私の大好き

原村大好き!その記録です。
仕事はきついけど、大好きでいたい!

好きな布団

2016年12月29日 07時27分29秒 | 思うこと
洋服箪笥の引き出しを整理しました。
すると、中からこんな物が…。



これは「好きな布団」です。

正確に言うと、肌掛け布団カバーの切れ端です。

もう32になる長女が小さい頃、スヌーピーのライナスよろしく、いつも布団を引きずっておりました。
でも、肌掛け布団は大きすぎるし、カバーだけにして、少しずつ少しずつ小さくして、最終的にはこの大きさになったのです。

そして、こういい聞かせていました。
「3才になったら、お月さまに飛んでいくんだよ」と。

家では肌身離さず、特に眠る時は必需品でした。
お泊まりで持っていくのを忘れた時は、「好きな布団~~」と泣かれて大変でした。

こんな状態なのに、お月さまに飛ばしたりして大丈夫なのか?
無理してやめさせなくても、大人になるまで持っているわけでもなし。
私の気持ちは揺れました。
なので、誕生日の前日の夜にこれを隠すことが出来なかったんです。

3才の誕生日の朝。
「好きな布団あるよ~~~~⁉」
台所にいた私に起きるなり長女が報告してきました。
あって嬉しいというより、不思議という表情でした。

衝撃を受けたのを覚えています。
私は、無くしてしまってしばらく泣かれたりしたら面倒だな、なんて思ってたんです。
でも、3才児には3才児なりの「覚悟」があったんです。
素直に「すごいなぁ」と、感心しました。

「きっと3才になった夜に飛んでいくんだね。」と答えて、その日の夜に引き出しの奥深くにしまいました。
次の日、長女は泣くこともなく事実を受け止めていました。

私はすごく憂鬱なことがあると、「腹をくくれ」と心の中で呟くことがあります。
このおまじないは、気持ちの整理にけっこう効果があります。
「覚悟する」ということは、大切なことですね。
それは覚悟すると結果が良いということではないのです。
良い結果も悪い結果も、ひっくるめて覚悟するってことです。

この「好きな布団」を久しぶりに見て、改めて思いました。

しかし、汚ない布団カバーの切れ端です。
処分することにしました。
家族のグループLINEに写真と合わせて処分する旨伝えました。
家族の反応は薄く、長女だって記憶になく、「はぁ…、どうぞ」ですよね😅

長女の思い出というより、私の思い出なんです。



生きている兵隊

2014年07月17日 20時34分12秒 | 思うこと
石川達三の 「生きている兵隊」を読み終わりました。

昭和13年、まだ日中戦争が始まって1年もたたない頃に書かれ、日の目を見ずに発禁となった本です。
戦後、改めて出版されています。

ずっと長い間、読みかけのまま通勤バックに入っていました。

忘れていた訳ではないのですが、なかなか開けずにいたのです。
(ラインゲームのツムツムに逃げてました…)

中央公論の従軍記者として南京に入り、取材して書かれています。

南京での戦いは壮絶で、いわゆる「虐殺」の歴史の舞台です。
その南京の情景を目の当たりにした衝撃を、取材という裏付けのもと書いてあります。

確かに虐殺はむごいですが、単に「日本人はなんて酷いことをしたんだ」という非難や、反戦を主張する本ではないところが、一層リアルに胸に迫ります。

「生きている兵隊」というタイトルにあるように、そこにいる兵隊の一人ひとりに焦点をあてて、その心理を探っています。
読み終えて、この「生きている兵隊」というタイトルが、心に響きます。

石川達三自身は、後年若気の至りと言っているそうですが、この本の執筆により裁判にかけられた時はこう述べています。

「国民は出征兵士を神様のように思い、我が軍が占領した土地にはたちまち楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確固たる態度を採らしむるために本当に必要と信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした。」

戦う兵士は生きている。
時に死を望んでいるが如くの心理状態に置かれながら、生きて戦っている。

その切なさや虚しさを感じることができる本です。
いま世界中で戦っている人々のこと、日本が進もうとしている道のことに思いが至ります。

石川達三って、筆力あると思うのね。
まだ二冊しか読んでないから、もう一冊読んでみることにしました。

読み終わってすぐ、電車の中でポチっと注文です。

ミュージカルの威力

2013年03月03日 12時35分11秒 | 思うこと
昨日、「レ・ミゼラブル」を見に行きました。

良かったです
長い映画ですが、引き込まれました。
泣きました




ミュージカルだから、ほぼ全編歌っています。
歌は、「独白」「感情の吐露」の部分が多くなります。
普通のお芝居では、なかなかこんなにストレートに表現できませんよね。
でも、歌という形態だとそれが不自然じゃない。


なおかつ、音楽であるということが、こちらの感情を高ぶらせていくんですよね。

ミュージカルの威力すごいな。

そして、映像としてのダイナミックさもプラスされています。




小学校高学年の頃だったと思います。
「あぁ、無情」というタイトルだった「レ・ミゼラブル」を読みました。
もちろん、子供向けに書かれた本です。
覚えているんですよね。
自分が読んでる光景とか、ゆすぶられた感情とか、ジャンバルジャンの名前とか。



40年ほど経って、また私の感情をゆすぶっているわけです。



もう1回見てもいいな。大きいスクリーンで。


どうしても克服できないこと

2012年09月14日 05時37分36秒 | 思うこと
決定的に「数」が苦手です。


いろいろな場面で計算する必要があるとき、私は完全に脳をシャットダウンしています。
誰かが計算するのを待っているのです。
だって、無理だもん。

繰り上がり、繰り下がりがあると、2桁でもただ頭の中を数字がグルグルするだけの状態に陥ります。
この状態は私にとってはドキドキするとても嫌な感覚なので、計算はしないに限ります。
もしくは、すぐに電卓を出す。



この夏、石窯を作るために資材の買出しに行きました。
何センチの鉄骨を半分にしたらとか、何センチずつにカットしたらどれ位余分が出るかとか。
砂とセメントの量とか、割合とか。

あっという間にグルグル状態です。
後半は、みんなから少し離れた所にいて参加しないようにしていました。






一人になってからテラスの塗料を買いに行きました。
間違えてはいけないと緊張して、テラスのサイズを計り、図まで描いて面積を導き出しました。
出てきた答えは一万7千いくつという数字。
単位は平方メートルです。
ここで、普通は「おかしい」と思うのでしょうね、普通は。
私は変な検算まで繰り広げて、その数字をメモして買い物に出かけました。


塗料売り場で、さすがの私も気づきましたよ。
だって、私の計算だと一万円近くする塗料を1000個位買わなくちゃなんないんです。
(この計算すら確信が持てない。)

もう、ホント落ち込みます






この「数」に関する違和感は小学校中学年位から感じ始めていました。

小学生までは一応しっかり者の感じの女の子だったのですが、「あれ?私できないかも。」という不安を感じ始めていました。
1回だけですが、放課後に50点以下の子が残されるという場面に参加したことがあります。
友だちにも「どうして?」っていう顔をされたのを覚えてます。


分からない、パッと答えが出ないという焦りを常に感じていました。


小5か小6の時、割合の単元でついに全く分からなくなってしまい、かなり焦りました。
でも、そのときたまたま「計算のやり方」が閃いちゃったんです。
ただの「やり方」だったんですよね、今思うと。

「分かった!こうすればいいんだ!」
その喜びはかなりのもので、全く分からなかった問題でも次々正解できるので、たくさん問題を解いたのを覚えています。
その単元の塾のテストがものすごく良い結果でした。
(いつも、算数がいかに足を引っ張っていたかということです。)


「自分で分かれば強い。」という結論を出して、自分なりの理解をしながら、やり方を駆使して、何とかくらいついていたのです。



「自分で…」の結論は決して間違いではないと思うのですが、「数」については「違和感」のほうが正しかったと思います。




中学で担任と面談しているとき、通りかかった数学の先生が私の偏差値を見て「えっ。そんなにいいのか!」と驚いてくれました。
たいした偏差値ではないけれど、常日頃数学がいかにパッとしなかったかということです。


因数分解の意味を理解した記憶は人生で1回もありません。


とにかく高校受験も何とか乗り切り、その後何を血迷ったか高2でも数学を選択。
数�ってやつです。
ところが、もうにっちもさっちもいかなくなって、高2の7月に数学の先生に履修取り消しをお願いに行きました。
おかっぱ頭の中年の女の先生でした。
「あぁそう。わかりました。」と、一言の慰留も無く…。
いちおう、おざなりにでも、「頑張れ」的なことを言わないか



ここで、私の数学人生は終了しました。





残るは、日常生活の計算程度ですから、シャットダウンして切り抜けたり、電卓出したり、実際にお店にいって実感しながら修正したり、「生きる知恵」みたいなもんです。
小さい失敗はちょくちょくありますけれど。



今の時代、生きにくい子が増えているけど、できないことやちょっと感覚が違うことを社会が認めないからかなぁ。
「生きにくい子」というレッテルを貼られて、ますます生きにくくなっている気がします。


私の「困ってる感」と同じにしたら申し訳ないのは十分理解していますが、困っていたら切り抜ける術を融通しあったり、「困ったねぇ、あはは」っていう余裕を持たないとやってられませんよ。

被爆地広島で思ったこと

2011年10月08日 07時57分08秒 | 思うこと
父は、爆心地である相生橋を8時15分の30分前に通過し、軍事工場で働いていました。
命は助かりましたが、家に戻ったのは夕方と聞いています。

市内を通って帰ることができず、あふれかえる被爆者の方々を前にすぐに家に向かうこともできませんでした。
いろいろな作業を手伝っていたら、船で市内を通らないで帰れるように送ってもらえたそうです。

まだ小さかった叔父は、家の前に座っていて遠くから歩いてくる人の姿が、「兄貴に似ているな」と思ったのをよく覚えているそうです。
父が死んだのではないかと思っていた祖母は、喜びのあまり半狂乱だったといいます。
叔母は、盲腸の手術を受けたばかりで学校を休んでいて助かりました。
実は、医者にはもう学校に行っていいと言われていたのですが、父の陸軍士官学校の合否通知が届くので、家にいてほしいと頼まれていたのです。
祖母は助産婦として働いていたので、家にいませんでした。
(その祖母は、道の向こう側にいた人に挨拶をしていた時に原爆が落ち、気付いたら爆風でその人が飛ばされて近くにいたと子どもの頃聞きました。)

そして、叔母はその合格通知を受け取っていました。
原爆で混乱を極めている中、陸軍士官学校に行くべき日が迫っていて、父は爆心地のすぐ近くに行って、どうすればいいかを尋ねたそうです。
「おって沙汰を待て。」と言われ、そのまま終戦です。

再び爆心地に行ったことが原因かどうか分かりませんが、その1ヶ月後父は片目を失明します。「ものもらい」が悪化したそうですが、当時「ものもらい」で病院にかかれるような状況にはなかったそうです。失明するほど悪化するものもらいは、やはり原爆のせいだと思います。


いろいろなことが重なって、結果として父の家族は助かっているわけですが、これを「運命」というのか。



                           




三女が、生後5ヶ月のときに「川崎病」にかかりました。
動揺する私に医者である兄が、病気について教えてくれました。

「以前は、この病気にかかった100人に一人が突然死した。今は治療法が確立しているから1000人に一人に減った。でもそれは、999か1という問題ではない。もし自分の子がその一人になったら、999人は大丈夫ということは関係がない。だから、突然死の可能性は100か0だ。」

月齢の低い子の場合重篤になる可能性が高いということも含めて、こういう言い方になったのかもしれません。

むごい言い方のようにも思えるけれど、私の中ではストンと落ちた気がしたのをよく覚えています。決して安心できる言い方ではないけれど、999人は大丈夫からきっと大丈夫だよ、と言われるよりも納得のいく答えでした。


(ちなみに三女は心臓に後遺症を残すこともなく、すくすく育ちました)



                          


              
自分では想像もできなかったことに突然見舞われると、それを「運命」と思うしかない。
運命には逆らえないし、自分にはどうしようもできない。
でも、自分で決定する小さな「100か0」を含めて、その繰り返しが運命を作り上げているのなら、少しは自分の運命に関与できることもあるかもしれない。

死んでしまったら、それで終わりかもしれないけれど、自分のやってきたことが後に続く人にとって「意味ある100」に繋がることだってあるかもしれない。


そう考えて、次の一歩を選択していくことが、腹をくくって運命を受け入れていくということなのかな。


被災して立ち上がれない人に、次の「100か0」を選び取り進んでいくべきだと言ってる訳じゃありません。そういう方たちが、次を選べる力を取り戻すことを願っているし、それを助けることが復興していくということなのではないかと思っています。


片目を失ったけれど命は助かった父は、終戦から20年以上たっても、被爆の後遺症に不安を抱きながら健康診断を受けていたのを子ども心に感じていました。


原発の事故で不安を抱えている人たちの苦しみを思うと本当に胸が痛みます。
今後のことは、「人体にはほとんど影響ない数値です。」なんて言われたところで、まさに「100か0」です。
その事実は、どうにも変えようがない。




広島で見たもの。


 爆心地のすぐ近く、広島大本営跡に植わっていたクロガネモチ。



今は、こんな姿です。

緑が豊かです


 でも、祈りは続いています。



動き出す!

2011年03月30日 19時28分04秒 | 思うこと
震災以来、暖房のリモコンは手にしていません。
ずっ~~と、頭から毛布をかぶって丸まって過ごしていました。


「頭から毛布…」は、イメージ図です



実際は、仕事もイレギュラーの連続で、日々変更を伴い、「今日はどうする?明日はどうなる?」とバタバタ過ごしていたのです。
義捐金を振り込んだりもしました。



でも、津波を見るのが辛く、原発のニュースを聞くのが辛く。
それでも、見るし、聞くし。
気持ちは、頭から毛布をかぶって丸まっていたように思います。
被災していないのに、情けない話です。
人はどう思っているかわからないけれど、私自身はこういうことに結構弱いことを知っています。




数日前に読んだ本にこんなことが書いてありました。
「歳のせいで物忘れがひどいという誤解」というタイトルで、今の状態と直接の関わりはありません。



「脳は頭蓋骨の中に入っているから真っ暗な牢屋の中にいるようなもので、外の情報がわからない。脳が外の情報を知る唯一の手がかりは、目で見る、耳で聞く、手で触ってみるなど…体を通じて、しかない。体からの信号が無ければ脳は無知といってもいいのです。
 いま自分の体がどういう状況になっているかが極めて重要なことで、それをもとに脳は判断する。笑顔を作って漫画を読むときに脳に入ってくる情報は、漫画を読んでいるということと、笑顔でいるということ。この二つの情報を結びつける最も納得できる説明は、漫画がおもしろいから、ということしかない。それが正解かどうかを判断するすべは脳にはないわけで、自分の体に起こっていることがすべてなのです。そう考えると、脳よりも体のほうが大切で、体に引っ張られる形で脳も活性化するのだと私は考えます。」



頭から毛布をかぶっているイメージ図にとらわれるのはもうやめることにしようと思いました


違う方向に動き出してみましょう

とりあえず、昨日30分間走を復活させました。

みんなの幸せ

2011年01月23日 15時55分58秒 | 思うこと
知人に誘われ、ある特別支援学校の文化祭に行ってきました。


合唱部の歌声と、高1の劇を見てきました。




歌声を聞きながら、思ったこと。

みんな、一人残らず幸せになってほしいということ。
誰にもいじめられず、排除されず、一緒にいて安らぐ人がいる幸せを感じて暮らしてほしい。


特別じゃなく、誰にとっても、おんなじ願い。


合唱部は、東京マラソンのランナー応援イベントで日比谷公園でも歌うそうです。








帰りに友人と食べたのは、ワンプレートランチ。


こういう風に盛り付けるのは、自分の家でやってもいいかも

洗い物も少なくてすむし。大きいお皿買っちゃおうかな


心配性な私

2010年11月21日 07時09分48秒 | 思うこと
この間、テレビで「ライト兄弟」の映像が流れ、今まで考えてもいなかったことに気付き愕然としました。


ライト兄弟が初めて有人動力飛行を成功させたのはいつだと思います?

1903年ですよ 1903年(常識?)

しかも、ほんの数メートルの高度を、ほんの数十メートル。

そして、晩年のオーヴィル・ライト(弟)は、飛行機が原爆を落としたことを悲しみ、飛行機の発明を悔いていたとのこと。


私の好きではない「飛行機」という乗り物は、たった100年前にその芽が出たんです。
それなのに今は何百人もの人を乗せて、ニアミスに注意をしなくてはいけないほど、世界中を飛んでいる。

あ~~、心配心配 信用ならない。





たった、150年前まで、日本では飛脚や馬や籠や狼煙やそんなものが活躍していたのに、
明治に入って突如の近代化。
今や、インターネットで世界中が繋がっている。

あ~~、心配心配 信用ならない。






こんな急激な加速で変化しているということは、滅びへのスピードをアップしてるってことだと思ってしまう。
ただその滅びが、少なくても自分や自分の子の世代ではない様な気がしていて、なんとなく落ち着けているんだけど。

そうでもなかったりして…。

あ~~、心配心配






先週の週末、三女が大学の仲間と原村に行きました。
レンタカー借りて、夜出発して…。
しかも、この時期の原村は、水道管を止めているし。


あ~~~~~~。心配すぎる


案の定、私が予想していたよりずいぶん遅い時間の到着となり、私を激しく心配させました。
寝不足で、先週の土曜日は体調が悪かったよ。



冬バージョンのマニュアルを作りました。


今度行った時、水道管が壊れていないことを祈っています。


いまどきの子は、こんなマニュアルも必要です。
 全自動じゃないからね。


音の暴力

2010年11月07日 16時12分03秒 | 思うこと
奈良に行く日、新横浜から新幹線に乗りました。

20分ほど前にホームについてしまい、防護柵の際で立って待っていました。


何か変だなぁ
この耳障りな感じは何かなぁ?


犯人は、この音でした。



「駆け込み乗車はおやめください。
 列車とホームの間があいている所がありますので、ご注意下さい。
 特にお子様にはご注意下さい。」

「駆け込み乗車はおやめください。
 列車とホームの間があいている所がありますので、ご注意下さい。
 特にお子様にはご注意下さい。」

「駆け込み乗車はおやめください。
 列車とホームの間があいている所がありますので、注意下さい。
 特にお子様にはご注意下さい。」

「駆け込み乗車はおやめください。
 列車とホームの間があいている所がありますので、ご注意下さい。
 特にお子様にはご注意下さい。」



延々と垂れ流し状態です。
音が途切れることを恐れているとしか思えない間断なく続くアナウンス…


しかも、このアナウンスは新幹線がホームにいない時に流れるんです。


駆け込みたくても、駆け込む新幹線がいない
すでにホームにいる人は、新幹線が来たときに駆け込むとも思えない
あいている所に気をつけて列車に乗ろうにも、その列車がいない
お子様に注意のしようも無い


おい
意味無いじゃん



そして、新幹線が入ってくる前には違うアナウンスが流れます。
出発直前には、特に駆け込み乗車に警告を発するわけではありません。


そして、新幹線が発車していなくなると始まります。


「駆け込み乗車はおやめください。
 列車とホームの間があいている所がありますので、ご注意下さい。
 特にお子様にはご注意下さい。」





人工的な音の無い時間を楽しむ贅沢をもっと大切にした方がいいです。
脳が休まりません。


駅だから音がないということはないですね。
電車の音、人々の行きかう足音、集う人の話し声…
そんな音ならイライラしないのに。



あ~~~~~


イライラしてきましたが、「落ち着け。落ち着け。」と自分をなだめ、新幹線を待ちました。

やっと私が乗る新幹線が入ってきてホッとしました。




するとホームにいた係りの人が私のところに慌ててやってきて
「新幹線が入ります。離れてください」と注意しました。


へっ そこ注意する


防護柵を乗り越えようとしていたわけじゃない。
荷物がはみ出していたわけじゃない。
すぐ横に立っていただけです。

防護柵の内側は安全なんでしょ?
そのための防護柵なんでしょ?


落ち着け。落ち着け。




いろんな幸せ

2010年10月24日 06時07分00秒 | 思うこと
3日目は、自由農園で10時くらいから買い物し、三分一湧水の直売所でシフォンケーキを買い帰途に着きました。

車は多めではありましたが、大した渋滞に巻き込まれることなく帰れました。


職場に寄ってちょっとお仕事をすることにしたので、同乗していたヨルは武蔵小金井で降りました。


その前に「お昼ごはんどうする?」ということになったのですが、店を探すのも時間がかかるし
そんなことしていたら渋滞してくるし…

結局、石川PAで済ませることにしました。



吉牛(吉野家の牛丼)が目に付きました。
私たちくらいの年齢の女性には、縁がない食べ物です。
でも、ほんとは食べてみたい食べ物です。


決定!!牛丼!!!


380円
「安いねぇ」と、おばさん二人喜ぶ

石川PAのベンチに陣取り、お昼ご飯です。

ヨルが一口、パクッ

「おいしぃ~~

私が紅生姜を乗せているのを見て、「あ、それ忘れてた」と彼女も紅生姜を乗せ、再びパクッ

「おいしぃ!!!紅生姜乗せるのと乗せないのと大違いじゃない?『紅生姜牛丼』と名づけてもいいくらいだよね

と、もう大絶賛であります。
目は、キラキラです。




彼女は美食家で、美味しいものにこだわります。
なので、彼女にお店探しを任せると間違いありません。

でも、彼女のいいところは、高級なものだけにこだわっている訳ではないんです。
高価な物だけを前に薀蓄をたれる美食家とは違います。
チープなお菓子だって、美味しいと思えば目をキラキラさせます。
「私はこれが好き」って。


「お腹一杯になってからどれくらい食べられるかが勝負なんだよね」
「きっと食べ物を口に入れて、飲み込むってことが好きなんだよね」



私にとっての、彼女の「二大びっくり発言」です



私にはこの感覚はなく、空腹を満たすことだけになってしまいがちです。反省です。

この彼女の熱い情熱は、共感するということではないけれど、好きですわ。



だって特に私に強要するわけでもなく、『幸せそうな顔』を見せてくれるでしょ。
(この二つのポイント、すごく大切です)



この美食家のとてもスレンダーな彼女とは長い付き合いです。
30年以上前の学校帰りに、二人して吉祥寺でソフトクリームのはしごをしてました。
(つまり続けざまに2個食べる…)

今はしないよねぇ。