杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

両足院ーいま開かれる秘蔵資料

2021-11-23 21:28:48 | 朝鮮通信使

 11月20日(土)、大阪のTKP心斎橋駅前カンファレンスセンターで、令和3年度NPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会総会が、2年ぶりにリアル開催されました。私が所属する地域史研究部会で、敬愛する片山真理子さんが建仁寺両足院の通信使関連所蔵品について解説されるというので、万障繰り合わせて参加しました。

 改めて紹介しておくと、私は2007年の大御所四百年祭記念事業で静岡市が製作した映像作品『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作に関わり、朝鮮通信使研究の第一人者である仲尾宏先生(京都文化芸術大学客員教授)はじめ、通信使ゆかりの全国各地の美術館・博物館の研究員の皆さんとご縁をいただき、以来、朝鮮通信使の調査取材をライフワークの一つにしています。2007年当時、京都の高麗美術館学芸員だった片山さんには撮影等でひときわお世話になり、その後も折に触れ、さまざまな知識や情報を授けていただいています。片山さんは現在、花園大学歴史博物館に籍を移され、今月末から同館で始まる『両足院ーいま開かれる秘蔵資料』(こちらを参照)の準備に奔走されています。

 京都祇園の中心に位置する建仁寺は、静岡人ならお馴染み、お茶を伝えた栄西禅師が1202年に建立した京都最古の禅寺で、1258年に入山した聖一国師がさらに発展させました。

 両足院(りょうそくいん)は、建仁寺・南禅寺・天龍寺の住持を務めた龍山徳見(りょうざんとっけん・1284~1358)を開基とする建仁寺の塔頭寺院。徳見が葬られたときは「知足院」という名称でしたが、時の天皇の諱「知仁」にかぶるということで、両足(如来の尊称)に改称したそうです。

 徳見は千葉の香取出身で、10代の頃、鎌倉五山の寿福寺で出家し、漢文の才能を認められて中国へ留学。苦学を重ねた末、日本人として初めて中国(当時は元王朝)の官寺(国立のお寺)の住持となり、当時廃れていた臨済宗黄龍派を再興するなど、つごう40年余り、現地で活躍した人物です。

 やがて室町幕府を開いた足利尊氏・直義兄弟に帰国を請われ、貞和5年(1349)、18名の弟子を伴って帰朝します。このとき来日した弟子の一人・林浄因(りんじょういん)は、日本に饅頭の製法を伝えたとされる人物です。

 私はかつて、奈良市の林(りん)神社の饅頭まつり(例大祭)を取材したことがあります。林浄因を祀る日本で唯一の饅頭神社として知られ、毎年4月29日の例大祭には全国から菓子業者が集まって家業繁栄を祈願するのです。林浄因の饅頭は当時、評判を呼び、宮中へも献上され、林家は足利幕府から「日本第一本饅頭所」の看板を許されます。屋号は『塩瀬』とし、江戸時代は将軍家ご用、明治以降は宮内庁御用達の『塩瀬総本家』として発展したのですが、一般に、饅頭を最初に伝えたのは聖一国師、という説が知られていますよね。

 2019年に駿河茶禅の会の研修旅行で博多承天寺を訪問したとき(こちら)、訊いてみたところ、聖一国師が宋から酒饅頭の作り方を伝えたのは確かなようで、この技を継いだ虎屋に、国師が揮毫したといわれる『御饅頭所看板』が残されています。一方で、聖一国師よりも先に宋へ渡った道元が、1241年(聖一国師が帰国した年)に著した名著『正法眼蔵』の中で、饅頭の食べ方について言及しているとのこと。誰が最初に饅頭を伝えたのか証明するものはないみたいです。

 それはともかく、両足院は、開基徳見の後、2世から8世まで林浄因の子孫が務めたそうです。

 そして10世雲外東竺(うんがいとうちく)が、江戸時代の延宝5年(1677)から2年間、対馬の以酊庵22世住持を務めました。ここからが朝鮮通信使の登場です。

 

 以酊庵(いていあん)はかつて対馬にあった禅寺で、現在は厳原市の臨済宗南禅寺派西山寺となっています。江戸時代は朝鮮外交の最前線として位置づけられ、徳川幕府は漢文に長けた京都五山(南禅寺=別格・天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の学僧を輪番交替制で以酊庵に派遣し、朝鮮との往復書簡や通信使の接待にあたらせていました。なぜ京都五山の学僧が派遣されるようになったかは、4年前のこちらのブログ記事を参照してみてください。

 両足院からは、10世雲外東竺の後、13世高峰東晙が安永8年(1779)に、14世嗣堂東輯が文化4年(1807)と文化12年(1815)に、15世荊叟東玟が天保14年(1843)と嘉永7年(1854)と文久4年(1864)に派遣されました。ちなみに朝鮮通信使の使行は文化8年(1811)が最後です。

 最初の10世東竺から14世東輯まで130年間にわたる派遣期間で、通信使の来日時期とぶつかる機会はなくとも、以酊庵には朝鮮側からも外交担当役人がたびたびやってきたでしょうし、さまざまな交流を重ねたことでしょう。結果として、両足院にも「朝鮮通信使来日時のもの」「朝鮮通信使に関連する以酊庵輪番関係のもの」が数多く伝わりました。

 

 私は2009年に両足院で初公開された朝鮮通信使の書画を鑑賞したことがあり、300点近い関連資料が最近になって発見されたと知って驚きました(そのことを書いた当時のブログ記事(こちら)を、今回の講演で片山さんが紹介してくれて、ビックリ赤面してしまいました)。

 その後、2017年から2019年まで韓国の文化財団から助成を受け、花園大学歴史博物館と禅文化研究所が両足院の秘蔵資料について調査を行いました。なんでもお蔵の雨漏りをきっかけに全収蔵品を整理し、工芸品は京都国立博物館に、書画は花園大学歴史博物館が預かることになり、花園大学禅文化研究所と協働で本格調査をすることになったそうです。

 11月29日から年明け2月3日まで花園大学歴史博物館で始まる『両足院ーいま開かれる秘蔵資料』(こちらを参照)は、その成果の一部を垣間見ることができるようです。事前予約が必要ですが入場無料ですので、年末年始、京都へ旅行を計画されている方はぜひ!

 

 

 


一縷、千鈞を繋ぐ

2021-08-09 09:22:46 | 白隠禅師

 8月7日(土)、長野県飯山市で開催された正受老人三百年遠諱記念展と、記念講演会『正受老人を想う』に参加しました。講演会の講師は臨済宗円覚寺派管長・花園大学総長の横田南嶺老大師です。

 横田老大師のご講演は何度か拝聴していますが、禅の深い話でも一般人にも解りやすく、落語を聴くように親しみやすく、“深い話を軽やかに、でも後からジワジワ染み入ってくる” という、私が物書きとして理想とする表現を話術で実践されている方。記念事業は没後300年にあたる昨年開催予定だったのがコロナ禍で一年延期。今回も感染拡大状況下で県外から参加することに躊躇しましたが、開催ならば横田老大師のお話は何度でもうかがいたいとの思いで、車で往復8時間、ひとっ走りしてきました。

 

 正受老人(1642~1721)は2017年のこちらの記事で紹介したとおり、白隠さんを厳しく指導し、大悟に導いた禅僧。真田信之を実父、飯山藩主松平忠倶を養父に持つ人で、13歳のとき「そなたには観音様が憑いている」と言われ、16歳のとき、階段から転げ落ちたのがきっかけで悟りを得て仏道へ。江戸で修行の後、故郷の飯山に戻って藩主が建てた正受庵の住持となり、80歳で亡くなるまで生涯を過ごしました。67歳のとき、当時24歳の白隠慧鶴がやってきて、わずか8カ月の修行期間ながら、のちに「此の人なくして白隠なし」と言わしめたのでした。

 2017年の白隠禅師遠諱250年記念『正受老人と白隠禅師』展を鑑賞した際、ひととおりのことは学んだつもりでしたが、今回、横田老大師のお話をうかがって老人のお人柄が一層深く理解でき、また「一縷、千鈞を繋ぐ」という言葉を知って、この師弟の存在価値を改めて噛み締めました。

 

 まずは、正受老人の呼び方。講演会主催者の飯山市教育委員会は、地元で昔から定着している「しょうじゅろうじん」呼称で、私自身も何の疑いもなく、ずーっと老人を「ろうじん」と呼んでいましたが、横田老大師は「ろうにん」とおっしゃいました。仏門では、教団組織から離れ、一庵主として生涯を送った人のことを老人=ろうにんと呼ぶということを、今回初めて教わりました。

 「正受」は、楞厳経という経典にある「正受三昧」という言葉から。老人の正式なお名前は「道鏡慧端禅師」です。今回の三百年遠諱事業で臨済宗大本山妙心寺(京都)では、達磨大師(禅宗初祖)、百丈禅師(禅院体制を確立)、臨済禅師(臨済宗開祖)、大燈国師(大徳寺開山)、無相大師(妙心寺開山)等の歴代祖師の位牌を祀る祖師堂に、道鏡慧端禅師の位牌も安置することになり、入牌祖堂法要が厳かに執り行われました。

 信州飯山の一庵主にすぎない正受老人が、禅宗の歴史に名を刻む祖師の扱いを受けたのは、正受老人が育てた白隠禅師が、江戸期に衰退していた臨済禅の教えを復興させ、禅宗中興の祖となったからに他なりません。ところが、白隠さんが正受老人のもとで修行したのはわずか8カ月。この間、松本の別のお寺にも修行に行っていたので、実質6カ月ぐらいだそう。正受老人から「もう一度修行に来なさい」と念を押されても、白隠さんは正受老人が生きている間は一度も訪ねませんでした。・・・改めて考えてみると、24歳の白隠慧鶴が8カ月で一体何を経験したのか、がぜん関心が湧いてきます。

 

 正受庵を訪問する前、越後高田の英厳寺で早朝、坐禅中に遠くの寺の鐘の音を聞いて突然悟りを得た慧鶴は「雲霧を開いて旭日を見るがごとし」の心境となり、正受庵を訪ねるときには「300年来、俺ほど痛快に悟った者はいないだろう」と自信満々だったそう。初対面で慧鶴が自作の漢詩を見せたところ、押し問答となり、老人は慧鶴の鼻頭をおさえつけて「鬼窟裏死和(穴蔵禅坊め)」と罵倒します。

 老人からさまざまな公案(禅問答)を出され、答えに窮すると「鬼窟裏死和」と罵られ、論戦問答の徹底抗戦に挑んだときも拳で何度も殴られ、堂外の階段から蹴落とされてしまった慧鶴。苦悶の日々を送る中、飯山の城下へ托鉢に出かけ、町の老婆から「あっちへ行け」と追い払われても恍惚として立ち続けます。怒った老婆に竹箒で殴られたところ、気を失ってダウン。目が覚めたとき、公案の真意が理解できたと直感し、正受庵に戻ると、その表情を見た老人が「お前さん、解ったな」とひと言、声を掛けたそうです。・・・なんだか昭和のスポ根漫画の一コマみたいですね!

 

 その後、正受老人から「私の後を継いでこの庵に住しなさい」「お前が私と同じ年齢になったとき禅を盛んにしている姿を見たい」と言われる師弟関係になったのですが、越後の修行仲間が慧鶴を追って正受庵にやってきて、托鉢修行もせずに食を貪る様子に「このままでは清貧な老人の行道の妨げになる」と考え、慧鶴は仲間を引き連れて駿河に帰ることにしました。

 別れの日、老人は慧鶴に「全力を尽くして優れた弟子を2人育てなさい。ホンモノの法嗣が出来れば禅は甦る」と激励したそう。師弟は再会することなく、13年後、白隠慧鶴37歳のとき、正受老人は80年の生涯を閉じました。晩年、老人は慧鶴が再訪しなかったことについて「そんなもんだ」と答えたそうです。素っ気ない言い方ですが、なんだか禅っぽいなぁ。

 白隠慧鶴は42歳のとき、法華経を訓読中、コオロギの鳴き声を聞いて真の悟りを得たといわれますが、このときの心境は「正受老人の平生受用を徹見」。老人が日頃、実践していたことの意味にようやく気づいた、と横田大老師は解説されました。

 

 

 最古の仏典の一つで、釈迦の論語集とも言われる『法句経』に、

〈愚かな者は生涯賢者に仕えても真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることがないように。〉

〈聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。〉

という教えがあります。

 また雲外雲岫禅師(1242~1324)が弟子に伝えた『宗門嗣法論』に、

〈法を嗣ぐ者には三有り。怨みに嗣ぐ者は道に在り。恩に嗣ぐ者は人に在り。勢いに嗣ぐ者は己に在り。〉

と書かれています。

 横田大老師は「仇のように怨みに思う関係にこそ真の教えが伝わる。厳しい世の不条理に耐えるためにも」と解説されました。現代風の「褒めて伸ばす」というような指導方法とは真逆で、師が弟子に怨まれるくらい徹底して厳しく鍛えなければ、江戸当時、形骸化し衰退していた禅の真の教えは伝わらない・・・そんな覚悟が正受老人にあり、慧鶴には瞬時に真理を知る舌が備わっていると見抜いたのですね。

 

 鎌倉期に栄西禅師や聖一国師をはじめ、中国大陸からやってきた多くの優れた渡来僧によって確立された禅は、室町~戦国の時代、朝廷や武士階級の手厚い保護で守られてきました。禅の教えの厳しさが、厳しい時代を担う人々の琴線に触れ、生きるよすがとされたのでしょう。泰平の世となった江戸時代に必要とされなくなったというのも自然の道理だったのかもしれません。そんな時代に在っても、心ある修行者は「一縷」の望みを「千鈞を繋ぐ」ような思いで、法嗣の灯を守り続けていたのです。

 

 そして幕末。日本が再び、厳しい変革の時代を迎えたとき、朽ちかけた正受庵の再興に力を尽くしたのが、かの山岡鉄舟でした。ご存知のとおり、徳川慶喜の江戸城無血開城の意を命がけで駿河の地で西郷隆盛に伝え、日本の行く末を、まさに「一縷、千鈞を繋ぐ」思いで実践した人。維新後は旧幕臣でありながら西郷の推薦で明治天皇の侍従となりました。

 清水の鉄舟寺を訪ねると解るように、山岡鉄舟は白隠禅師に「正宗国師」の称号を与えるよう明治天皇に進言したほど禅の道に精通した人でもあります。当然、「此の人なくして白隠なし」と言わしめた正受老人の顕彰にも尽力し、明治初期当時、廃仏毀釈のあおりで廃寺となっていた正受庵の再興を長野県令に直談判し、庵は明治17年(1884)に再興が認められました。

 飯山市美術館で開催中の正受老人三百年遠諱記念展で、ひときわ印象に残ったのが、正受庵の襖に揮毫されていたという鉄舟の計8幅の墨蹟。鉄舟の同志である高橋泥舟の書も多数展示されていました。2人は再興の費用を捻出するために熱心に募金活動も行ったということです。

 

 振り返れば、正受庵を建てたのは遠州掛川から信州飯山へ移封した松平忠倶公であり、再建したのは駿府ゆかりの山岡鉄舟であり、正受老人の名を禅宗史に刻んだのは駿河生まれの白隠慧鶴禅師。飯山市美術館で展示物に見入っていたとき、声を掛けてくれた係の男性に「静岡から来ました」と話すと、その男性はパッと明るい表情になり、大本山妙心寺で執り行われた入牌祖堂法要の内部資料まで見せてくれました。・・・飯山まで来て本当に良かった、と胸をなで下ろしました。

 

 正受老人三百年遠諱記念展は飯山市美術館で9月12日(日)まで開催中です。詳しくはこちらを参照してください。

 

 

 

 

 

 

 

 


チイチイ餅と食い別れ

2021-07-16 20:46:41 | 歴史

 久しぶりの投稿です。お休み期間も過去記事に多くのアクセスをいただき感謝いたします。ブログを書き始めて15年になりますが、時間が経っても必要とされる人に届く記事を書きたいと願ってきたので、心から嬉しく思います。

 誰かに必要とされる記事を書き続ける―その自信とモチベーションを持ち続けるのに、私の場合、外を走り回って人に会い、場の空気を感じ、たくさんの刺激を脳に与えることが必須で、コロナ禍の行動制約は、自覚する以上にダメージとなっていました。ある特定の記事に酷い中傷コメントを連発されたことも、じわじわとボディブローのように気持ちを萎えさせた一因でした。

 まだまだ制約の多い毎日ですが、外に出る仕事が少しずつ戻ってきて、それに伴う新たな調査や資料読みが刺激をもたらし始めています。これから少しずつ更新頻度を上げていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。

 

 先日、某メディアから、このブログで2012年7月に書いた『風流と慰霊のはざまで~安倍川花火の今昔』という記事(こちら)について問合せがありました。文中の〈花火は徳川時代、泰平の世にあっても武家の伝統として砲術・火術の秘法を守ろうと譜代の若者たちが継承してきたもの〉という節の根拠は何かという問合せ。これを書いたときは安倍川花火大会公式HPの記事(こちら)を参照しただけで、自分で江戸時代の花火史を調べたわけではなかったので、少々気まずい思いをし、やはり個人ブログといえども歴史を取り上げるときは二次資料ではなく、可能な限り一次資料を当たり、エビデンスを示さねばと痛感しました。

 

 現在、取り組んでいるのは昔から関心を寄せていた葬礼にまつわる考察。静岡県民俗学会誌第23号に掲載されていた松田香世子先生の『食い別れの餅』という論文に惹かれ、松田先生が参考にされた新谷尚紀先生の『日本人の葬儀』、新谷先生が参考にされた柳田国男の『食物と心臓』へと読み進めるうちに、御飯・餅・酒など米を原料にしたもの、あるいは米そのものが、死者と生者をつなぐ重要なものだったと解り、知的興奮を得ています。

 

 私が生まれた清水には、お盆とお彼岸に〈チイチイ餅〉を供える風習があります。松田先生の『食い別れの餅』によると、もともとはお葬式に出された餅で、出棺前後に死者と生者が最後に共食して縁を絶つ “食い別れ” の儀式で食べていたそうです。

 同様に、裾野では出棺のときに庭で餅つきをし、由比では〈チューチュー餅〉という塩餡の餅を配り、福田ではお葬式の朝に餅つきをし、参会者の食事に出していたそう。

 浅羽ではお葬式から3日後の精進落とし(=ミッカノモチ)として夜なべして餅をつき、親類や寺などに配り、四十九日にも餅をついて49個に切り分けて配ったそう。

 チイチイ餅は、四十九日のときも寺へ持参し、仏さまにお供えします。つまり仏さまとの食い別れをも意味するといいます。菓子店のしおりによると、チイチイ餅の名前の由来はネズミのかたちに似ているから、だそうですが、松田先生は 〈キチュウ(忌中)〉が語源ではないかと考察されます。

 志太榛原地区にもチイチイ餅によく似た〈ハト〉〈サンコチ〉という正月餅があり、〈サンコチ〉は女性の陰部!を指す隠語だそう。五穀豊穣や子孫繁栄を願って供えられたのでしょうか。〈ハト〉は山梨の〈ホウトウ〉、東北の〈ハットウ〉、長野の〈オハット〉等々、全国に似たような名前の郷土料理があり、松田先生は「いずれも手で握るカタチが基本」と考察されています。チイチイ餅はお汁粉に入れるチギリダンゴのように、小麦粉を水で溶いて手で固めてちぎる素朴な餅、というわけです。

 柳田国男は『食物と心臓』の中で、餅はもともと心臓を模したものという仮説を立てています。信州ではミタマ様という三角形の握り飯をお供えすることから、

食物が人の形體を作るものとすれば、最も重要なる食物が最も大切なる部分を、構成するであらうといふのが古人の推理で、仍つて其の信念を心強くする為に、最初から其の形を目途の方に近づけようとして居たのでは無いか」と。

 

 食い別れの餅であるチイチイ餅が、正月餅のハトやサンコチと形がよく似ているのは、ミタマをまつるという共通の意味があったのですね。しかも穀物の粉を握って作ることに意味があり、ミタマ=いのちを指し示すように心臓や女陰を模して作る。これほどの米の力が、食い別れから忌み明けに必要とされていたのです。

 米の力といえば、餅だけでなく酒も同じ。新谷尚紀先生の『日本人の葬儀』によると、

〇死者の身体をタライの湯で洗う湯灌の役目は、酒を飲んでから行う。これを“湯灌酒”という。

〇墓の穴掘り当番にあたったら、握り飯やおかずや豆腐とともに酒がふるまわれ、握り飯や酒は決して残してはいけない。火葬の場合も焼き場の当番は夜通し酒を飲みながら焼く。

という風習が東北~関東、近畿、四国、九州の一部に残っていたとのこと。葬礼そのものが家から離れ、ほとんどを葬儀業者に委託するようになった今では想像もつかない作業ですが、長い間、日本人は死と直接、接触するときに、酒=米の力をいかに必要としていたかが伝わってきます。

 

 ちょうどこれらの本を読み込んでいたとき、ある若い女性から「稲作って地球環境を悪化させるんですよね」と指摘され、ギョッとしました。稲作は人間が作り出すメタンガスのうち約10%を占める排出源とされ、田んぼから発生したメタンガスは、イネの根や茎を通って大気中に放出され、回収は難しい。まさに現代農業が抱えるジレンマです(水田から発生するメタンを削減させる研究も進んでいますのでこちらを参照してください)。

 柳田国男が生きていたら、このジレンマをどのように考察するでしょうか・・・。

 

 


時の合間に棲まう鬼

2021-02-02 10:27:49 | 本と雑誌

 今年は、明治30年以来124年ぶりに2月2日が節分ですね。国立天文台暦計算室による”暦のずれ”の影響だそうで、来年は再び2月3日に戻り、2025年から4年ごとに再び2月2日になり、2057年と2058年は2年連続で2月2日になる計算とか。どうしてこういうことになるのか、不思議と言えば不思議です。

 そもそも暦とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるもの。そして時間とは14世紀にヨーロッパで機械的な時計によって律せられるようになるまで、昼と夜の交代だけが尺度でした。

 今、読んでいる『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著)によると、昼夜の日周リズムは生命体が共通して持つもので、アリストテレスは時間を“昼夜という変化の連続を計測したもの”と考えた。すなわち、変化が無ければ時間は存在しないと。これに対し、ニュートンは、どんな場合にも経過するホンモノの時間は存在するとし、近代物理学を確立させ、さらにアインシュタインが、アリストテレスとニュートンの時間論を統合させたといわれます。しかしこれも量子力学の登場で不確実性の沼に陥っていく…。理論物理学者が書いたこの本は、理系が苦手の門外漢にはちんぷんかんぷんなのですが冒頭で、

「時間の流れは山では速く、低地では遅い(=低地のほうが地球の重心に近いため)」

「みなさんの姉が地球から約4光年離れた恒星にいるとしよう。お姉さんは今何をしていますか?わかるのは4年前にしたことであって、わたしたちの現在は宇宙全体には広がらない」

「遠くにあるのは、わたしたちの過去(今観ることが出来る事柄の前に起きた出来事)だ。そしてまた、わたしたちの未来(「今、ここ」を見ることができるこの瞬間の後に起きた出来事)もある。この二つの間には幅のある「合間」があって、それは過去でも未来でもない。拡張された現在なのだ」

という事実を突きつけられ、観測技術のない時代に地球が丸く自転していることを知った哲学者や冒険家のように、時間に対しても、常識を疑い、先入観を捨てて思索する世界があることを知りました。

 自分の理解レベルを超えた物理学の本なのに、こういう記述に惹かれて何度も読み返しています。

「自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが、そして速く動いたほうが遅くなる。二つの出来事をつなぐ時間は一つではなく、さまざまであり得る。」

「わたしたちは物語なのだ。両眼の後ろにある直径20センチメートルの入り組んだ部分に収められた物語であり、この世界の事物の混じり合い(と再度の混じり合い)によって遺された痕跡が描いた線。」

「記憶と呼ばれるこの広がりとわたしたちの連続的な予測の過程が組み合わさったとき、わたしたちは時間を時間と感じ、自分を自分だと感じる。どうか考えてみていただきたい。わたしたちが内省する際に、空間や物がないところにいる自分は簡単に想像できても、時間のないところにいる自分を想像できるものなのかを。」

「時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。」

 

 

 節分の話から逸れてしまいましたが、季節の分け目に邪気が入らないよう鬼払いをする風習は、平安時代の宮中行事「追儺」に由来し、豆(魔滅)をまく風習は室町時代から、といわれます。

 もともと病気を起こす死霊や悪霊を 鬼(キ)といい、日本では“おに”と呼びました。目に見えないので 隠(おん)が“おに”になったとも。現代の法医学でも死後、人体が腐敗する過程を「青鬼現象」、腐敗ガスによる膨張過程を「赤鬼現象」、乾燥状態を「黒鬼現象」、白骨化したのを「白鬼現象」と言うそうです。

 私は高校生の頃愛読した井上靖のこの詩がなぜか無性に好きで、「鬼は外」というかけ声に多少の違和感を持ち続けていました。変換できない難字ばかりなので手書きしてみました。読みづらいと思いますがご容赦ください。

 

 鬼を忌むべき存在に仕立てたのは日本人の脳に刷り込まれた物語でしょうが、一方で、漢字を作った中国では星に鬼の名を与え、井上靖が両者を同族と謳った感性を、とても美しいと思う。

 カルロ・ロヴェッリは巻末で

「この世界そのものと自分たちがそこに見ているものとのほんとうの関係は、じつはほとんどわかっていない。自分たちに見えているのがほんのわずかであることはわかっている。物質の原子の構造も空間が曲がっている様子も見えない。わたしたちは矛盾のない世界を見ているが、それは自分たちと宇宙との相互作用をもとに推定したものであって、わたしたちは途方もなく愚かな脳にも処理できるように、過度に単純化した言葉でまとめられたものなのだ」

と締めくくっています。この本には聖書の言葉や古代詩が数多く引用されており、数式をいじるだけではなく哲学や文学や脳科学の言葉も駆使し、時間の根源に迫ろうとしている物理学者の姿勢もまた、とても美しく感じます。

 暦や時計の数字に気を揉む日常の中、節分とは何か、鬼とは何者か…混沌とした思索の藪にさまうこの時間を、今は大切にしようと思っています。


2021初春禅語

2021-01-13 12:56:41 | 駿河茶禅の会

 私が主宰する駿河茶禅の会で、1月に予定していた初釜茶会がコロナの影響でお流れになりました。茶室の ”密度” を考えたらやむを得ない判断でした。

 この会を始めてから毎年1月は、駿府城公園紅葉山庭園茶室での初釜で同志とともに新年を迎えることが定例化していましたが、今年はもとより、初詣にも行かなかったため、何か、けじめのない年明けとなってしまいました。

 昨年12月も直接集合しての例会は開催できなかったため、代わりに、「来年にかける思いを禅語に託して寄せてください」と呼びかけ、年末ギリギリで "紙上例会” というかたちで配信しました。その禅語集を何度か読み返し、こういう時期だけに、よけいに心に沁みる言葉が多かったので、ここでも寄稿者名を伏せてご紹介させていただこうと思います。言葉のチカラで今一度、自分自身を奮い立たせるつもりで。

 昨年1月の初釜の初炭

 

第63回駿河茶禅の会12月紙上例会より(抜粋)


「歳月不待人」
■出展 陶淵明  
現在、自宅に『歳月不待人』という一行物(掛軸)を掛けてあります。これは禅語ではありませんが、禅僧による染筆で、禅語辞典などの書物にも載せられている馴染み深い語です。
この語の前に『及時當勉励』(ときにおよんでまさにべんれいすべし)という語があって、それに続くのですが、決して勉学に励めということを奨めているのではありません。酒を愛した詩句を多く残した陶淵明の作品のひとつで、楽しむときは、思い切り楽しもうぜ、というのが趣旨であります。当面、疫禍のもとで制約が多い環境ではありますが、拠り所としたい言葉と考えております。

 


「塗毒鼓(ズドック)」
■出典 白隠禅師
昔、芳澤勝弘先生のところで見た白隠の書です。意味や謂われよりも見た瞬間、ガツンガツンと撃たれたようなショックを覚えました。これを見つけた!と言ったときの芳澤先生の嬉しそうなお顔を今でも忘れません。
意味は読んで字のごとく、毒を塗った太鼓のこと。この太鼓の音を聞いたものは皆、死ぬという恐ろしいものですが、仏の教えが聞く者の三毒-すなわち貪欲 瞋恚 愚痴をことごとく滅尽することの例えとして使われます。
白隠関係の資料を読んでいるとき、我が家の裏の寂れたお寺に、白隠禅師が参勤交代の途中の岡山の池田候を招いて「塗毒鼓」をテーマに法会を開いていたことを知り、ビックリしました。その法会では仏法を聞くことによって仏との縁を結び、発心し、修行すれば成仏が可能で、将来必ず救うことができると説いたそうです。仏に救われる他動的存在ではなく、私たち自身が菩薩として人々を救う存在、社会変革者として位置づけているところが白隠らしいと思いました。そういう謂われを踏まえたのでしょうか、後に、碧巌録や無門関などの語録を集めた宗門の書籍に、「塗毒鼓」という書もあります。

 


「主人公(しゅじんこう)」
■出典 無門関
禅語では、「主人公」という言葉を、自分の中にいる根源的で絶対的な主体性を表します。禅の修行ではまずこの「主人公」に目覚めることが肝要であり、悟後の修行を怠らず、日常においても自己を鍛錬し、明瞭さを持続する事が求められます。

中国・浙江省の丹丘、瑞厳寺の師彦和尚は毎日自分自身に「主人公」と呼び掛けては、自ら「はい」と応じまた、語り掛けては「はい」と応え、さらに「如何なるときも人に侮られてはならんぞ」と言い聞かせては「はい、はい」と自問自答する日々を過ごしていたそうです。余計なものを脱ぎ去り自分らしく生きていることが個性であり、自分らしく生きている自分こそが「主人公」、ということでしょうか。

 


「友情にも季節がある」
■出典 南方熊楠
南方が孫文との交わりを表した言葉。出会いの春や、楽しい夏、物思いに耽る秋や会えない冬、でもまた、春が来ていつか会えると思って友情を育む。南方熊楠の本当の意味は、違うところにあって、私の勝手な解釈かもしれませんが、会わない友情もあると知り、もともと人付き合いが苦手な自分としては、とても救われた言葉です。でも、同時に、会うべき人には必ずまた会えると信じていて、なぜか、本当に会えるから、そのときまで、1人の冬を大切に過ごそうと思っています。

 


「看々臘月盡」
■出典 虚堂録
まだ来ぬ来年より今に賭ける(笑)。臘月は陰暦12月のこと。光陰箭の如し、みるみるうちに1年が尽きる。臘月の人生に悔いを遺さぬよう一瞬一瞬を充実して生きる。左右を見たり、後先を気にしている暇はない。今、ここの、私を完全燃焼する。

 


「看脚下」
■出典 圜悟克勤
落ち着いて、自らの立場と進む道を考えること、と解釈しました。

 



「放てば手にみてり」
■出典 道元禅師
正法眼蔵弁道話に「妙修を放下すれば、本證手の中にみてり」とあります。一度手から離して見れば、大切なものが手に入る、という意味のようですが、その奥にある意味は深く、真に理解し、実践となるとなかなか難しい。こだわりを捨てられたらと思いますが、様々な文化も、こだわりがあるからこそ生まれてくるのでは、と思ってしまいます。
あれもこれもという物の時代。手放してこそ大切なものがきっと手に入るに違いありません。100年後に思いを馳せ、八大人格の少欲、知足などを心に留め、少しずつ実践して行きたいと思っているこの頃です。

 

 

「夜静渓声近 庭寒月色深」    
 ■出典 厳維(三体詩) 
夜に入ってあたり一面が静かになると、遠くの谷川のせせらぎが間近に聞こえ、気温が下がって庭が寒気で満たされると、月の光が澄み切ってさらに深い色で輝き出す。とらわれや苦悩・怒りなど、心の中のあらゆるざわめきが消えて静かな境地が得られると、人々が本来持っている仏の本性の輝きが一層際立って、生き生きとしたはたらきがあらわれることのたとえ。    
真冬は昼間の喧騒感から、日の入りと共に活動を終えた安堵感を感じますが、今はそのような感じを持てない気がします。コロナ禍の終わりが見えない日々に、一日も早く終息を願い、新しい春を迎えたい。

 

 

「壽如南山(じゅはなんざんのごとし)」

■出典 詩経
壽は「寿命」「天寿」などの言葉がありますように、人の命を意味するそうです。私たち人間の生存は、すでに天の理(ことわり)によって定められた物としています。
南山は中国・西安の西南に聳える終南山の事だそうです。南山は「不壊」を意味し、陽気温暖の山「天寿極まりなし」という意と同時に 「壽」も「南山」もめでたさを表す縁語につながるために、正月やおめでたいことがあった時に、よく床の間に掛ける軸物の語句となっているそうです。

 


「結果自然成(けっかじねんになる)」 
■出典 少室六門集
禅宗の初祖達磨大師が、二祖慧可に与えた伝法偈の一部~ 「一華五葉を開き 結果自然に成る」からとられたもので、ひとつの花が五弁の花びらを開きやがて自ずから‘結実’するように、 われわれの心が迷いや煩悩から解放されて真実の智慧の花を咲かせれば、自ずから仏果(悟り)を得られるだろう~ という意味。   

現代の教えとしてはいろんな解釈ができるようですが、やれるだけのことを精一杯やったら、結果は自然と実を結ぶものと捉え、結果にこだわらず目の前のやるべき事に必死になって取り組むことの大切さをこころに留めようと思います。       

 


「自灯明」
■出典 釈迦

コロナ禍で混迷の状況のなか、ソーシャルディスタンスのなか、私が選んだ禅語は「自灯明」です。他に寄りかからずとも自分の力で根を張って立ち、灯りもともす。そうなりたいなと心から思った、いや実感しました。

 


「随所に主と作(な)れば 立処皆真なり」 
■出典 臨済義玄禅師『臨済録』示衆
何処に居ようと自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する。いつ如何なる時も、心の主は自分の精神であれ。精神が主であるなら、つまり自分自身の純粋な心を忘れることなく精一杯の行いをすれば、何処にいようと人生の真理、生きる意味が見つかる。何処にいても、どんな環境のもとでも安らかに生きることができる。
いつも精神によって欲をコントロールすることができたなら、清々しい道が見えてくるようなきがする。令和三年はそう生きたい。

 


「不急集中」
禅語でも何でもないMy熟語です。想えば、この一年で、世の中の時間と空間の概念が大分様変わりしました。「スピード効率至上主義」の価値観は相変わらず世界標準ですが、確実に人々の暮らしの色合いや温度感は変化しているように感じます。
「不急」を辞書で調べると、「急を要しないこと。今すぐでなくてもよいこと。また、そのさま。」とあります。世界で起きている「スピード」の弊害(気候変動、人口問題、食糧危機、膨大な国の負債など)を考えると、急を要しない、今すぐでなくてもよいことをしているのは人間ばかりで、他の生き物は「不急」で暮らしているように思います。ただ、「不急」でないことは、ノンベンダラリンとしていることではなくて、常に何かに集中し没頭していることなのではないかと思います。
ちなみに、私の新年のテーマは、“Design of Mindfulness”「全集中のデザイン」です。

 

「功徳海中一滴を譲るべからず 善根山上一塵も亦積むべきか」
■出典 道元禅師
世の中のたくさんの人が、ひとつずつ良いことをしたら功徳は山のように、海のようになるだろう。それなら自分は、やらなくても良いのだろうか?
否、それでも私が、一滴の水を加えよう。砂一粒でも加えよう。私がやることが大事なのだ。それが誠の功徳につながる。
・・・身に滲みる言葉です。

 

最後に私・鈴木真弓が選んだ言葉です。
「一切皆苦」
■出典 ダンマパダ278(原始経典)
一切皆苦とは文字通り、「この世のすべては苦しみである」。仏教の根本的な教えです。
現代人にとっての「苦しみ」とは、自分の思い通りにはならないということ。どんなに頑張っても結果が出ない。2020年は多くの人が一切皆苦な体験をし、思い通りが通らない暮らしを余儀なくされ、世の中、本当に思い通りにはいかないものだと実感させられました。

以前、Eテレの「こころの時代~禅の知恵に学ぶ」で美濃加茂の正眼寺山川宗玄老師が典座(台所役)の経験を話されました。托鉢ではいろんな米を頂く。古米もあれば外米もある。これらを一緒にし、ふつうに洗米浸漬した後、水を切って、釜の熱湯にぶち込んで炊くそうです。

蒸気は白から黄→青と変化するのでそのタイミングで薪を引っこ抜いて、後は余熱で置く。そうすると均等にふっくら焦げずに炊き上がるそう。科学的にどういうことなのか分かりませんが、老師曰く「熱湯という強烈な環境に置かれると古米も新米も外米も、みんなただの“米”に戻る。人間も同じだ」と。このお話がとても心に染み入り、2020年は老師の禅セミナーに美濃加茂まで2回通いました。

コロナという“熱湯”によって我欲から解かれ、多少はすっきりシンプルな米になれただろうか、「苦しみ」の本質に向き合うことが出来ただろうか、今も思案の毎日ですが、思い通りに行かずとも不必要に落ち込まず、「ダメで元々」「うまくいったら儲けもの」「一に感謝、二に感謝」の精神で前に進めたらと願う次第です。