうか、将来を見据えて行動していきたいと思います。

 

(鈴木)私がうかがったお話では、陽子さんが現場に積極的に足を運ばれ、現場で汗を流しておられる職員や刑務官の方、受刑者を支える民間の方々に寄り添う思いがよく伝わってきました。

 

(上川)中央にいると整理されてくる資料はたくさん来ますが、そこに行き着くまでの最初の生の情報が遠くなるというデメリットもあります。適切な判断ができるよう、現場の状況を肌身で感じる必要がある。法務省は大きな組織なので、一回目の法相拝命時にそのことを強く実感しました。

 キャラバンで地方に回るときも組織の上の声ばかりでなく、本当に現場で活動されている方々の声を聞くように努力しました。本当の声の中に改善点や改革のヒントがあるのです。

 

(鈴木)組織のリーダーシップを取る方にとっても参考になるお話ですね。

 

(上川)作られた情報ではなく自然体で見た情報が重要ですね。この1年2ヶ月、北海道から鹿児島まで回りましたが、行けなかったところもたくさんありましたので、今後は自由に足を運んでみたいと思います。

 

(鈴木)またぜひラジオシェイクでお話しください。陽子さん本当におつかれさまでした。

(注)司法外交についてはこちらの記事を参照してください。

 

*「かみかわ陽子ラジオシェイク」はFM-Hi 静岡(76.9Kh)にて毎月第1火曜18時30分~19時オンエア中

 

 

 前回、こんなふうに法務省を去った陽子さんが、ふたたび法務省を束ねることになり、職員の皆さんはどんな思いで迎えられるのか、ついあれこれ想像してしまいますね。

 今年4月、50年ぶりに京都で国際犯罪防止刑事司法会議(京都コングレス)が開催される予定でしたが、コロナのため、1年延期となりました。京都コングレスはもともと陽子さんが前々回の法相時代に開催を誘致し、準備し続けてきた法務省最大の国際事業なので、来春に延期になったことで、陽子さんが法相としてホストを務める可能性が出てきました。ぜひこちらの公式サイトをご参照ください。

 なお、ラジオシェイクのトークはすべて書き起こし、2011年から2013年までの内容は『かみかわ陽子 視点を変えれば見えてくる』(静岡新聞社刊)にまとめてあります。2014年以降の内容は書籍第2弾として出版準備中。ぜひご期待ください。