杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

静岡県の葬のローカル・ルール③火葬のしきたり

2022-09-07 20:14:12 | 歴史

 今回は土葬と火葬のローカル・ルールをご紹介します。


 そもそも火葬は6世紀の仏教伝来とともに大陸から伝わり、天皇家や武家等の支配階級を中心に広がりましたが、庶民の火葬は伝染病等の罹患者に限られ、20世紀に入る頃まで庶民は埋葬方法は土葬でした。
 静岡県では、昭和50年代頃まで土葬の風習が残る地域があり、それぞれ地域性に応じたしきたりがありました。

 

〇熱海では埋葬地に目印となる石を置き、柱4本の小さな屋根を立てた。棺が腐って沈むまで2~3年そのままにし、石碑に建て替えた。

〇伊豆松崎では土葬が終わると草履を履き替え、「穴巡り」をし、その草鞋を残して帰った。

〇静岡周辺では少しでも遺体の腐敗を防ぐため、棺に茶の実や木炭を詰めた。

〇静岡や焼津の一部では、棺を穴に入れたら石を投げつける地域があったが、次第に土を掛けることに代わった。

〇本川根では、穴を掘ったら木の枝を2本、十字にして置き、そこから鎌の柄にヒモを付けて刃が上を向くように吊した。魔除けのカマキリといい、作業が終わったら酒を飲み、棺が到着するまでその場を離れない。

〇遠州では土葬をカマカキといい、濃い身内や隣家が務めた。一升瓶を必ず飲み干してから穴を掘る。

〇佐久間では六文銭として10円か20円を墓所に納めてから穴を掘る。棺を穴に入れるときは、穴底が近づくと一気に縄を放して地面に落とし、死者への未練を断ち切った。

 火葬が一般に浸透し始めたのは明治以降で、都市化の進展に伴い、火葬場の整備も進み、現在は火葬が99.6%となっています。
 昭和54(1979)発行の論文集『南中部の葬送・墓制』に、静岡県が昭和51・52年度に調査した〈土葬から火葬に切り替わった時期〉の記述があります。調査地域が限定されていますが、時代別に概ね次のとおり。

 

〇明治期/西伊豆町岩谷戸

〇大正初期/掛川市上垂木西側

〇大正中期/南伊豆町毛倉野、富士宮市下条

〇大正末~昭和初期前後/富士宮市杉田、富士川町木島室野、静岡市南沼上、藤枝市瀬戸谷塩本、中川根町地谷・家山塩本、豊田町立野長森

〇昭和10年前後/清水市宍原、金谷町菊川、竜洋町掛塚蟹町

〇昭和20年前後/天城湯ヶ島町柿の木・上船原、沼津市立保、長泉町元長窪、沼津市井出、蒲原町善福寺、清水市杉山・吉原庄可沢、静岡市俵峰・根古屋、島田市西向、菊川町牛渕長者原、春野町石切、森町大河内・亀久保、袋井市豊沢法多、豊岡村敷地虫生、細江町気賀呉石

〇昭和35年前後/東伊豆町北川、修善寺町本立野、中伊豆町原保、西伊豆町田子月東、富士宮市内野足形、静岡市有東木・栃沢・水見色、本川根町藤川、佐久間町川上、磐田市匂坂中

〇昭和50年代/天城湯ヶ島町西平、戸田村井田、静岡市口仙俣・大間、岡部町三輪

 

 初期の火葬は葬儀と葬列が終わった後、夕方から夜にかけて行いました。薪や藁を使っていたため、焼き上がるまでかなりの時間を要し、焼き方を均等にするため死体を動かす手間もかかったようです。
 夜間の長時間作業に付き添う身内のため、近親者や隣組の人々が酒や菓子を差し入れる習慣があり、静岡では「火屋見舞い」、焼津や旧大東町では「ノバ見舞い」、竜洋町では「サシビ見舞い」と呼んでいました。
 他、火葬にまつわるローカル・ルールをいくつか挙げます。

〇西伊豆の妻良では漁協の側に焼き場があり、俵薦(ムシロ)を20~30枚かけて焼いた。

〇西伊豆の仁科では安城山の近くに焼き場があり、漁協組合員が荷車3台分の薪を運んで組み合わせ、この中に棺を安置した。近くの御堂から僧侶を呼んで読経してもらい、夜中に点火し、朝までかかって焼いた。この間、組合員が3交替で立ち会った。

〇蒲原や清水では、火葬の骨上げをして帰宅した時、タライに死者の着物を入れ、足を3~4回突っ込む真似をしながら清めの塩を振った。

〇御前崎では、遠洋漁業者が多いため、主人の留守中に死者が出ると火葬しておき、主人の帰港後、葬儀を出していた。火葬は火持ちのよい柿や松の薪を使い、身内の者が焼いた。



 葬にまつわる縁起かつぎには、「清めの塩」や「友引の日を避ける」等、今でも色濃く残るものがあります。県下に残る珍しい伝承を集めてみました。

〇伊豆では四十九日まで死者の魂が家に留まっているとし、屋内では針を使わなかった。

〇伊東では葬儀後、喪家は21日間入浴を禁じられていた。

〇伊東の富戸では死者を出した家の作物の種は「死に種」と言われ、1年間もらわなかった。

〇天城湯ヶ島では四十九日まで鉱山の仕事を休んだ。

〇西伊豆田子でも四十九日まで漁に出ない。他地区でも最低1週間は休漁した。

〇由比でも葬式を出した漁師の家では1週間船を出さず、葬式の手伝いをした者も3日は休漁した。

〇シラス漁の網に死体が引っ掛かると「縁起がいい、大漁になる」といわれ、そのまま引いて港に戻った。沖で漁をするサクラエビの網ではなかなか引っ掛からない。

〇御前崎の遠洋漁業でも海で死体を見つけると大漁になるとされた。

〇遠州地方では、一年のうちに2人死ぬと、2度目の葬儀のとき、古い木槌か金槌にヒモを付けて埋葬地まで引っ張っていき、棺と一緒に埋めた。

〇お彼岸に亡くなると極楽に行くと歓迎され、お盆に死ぬと地獄に行くと嫌われた。そのため盆が明けるまで葬式を出さなかった。

 

 一般の死者とは異なり、非業の死を遂げた者や、子どもが親より早く亡くなる逆縁の場合、通常とは異なる葬法がとられました。

〇伊豆では子ども・未婚者が亡くなると、土葬した場所に「お天道様に当たらないように」とコモを被せた。死者の魂が荒ぶれないよう封印する意味とされる。

〇同じく大仁、修善寺、天城湯ヶ島では土葬の場所に鎌を立てた。

〇熱海、由比、静岡、焼津では、お産で母子ともに亡くなった場合「ヌノザラシ」を立てた。40~50センチ四方の白いサラシの布に母親の名前と年齢を書いて棒に付け、村を流れる小川の水場に立てる。竹の柄杓を置き、側を通る人に水をかけてもらい、字が消え、布がボロボロになったら成仏できるとされた。

〇沼津では水死者が上がった際、身元がわかれば髪の毛だけを葬り、わからなければ通常の野辺送りをし、無縁墓地に葬った。無縁仏を供養すると後生がよいとされ、盆や彼岸の供養も丁重に行った。

〇死産の子や生後間もなく死んだ子は、丁重に葬ると生まれ変わることができないとされ、葬式は出さなかった。親しい者が一人立ち会って僧侶に読経してもらうだけ。静岡ではこのとき他家の者が一人立ち会った。

〇遠州地方では子どもの埋葬のとき、母親の着物の左袖を切り取って顔に掛け、共同墓地に土葬した。親は埋葬に立ち会わない。後追い自死しようとする者もいたため。

〇共同墓地に埋葬された子どもに百日参りをした後、家の墓にお地蔵様を建てることが多かった。


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静岡県の葬のローカル・ルール②葬を支えるライスパワー

2022-09-01 14:40:53 | 歴史

 前回の続きです。

 葬儀や法事のときにお供えするお餅やお酒。米というものが日本人の生死に寄り添うかけがえのない存在なんだと、今回の調査であらためて思い知らされました。葬を支えるライスパワーと題して、各地の風習を拾ってみました。

 

 

葬を支えるライスパワー

 稲作文化を持つ日本人は、米を生命力の源と考え、冠婚葬祭の場にも活用してきました。

 葬送儀礼では生米を始め、握り飯、餅、団子、酒といった米加工品がさまざまな形で使われます。全国各地に伝わる主な風習を挙げてみます。

〇危篤の病人の枕元で、竹筒に少量の米を入れて振って音を聴かせ、生き返るように願った。

〇亡くなると、近隣から手伝いの者がやってきて、喪家の戸外に炊事場を構えるか、別の家の炊事場を借りて玄米を炊き、死者のための「枕飯」「枕団子」を作る。「枕飯」は山盛りのご飯に箸をつきたてる。

〇湯灌や納棺、墓地の穴掘りなど、死者の身体と直接触れる者も、この「枕飯」「枕団子」を共食し、酒を飲んで作業に当たった。

〇墓地の穴掘り役が食べる握り飯は、必ず真ん丸にする。火葬の場合は、焼き場の担当者は夜通し酒を飲みながら作業した。

〇出棺前後には「食い分れ」の儀式として、ご飯、味噌汁、煮しめをそろえた膳、または握り飯、汁掛け飯、団子、餅を食べ、酒を一献飲む地域もあった。

〇葬儀のとき、死者と同年の者は絶縁のため、訃音が鳴るたびに「耳塞ぎ餅(小さな餅片)」で耳を覆った。

〇四十九日の席では「四十九餅」が振る舞われる。大きな丸餅1個と小さな丸餅49個を供え、49個のほうは本来、忌明けまでの49日間供えた風習に拠る。大きな丸餅は近親者で引っ張り合ってちぎって食べた。

〇四十九餅を人の手形や足形に見立てたり、大きい丸餅を胎盤、小さな49個を人の骨に見立てて食した地域もある。火葬の後、骨を噛んだり粉骨を食べる風習に関係していると思われる。

 

 

静岡県の“食い別れ”あれこれ

 静岡県にも、さまざまな名前の食い別れ餅が伝わっています。代表的なものでは静岡市清水区で盆の迎えや彼岸の入りのときに供える「チイチイ餅」。今も、区内の和菓子店が共同で、地域の行事菓子として伝承しています。

 実は、志太・榛原にはチイチイ餅によく似た「ハト」「サンコチ」という正月餅があります。「サンコチ」は女性の陰部を指す隠語。五穀豊穣や子孫繁栄を願って正月に供えられたと思われます。「ハト」は山梨のホウトウ、東北のハットウ、長野のオハット等、全国に似たような名前の郷土料理があり、いずれも手でちぎって握るカタチが基本とされます。

 似たような餅が、慶事にも弔事にも使われる意味について、民俗学者柳田國男によると―

 

「食物が人の形體を作るものとすれば、最も重要なる食物が最も大切なる部分を、構成するであらうといふのが古人の推理で、仍つて其の信念を心強くする為に、最初から其の形を目途の方に近づけようとして居たのでは無いか」と(柳田國男『食物と心臓』より)。

 

 柳田は、信州地方でミタマと呼ばれる三角形の握り飯を供える風習から着想し、餅はもともと心臓を模したものではないかと考察したのです。

 食い別れの餅であるチイチイ餅が、正月餅のハトやサンコチと形がよく似ているのは、ミタマをまつるという共通の意味があり、しかも米の力によって、ミタマ=いのちを指し示すよう心臓や女陰を模して作る。葬の場に用いられたのは、死者が浄土へたどり着くまでの力餅になれば、という思いがあったのかもしれません。

 餅をはじめ、県内各地で弔事に使われたさまざまな儀礼食について紹介します。

 

〇下田・南伊豆では玄米で作る黒団子を枕団子として供えた。近年は白米を搗いて醤油をからませ、着色した。

〇伊豆では彼岸の「入りボタ餅にアケ団子」を供える。彼岸の入りにぼた餅を、明けに団子を仏壇に供え、寺に白米や餅を持って墓参する。

〇御殿場付近では、戸外で3本組の棒に鍋を吊り、松明の火を用いて「オモリダンゴ」という枕団子を作った。作った団子をすべて盛りきることからその名が付いた。

〇裾野では出棺のとき、庭で餅搗きをした。臼と杵で出来る限り大きな音をさせて搗いた。搗いた餅は塩餡にし、葬儀や夕食でも振る舞った。

〇沼津・三島・御殿場の一部では葬儀でおはぎを出す。

〇富士・富士宮では弔事で「茶飯」を出す。水の代わりに番茶で米を炊く。

〇清水・庵原の「チイチイ餅」は子ネズミが丸まったような形の塩餡。出棺前後に死者と生者が最後に共食して縁を絶つ食い別れとして食べ、四十九日、盆や彼岸のときも寺へ持参する。ネズミのかたちに似ているから、その名が付いたというのが定説だが、 〈キチュウ(忌中)〉が語源ではないかという説もある。

〇静岡の竜爪山麓では明治頃まで「ボンメシ」という子どもの行事があった。盆の15日に14~15歳の娘たちが村の辻に集まって小豆飯を炊き、ナスやキュウリを煮て子どもたちに振る舞った。この飯を食べると夏病みしないといわれた。

〇大井川筋では米をすり鉢で摺り、食紅と砂糖を加えて棒状にし、薄く切って焼いた「すり焼き餅」を彼岸に供える。

〇榛南地区では焼香が済むと、「足軽餅」というあんころ餅を食べる。場所によっては出棺前、朝食べるところもあった。食べ方は、お箸1本で餅を突き刺して食べる。

〇浅羽では葬儀から3日後に精進落とし(=ミッカノモチ)として夜なべして餅を搗き、親類や寺などに配った。

〇遠州地方では四十九日に喪家の男性が米一升で一臼餅を搗く。「一生こんなことがあってはいけない」と一握りを除き、搗いた餅から「頭」「膝」「肘」と言いながら四十九餅を作り、寺へ納める。残った大きな餅は一升枡を伏せ、その底に乗せて包丁で切って塩を付けて食べた。これを食べると虫歯にならないといわれた。

〇精進落としの膳には豆腐やコンニャクが必ず付くが、遠州地方では、ひりゅうず(がんもどき)が出され、近年、持ち帰りに便利な堅パン「お平パン」に代わった。形が草履に似ていることから、故人の履物に見立て、2枚一組で売られるようになった。


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静岡県の葬のローカル・ルール①水辺のハマオリ

2022-08-29 11:01:35 | 歴史

 8月24日刊行の『静岡県の終活と葬儀』。地元書店の店頭には平積みに置かれ、少しずつ目に留めていただいているようです。ありがとうございます。

 前回記事に書いたように、本書では編集方針の変更によって、静岡県の葬の歴史風俗について書いた原稿が丸々削除されてしまいました。自分の歴史・仏教好きが高じすぎて、編集部の皆さんに敬遠されたのだろうと反省しておりますが、前回記事をご覧になった方から「そういうの、私も大好物です。ぜひ読みたい」というメッセージをいただいて励みに感じ、ここで少しずつ紹介していこうと思います。

 民俗学的に専門調査されている方から見たら、内容的には不十分だと思いますので、これを機に新たな情報をいただければありがたいです。いずれ何かのカタチで書籍化できれば、と願っています。

 以下は『静岡県のローカル・ルール』と題した章で、静岡県の沿岸地域に伝わる独特な風習を集めたものです。きっかけは下田開国博物館の館長さんにヒヤリングしていたときに教えていただいたハマオリという言葉。南伊豆独特の風習かと思って調べてみたら、出てくる出てくるいろんなハマオリ・・・! 沿岸地域にお住まいで「うちの地域にもあったよ」という方がいらしたら、ぜひ情報をお願いします。

 

 

静岡県のローカル・ルール

 伊豆、駿河、遠江の3国から成り立つ静岡県は、多様な気候風土を持ち、東海道が東西を貫き、富士川・天竜川の水系が南北をつなぐ等、今の行政区分にとらわれない幅広い民俗文化を育んできました。

 葬と供養に関するしきたりも、またしかり。

 通夜や葬儀を自宅で行っていた時代は、近隣住民の協力なしには不可能だったため、おのずと各地域の民俗風習に影響を受け、その土地ならではの特殊性が生まれました。「就職先、婚姻先、移転先の風習が違っていて驚いた」という経験を持つ人も少なくないでしょう。

 今は、ほとんどの人が葬と供養を葬祭専業者に委託する時代。隣近所のつながりが薄くなった都市部では、地域の特殊性は失われつつあります。

 自分や自分の大切な人が最期を迎え、永眠するという深い縁を持つ土地で、過去どのような葬儀がなされてきたのか、先に眠りについた先人達がどのように供養されてきたのか―今、実際に昔と同じようなことは出来なくとも、各しきたりに込められた意味や先人の思いを知っておく価値は、十二分にあるように思われます

 ここでは郷土史料に残る地域のユニークな伝統、地域住民が記憶する独自のしきたり=いわゆる〈ローカル・ルール〉について、文献調査やインタビュー証言を基にまとめてみました。世代をつないで足下の地域性を探ることが、豊かなコミュニティづくりや終活の一助になればと思います。

 

 

1.水辺のハマオリ

 静岡県には東から相模湾、駿河湾、遠州灘に面した約52キロメートルの海岸線があり、多くの河川が流れ込んでいます。海に面した漁村や、河川流域の山村には、葬儀や法要の際、浜や川を他界への境界に見立てた「ハマオリ(浜下り)」と呼ばれる清めの習慣が存在しました。地域によって内容はさまざまです。各地のハマオリについてまとめました。

 写真提供/木下尚子さん

 

〇下田・南伊豆では葬礼に使用する清めの塩を、海で汲んだ海水から作った。

〇熱海では盆の迎え火を海岸の波打ち際で燃やしていた。

〇沼津の内浦・静浦では、百八灯(ひゃくはったい)といって、未婚の男性が亡くなると新盆では海岸で薪を積み上げ、松明を立てて燃やして弔った。

〇中伊豆では野辺送りをして戻った会葬者は川へ行き、河原に位牌を据え、食物を供えて線香を手向けた。

〇函南では喪家が属する組の代表が、戒名を記したハマオリ用の白木の位牌、線香と蝋燭、酒と握り飯を用意し、河川敷で待つ。野辺送りから戻った会葬者に清めの塩を渡し、笹で水をかけて清め、酒と握り飯を共食した後、位牌を川に流した。

〇裾野でも組衆が河原で白木の位牌、線香・蝋燭、団子を供えて会葬者を迎え、豆腐や菓子をつまみに酒を飲んで身を清める。その後、会葬者全員で土手から石を投げ、位牌を川に流した。

〇小山町ではサトヤと呼ばれる屋形型の門碑を三十五日または四十九日の追善法要のとき、川に流す。

〇富士宮の井出地区では土葬の後、土人衆(墓の穴掘り役)が喪家の近くの川の土手で精進落としをした。サトヤを立て、線香・灯明・供物をし、小豆御飯や佃煮等をつまみに酒を飲み、食べ切って戻った。

〇焼津・大井川では四十九日に草履、おこわ、御神酒、お花を持参し、浜へ下り、大きな石を見つけて、それをお墓に見立てて石塔を建てる。片方の草履の鼻緒をそのあたりに落ちている石と石を使って切る。お線香をあげて海に向かって拝む。お線香をあげて海に向かって拝む。おこわとお神酒を少しいただく。お神酒は昔、一升瓶を持って行った。

〇御前崎から浜松までの遠州灘一帯では身を清めることをハマオリと言った。弔事以外にも、祭りの前や妻が出産した漁師はハマオリしなければ船に乗れなかった。

〇浜名湖周辺では海水を持ってくることをハマオリと言った。舞阪では新盆に前浜の波打ち際に穴を掘り、百八体(ひゃくはっと)の松明、精霊飾り、食べ物、洗米等を入れて火をつけ、線香を灯して拝んだ。


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「静岡県の終活と葬儀」刊行

2022-08-25 20:00:08 | 本と雑誌

  2022年も気がつけば立秋を過ぎ、田んぼには稲穂が実り始めています。ここへの訪問もすっかり疎になってしまっていましたが、手間がかかった仕事が一つ二つと片が付き、業務ではない趣味の執筆に向き合う心の余裕も持てるようになりました。・・・といっても仕事のPRで恐縮ですが、どうぞお付き合いくださいませ。

 

 昨年来、取材執筆を続けてきた『静岡県の終活と葬儀』が8月24日に静岡新聞社から刊行されました。発売初日にフェイスブックで紹介したところ、「タイムリーな企画」「すぐにでも参考にしたい」等など好意的な反応をいただき、胸をなで下ろしています。

静岡県内主要書店にて発売中。1500円+税  Amazonでも取り扱っています。こちらからどうぞ。

 

 内容は3章に分け、第1章「生前に準備しておきたいこと」は、終活や相続対策等、専門的な手続きや準備についてファイナンシャルプランナー小野崎一網さんが解説し、私が文章化をサポート。第2章「葬と供養の新しいかたち」は今の葬儀やお墓について、第3章「終活を支え、喪失に寄り添う人々」では死に向き合うときに助けとなる様々な専門家を紹介しました。

 

 実はこの3章立てに落ち着くまで紆余曲折ありました。私が最初に提出した草稿には、一般に出回る終活葬儀ノウハウ本との差別化を意識し、静岡県の葬や供養に関するヒストリー&フォークロアをがっつり書き込んだのです。

 葬や供養がどんどん簡素化される中で、わが地域が刻んできた大切な歴史や習俗がどんどん忘れ去られ、各地の盆祭り等にわずかに残るその記憶も、コロナ禍の影響もあり、風前の灯状態。今、静岡新聞社が出す本ならば、それは記録として残すべきではないかと考えて企画提案し、時間をかけて人を訪ね歩き、文献調査をしました。

 実用書としてわかりやすいものを、という編集方針の変更によって、大半の草稿はお蔵入りになってしまいましたが、調査取材にかけた時間は決して無駄ではないと思っています。

 

 以下は、本書の最後に「おわりに」としてつづった個人の想い。この心境に至ることができたのも、民俗の歴史に向き合い、人ひとり亡くなることの意味、弔いの作法を考える時間が十分に持てたからです。

 当ブログを訪問し、ご縁をいただいた皆さまにとっても、死に方=生き方を見つめ直す一助になればと思っています。ボツになった調査内容はここで少しずつ紹介していきますので、よろしくお願いします。

 


 「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という禅語をご存知の方も多いと思います。雨の日も風の日も、辛く悲しい日であっても、その日その日を最良の日として生きようという、厳しくも温かい人生へのエール。この禅語を残した唐の名僧・雲門文偃の語録に、「朧月三十日(ろうげつみそか)」という言葉があります。
 朧月三十日は旧暦の大晦日。人生を一年に喩えれば、まさにこの世の納め。誰の人生カレンダーにも漏れなく刻印され、早かれ遅かれ、その日を迎えることになります。年末の大掃除を土壇場になって慌ててやるか、前もって少しずつキレイにしておくかで、大晦日の迎え方もずいぶんと変わってくるでしょう。

 私事になりますが、私の父は2017年の大晦日、正月用の酒肴を買いにバスに乗り、終点の静岡駅に着いた時、座席で眠るように心停止状態で運転手に発見されました。

 病院に駆けつけた私は、汗だくで心臓マッサージをしていた医師より「回復の見込みはないが、マッサージを止める指示ができるのは家族だけ」と告げられ、外出中の母とも連絡が取れないまま、父の心臓を止めるという決断を迫られたのでした。持病があったものの、この日の朝も変わりなく普通に食事をし、他愛もない話をしていた父と、2時間後にこのような別れをするとは、もちろん想像もしていません。


 父は生前、終活の話を嫌がって、葬儀や墓など諸事一切、決めていなかったため、病院の看護師に渡された葬儀社リストをもとに、過去に親戚が利用したことのある地元業者を選び、自宅までの遺体搬送と寺院の手配をお願いすることに。

 年明け2日の通夜、3日に葬儀火葬と決まりましたが、葬儀社から「料理店が正月休みで祓いの食事が用意できない」とSOS連絡を受け、ダメ元で自分のSNSに「3日昼に仕出し弁当を頼めそうな店を知りませんか?」と投稿したところ、大晦日夜にもかかわらず、多くの友人から情報や弔意が寄せられ、無事、手配が叶いました。

 一般葬か家族葬にするかの判断以前に、正月三が日という時期を考慮し、訃報連絡は近親者のみとしましたが、仕出し弁当SNSを見た友人知人が葬儀社を調べて駆けつけ、懇意にしていた日本酒の蔵元も、元旦から香典返し用の酒の準備をしてくれました。後悔先に立たずの連続でしたが、今振り返ると、あれほど他者の温情を感じた「好日」はなかったでしょう。

 2020年の大晦日、その日本酒の蔵元が突然亡くなりました。海外在住の娘さんがコロナによる帰国後隔離処置に遭い、日を置いての通夜葬儀となりましたが、酒造繁忙期に蔵の大黒柱を失ったご家族や従業員の皆さんの悲嘆・混乱は、我が家とは比べものにならなかったでしょう。

 

 今回の調査取材で、日本に、静岡に、実に豊かな弔いの文化が存在していたことを知り、時代とともに変化する供養のカタチに、専門的知見を活かし、寄り添い支える人々に出合いました。

 父や蔵元が亡くなる前に知っておきたかったと思わずにはいられませんでしたが、執筆を終えた今、改めて、「必ずやってくる自分の大晦日」「大切な人の大晦日」を、悔いのない「好日」にできたら、と心から願います。

 本書が、大晦日前の清掃整理に使える“お役立ちメモ”のような機能を担えたら幸甚です。
 

 

 


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寅年関西初詣&遊学

2022-02-01 16:30:22 | 歴史

 2022年も2月に入ってしまいましたが、改めて、本年もよろしくお願いいたします。

 昨年末からいくつかの執筆業務に追われ、慌ただしい年明けでした。12年ぶりに迎えたわが干支かつ記念すべき還暦の年ですから、初詣だけはちゃんとしておこうと、1月9~10日に寅の寺で名高い奈良信貴山の朝護孫子寺、大阪の十日戎今宮神社、1月21~22日には京都妙心寺、相国寺、松尾大社を巡りました。朝護孫子寺の初おみくじで「凶」を引くなど御利益は期待できそうにありませんが、観光客が少ない真冬の古都散歩で、久しぶりに静かで心穏やかな時間を過ごすことができました。ということで本年最初の投稿は、1月の関西初詣&遊学の備忘録です。しばしお付き合いくださいませ。

 

1月9日 大阪くらしの今昔館「茶室起こし絵図」展

 前回のブログ記事で昨年11月に朝鮮通信使地域連絡協議会総会で大阪入りしたことに触れましたが、この時、空き時間に鑑賞し、とてもユニークで見応えがあった展覧会。後日、駿河茶禅の会で報告し、興味を示した友人を伴って再鑑賞しました。

 展示されたのは、江戸幕府の大工頭を務めた中井家に伝わる重要文化財「大工頭中井家関係資料(5195点)」のうち、建築指図・絵図645点の中の一部。起こし絵図というのはご覧のとおり、厚紙に書いた設計図を組み立てたもので、基本的に現存する建物を平面と立体で表現し、建築に関する詳細な情報を保存管理します。建築分野に昏い自分にとっては初めて見るものでした。

 中井家初代藤右衛門正清(1565~1619)は関ヶ原直後から伏見城、二条城、駿府城、名古屋城、日光東照宮の作事を担当し、茶人の古田織部や小堀遠州とも親しかった人物。二代正侶(1600~1631)は大阪城の拡張工事や仙洞御所の造営を手掛け、三代正知(1631~1715)・四代正豊(1692~1735)の時代に茶室起こし絵図の製作を始めたようです。

 会場では国宝「待庵」をはじめ、表千家座敷「残月亭」、裏千家茶室「又隠」、大徳寺龍光院「密庵」、大徳寺孤篷庵「忘筌」、鹿苑寺(金閣)茶室「夕佳亭」、高台寺茶室「傘亭」「時雨亭」等など、茶道を聞きかじったばかりの私でも知っている名だたる茶室の起こし絵図がズラリ。

 数寄屋造りの茶室や書院は、細部に亘って亭主のこだわりや工夫が施され、とても複雑な造りになっていますから、プロがきちんと計測・記録した上で立体的に理解できるようにし、しかも折りたためばどこにでも持ち運びできるという絵図は亭主や施主からも重宝されたことでしょう。起こし絵図のパーツを作るのも一つの技術のようです。火事や自然災害の多い日本で、伝統的な木造建造物が災禍を乗り越え、復元され続けてきたのは、こういう職人技術の下支えがあったんだなあと胸が熱くなりました。

 

1月10日 信貴山朝護孫子寺

 信貴山は河内と大和を結ぶ要衝にあり、山麓にある朝護孫子寺(こちら)は、聖徳太子が物部守屋討伐の際、寅年の寅の日、寅の刻にこの地で毘沙門天王から必勝の秘法を授かったという縁起を持ちます。といっても自分は今まで阪神タイガースファンの聖地だという認識しかなかったのですが(苦笑)、とにかく今年の初詣にふさわしいと思い、同じ寅年の友人と共に参拝しました。

 

 境内はとても広く、本堂に着くまでにたくさんの塔頭や神社が点在する神さま仏さまのテーマパークのよう。神仏習合時代の名残がそこかしこに感じられました。

 毘沙門天王を祀る本堂では「戒壇めぐり」を体験。約900年の昔、覚鑁上人(新義真言宗の開祖)が毘沙門天王より授かった「如意宝珠」を本堂の地下に祀っており、宝珠を納める錠前に触れると心願成就のご利益があるそうですが、なにしろ地下は真っ暗闇の迷路。ダイアログ・イン・ザ・ダークのお寺版というのか、視力を失った人はこういう世界で生きているのか!という畏怖の念をまざまざと感じました。錠前は無事触れることができましたが、それよりもほんの数分の回廊めぐりが永遠に続くような不思議な体験でした。

 塔頭の千手院では、ちょうど1月10日まで護摩焚き祈祷をしていたので、護摩木に「感謝」の文字を添えて焚いていただきました。昔なら「心願成就」等など願い事を強くお祈りしたものですが、年相応に力が抜けてきたのか、〈今、生かされていることに感謝〉というのが一番しっくりくるようです。これもコロナ禍の心理的影響なのかな・・・。

 

1月21日 花園大学歴史博物館公開講座「五山文学の宝蔵を開く」/「両足院ーいま開かれる秘蔵資料」展

 前回記事で紹介した花園大学歴史博物館の「両足院ーいま開かれる秘蔵資料」を鑑賞し、関連する公開講座「五山文学の宝蔵を開く」を受講しました。両足院所蔵物を長年調査されてきた京都国立博物館名誉館員の赤尾栄慶先生が、調査の経緯や内容、そして歴史文書の保管・承継の意義について、国立博物館研究員の立場から貴重なお話をしてくださいました。

 五山文学とは、日本の中世(鎌倉~室町)に京都・鎌倉の五山禅僧が親しんだ漢文学で、主に七言詩や五言詩の型式で作られました。両足院は室町時代に五山文学の中心となり、多くの書画を所蔵。科学的調査は21世紀に入ってから本格的に始まり、赤尾先生は2004年から2006年にかけて国の科学研究費補助事業となった『五山禅宗寺院に伝わる典籍の総合的な調査研究ー建仁寺両足院所蔵本を中心に』で指揮を執られました。その後、再び補助採択を経て、2011年までに第1函から181函(1函@60冊)までの書目を調査しました。

 この中には、前回記事のとおり、片山真理子さんが紹介された以酊庵関連の資料(こちらを参照)のほか、余象斗本(1592年刊)の三国志伝1~8、19~20巻があります。現存する同本は英国ケンブリッジ大学が6~7巻、独ヴェルテンベルグ州立図書館が9~10巻、オックスフォード大学が11~12巻、大英博物館が19~20巻を所蔵しているとのこと。両足院のコレクションがいかにスゴイかが解りますね!

 赤尾先生のお話でひときわ心に残ったのは、「1250年前の古事記・日本書紀以来、一度も途切れずに国の歴史を記した書物が残っている、しかも1250年前の書物がそのまま今でも読めるという国は日本だけ」という言葉。文献保護の在り方についても「和紙に墨で書かれた書物は、湿気や火気さえ気をつければ半永久的に残る。事実、日本人はちゃんと残してきた。デジタル化がベストだとは思わない」と強調されていました。このコメントは、起こし絵図を伝え残した中井家の職人達の心意気にもつながるような気がしました。

 それにしてもこの日、花園駅で降りたら横なぐりの雪でビックリ。慌てて駅のコンビニでビニール傘を買い、せっかくなら雪化粧を拝もうと妙心寺退蔵院まで足を運びました。赤尾先生も「初弘法の日にこんな大雪が降ったのは初めてじゃないですか」とビックリしておられましたが、白雪の古寺って本当に絵になりますね。

 

1月22日 松尾大社/相国寺承天閣美術館ー継承される五山文学展/京都国立博物館「寅づくしー干支を愛でる」展

 翌日は朝、松尾大社をお詣りしました。コロナ前は年に1度はお詣りに来ていましたが、ここ2年ご無沙汰でした。さすがに22日ともなると初詣の人はほとんどおらず、静かな社殿を独り占めできました。

 門前の京漬物「もり」で松尾大社限定の酒粕漬けを購入したら、重さ3㎏はある聖護院かぶらをサービスしてくれました。これを持って帰るのか・・・!と一瞬ビビりましたが、頑張って静岡まで背負って帰って、漬物の素で即席千枚漬けにしてみたら、これが驚くほど美味で、さすが大根の質が違うんだなあと感心しました。

 いったん京都駅まで戻ってコインロッカーにかぶらとビニール傘を預け、相国寺承天閣美術館へ。両足院展につながる『禅寺の学問ー継承される五山文学』展(こちら)を鑑賞しました。初公開の「對島以酊眺望之図」や、宗義成と朝鮮国使が交わした朱印状など、朝鮮通信使を学ぶ者にとって貴重な史料も並び、改めて、中世~近世の禅僧が日本の外交の一翼を担っていた最先端インテリジェンスだったのだと実感しました。

 遊学の締めくくりは京都国立博物館の『寅づくしー干支を愛でる』展(こちら)。同館が所蔵する様々な虎の姿を時代別に鑑賞しました。生きた虎を見たことがない日本人がどのように想像を膨らませて表現してきたか、見比べてみるとその人なり、その時代なりの価値観が見えてきて面白い。今ならば地球外生物を空想して漫画や映画で表現するような感じでしょうか。

 展示の一角に、朝鮮通信使画員の李義養が描いた両足院所蔵「嗥虎図」を見つけ、嬉しくなりました。朝鮮国の絵描きさんはホンモノの虎を見たことあるのかな。2月13日まで開催していますので、機会がある方はぜひご覧になってみてください。 

 


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