まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

自分への自信について ―東野圭吾 『夢幻花』 より―

2013-09-30 13:42:57 | 幸せの倫理学

東野圭吾が今年2013年に出版した 『夢幻花』 を読みました。
正直なところ、東野圭吾って多作なのはいいのですがけっこう当たり外れが大きくて、
あまりにこじつけが過ぎるんでないの、と思ってしまうこともないわけではないんですが、
これはとても面白く読むことができました。
本の帯には著者自身の言葉を引いたこんなキャッチコピーが添えられていました。
「『こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない』 と著者自らが語る会心作」。
この売り言葉に偽りはなかったと思います。

小説のタイトルにも現れているこのミステリーの根幹部分がたいへんに面白いのですが、
それには触れることはいたしません。
著者が 「時間をかけ、考えた」 プロットのうちのほんの枝葉の部分なのですが、
我がブログが取り上げているテーマと密接に関わる描写がいくつかありましたので、
その部分だけちらっとご紹介させていただくことにいたします。
今日のところは、自分への自信という問題に関連して。
このところ2回にわたって自分への自信について書いてきましたが (その1その2)、
そのテーマにどんぴしゃなシーンがありましたので引用させていただきます。

所属するバンドがプロへの道を歩み始めようとしていた矢先に謎の自殺を遂げた尚人。
尚人の弟の知基。
尚人と知基のいとこで、水泳でオリンピック出場が有望視されていたにもかかわらず、
あることをきっかけに今は水泳から離れてしまっている梨乃。
尚人と高校時代からのバンド仲間である雅哉。
以下の引用は、雅哉と梨乃と知基の3人の会話ですが、
ほとんど喋っているのは雅哉と梨乃の2人だけです。

(以下、東野圭吾 『夢幻花』 より引用)

「どうしても話しておきたいことがあって。特に梨乃ちゃんに」
「あたしに? どんなこと?」
 雅哉は頭を上げ、充血した目を彼女に向けてきた。
「尚人のことだ。あいつはさ、ずっと悩んでたんだ。昔から。子どもの頃から」
「どんなことを?」
「自分が梨乃ちゃんみたいになれないってことについてだよ」
「あたしみたいに? 何それ、どういうこと?」
 雅哉は虚しさの漂う笑みを浮かべた。
「梨乃ちゃんにはわからないだろうなあ。でも、そういうもんなんだよな。本人はふつうにしているつもり。だけど周りの人間にとっては眩しくてたまらない」
「ちょっと待ってよ。何のことだかさっぱりわからない」
 雅哉は唾を呑み込むように喉を動かした。
「尚人はさ、才能がほしかったんだ。才能に恵まれた人間になりたかったんだ」
「はあ?」 梨乃は眉をひそめた。「何いってるの。尚人ほど才能に恵まれた人間はいなかった。スポーツ万能だったし、学校の成績だって優秀だった。絵だって上手かったし、音楽だってプロを目指せるレベルだった。才能に恵まれないどころか、恵まれすぎてたくらいじゃない」
 だが彼女の話の途中から、雅哉はゆらゆらと頭を振り始めていた。
「だから梨乃ちゃんにはわからないといってるんだ。たしかに尚人はスポーツも得意だった。でもプロになれるレベルだったかな。梨乃ちゃんみたいにオリンピックを目指せるほどだった? 違うだろ。学校の成績が優秀だといっても、所詮限られた範囲でのことだ。尚人は特に数学が得意だったけど、ただ解き方を知ってるだけだって、よくいってた。絵についてもそうだ。白い紙を見つめていると、絵の構想が浮かんでくる。それに合わせて絵筆を動かせば、立派な絵が仕上がる。だけどそうやって完成させた絵は、いつもどこかで見たことのあるものだってことに気づいたんだそうだ。自分はただ絵の知識があって器用なだけだ。他人はうまいと褒めてくれる。しかしそれは感心であって、感動じゃない。人の心を一ミリだって動かせない」
 雅哉は視線を梨乃の顔に戻した。
「やがてこんなふうに思い始めたそうだ。自分には何の才能もない。あるふりをしているだけだって」
 でも、と梨乃は口を開いた。
「そんなの、殆どの人がそうじゃない。才能がある人なんて一握り。あるふりをしてただけだっていうけど、それをできること自体がすごいと思う」
「うん、俺もそう思うよ。尚人だって、ふつうならそう思えたんじゃないかな。だけど、あいつの場合、すぐ近くに梨乃ちゃんがいた」
「あたし?」
「尚人からよく聞かされたよ。梨乃は天才だって。同じプールに入っているのに、彼女の周囲だけ水の質が変わる。特別な水が彼女を推し進めているように見える。自分たちとは別の世界で泳いでいるって」
「そんなことは……」
「ないと思っているのは本人だけだ。尚人だって水泳は得意だったそうだね。県大会にも何度も出たとか。だけどあいつはいってたよ。俺が水泳をやめたって、周囲の誰も気がつかなかったってね」
 梨乃は、はっとして隣の知基を見た。「そうだっけ?」
 知基は辛そうに目を瞬かせた。
「そういわれれば、たしかにそうだ。兄貴は何年も泳いでなかった」
「梨乃を見ていると、自分がひどく小さな人間に思える、ともいってた。何の取り柄もない、つまらない人間としか思えないと」 雅哉はいった。
「そんなこと、あるわけないのに……」
「音楽においてもたぶんそうだろう、と彼は気づいていた。自分には才能なんかないって。よく俺にいってたよ。雅哉は才能があって羨ましいって。だけどじつは、俺だって尚人と同じなんだ。天才なんかじゃない。才能なんてない。平凡で、ありふれた能力しか持ってない。どこにでもいる人間だ。そのくせ、誰よりも輝きたいという夢を持っちまった。なまじ、真似事だけでそこそこうまくいったものだから、余計に欲が出た。本物の天才になりたいと思った。…(中略)…だけど偽物はどこまでいっても偽物。本物にはなれない」
 雅哉は背筋を伸ばし、梨乃ちゃん、と改まった口調で呼びかけた。
「尚人がよくいってたんだ。梨乃は馬鹿だって。せっかく才能があるのに、それを無駄にしている。梨乃は水泳選手として生きていかなきゃいけない。才能を与えられた者の義務だ。それを重荷に思っているとしたら贅沢だ。何の義務も与えられていないことがどれほど虚しいか、梨乃はわかっていない―」 一気に話した後、彼はふうーっと息を吐き、笑いかけてきた。
「雅哉さん……」
「それを伝えたくて来てもらったんだ」
 梨乃は頷き、膝に置いたバッグからハンカチを出した。彼の言葉を、どう受けとめるべきなのか、まだよくわからなかった。しかし心の中が揺さぶられたことは確かだった。
 ハンカチで目頭を押さえた。

(以上、引用終わり)

フツーの人たちから見たら、尚人も雅哉も十分に才能に恵まれた若者です。
それでもむちゃくちゃ悩んでいます。
特に身近にオリンピック出場候補選手がいた尚人は、
梨乃と比較してしまうことによって自分に自信をもつことができずにいます。
尚人から音楽の才能に関して羨ましがられていた雅哉もまた、
誰よりも輝きたいという大それた夢をもってしまったばっかりに、
自分にはありふれた能力しかないと卑下してしまっています。
そして、この引用文中にはありませんでしたが、
梨乃もまた自分に自信を持てずに苦しんでいるのです。
自分を好きになれず、自分に自信を持てないでいる若者たち。
特にそれがこの小説の主題というわけではないのですが、
現代の若者たちの苦悩を上手く描いているように思いました。
自分を見極め、自分を受け容れ、自分のことを認めて好きになってあげられないと、
こんなに才能に溢れた若者たちですら道に迷ってしまいます。
やはり皆さんには自分なりのニッチを早く見つけてもらいたいもんだと思います。