杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『杯は眠らない』発刊顛末記

2023-04-03 09:25:15 | しずおか地酒研究会

 前回記事でご案内した『杯は眠らないーしずおか地酒35年の取材録』は4月2日発刊となりました。前回の、内容がよく分からないブログ記事だけで、すぐにご注文をくださった酒販店さんや酒友の皆さま、数少ない取扱い書店でさっそく見つけてお買い上げくださった皆さま、本当にありがとうございました。

 

 3月30日午後、印刷所から届いた本の段ボールを自宅玄関にとりあえず山積みしたときは、これが全部ゴミになったらどうしよう…ライター人生最大のバクチだな…と身震いしました。新人作家の処女作を世に送り出す編集者ってこんな気持ちかなぁと緊張しながら、最初の段ボールから取り出した10冊を手提げ袋に入れ、本を作ってくれた子鹿社田邊詩野さんが紹介してくれた鷹匠のひばりブックスさんを訪ねました。

「書店さんが引き受けてくれる自費出版本は1作あたり多くて2~3冊程度」と聞いていたので、おそるおそる「何冊置いてもらえますか?」と尋ねたところ、思いがけずドンピシャの「10冊」。実は、詩野さんがひばりブックスさんを会場に出版記念イベントを5月に企画してくれていたのです。

 オーナー太田原さんからは「スズキさんの前作〈杯が満ちるまで〉はよく売れたんですよね、期待しています」と嬉しいエールをいただきました。翌31日には、尊敬する元静岡新聞記者の川村美智さんがSNSで「ひばりブックスで偶然、真弓さんの本を見つけて早速購入!」と投稿してくれていて二重の感激。目に見えないバトンリレーが展開し始めたようで、ふわふわした気持ちになりました。

 こちらは詩野さんが作ってくれた配布注文用チラシです。

 

 31日は同じく詩野さん紹介の掛川の高久書店さんへ。”走る本屋さん”として知られるオーナー高木久直さんは、静岡書店大賞の発起人でもある静岡県を代表する活字文化人。そのような目利きがどんな反応を示すのか緊張しましたが、高木さんも「10冊引き受けましょう」とおっしゃってくれました。その日のうちに、以前取材でお世話になった掛川工業高校の杉山直康先生が「偶然見つけて購入しました。高久書店さんにはいつも素敵な本を求めて通っています」と嬉しいメッセージ。場所柄、『開運』の蔵人さんも通ってこられるそうですから、目に留めてくれると嬉しいなぁ!

 この日は、いの一番に注文をくれた浜松のかたやま酒店さんのもとへ。『開運・伝 波瀬正吉大吟醸無濾過斗瓶取り』を自分へのご褒美に購入しました。次いで藤枝のダイドコバルさんに納品。4月1~2日に藤枝・上伝馬商店街で開催する食のイベント〈mittaさくら祭り〉に出店されるそうで、店頭で紹介していただけることに。「飲食店仲間に宣伝します」と力強いエールをくださいました。

 4月1日は静岡朝日テレビカルチャー地酒講座の今年度第1回目の講座があり、テーマはもちろんこの本。受講生の皆さんに「教科書にしますから!」と半ば強引に?購入してもらいました。講座では本で紹介した蔵元の酒を7種(東から白隠正宗、高砂、萩錦、磯自慢、杉錦、喜久醉、開運)セレクトし、ブラインドで楽しんでもらいましたが、講座が始まる前、教材を調達しにうかがったヴィノスやまざきさんでも本を扱っていただけることになりました。

 ヴィノスの種本祐子社長は、ブログを見てすぐに連絡をくださり「首都圏のヴィノス全店舗でも売らせて!」と太っ腹オファー。すぐに各店舗から希望冊数を集めてくれて、「なるはやで送って」との連絡。デキる経営者は判断が早い!と感無量で梱包・発送を行いました。

 

 “嫁入り先”が順調に決まり、ウキウキ気分で帰宅したら、一足先に本を読んだ母から「ここ、間違っているよ」とひと言。な、なんと、赤面モノの校正ミスが!

 誉富士のことを書いた110ページの3行目、1俵(60kg)とするところ、1俵(60gになっていたのです。

 詩野さんとあれほど何度も校正のやり取りをしていたはずなのに、なんでこんな単純ミスを見落としていたのか・・・と気分急降下。母は「私でも、ああ校正ミスだなとわかる間違いだから、こんなややこしい本を読もうとしてくれる人ならわかってくれるよ」と慰めて?くれましたが、とりあえず詩野さんに連絡し、急遽訂正シールを作ってもらうことに。「わざわざミスしましたって言わなくても、黙ってりゃ気がつかれないよ」と暢気に話す母を諫め、まずはここでお知らせ&お詫びをさせていただこうと思います。本当に申し訳ありません。

 すでにお客様の手に渡ってしまったものに関しては、シールを貼ったものと交換させていただきますので、お買い上げ先にお申し出いただけますよう、お願い申し上げます。個人的に連絡がつく方には、私から連絡させていただきます。

 

 4月3日現時点でのお取り扱い店は以下のとおりです。短期間にお引き受けを英断してくださり、心より感謝申し上げます。なお店舗によって入荷のタイミングが異なりますので、ご面倒でもご確認をお願いします。

 

■子鹿社(通販のみ) HPはこちら

■ひばりブックス 静岡市葵区鷹匠3丁目5-15 HPはこちら

■高久書店 掛川市掛川642-1 HPはこちら

■長倉書店 修善寺本店、清水町サントムーン店 (企業HPはこちら

■かたやま酒店 浜松市中区砂山町510-9 HPはこちら

■ダイドコバル 藤枝市田沼1丁目3-26 食べログページはこちら

■呑み処ぼちぼち 浜松市中区千歳町35 TEL 090-6353-4120

■ヴィノスやまざき 静岡本店、新静岡セノバ店、沼津店、広尾店、中目黒店、有楽町店、室町店、銀座店、武蔵小杉店、川崎店、CIAL横浜店、池袋店、流山店 (企業HPはこちら

■長島酒店 静岡市葵区竜南1丁目12-7 HPはこちら

■旭屋酒店 浜松市東区植松町269-3 HPはこちら

■こめや原口酒店 牧之原市新庄1034-1 HPはこちら

 

お取り扱い店(*卸価格にて納めさせていただきます)は随時募集しております。ご連絡お待ちしております!

mayusuzu1011@gmail.com

 

 

■発売記念しずおか地酒サロン「日本酒ブックカフェ@このはな」開催

 日時/4月22日(土)12時~20時、23日(日)10時~15時 

    *時間内に自由に遊びにいらしてください。

 場所/古民家ワーク&レンタルスペース「このはな」(こちら

 内容/静岡市内の閑静な住宅街にある古民家(安東2丁目、アンコメさんや知事公舎の近く・アクセスはこちら)。私が主宰する駿河茶禅の会の例会でいつもお世話になっている素敵なスペースで、飲んでしゃべって本の試し読みができるブックカフェを2日間限定で開店します。ご来店の方にはもれなく鈴木の秘蔵酒をサービス。ノンアルコール用にお抹茶サービスもいたします。ご来店の際はお酒&おつまみ&お茶菓子の持ち込み大歓迎!本がお気に召してくださればお買い上げ、よろしくお願いします!

 このはなのオーナー永田章人さんは故・増井傳次郎さん(満寿一)の同級生で、増井さんが現役の頃、蔵で使用していた木製机を譲り受け、このはなで使用しています。この机を囲んでぜひ語らいたいと思っています。

 


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『杯は眠らないーしずおか地酒35年の取材録』刊行のお知らせ

2023-03-21 12:50:47 | しずおか地酒研究会

 来る4月2日、新著『杯は眠らないーしずおか地酒35年の取材録』/頒価2,000円(税込)を出版することになりました。初めて自分で全制作費を工面し、思い通りの形で作る本です。ライター業務に就いて36年ほど経ちますが、なんだかようやく、やっと“自家製品”を生み出せた感があります・・・。 

 出版を請け負ってくれたのは、静岡新聞出版部時代に『杯が満ちるまで~しずおか地酒手習帳』(2015)を企画編集してくれた田邊詩野さん。詩野さんは2年前に独立し、伊豆高原でひとり出版社『子鹿社』を立ち上げ、伊豆半島をベースに地域に根ざした出版文化の創出に孤軍奮闘されている、私が最も信頼する編集者です。自費出版物を手掛けるのは初めてということで、ならば私の酒の本を第一号に作って欲しいと、お一人多忙な業務をこなされる中、無理にお願いをし、快諾していただきました。

 

 静岡の酒に出合ったのは昭和62年(1987)。35年が経った昨年(2022)、ちょうど還暦を迎えた年に執筆を担当した『静岡県の終活と葬儀』(静岡新聞社刊)を通じて自分の終活を初めて意識し、過去記事の棚卸しをし始めたのがきっかけでした。

 最初に書いたのは、平成元年(1989)2月、東京の〈酒仙の会〉が寺岡酒造場(現・磯自慢酒造)を見学し、焼津たち吉で懇親会を開いたときに、ゲストで招かれた河村傳兵衛先生の講話を飛び入りで拝聴して書き留めたもの。まだ原稿用紙の手書き原稿でした。

 これを始点に、フィールドノート社(現・静岡オンライン社)の静岡アウトドアガイドで連載した『静岡の地酒を楽しむ』シリーズ(1995~2000)、毎日新聞朝刊連載『しずおか酒と人』(1997~1998)、JA静岡経済連情報誌『スマイル』(1998~2020)、静岡マガジン社季刊マガジンSizo;ka『酒蔵を巡るしぞーかスケッチ旅行』(2008~2009)、静岡オンライン社ウエブ連載『日刊いーしず・杯は眠らない』(2013~2014)等など、さまざまな媒体で連載の機会をいただき、単発での寄稿も数多させていただきました。

 今回は、これら過去記事プラス当ブログ記事の中から、単行本で残しておきたいと思ったものを選んで収録しました。執筆当時は現役バリバリだった蔵元さんや杜氏さんが引退し、世を去られる過程を思うにつけ「先人が築いた歩みや功績を、誰かがきちんと書き残すべきだろう」「自分にもしものことがあっても過去記事を顧みてくれる人はいないだろう」という焦燥感にも似た自意識にかられてのこと。もちろん特定の個人や銘柄を宣伝する目的ではありませんが、ストーリー重視で選んだ結果、静岡の酒をまんべんなく紹介することはできなかったことを、まずもってお許しいただきたいと思います。

 ほとんどが10年以上前の記事で、最新のトレンド情報やガイド情報は皆無ですから、今の酒徒の皆さんには退屈な内容かもしれませんが、目次をザッと紹介しますね。

 

〇酒縁の人々~波瀬正吉さん、山崎巽さん、増井傳次郎さん、岡田真弥さん、河村傳兵衛さん

〇地の酒地の技~高砂と富士山下山仏、下田の地酒「黎明」、近江商人の酒蔵、富士の白酒と白隠正宗、南部杜氏時空の旅、早稲田大学グリークラブの酒造り唄、杉錦の生酛造り、志太杜氏、サトウキビからアル添酒へ

〇米と水を巡る旅~  酒米の多様化と誉富士、静岡のまるい水まるい酒、世界遺産の仕込み水、名水の歴史を巡る旅

〇忘れ得ぬ対話~松崎晴雄さんと語る静岡吟醸、杜氏と樹木医・自然の育ちに寄り添う力(青島傳三郎さん×塚本こなみさん×鈴木真弓)

〇日本酒の履歴~広辞苑重版の旅、酒とうつわ、酒造聖地巡礼、酒と御饌と茶懐石、出雲との茶文化交流と酒造起源探訪、酒茶論~酒 対 茶の可笑しな論争

 

 嬉しかったのは、本の装丁と組版を手掛けてくれたデザイナーのBACCOさんが、私が過去に描いたイラスト画を見て「力がある、真弓さんの人柄が伝わる」と掲載を提案してくれたこと。今回初めてご一緒するデザイナーさんだけに、その一言が何よりのご褒美に聞こえました。その分、ページ数が増え、ちょっとお高い本になってしまいましたが、高校生の頃、漫画家を夢見ていた自分に「還暦まで待てばいいことあるよ」と伝えたい気分になりました。

 

 この内容ですから一般の書店に並べても売れないと思い、今回は既存の書店流通販売はせず、以下の方法でお届けしたいと考えています。

 

■子鹿社のサイト(こちら)にて通信委託販売 *4月2日から

 

■発売記念しずおか地酒サロン「日本酒ブックカフェ@このはな」開催

 日時/4月22日(土)12時~20時、23日(日)10時~15時 

    *時間内に自由に遊びにいらしてください。

 場所/古民家ワーク&レンタルスペース「このはな」(こちら

 内容/静岡市内の閑静な住宅街にある古民家(安東2丁目、アンコメさんや知事公舎の近く・アクセスはこちら)。私が主宰する駿河茶禅の会の例会でいつもお世話になっている素敵なスペースで、飲んでしゃべって本の試し読みができるブックカフェを2日間限定で開店します。ご来店の方にはもれなく鈴木の秘蔵酒をサービス。ノンアルコール用にお抹茶サービスもいたします。ご来店の際はお酒&おつまみ&お茶菓子の持ち込み大歓迎!本がお気に召してくださればお買い上げ、よろしくお願いします!

 このはなのオーナー永田章人さんは故・増井傳次郎さん(満寿一)の同級生で、増井さんが現役の頃、蔵で使用していた木製机を譲り受け、このはなで使用しています。この机を囲んでぜひ語らいたいと思っています。

 

■子鹿社と直取引のある県内個人書店にて委託販売 *書店リストは追ってお知らせします。

 

■この内容に関心のある酒造会社、酒販店、飲食店にて委託販売 *鈴木より直接お願いにうかがいます。販売をご検討いただける方はご一報ください。

 鈴木のメール mayusuzu1011@gmail.com

 

■静岡の酒を支援する酒の会・イベント(規模・地域は問いません)にて出張販売 *出張販売の機会をご提供いただけるようでしたら鈴木が直接うかがいますので、上記メールまでご一報ください。

 

 初めての自費出版物、どう売ればいいのか正直なところ不安で一杯ですが、静岡の蔵元さんが、初めて造った吟醸酒を受け入れてくれる取引先を一軒一軒開拓されていったことを思い浮かべながら、一冊一冊丁寧に手売りしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします!

 


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京王百貨店新宿店『静岡うまいもの大会』地酒プロモ報告

2023-02-23 14:13:20 | しずおか地酒研究会

 2月16日から21日まで京王百貨店新宿店で『静岡うまいもの大会』が開催されました。2017年から2021年まで西武百貨店池袋本店で開催した『静岡ごちそうマルシェ』から続く静岡県商工会連合会主催の食の物産展。昨年から京王新宿店に場所を移して2度目。通算6度にわたり、会場の一角で静岡県の地酒をプロモーション販売させていただきました。備忘録のつもりでレポートさせていただきます。

 

 今年の出品蔵元は『金明』(御殿場)、『白隠正宗』(沼津)、『富士錦』(富士宮)、『英君』(由比)、『萩錦』(静岡)、『杉錦』(藤枝)、『小夜衣』(菊川)、『花の舞』(浜松)の8銘柄。

 金明・萩錦・小夜衣は大会6度目にして初参加。地域密着の中小の食の担い手を大規模市場で紹介するという商工会の開催趣旨にのっとり、「静岡には(都内で知名度のある)開運・正雪・磯自慢以外にも素晴らしい酒がある」ことをアピールできればと思い、こちらの発注本数に対応可能と思われる蔵元にお声かけした次第。静岡酒ファンと思われるお客様から「マユミさんらしいセレクトですねえ」と評価?していただきました。

 ただし、京王の催事チラシでこの3銘柄を写真付きで紹介してもらったので、京王側から「欠品は許さず」という厳しいお達しがあり、他銘柄よりも1~2ケース多めの仕入れ。ショーケースを埋め尽くした瓶に最初はおののいてしまいました💦

 

 そんな不安は杞憂に終わり、萩錦は蔵元杜氏の萩原綾乃さんが仕込み期間中にもかかわらず19日(日)に来店してくださったこともあり、用意した生酛純米大吟醸720ml、「土地の詩」純米無濾過生原酒720mlと1,8lは見事完売!

 小夜衣は蔵元の来店なしにもかかわらず、純米ワンカップ180ml、しぼりたて特別純米無濾過生原酒720ml、純米吟醸限定秘売品プレミアム720ml、2003BY古酒浪漫720mlが完売。とりわけ、何の能書きも付けていない秘売品プレミアムと20年熟成古酒が、試飲もなしで完売するとは予想できず、売れ残ったら自分で買おうと思っていたのでビックリ大感激!。もちろんセールストークに力は入れましたが、期間中、秘売品プレミアムを買ったお客様が「美味しかったから」と再来店して2本目を買ってくださり、これは完全にファンになってくれたな!と手応えがありました。際だって個性的な酒は、大きなマーケットになればなるほど強いんだなあとしみじみ・・・。

 金明は御殿場以外では県内地酒専門店以外、販売チャネルがほとんどなく、蔵元来店なし、ラベルに酒米や酒質データの表記もなしで、セールストークに苦戦しましたが、それでも私がぜひ出品してほしいと蔵元根上さんにお願いした特別純米「富士自慢」720mlが完売。初日に来店してくださった杉錦蔵元杜氏の杉井均乃介さんが、根上さんに電話し「この酒の特徴は何て説明したらいい?」と聞くというファインプレーもあり、代表銘柄の金明純米酒720mlも30本近く売れました。

 

 今回新たに日本酒バーを開設し、一升瓶のない金明を除いた7銘柄に加え、京王側からのたっての希望により『磯自慢』(焼津)、『初亀』(藤枝)を特別出品。併せて9銘柄をシャッフルして3グラスセット(880円)にし、これを6セット用意しました。1グラスあたり80cc近く注ぎましたので、かなりお得な試飲セットになったと思います。

 京王側から「日本酒バーで提供する酒は瓶売り不可」と言われ、せっかく試飲して美味しいと思ったのになぜ買えないの?とお客様から度々詰問され、(本来、特約専門店以外取扱いのない磯自慢や初亀が瓶売りできないのはやむを得ないとしても)なんとも歯がゆい思いをしましたが、それでも自信を持って揃えた銘柄をリーズナブルにお試しいただき、隣接する回転寿司コーナーと連携し握り寿司や刺身を自由にオーダーできる手頃なスタイルが奏功し、10時開店と同時に駆け込んでこられるお客様もいて大好評でした。

 

 8銘柄の中で今回の売上ナンバーワンは富士錦さんでした。というのも、この催事に併せ、新商品の純米大吟醸「天地星空(あまちほしぞら)」(720ml  9900円)をテスト販売し、これが見事完売したのが第一の功績です。

 このお酒はJR新富士駅等でドラッグストアを経営する近藤薬局の近藤弘人さんが、世界にアピールできる富士の特産品を創ろうと、富士市商工会の支援を受けて企画したもの。富士山の恵みの象徴である日本酒と、製紙のまち富士の新技術セルロースナノファイバー製の特殊パッケージをコラボさせ、富士山の魅力や環境意識、そしてSDGsへの関心が高い海外へ販路を広げる目的で、富士錦酒造と共同開発しました。

 私は商工会の派遣アドバイザーとしてこの企画に参画し、商品設計のお手伝いをし、今回の催事でテスト販売ができるよう関係者の協力を仰ぎました。植物由来の次世代素材セルロースナノファイバー(CNF)については、7~8年ぐらい前からニュービジネス協議会の活動で何度も話を聞いており、どのように実用化されるのか楽しみでしたが、まさか身近な地酒でカタチになるとは思わなかったので、感慨ひとしおです。

 今回は初お目見えということで、購入者は近藤さんの知人がほとんどでしたが、最後の1本はフリーの男性客が「自分で飲みたいから」とスマートにご購入。1万円の酒が、見た目だけで、しかも贈答用ではなく自家消費用で売れたという事実に熱くなってしまいました…!

 富士錦さんからはこのほか、純米原酒缶、特別純米誉富士、純米吟醸、純米大吟醸雄町を出品していただき、雄町が1本残っただけで他はすべて完売。過去最高の売れ行きだったと思います。

 

 ほかに印象に残ったお酒としては、杉錦の純米菩提酛は16日初日、杉井さんが来店したときに完売、生酛純米も翌日完売。追加発注をかけ、それでも最後残り各3本まで売れました。菩提酛と生酛が並んでいれば、伝統酒ファンなら見逃さないでしょうし、日本酒初心者にも「自然で伝統的な造り」という説明が琴線に触れるんだなあと実感しました。

 英君は純米吟醸生酒300ml、特別純米誉富士720mlと紫の英君720mlが完売。紫は1,8lも残1本まで売れました。300mlの純吟生は、高齢男性がやはり会期中、「飲んで美味しかったから」と再び買いに来てくれました。こういうお客様を惹き付ける英君さんの造りの確かさには本当に感服します。

 白隠正宗は白隠禅師筆の達磨画でおなじみ特別純米が300mlと720mlともに完売。純米大吟醸(私が一番好きな朝鮮通信使馬上才を描いた白隠筆ラベル)は価格(4675円)で苦戦したものの、富士錦の天地星空のようなスペシャルなパッケージにしたらどうだろうと妄想が膨らみました。日本酒バーで出された純米吟醸(緑の達磨画)は「瓶売りしてくれないの?」というお客様が何人かいて悔しい思いをしました。

 花の舞は今回初出品の純米吟醸「徳川家康」、純米吟醸原酒「春のしずく」が完売。ワイン酵母で仕込んだ人気の低アルコール酒「アビス」は720mlのみだったので、300mlが欲しいというお客様を何人か逃してしまい反省反省。

 初日16日朝の売り場

 最終日21日朝の売り場

 

 6年続けていても、毎年、売れる商品・売れ残る商品は変わるので、発注予測を立てるのは本当に難しい。それでも、昨年のリピーター客、期間中のリピーター客の存在は何よりの励みでしたし、首都圏ではほとんど出回っていない静岡の地元密着の銘柄に、試飲もしないで触手されるお客様の存在は、日本酒業界にとって宝物だと実感しました。

 2年連続でパートナー役を務めてくれた派遣マネキンの宮田さんが、蔵元や私の話をメモに取り、セールストークを完璧にこなす極めて優秀な販売員さんだったことも宝物でした。

 取材して書くだけ、同志だけの酒の集まりでは気付かない静岡酒の真の実力を、大きなマーケットで体感できる催事。ご来店くださったお客様、この場に立たせてくださった関係者の皆さま、差し入れを持って駆けつけてくれた酒友の皆さんに、あらためて心より感謝申し上げます。


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日本の葬のヒストリー&フォークロア②

2022-09-19 10:56:01 | 歴史

 日本の葬式の歴史を振り返っています。日本で最初に火葬されたのは女性天皇だったんですね。

 

火葬で送られた最初の天皇は持統・元明姉妹

 日本は7世紀、大化の改新を経て律令体制時代を迎えます。

 古墳時代を象徴していた大規模墳陵による「厚葬」は、大化の薄葬令(はくそうれい=646年発布)によって一変します。薄葬令とは、中国の儒教的徳治主義に倣い、葬送に莫大な財と労力を費やし民衆に過度な負担をかけてはならないというもので、墳陵は小型簡素化し、前方後円墳も造営されなくなりました。古墳時代の事実上の終焉です。

 この時期に、大陸から伝わったのが仏教です。

 釈迦は80歳で亡くなる前、修行を成し遂げた者の遺体は火葬し、遺骨と遺灰を仏舎利塔(ストゥーパ)に納め、花輪と香料を捧げて礼拝するよう言い残しました。

 ストゥーパは後に中国で「卒塔婆」の当て字が付き、日本で後に塔婆供養の習慣へと根付いていくのですが、当時、仏教を伝えた僧侶や、仏教を受け入れた天皇家、有力豪族など一部の支配階級は、火葬を積極的に導入しました。

 

 文献上、日本で最初に火葬されたのは文武4(700)年に仏僧の道昭、天皇家では大宝3(705)年に持統天皇だったとされ、持統天皇は「葬送はつとめて倹約せよ」と遺詔しています。その妹で、後に聖武天皇の祖母となる元明天皇は、さらに「人々に負担をかけぬよう、死後は山に簡単な竈を造って火葬し、そこに常葉の樹を植え、碑を建ててくれればよい」と厳命しました。日本の皇族で最初に火葬と葬儀のシンプル化=薄葬を選んだのが2人の女性天皇だったというのは興味深い史実です。

 

 行基が聖武天皇から大仏建立の指揮を命じられた8世紀半ば、日本は天然痘と思われる感染症パンデミックや天平大地震によって多くの人命を失い、行基は火葬や供養に奔走しました。

 平安時代の承和7(840)年に崩御した淳和天皇は、亡くなる前に「人は亡くなると精魂は天に還るが墓を造るとそこに鬼物が憑き、祟りをなす。したがって火葬し遺骨は砕いて山中にまき散らせ」と強烈な遺詔を発し、承和9(842)年に崩御した先代の嵯峨天皇も葬儀の俗事をことごとく廃止しました。この頃に薄葬のスタイルが定着したようです。

 火葬は当時、専用の施設がなく、その都度、火葬場を造営していたため、火葬で荼毘に付すことができたのは財力のある支配階級に限られていました。

 行基のような僧侶の手で火葬された庶民の被葬者はごく一部。大地震、感染症、飢餓等で大量の死者が出た場合、その多くは川や山中に遺棄されていたことが、『御伽草子』や『今昔物語』で描かれています。

 

浄土教の教え、禅宗の作法が〈葬儀〉を創り出した

 10世紀になり、葬儀スタイルは大きな変化を遂げます。

 当時、仏教寺院の多くは官制であり、僧侶も官の立場で国家の行事に従事していました。そのため、仏教の教義を都合良く解釈し、貴族の言いなりに呪詛や祈祷に力を入れるなど、いわば“貴族仏教化”に傾いていました。

 これに反発し、庶民の救済を志して国の許可を得ずに得度する私得僧や、大寺院に属さない名僧=聖(ひじり)が民間に入って伝道活動を始めます。「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも極楽往生できるという浄土教の教えを広めた空也上人、『往生要集』を著した恵心僧都源信、『日本往生娯楽記』を著した慶滋保胤等が、念仏による葬送と追善供養を広めました。葬儀は、仏教の教えを庶民に浸透させる有効な機会となったのです。

 12世紀初め、中国では禅の修行僧の日々の行法や規律をまとめた『禅苑清規』が編纂され、留学経験のある栄西禅師や道元禅師がこれをベースに日本に合った生活規範を構築します。この中に、今に伝わる茶道のしきたりや、仏教葬儀の原型がありました。

 禅苑清規に示された葬儀作法には、亡くなった僧侶とその弟子に弔意を示す〈尊宿喪儀法〉と、修行半ばで亡くなった僧を供養する〈亡僧喪儀法〉の2つあり、後者は、死者となった修行僧に読経し悟らせ、剃髪して戒名を授け、引導を渡して成仏させる没後作僧(もつごさそう)という作法に倣ったもの。後に浄土教や密教の念仏・往生祈願が融合発展し、在家の葬法=壇信徒喪儀法として確立しました。

 記録に残る貴族や武士の葬儀次第によると、

枕直し(北枕)→灯火→香焚き(消臭)→納棺→喪服(当日あつらえた素服)→出棺→葬列→葬儀所前で僧侶の儀礼→火葬→翌日拾骨、首骨から順に一人ひとり箸で挟んで順に送る

とあり、現在に近い葬送儀礼がすでに確立していたことがうかがえます。やがて、禅宗以外の宗派も、この喪儀法を導入していきました。

 

 

檀家制度の光と影

 仏教様式による葬送儀礼=葬式仏教は、17世紀の江戸時代に法制化されました。

 徳川幕府は各宗派の本山に末寺を管理させる本末制度を敷いて、寺院を幕藩体制に組み入れます。誰もがいずれかの寺の檀家となる寺請制度、必ずその寺で葬式をすることを義務付ける寺檀制度を確立。敷地内に火屋(火葬炉)を持つ寺も増えました。結果として、寺は住民の戸籍を管理する役所の機能を果たすことになり、地域社会の要と位置づけられました。

 明治維新後、政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動によって仏教寺院を取り巻く環境は一変します。明治政府は1971年、戸籍法を改正し、檀家制度は法的根拠を失います。1873年には、仏教の葬法であるという理由から火葬禁止令が発布。しかし影響の大きさから、2年後、火葬場と墓地を離すこと、市街地から距離を置き煙突を高くすること等を条件に、禁止令は撤廃されました。

 

 1897年の伝染病予防法制定を機に、自治体が火葬場の改修と新設を推進し始めると、火葬は徐々に増え、1900年の火葬率は29・2%、1909年には34・8%、1940年には過半数の55・7%に達しました。1980年には9割を超え(91・1%)、 現在は99・9%です。

 1898年に施行された民法は家制度を基調としたことから、火葬と家墓(イエハカ)がセットで普及し、寺院の檀家制度の下支えともなります。しかし1930年から始まった日中戦争とそれに続く太平洋戦争によって、寺院は再び苦境の時代を迎えます。

 1947年の民法改正で、家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続等における女性の地位向上等が改正され、家制度は事実上、憲法の人権規定が適用されない皇室のみに残ることとなり、檀家制度の大きな分岐点ともなりました。

 戦後の農地解放によって、寺院が保有していた小作地は取り上げられ、檀家総代として寺院を経済的に支えていた地主層も力を失います。寺院では兼職や保育施設の経営等で収入確保に努めますが、現在は人口減少という不可抗力によって檀家の減少を食い止めることはできなくなっています。

「寺は高い戒名料を取って儲けている」という声を聞くことがありますが、ひとつは、戦時中、軍部が仏教界へ戦死者に院号を授与するよう働きかけていたことを起因に、戒名料が一つの財政基盤となったと考えられます。院号は戦後、多額の布施をした檀家に授けるものとなり、高度経済成長期やバブル時代は一種のステイタスともなりましたが、そのニーズも今は薄れつつあるようです。

 現在、日本の葬儀と埋葬は、葬祭専業者を中心に成り立っており、時代の潮流とともに多種多様な形式・サービスを生み出しています。

 

〈参考文献〉

日本人の葬儀/新谷尚紀著 紀伊國屋書店 1992年

葬と供養/五来重著 東方出版(新装版)2013年

お墓の教科書/一般社団法人日本石材産業協会編・発行 2014年

捨てられる宗教/島田裕巳著 SBクリエイティブ 2020年

生物はなぜ死ぬのか/小林武彦著 講談社現代新書 2021年


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日本の葬のヒストリー&フォークロア①

2022-09-13 20:42:11 | 歴史

『静岡県の終活と葬儀』草稿のつづき。ここからは葬にまつわる日本の民俗史を紐解いていきます。もうすぐお彼岸。ご先祖に手を合わせる機会も多いと思います。日本人が〈弔う〉という行為をどのように育んでいったのか、ざっくり検証してみました。

 

先史時代の埋葬行為

 人は、いつから〈葬〉という行為を始めたのでしょうか。

 世界有数の紛争地帯である北イラクに、約7万年前のネアンデルタール人が眠るシャニダール遺跡があります。米コロンビア大学の発掘調査が行われた1959~1961年当時、この場所では咲かないはずのキンポウゲやタチアオイの花粉が発見され、ネズミなどの齧歯類が運んだ可能性があるものの、「死者を葬る時、花を供えた世界最古の痕跡」と考古学会を湧かせました。

 英ケンブリッジ大学による2014~2019年の再調査では、中年男性の頭蓋骨から腰骨までの骨格がほぼ完全な姿で発掘されました。頭のそばには遺体の場所を示すかのように石が置かれ、あきらかに第三者による埋葬行為が行われたことが判明しました。人類史ではホモ・エレクタス(原人)とクロマニヨン(新人)の間に位置する「旧人」として、猿人に近いイメージを持たれていたネアンデルタール人が、死者を尊び悼むという精神活動を行っていたのです。

 日本列島は、人骨が土中で融解しやすい酸性の土壌であるため、住居跡や土坑、出土品等から類推するしかありませんが、1983年、北海道知内町の湯の里4遺跡で旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土坑が発見され、コハクや石製の小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土しました。土坑の底には赤い土が敷かれており、当時から墓の内部や死者の身体を着色するという風習が存在していたことが分かります。

 狩猟中心の旧石器~縄文時代(約2500年前まで)、日本人の寿命は13~15歳、全人口は10万~30万人程度と推定されます。庶民の埋葬は、腕を曲げ、膝を折って土坑に埋める屈埋型が一般的で、遺体の上に石を置いて埋葬する「抱石葬」もありました。

 弥生時代(紀元前400~後300年)に大陸から稲作の技術が入ると定住型の生活になり、平均寿命は20歳、人口も60万人へと急増しました。この時代の遺跡からも土坑墓が多く見られることから、土葬が一般的と考えられますが、山麓や海岸の洞窟に遺体を安置し、自然に還す「風葬」や「水葬」も行われたようです。

 弥生時代には石柱を立てて埋葬した「支石墓」、遺体を納める「甕棺(かめかん)」、墓の周辺に溝をめぐらす「方形周溝墓」も登場します。稲作をベースとした生活集団が大きくなり、指導的な人物を中心に社会が組織化されると、権威を象徴する古墳が造られ、手厚く葬る「厚葬」が行われるようになったのです。

 そして6世紀の仏教伝来を契機に、火葬の概念が広がります。

 

死者の家を造り、寄り添った古代日本人

 火葬が入ってくる前の古代日本の土葬では、死者を室内または庭に殯(もがり)と呼ばれる喪屋を設けて2~3年安置し、風化させた後、埋葬しました。

  殯の最中には、遊部(あそびべ)と呼ばれる人々が魂を鎮めるため、祈りや踊りを捧げました。五来重氏著『葬と供養』によると、日本人は、人間の霊魂は肉体を持っているときは現世だけに接続し、死をきっかけに前世と来世を含めた3世代に接続できると考えていました。「葬」は死霊になったときの儀礼、「供養」は祖霊の中に帰入したときの儀礼、祖霊として一定期間を経たら神に昇華する、その儀礼が「祭祀」であると。

  死霊になったばかりの霊魂は、現世に思いを遺し、災いや祟りをおこす〈荒ぶる〉〈すさぶ〉存在であるから、遊部の鎮魂が必要であり、「天岩戸開きの天鈿女命の神楽も、天皇家の始祖がお隠れになったときの殯の鎮魂歌舞であり、お神楽とは鎮魂を目的としたものとして、葬制と日本芸能史を関連付けて研究すべし」と五来氏。遊部の人々の一部は殯の風習が廃れた後、奈良大仏の建立を指揮した名僧・行基の聖集団に加わったといわれ、殯で使われていた棺台、花籠、天蓋などは今も葬具として残っています。

 

  仏教宗派の中で唯一、禅宗の葬具にはなぜか鍬(くわ)があり、葬儀のクライマックスで導師が一喝して木製の鍬を投げつけるという摩訶不思議な儀式を行います。

 五来氏によると、古墳時代は鉤(かぎ)形の小枝を「お鍬様」と呼んで使い、古墳の副葬品には鍬のかたちの腕輪も出土しているため、鍬は鎮魂の葬具だったと想像できます。

 鍬のかたちをした鉤状の枝は、民俗学的にみると、山の神を手向(=鎮魂)する目的で峠に祀ったとも考えられます。そもそも、峠(たうげ)とは手向け(たむけ)の場という意味を持ち、祟りをおこしやすい荒々しい霊に対し、鍬形の枝を向けて鎮魂する。この原始的な風習が、禅宗の中に残ったようです。

 死霊への恐懼を解消するためであったとしても、私たちの祖先は死者を忌み避けず、生者と同じように向き合い、風化の時を共にしてきました。その経験は、かたちを変え、後年、通夜振る舞いや葬具の作法に伝承されました。


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