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昔の端午の節供ではどんなことをしていたの?

2022-05-01 19:15:04 | 年中行事・節気・暦
昔の端午の節供ではどんなことをしていたの?
 現代のこどもの日には、武者人形を飾る程度の男児の節供らしいことはありますが、法律の文言では男児・女児の区別は一切ありません。しかし江戸時代には、上巳(じょうし)の節供が女児の節供であるのに対して、端午の節供は男児の節供とされていました。端午の節供には菖蒲の葉を飾るので、「菖蒲の節供」とも呼ばれます。年中行事の解説書には、「武士の時代になると、菖蒲(しようぶ)という言葉の音が尚武(しようぶ)(武をとうとぶ)や勝負(しようぶ)に通じ、菖蒲の葉が刀の形に似ているので、端午の節供を祝うことが武士の間で奨励されるようになり、逞(たくま)しい男の子に成長することを祈念する節供に変化した」と説明されています。
 「武士の時代になると」といえば、鎌倉時代からと理解できますが、古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と読むのであって、「しょうぶ」と読むのは明治時代以後のことです。また鎌倉幕府の日誌風歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、それらしき記事があってもよさそうなものですのに、全く見当たりません。『吾妻鏡』の五月の記述を全て調べましたが、鶴岡八幡宮で端午節の神事があること、将軍がたまに参詣する年もあること、幕府の建物の軒に菖蒲を葺くこと、幕府で和歌の会が開かれること、将軍(頼経)が菖蒲枕を調進したことなどの記述がある程度で、「尚武」を表す武家らしいことは何一つ見出せません。
 それでも端午の節供にも、古くから武家らしいことが全くなかつたわけではありません。8世紀の初めには、五月五日に天皇が競馬を見る行事がありました。その後しばらくは途切れますが、平安時代には盛んにおこなわれていました。この行事は現在では毎年京都の上賀茂神社で行われています。また平安時代から江戸時代の前期にかけて、印地打(いんぢうち)という石合戦が行われることがありました。しかし当たり所が悪ければ死に至る危険な遊びであったため、しばしば禁止令が出されています。さすがに朝廷の行事ではありませんが、これも端午の節供の勇壮な要素の一つでしょう。桃山時代の京都市中を画いた洛中洛外図屏風(上杉本)には、模擬の刀や長刀を振り回し、菖蒲合戦に興ずる若者達が画かれています。江戸時代初期の『日次紀事』(1676)には、京の賀茂川の河原で少年達が印地打をすると記されています。
 このように江戸時代になる前に、すでに端午の節供は勇壮な性格を強めていましたが、1616年に江戸幕府が幕府の節日として「五節句」を定めると、これが端午の節供がさらに「男児の節供」となることのきっかけとなりました。五日には諸大名は節供にふさわしい御祝儀や粽を将軍に献上するのですが、菖蒲・粽などの他にいかにも武家らしい幟(のぼり)・武具などが献上されました。そして将軍の若君が生まれた年には、ことさらに盛大に祝われました。
 このような風習は旗本や御家人や諸藩士など江戸在住の武士の風習として模倣され、さらには庶民にも影響します。『東都歳時記』(1838年)には、「四月二十五日から五月四日まで冑市が立ち、冑人形・菖蒲太刀・幟(のぼり)や節供用の飾り武具を商うこと。江戸では武家から町人に至るまで幟や武者人形を飾り、男児の出世を祈念して紙製の鯉幟を飾ること。また初めて生まれた男児があれば、初節供として特別に祝う」と記されています。
 『長崎歳時記』(1798年)には、「家々の軒先には菖蒲と蓬を葺き並べ、家紋を染め出した大きな布の幟を立て、冑や槍や青竜刀や造り物を飾る。裕福な家では紙の幟を五百から千枚も立てる。また吹き流しや鯉の風車を作って竹竿の先に結い付ける。幟には鈴を付けるので、風になびいて勇ましい音がする」と記されています。長崎の上巳の節供は大変に賑やかなものでしたが、端午の節供はそれ以上に勇ましいものだったようです。長崎は中国との貿易が行われていましたから、中国風の「青竜刀」が飾られたのは長崎ならではのことでしょう。

 一般には菖蒲が勝負・尚武と同音であることから、武士の武士の祭であり、鎌倉時代になると男児の節供となったと説明されることが多いのですが、それを証明する文献史料は確認できません。男児の節供の原形が出来たのは、江戸時代になってからなのです。




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