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三国干渉の「たられば」 日本史授業に役立つ小話・小技 51

2024-07-12 06:57:48 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

51三国干渉の「たられば」
 「たられば」とは、「もし…していたら、もし…していれば」と言うように、事実とは異なることを仮定してする想像したり後悔したりすることを意味しています。歴史的事象で、「もしあの時、・・・・していたら、今頃どうなっていただろう」と考えることは意味がないと言われるかもしれませんが、批判を承知で考えてみました。
 下関講和条約が調印されたのは、明治二八年(1895)四月十七日のことでした。日本全権は首相の伊藤博文と外相の陸奥宗光です。そして四月二十日には広島にあった大本営において明治天皇の裁可を得ました。ところが四月二三日、東京駐在のロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国の三国の公使が外務省を訪れ、舞子(現神戸市)で病気療養中の陸奥宗光外相に代わり、林董(はやしただす)外務次官に対し、遼東還付を勧告する覚書を手渡します。
 これに対して四月二四日、広島における御前会議において、①勧告拒絶、②列国会議招請、③勧告受諾の三案が検討されました。最終的には③の勧告受諾となることは授業で学習しますから、①②案であったらどの様になったと考えられるでしょうか。
 まず①についてですが、その頃ロシアの極東艦隊は、命令さえ下れば翌日には出撃し、ただちに日本沿岸を砲撃できる臨戦態勢にありました。そのあたりのことを、陸奥宗光は回想録『蹇蹇録』に次の様に書いています。「就中(なかんずく)、露国政府は、既(すで)に此(この)方面の諸港に碇泊(ていはく)する同国艦隊に対して、二十四時間に何時(いつ)にても出帆し得べき準備を為(な)し置くべき旨(むね)、内命を下せりとの一事は、頗(すこぶ)る其(その)実(じつ)あるが如し」。日清戦争直後のことですから、日本近海にロシア艦隊に対抗できる海軍戦力は、全て出払っていて皆無です。ウラジオストークからは一日二日の距離ですから、日本に勝ち目は全くありません。ですからもし遼東半島還付の勧告を拒否し、ロシア極東艦隊が出撃すれば、日本は降伏するほかはありません。もしそうなれば清国は下関条約の批准を拒否するのは必然ですから、日清戦争の勝利は一瞬にして無に帰することになったでしょう。
 それならば②ならばどうでしょう。その辺りのことを陸奥宗光は次の様に説明しています。「もし列国会議を開催するなら、露・独・仏国の他に、二三の大国を加えないわけにはいかない。しかしそもそも列国が参加するという保証はないし、開催するとしても時間がかかる。会議では遼東半島問題以外にも話が波及する可能性があり、条約批准書交換期限は目前に迫っているのにこの様な講和とも戦争継続とも定まらない状態が続けば、せっかく調印した下関講和条約そのものが台無しになってしまう恐れがある」というのです。清国にとっては屈辱を挽回する絶好のチャンスですから、批准を拒否し、三国の力を背景に有利な状態であらためて講和会議開催を要求することは必然です。そうなれば①と同じく、日清戦争の勝利は一瞬にして無に帰することになったでしょう。結局は、日本政府は五月四日に京都で閣議を開き、正式に遼東半島の放棄を決定します。そして伊藤首相が直ちに参内(さんだい)して明治天皇の裁可を受け、翌五日には三国の駐在日本公使に通告。懸案の批准書が交換されたのは五月八日のことでした。まさに手に汗握る綱渡りだったのです。