「七歳までは神の子」ってどういう意味なの?
七五三では七歳でお祝いをする理由として、よく「七歳までは神の子」とか「七歳までは神のうち」と言われていたと説かれています。そして、「七歳前の子はまだ神からの預かり物であった」、「七歳前の子は霊魂が不安定であって、いつ神の世界に引き戻されるかわからない存在であった」とか、「七歳になって初めて人として一人前扱いされ、七歳になると氏子として氏神に認められた」などと説明され、さらにこのような理解があったのは、幼児の死亡率が高かったことが背景となっていたと説明されるのです。死亡率が高かったことは事実であり、無事に七歳まで成長したことは、人間世界の子供として認められることで、実におめでたいことであるので、七五三のお祝いをしたということなのでしょう。
このような「七歳前は神の子」説は、民俗学者の柳田国男が大正三年(1914年)の「神に代りて来る」という論文(『柳田国男全集』22巻所収)や昭和20年の「先祖の話」(『柳田国男全集』13巻所収)で説き初めたことです。しかし彼は具体的な事例や根拠を一つも示していません。その後何人かの民俗学者によって、「七歳前の幼児が神様への供物を欲しがったら、仕方がないからくれてやる」とか、「大人なら神様に対して不敬になるやうなことでも、七歳前の幼児なら不敬にならない」という数行の報告が公にされたことはありました。そして現在ではこの説は広く既成事実化し、七五三の解説書には必ずと言ってよいほどに触れられているのです。
歴史的には、七歳が特別な意味を持っていたことは事実です。奈良時代には七歳以下の子は犯罪を犯しても処罰されず、七歳以下の子が死んだ場合、親が喪に服する義務がないという法律(養老律)がありました。このような七歳前の子に対する特別扱いは、その後も江戸時代まで途切れることなく受け継がれ、広く庶民生活で行われていました。江戸幕府は享元年(1684)に「服忌令(ぶつきれい)」という法令を出し、七歳未満の幼児が死亡した場合は、親は喪に服する必要はなく、親が死亡した場合は、幼児は喪に服する必要はないとと定めています。また貝原益軒という儒学者は『和俗童子訓』(1710年)という書物において、「七歳前はまだ幼いので、就寝・起床・食事の時間厳格に定めず、自由にさせるべきである。八歳からは定めや礼法に従うことを教えるべきである」と説いています。このように七歳以下、或いは七歳未満の幼児がある種の特別扱いを受けることは、普通に見られることだったのです。明治時代になっても、江戸幕府の発令した服忌令は、明治政府の布告(明治七年十月十七日の太政官布告第一〇八号)によりそのまま採用され、七歳までの幼児が特別扱いされる風習が民間で続いていたのです。
そういうわけで、七歳前の幼児を特別扱いする生活習慣は、日本全国で普通に行われていました。「七歳前は神の子」という言葉は、いかにも諺のように聞こえますが、柳田国男の説を継承した民俗学者が、
七歳前の幼児を特別扱いする古来の生活習慣を、そのように言い表しただけなのです。しかし現在ではそのような言い伝えがあったとか、諺があったという説が広く共有され、あたかも歴史事実のように独り歩きしてしまっているのは、実に困ったことです。百歩譲ってそのような理解や諺があったとしたら、「七歳前は神の子」という表現を含んだ歴史的文献がなぜ全く残されていないのでしょう。そもそも七歳の祝いは女児のみですから、七歳の男児はどの様に理解されるのでしょう。また五歳と三歳で区切る説明にもなっていません。
奇数の年齢で祝うことについて、江戸時代の子供用年中行事解説書である『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)には、「子供が生まれて奇数の年齢なると、奇数は縁起のよい陽の数であるから、健康に育ち、将来はめでたいことになる様に祝うのである。それゆえに三歳・五歳・七歳・九歳・一三歳の奇数の年にに祝うのである」(小供生れて半の歳に当れば、陽の数ゆゑ、陽を迎へて息災に育ち、行末のめでたからんを祝ふなり。ゆゑに三ツ五ツ七ツ九ツ十三、いづれも半の数を用ゆ)とはっきりと記されています。
そういうわけで、「七歳前は神の子」という理解があったことは歴史事実ではありません。ただし古くは七歳からは特別扱いされることなく、厳しくしつけられたりしたことは歴史事実です。昔の七歳は満年齢に直せば六歳くらいですから、「小学生になったら、礼儀作法もきちんとしなければいけませんよ」と考えればよいのでしょう。
七五三では七歳でお祝いをする理由として、よく「七歳までは神の子」とか「七歳までは神のうち」と言われていたと説かれています。そして、「七歳前の子はまだ神からの預かり物であった」、「七歳前の子は霊魂が不安定であって、いつ神の世界に引き戻されるかわからない存在であった」とか、「七歳になって初めて人として一人前扱いされ、七歳になると氏子として氏神に認められた」などと説明され、さらにこのような理解があったのは、幼児の死亡率が高かったことが背景となっていたと説明されるのです。死亡率が高かったことは事実であり、無事に七歳まで成長したことは、人間世界の子供として認められることで、実におめでたいことであるので、七五三のお祝いをしたということなのでしょう。
このような「七歳前は神の子」説は、民俗学者の柳田国男が大正三年(1914年)の「神に代りて来る」という論文(『柳田国男全集』22巻所収)や昭和20年の「先祖の話」(『柳田国男全集』13巻所収)で説き初めたことです。しかし彼は具体的な事例や根拠を一つも示していません。その後何人かの民俗学者によって、「七歳前の幼児が神様への供物を欲しがったら、仕方がないからくれてやる」とか、「大人なら神様に対して不敬になるやうなことでも、七歳前の幼児なら不敬にならない」という数行の報告が公にされたことはありました。そして現在ではこの説は広く既成事実化し、七五三の解説書には必ずと言ってよいほどに触れられているのです。
歴史的には、七歳が特別な意味を持っていたことは事実です。奈良時代には七歳以下の子は犯罪を犯しても処罰されず、七歳以下の子が死んだ場合、親が喪に服する義務がないという法律(養老律)がありました。このような七歳前の子に対する特別扱いは、その後も江戸時代まで途切れることなく受け継がれ、広く庶民生活で行われていました。江戸幕府は享元年(1684)に「服忌令(ぶつきれい)」という法令を出し、七歳未満の幼児が死亡した場合は、親は喪に服する必要はなく、親が死亡した場合は、幼児は喪に服する必要はないとと定めています。また貝原益軒という儒学者は『和俗童子訓』(1710年)という書物において、「七歳前はまだ幼いので、就寝・起床・食事の時間厳格に定めず、自由にさせるべきである。八歳からは定めや礼法に従うことを教えるべきである」と説いています。このように七歳以下、或いは七歳未満の幼児がある種の特別扱いを受けることは、普通に見られることだったのです。明治時代になっても、江戸幕府の発令した服忌令は、明治政府の布告(明治七年十月十七日の太政官布告第一〇八号)によりそのまま採用され、七歳までの幼児が特別扱いされる風習が民間で続いていたのです。
そういうわけで、七歳前の幼児を特別扱いする生活習慣は、日本全国で普通に行われていました。「七歳前は神の子」という言葉は、いかにも諺のように聞こえますが、柳田国男の説を継承した民俗学者が、
七歳前の幼児を特別扱いする古来の生活習慣を、そのように言い表しただけなのです。しかし現在ではそのような言い伝えがあったとか、諺があったという説が広く共有され、あたかも歴史事実のように独り歩きしてしまっているのは、実に困ったことです。百歩譲ってそのような理解や諺があったとしたら、「七歳前は神の子」という表現を含んだ歴史的文献がなぜ全く残されていないのでしょう。そもそも七歳の祝いは女児のみですから、七歳の男児はどの様に理解されるのでしょう。また五歳と三歳で区切る説明にもなっていません。
奇数の年齢で祝うことについて、江戸時代の子供用年中行事解説書である『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)には、「子供が生まれて奇数の年齢なると、奇数は縁起のよい陽の数であるから、健康に育ち、将来はめでたいことになる様に祝うのである。それゆえに三歳・五歳・七歳・九歳・一三歳の奇数の年にに祝うのである」(小供生れて半の歳に当れば、陽の数ゆゑ、陽を迎へて息災に育ち、行末のめでたからんを祝ふなり。ゆゑに三ツ五ツ七ツ九ツ十三、いづれも半の数を用ゆ)とはっきりと記されています。
そういうわけで、「七歳前は神の子」という理解があったことは歴史事実ではありません。ただし古くは七歳からは特別扱いされることなく、厳しくしつけられたりしたことは歴史事実です。昔の七歳は満年齢に直せば六歳くらいですから、「小学生になったら、礼儀作法もきちんとしなければいけませんよ」と考えればよいのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます