第2章:戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界
荒葉 一也
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8.ゲリラになるか?難民になるか? 彷徨えるパレスチナ人
1964年の設立当初からしばらくの間PLOは穏健な政治闘争でパレスチナ人の民族自決権回復と離散したパレスチナ難民の帰還運動を行っていた。しかし期待していた近隣アラブ諸国の為政者たちの支援は口先ばかりであり、1967年の第三次中東戦争(別名6日間戦争)で為政者たちの鼻っ柱は見事にへし折られた。PLOの領土奪回の夢はさらに遠のき、それどころか百万人の新たなパレスチナ難民がヨルダンに流れ込んだのである。パレスチナ人たちはアラブの同胞に失望し、PLOは過激なゲリラ闘争組織に変身していく。
PLOを構成する数多の組織の中で頭角を現したのがファタハであった。ファタハは反イスラエルのゲリラ組織を結成、イスラエルとヨルダンの国境でイスラエル軍を撃退するなど戦果をあげた。1969年2月、PLO第2代議長にファタハのアラファトが就任した。エジプトのナセル大統領は彼に「パレスチナの指導者」というお墨付きを与え、これによりPLOは実質的なパレスチナ亡命政府となった。
PLOの中にはファタハの穏健路線に満足しないパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などの急進派もいた。PFLPはマルクス・レーニン主義を掲げ「テロに訴えてでもパレスチナに世界の耳目を集める」ことを目指しヨルダン国内からイスラエルに出撃した。当初はヨルダン政府自身も攻撃部隊を送り込んだが、その都度イスラエルの手痛い反撃を受けた。イスラエルに対する戦闘に勝ち目がないことを悟ったフセイン国王は米国に仲介を依頼、イスラエルとの和平と言う現実外交に舵を切り替えようとした。PLOはこれを裏切り行為ととらえ、ハシミテ王家を転覆しヨルダンに共和国を建設することを目論んだ。PLOはヨルダン国内では王家転覆、国外ではイスラエル打倒を目指し内外のテロ活動を活発化させた。
このころからすでにPLOとその傘下のPFLPによる過激なテロ活動はヨルダンの一般国民のみならずパレスチナ人の間にも拒否反応が生まれていた。そして1970年9月にPFLPが5機の民間旅客機を同時ハイジャックする事件を起こすに及んで、堪忍袋の緒が切れたヨルダン国王フセインは遂にPLO排除に乗り出し、ここに「黒い9月」と呼ばれるヨルダン内戦が発生する。大衆の支持を失ったPLOは内戦に敗れ本拠をベイルートに移すこととなる。
PLOはベイルートに移転した後もイスラエルに対するゲリラ攻撃をやめなかったが、イスラエルからはそれを上回る反撃を受けたためパレスチナ難民があふれ、レバノン南部に大きなパレスチナ難民キャンプが生まれることになる。焦ったパレスチナ過激派は自分たちの運動に同調する海外の過激派組織を呼び込み、自らは海外のユダヤ人を、そして思想に共鳴する外国組織をイスラエル国内に送り込むテロ活動を展開した。
その結果1972年に二つの大きな事件が発生する。5月にテルアビブ空港で日本赤軍が自動小銃を乱射して26人を殺戮した。テロリストが無差別に一般市民を襲撃したこと、および犯人の一人が手りゅう弾で自爆したことはそれまでのイスラム・テロでは考えられなかったことである。イスラームに限らずキリスト教、ユダヤ教などの一神教は自殺を認めていない。人間の命は神(またはアラー)の手にゆだねられており、自分勝手に死ぬことは許されないからである。ところが東洋から来た日本人は自らが信じる高邁な理想に殉じることを潔しとしている。自爆した犯人の頭の中には2年前の三島由紀夫自刃事件のことがあったのかもしれない。数十年後に多発する自爆テロの先駆けとも言える衝撃的な事件であった。
さらに8月にはオリンピック開催中のミュンヘンの選手村でイスラエル人選手9名が殺害された。襲撃グループは「黒い9月」と呼ばれるパレスチナ過激派組織であった。しかしこれによってPLOはイスラエルに追い詰められ、複雑な国内事情を抱え内戦状態にあったレバノンの国内事情も重なり、PLOは1982年、ベイルートからチュニジアに落ち延びることになる。
落ち延びたのはPLOという組織だけではない。ヨルダンに避難したパレスチナ人の個人々々も同様である。しかし避難先のヨルダンは貧しく、とても安住の地と言える場所ではなかった。ある者は豊かな生活を求めて更なる移住を目指す。そのころ丁度クウェイトやイラクで石油開発ブームが始まろうとしていた。彼らは出稼ぎ者として産油国に押しかけた。こうしてパレスチナ人の選択肢は二つに分かれた。PLOと行動を共にしてゲリラ戦闘員になるか、さもなくば家族を連れて異国を渡り歩くか、のいずれかであった。
第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)でヨルダン川西岸のトゥルカルムからヨルダンに難を逃れた教師のシャティーラ一家と医師のアル・ヤーシン一家は今度も行動を共にして第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した1956年、クウェイトに移った。豊かな石油収入で国造りを目指すクウェイトは教育と医療に力を入れ高給を餌に多数のアラブ人を招き寄せたからである。
パレスチナ人は二千年の昔のユダヤの民のごとくディアスポラ(離散)の民となった。
(続く)