人気小説家の原田マハさんの最新の単行本「美しく愚かものたちのタブロー」を読み終えた話の続きです。
この題名にある「タブロー」とは、絵画のことです(浮世絵も含まれています)。
この単行本「美しく愚かものたちのタブロー」は、2019年5月30日に文藝春秋から発行されました。価格は1650円+消費税です。
具体的には、大正時代から昭和半ばまで(主に第一次世界大戦前後)に、欧州(主にフランスと英国)で名画を買い集めた松方幸次郎(まつかたこうじろう)による“松方コレクション”づくりの話です。
松方幸次郎は、1866年1月に薩摩藩士の松方正義の三男として誕生します。
父の松方正義は、薩摩藩藩主の薩摩久光の側近として働き、異例の出世を果たします。明治政府成立後は、肥田県知事になり、大蔵卿時代には日本銀行設立の立役者となります。さらに、第四代と第六代の内閣総理大臣に就任します。
松方正義の長男と次男がベルギーとドイツに留学していたなどの経緯から、三男の幸次郎は米国のラトーガス大学に留学します(東京大学予備門で退学処分になった経緯から)。
さらに、兄の影響を受けて日本の外交官になろうと決意し、米国のエール大学法学部に編入し、さらに大学院に進んで博士号も取得します。
1891年に父の松方正義は第一次松方内閣を組閣します。そして、三男の幸次郎は首相秘書官に就任します。ただし、この内閣は短命でした。
神戸市の川崎造船所の創業者の川崎正蔵は、3人の息子が他界したために、後継者を探していました。実は、松方幸次郎の米国留学費用の面倒を、川崎正義がみていました。
そこで、川崎正蔵は、青年の松方幸次郎が後継者にふさわしいかもしれないと思い、面会します。松方幸次郎を気に入った川崎正蔵は、父親の松方正義に「川崎造船所の社長はご子息をおいてほかにはいない」と乞います。
松方幸次郎は30歳で川崎造船所の社長に就任し、川崎造船所の悲願だった大型船対応のドックを建設し、船の修理業から造船業に乗り出します。
1904年に日露戦争が始まり、日本の造船業は一気に活況を呈します。川崎造船所は海軍から潜水艦の注文を受けるなど、駆逐艦と輸送艦などを含めて合計17艘を受注します。
日露戦争などを通じて、川崎造船所は代成長します。松方幸次郎は1902年と1907年の欧州の造船業を視察に出張しています。
しかし、日露戦争後の不況の際には、川崎造船所の従業員5000人もの人員削減を余儀なくされ、涙を流します。
1914年6月に第一次大戦が欧州で始まります。英国の同盟国だった日本は連合国の陣営として、同年8月にドイツに宣戦布告します。
こうした第一次大戦の勃発により、今後は船不足になると予想した松方幸次郎は、“ストックボート”というある程度つくった船を、注文を受ける前に事前に用意する事業戦略を編み出します。
欧州諸国から注文が入ると、価格を(5倍や6倍に)釣り上げて高値で売りさばく戦略です。
第一次大戦の進展によって、造船の原料となる材料の鉄鋼の日本への輸入量が激減し、価格が高騰します。このため、松方幸次郎は渡米し、米国でできる限り安い鉄鋼を入手しようと努めます。
同時に、川崎造船所の従業員を官営製鉄所の八幡製鉄に派遣し、鉄をつくる技術を学ばせます(これが、川崎製鉄のルーツになります。川崎製鉄は現在のJFEです)。
ここまでは、川崎造船所(現在の川崎重工業)が事業成長した話です。
川崎造船所がつくった“ストックボート”を高値で売るために、松方幸次郎は同社のロンドン出張所に詰めていましたが、空き時間を見つけては、ロンドン市中心部で開催される日本人会に顔を出していました。
この日本人会で、美術商山中商会のロンドン支店長だった岡田友次と、英国に留学して西洋画家として成功していた石橋和訓(わくん)の二人から「日本のために美術館を創っていただけませんか」と詰め寄られます。
日本が世界の各国と互角に勝負していくためには、なんといっても文化力がたりない。それを改善し向上させるためには「美術館」が必要と口説かれます。
話のいきさつを飛ばすと、優れた美術館がなければ、日本人芸術家は育たず、政界・財界での優れたリーダーが登場する確率が低くなる・・日本は文化後進国となり、世界の列強に遅れをとることになる・・。
「日本を国際的な文化大国にする、そんな人物は松方幸次郎をおいてほかにいますか?」と口説かれて、松方コレクションの収集は始まります。
人気小説家の原田マハさんの最新の単行本「美しく愚かものたちのタブロー」を読み終えた話の始まりは、弊ブログの2019年9月28日編をご覧ください。
この題名にある「タブロー」とは、絵画のことです(浮世絵も含まれています)。
この単行本「美しく愚かものたちのタブロー」は、2019年5月30日に文藝春秋から発行されました。価格は1650円+消費税です。
具体的には、大正時代から昭和半ばまで(主に第一次世界大戦前後)に、欧州(主にフランスと英国)で名画を買い集めた松方幸次郎(まつかたこうじろう)による“松方コレクション”づくりの話です。
松方幸次郎は、1866年1月に薩摩藩士の松方正義の三男として誕生します。
父の松方正義は、薩摩藩藩主の薩摩久光の側近として働き、異例の出世を果たします。明治政府成立後は、肥田県知事になり、大蔵卿時代には日本銀行設立の立役者となります。さらに、第四代と第六代の内閣総理大臣に就任します。
松方正義の長男と次男がベルギーとドイツに留学していたなどの経緯から、三男の幸次郎は米国のラトーガス大学に留学します(東京大学予備門で退学処分になった経緯から)。
さらに、兄の影響を受けて日本の外交官になろうと決意し、米国のエール大学法学部に編入し、さらに大学院に進んで博士号も取得します。
1891年に父の松方正義は第一次松方内閣を組閣します。そして、三男の幸次郎は首相秘書官に就任します。ただし、この内閣は短命でした。
神戸市の川崎造船所の創業者の川崎正蔵は、3人の息子が他界したために、後継者を探していました。実は、松方幸次郎の米国留学費用の面倒を、川崎正義がみていました。
そこで、川崎正蔵は、青年の松方幸次郎が後継者にふさわしいかもしれないと思い、面会します。松方幸次郎を気に入った川崎正蔵は、父親の松方正義に「川崎造船所の社長はご子息をおいてほかにはいない」と乞います。
松方幸次郎は30歳で川崎造船所の社長に就任し、川崎造船所の悲願だった大型船対応のドックを建設し、船の修理業から造船業に乗り出します。
1904年に日露戦争が始まり、日本の造船業は一気に活況を呈します。川崎造船所は海軍から潜水艦の注文を受けるなど、駆逐艦と輸送艦などを含めて合計17艘を受注します。
日露戦争などを通じて、川崎造船所は代成長します。松方幸次郎は1902年と1907年の欧州の造船業を視察に出張しています。
しかし、日露戦争後の不況の際には、川崎造船所の従業員5000人もの人員削減を余儀なくされ、涙を流します。
1914年6月に第一次大戦が欧州で始まります。英国の同盟国だった日本は連合国の陣営として、同年8月にドイツに宣戦布告します。
こうした第一次大戦の勃発により、今後は船不足になると予想した松方幸次郎は、“ストックボート”というある程度つくった船を、注文を受ける前に事前に用意する事業戦略を編み出します。
欧州諸国から注文が入ると、価格を(5倍や6倍に)釣り上げて高値で売りさばく戦略です。
第一次大戦の進展によって、造船の原料となる材料の鉄鋼の日本への輸入量が激減し、価格が高騰します。このため、松方幸次郎は渡米し、米国でできる限り安い鉄鋼を入手しようと努めます。
同時に、川崎造船所の従業員を官営製鉄所の八幡製鉄に派遣し、鉄をつくる技術を学ばせます(これが、川崎製鉄のルーツになります。川崎製鉄は現在のJFEです)。
ここまでは、川崎造船所(現在の川崎重工業)が事業成長した話です。
川崎造船所がつくった“ストックボート”を高値で売るために、松方幸次郎は同社のロンドン出張所に詰めていましたが、空き時間を見つけては、ロンドン市中心部で開催される日本人会に顔を出していました。
この日本人会で、美術商山中商会のロンドン支店長だった岡田友次と、英国に留学して西洋画家として成功していた石橋和訓(わくん)の二人から「日本のために美術館を創っていただけませんか」と詰め寄られます。
日本が世界の各国と互角に勝負していくためには、なんといっても文化力がたりない。それを改善し向上させるためには「美術館」が必要と口説かれます。
話のいきさつを飛ばすと、優れた美術館がなければ、日本人芸術家は育たず、政界・財界での優れたリーダーが登場する確率が低くなる・・日本は文化後進国となり、世界の列強に遅れをとることになる・・。
「日本を国際的な文化大国にする、そんな人物は松方幸次郎をおいてほかにいますか?」と口説かれて、松方コレクションの収集は始まります。
人気小説家の原田マハさんの最新の単行本「美しく愚かものたちのタブロー」を読み終えた話の始まりは、弊ブログの2019年9月28日編をご覧ください。
そのお金で、欧州でフランス名画を買い集めたのですね。
なかなか微妙な経緯です・・
このバーンズさんも製薬事業で大儲けして、フランスの印象派などの名画を買い集めました。
松方幸次郎さんのライバルだった時期もあります。
やはり何かで大儲けしないと、高価な名画は収拾できませんね。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
今回、人気小説家の原田マハさんが執筆なさった単行本「美しく愚かものたちのタブロー」は、成金の金持ちの松方幸次郎さんが欧州で、印象派などの名画を買い集める話です。
米国やロシアの金持ちも、欧州の名画を買い集めいています。湯水のように金を使うには、こうした背景があります・・
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
米国のバーンズコレクション財団が名画を所有している話は有名です。
その基を買い集めいたバーンズさんは米国で製薬事業で大儲けした方ですね。最初は、非公開を貫きました・・。困った方です。
でも、米国留学費用の面倒を、川崎正義がみていたのは、今ならば政界の癒着になります・・。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
ご指摘の通りに、松方幸次郎さんの米国留学費用の面倒を、川崎正義がみていたのは、企業と政界との癒着ですね。
ただし、当時は地方のお金持ちが篤志家として、苦学生の学費を出すということが行われていたので、こうした感覚で留学費用を提供したと想像もできます・・。
有力な政治家の子息も海外留学しました。欧米に学ぶ時代です。その中で、松方幸次郎さんは文化・美術の力を感じた方のようです。
もちろん、エリートの子息としての幸運もありますが、米国のエール大学大学院でよく勉強した成果です。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
明治以降以降に、東京帝国大学などを中心にある種のエリート教育を実施し、官僚や大手企業(官営企業)などの経営陣を育てました。
その一環は、欧米の大学への留学だったと思います。
第二次大戦後は、こうしたやり方はかなり崩れていると信じています。
松方幸次郎さんは、現在の川崎重工業や大阪ガスなどを創業し、ある程度の役目は果たした方です。