私の大好き

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被爆地広島で思ったこと

2011年10月08日 07時57分08秒 | 思うこと
父は、爆心地である相生橋を8時15分の30分前に通過し、軍事工場で働いていました。
命は助かりましたが、家に戻ったのは夕方と聞いています。

市内を通って帰ることができず、あふれかえる被爆者の方々を前にすぐに家に向かうこともできませんでした。
いろいろな作業を手伝っていたら、船で市内を通らないで帰れるように送ってもらえたそうです。

まだ小さかった叔父は、家の前に座っていて遠くから歩いてくる人の姿が、「兄貴に似ているな」と思ったのをよく覚えているそうです。
父が死んだのではないかと思っていた祖母は、喜びのあまり半狂乱だったといいます。
叔母は、盲腸の手術を受けたばかりで学校を休んでいて助かりました。
実は、医者にはもう学校に行っていいと言われていたのですが、父の陸軍士官学校の合否通知が届くので、家にいてほしいと頼まれていたのです。
祖母は助産婦として働いていたので、家にいませんでした。
(その祖母は、道の向こう側にいた人に挨拶をしていた時に原爆が落ち、気付いたら爆風でその人が飛ばされて近くにいたと子どもの頃聞きました。)

そして、叔母はその合格通知を受け取っていました。
原爆で混乱を極めている中、陸軍士官学校に行くべき日が迫っていて、父は爆心地のすぐ近くに行って、どうすればいいかを尋ねたそうです。
「おって沙汰を待て。」と言われ、そのまま終戦です。

再び爆心地に行ったことが原因かどうか分かりませんが、その1ヶ月後父は片目を失明します。「ものもらい」が悪化したそうですが、当時「ものもらい」で病院にかかれるような状況にはなかったそうです。失明するほど悪化するものもらいは、やはり原爆のせいだと思います。


いろいろなことが重なって、結果として父の家族は助かっているわけですが、これを「運命」というのか。



                           




三女が、生後5ヶ月のときに「川崎病」にかかりました。
動揺する私に医者である兄が、病気について教えてくれました。

「以前は、この病気にかかった100人に一人が突然死した。今は治療法が確立しているから1000人に一人に減った。でもそれは、999か1という問題ではない。もし自分の子がその一人になったら、999人は大丈夫ということは関係がない。だから、突然死の可能性は100か0だ。」

月齢の低い子の場合重篤になる可能性が高いということも含めて、こういう言い方になったのかもしれません。

むごい言い方のようにも思えるけれど、私の中ではストンと落ちた気がしたのをよく覚えています。決して安心できる言い方ではないけれど、999人は大丈夫からきっと大丈夫だよ、と言われるよりも納得のいく答えでした。


(ちなみに三女は心臓に後遺症を残すこともなく、すくすく育ちました)



                          


              
自分では想像もできなかったことに突然見舞われると、それを「運命」と思うしかない。
運命には逆らえないし、自分にはどうしようもできない。
でも、自分で決定する小さな「100か0」を含めて、その繰り返しが運命を作り上げているのなら、少しは自分の運命に関与できることもあるかもしれない。

死んでしまったら、それで終わりかもしれないけれど、自分のやってきたことが後に続く人にとって「意味ある100」に繋がることだってあるかもしれない。


そう考えて、次の一歩を選択していくことが、腹をくくって運命を受け入れていくということなのかな。


被災して立ち上がれない人に、次の「100か0」を選び取り進んでいくべきだと言ってる訳じゃありません。そういう方たちが、次を選べる力を取り戻すことを願っているし、それを助けることが復興していくということなのではないかと思っています。


片目を失ったけれど命は助かった父は、終戦から20年以上たっても、被爆の後遺症に不安を抱きながら健康診断を受けていたのを子ども心に感じていました。


原発の事故で不安を抱えている人たちの苦しみを思うと本当に胸が痛みます。
今後のことは、「人体にはほとんど影響ない数値です。」なんて言われたところで、まさに「100か0」です。
その事実は、どうにも変えようがない。




広島で見たもの。


 爆心地のすぐ近く、広島大本営跡に植わっていたクロガネモチ。



今は、こんな姿です。

緑が豊かです


 でも、祈りは続いています。



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