岡山市の地元の有力企業である林原は、ここ数年間にわたって、いろいろな意味で話題を集めた企業です。
その林原が実施した知的財産マネジメントについて解説するセミナー「グローバル事業戦略に貢献する知財マネジメント人財」を、知的財産人材育成推進協議会が開催しました。
セミナーの講師は、林原の上席顧問の三宅俊雄さんです。林原の特許などの知的財産マネジメントの中心人物だった方です。
微生物がつくり出す酵素を用いて、デンプンなどから各種の糖質をつくり出す製法などを開発した、バイオテクノロジー企業として、林原は一世を風靡(ふうび)しました。バイオテクノロジー企業として、独自の食品原料、医薬品原料、化学原料製品や試薬などを製造し販売する優良企業でした。
しかし、2010年末にメーンバンクだった中国銀行と住友信託銀行が林原の不正経理を発見し、その後にいろいろな紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、2012年2月に負債総額1300億円超で経営破綻し、会社更生法を申請します。そして、2012年2月には長瀬産業の下で再建し、会社更生法の手続きの終結にこぎつけます。そして、長瀬産業の100パーセント子会社として再出発します。
優良企業だった林原が不正経理を続けていた背景には、実は林原は不動産投資によって高収益を上げるという裏の顔(?)を持っていたからです。不動産投資がバブル崩壊などによって、不良資産化したために、巨額の負債になったと考えられています。
林原は、研究開発力に優れたバイオテクノロジー企業という表看板の裏で、ある種の土地転がしによって高収益を上げていたと推定されています。いろいろな説があり、詳細はいろいろなメディアが解説しています。
その半面で、研究開発力に優れたバイオテクノロジー企業という表看板も確かな実態があり、優れた研究開発成果を上げ、事業化に成功していたということを確認することが、今回、知的財産人材育成推進協議会がセミナーを開会した理由のようです。
1883年に水あめ製造業として創業した林原商店は、第2次大戦中の1943年中に林原株式会社に変更します。1959年に、デンプンから微生物(カビ)から目的に合う酵素を探し、酵素糖化法によってデンプンからブドウ糖をつくる工業化に成功します。
林原の事業内容を水あめ製造業からバイオテクノロジー事業に変身させた林原健さん(4代目社長)は、1961年に先代の林原一郎(3代目社長)さんの急死によって19歳の若さで、社長に就任します。この時に、林原健さんは慶応義塾大学法学部2年の学生でした。林原健さんが大学生の間は、叔父の林原次郎さんが事実上の社長を務めたそうです。
酵素糖化法によってデンプンからブドウ糖をつくる工業化手法は、当時、技術指導を受けた大阪市立工業試験所の方針で、製法特許を出しませんでした。この結果、すぐに、酵素糖化法によってデンプンからブドウ糖をつくる工業化手法は他社に真似をされて、事業としては成功しませんでした。
こうした経緯から、4代目社長に就任した林原健さんは「独創的な研究開発によって、他社が追従できない製品開発を実現するオンリーワン企業の戦略を打ち出し」、1970年に研究開発部門を独立させ、林原生物化学研究所を設立します。特許を重視する知的財産戦略も重視します。
この結果、1994年に微生物がつくる酵素によって、トレハロースという糖を大量生産する手法を開発し、食品原料などに仕上げることに成功します。当時、1キログラム当たり数万円していたトレハロースを、1キログラム当たり300円と安価で供給し、デンプンの老化抑制などの高機能を持つトレハロースを普及させます。
長くなったので、残りは明日の続編になります。
その林原が実施した知的財産マネジメントについて解説するセミナー「グローバル事業戦略に貢献する知財マネジメント人財」を、知的財産人材育成推進協議会が開催しました。
セミナーの講師は、林原の上席顧問の三宅俊雄さんです。林原の特許などの知的財産マネジメントの中心人物だった方です。
微生物がつくり出す酵素を用いて、デンプンなどから各種の糖質をつくり出す製法などを開発した、バイオテクノロジー企業として、林原は一世を風靡(ふうび)しました。バイオテクノロジー企業として、独自の食品原料、医薬品原料、化学原料製品や試薬などを製造し販売する優良企業でした。
しかし、2010年末にメーンバンクだった中国銀行と住友信託銀行が林原の不正経理を発見し、その後にいろいろな紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、2012年2月に負債総額1300億円超で経営破綻し、会社更生法を申請します。そして、2012年2月には長瀬産業の下で再建し、会社更生法の手続きの終結にこぎつけます。そして、長瀬産業の100パーセント子会社として再出発します。
優良企業だった林原が不正経理を続けていた背景には、実は林原は不動産投資によって高収益を上げるという裏の顔(?)を持っていたからです。不動産投資がバブル崩壊などによって、不良資産化したために、巨額の負債になったと考えられています。
林原は、研究開発力に優れたバイオテクノロジー企業という表看板の裏で、ある種の土地転がしによって高収益を上げていたと推定されています。いろいろな説があり、詳細はいろいろなメディアが解説しています。
その半面で、研究開発力に優れたバイオテクノロジー企業という表看板も確かな実態があり、優れた研究開発成果を上げ、事業化に成功していたということを確認することが、今回、知的財産人材育成推進協議会がセミナーを開会した理由のようです。
1883年に水あめ製造業として創業した林原商店は、第2次大戦中の1943年中に林原株式会社に変更します。1959年に、デンプンから微生物(カビ)から目的に合う酵素を探し、酵素糖化法によってデンプンからブドウ糖をつくる工業化に成功します。
林原の事業内容を水あめ製造業からバイオテクノロジー事業に変身させた林原健さん(4代目社長)は、1961年に先代の林原一郎(3代目社長)さんの急死によって19歳の若さで、社長に就任します。この時に、林原健さんは慶応義塾大学法学部2年の学生でした。林原健さんが大学生の間は、叔父の林原次郎さんが事実上の社長を務めたそうです。
酵素糖化法によってデンプンからブドウ糖をつくる工業化手法は、当時、技術指導を受けた大阪市立工業試験所の方針で、製法特許を出しませんでした。この結果、すぐに、酵素糖化法によってデンプンからブドウ糖をつくる工業化手法は他社に真似をされて、事業としては成功しませんでした。
こうした経緯から、4代目社長に就任した林原健さんは「独創的な研究開発によって、他社が追従できない製品開発を実現するオンリーワン企業の戦略を打ち出し」、1970年に研究開発部門を独立させ、林原生物化学研究所を設立します。特許を重視する知的財産戦略も重視します。
この結果、1994年に微生物がつくる酵素によって、トレハロースという糖を大量生産する手法を開発し、食品原料などに仕上げることに成功します。当時、1キログラム当たり数万円していたトレハロースを、1キログラム当たり300円と安価で供給し、デンプンの老化抑制などの高機能を持つトレハロースを普及させます。
長くなったので、残りは明日の続編になります。
林原のバイオ技術が魅力的だったようです。
イオンは2014年11月ごろに大規模商業施設をオープンさせるそうです。
ただ、糖による事業収益よりも、土地転がしの方が高収益だったので、経営手法がだんだん麻痺したのだと思います。
裏の顔は、メセナのスポンサーとしてお金がいるために、つい土地転がしに手を出したのではないでしょうか。
林原の場合は、日本を代表する企業が多数参戦しました。技術商社の長瀬産業は本命ではなかったと思います。