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(目次)
第2章:戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界
荒葉 一也
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7.第三次中東戦争とナセルの死
1964年に結成されたPLO(パレスチナ解放機構)は祖国の地パレスチナをイスラエルから奪回するための活動を開始した。当初活動の拠点はヨルダンのアンマンにおかれた。
この頃中東では、エジプトとシリアのアラブ連合結成(1958年)とその解消(1961年)、イラクとヨルダンのハシミテ王国連邦結成および同じ年のイラク革命による連邦解体(1958年)、イエメン内線(1962年)などアラブ諸国は内輪もめを繰り返していた。これを横目でじっと眺めていたのがイスラエルである。エジプト、シリア、イラクなど各国の独裁的指導者たちは自分たちの失政を糊塗し、あるいは権力を正当化するため自国民に向けて「イスラエルを地中海に突き落とせ」と声を張り上げた。独裁者が国民の目をそむけるためにヘイトスピーチによる外交的扇動を行うのは洋の東西を問わない。
一方のイスラエルも国内向けに亡国の危機キャンペーンを張った。時の首相は退役した隻眼の猛将モシェ・ダヤンを国防相に呼び戻した。ダヤンの戦略は先手必勝である。彼は世界第一級の諜報組織モサドが集めた周辺アラブ諸国の情勢を分析し、奇襲攻撃のタイミングを探った。
1967年6月5日午前8時を期してイスラエルの奇襲攻撃が始まった。目指す相手は国境を接するエジプト、ヨルダンおよびシリアである。まずシナイ半島のエジプト空軍基地を奇襲し、空爆で滑走路を使用不可能にするとともに、駐機していたソ連製戦闘機すべてを破壊した。寝覚めを襲われたエジプト側は全く反撃できなかった。イスラエル軍は怒涛のごとくシナイ半島を横断、スエズ運河の対岸に達したのである。
シナイ半島を制圧したイスラエルは踵を返すとヨルダン川西岸のヨルダン領を占領、さらにシリア領のゴラン高原も押さえた。第三次中東戦争はイスラエルの圧勝、エジプトはじめアラブ側の惨敗と言う結果に終わった。両者の戦闘はわずか6日間で決着が付いたのである。このため第三次中東戦争は俗に「6日間戦争」と呼ばれている。この戦争でイスラエルはシナイ半島とガザ地区、ヨルダン川西岸地区及びゴラン高原を一挙に手に入れ国土面積は倍増した。シナイ半島は後にエジプトに返還されたが、その他のガザ地区、ヨルダン川西岸およびゴラン高原は今もイスラエルによる占領状態が続いている。
スエズ運河はしばらく閉鎖され国際経済に多大な影響が出た。それよりももっと大きな悲劇はヨルダン川西岸に住んでいたパレスチナ人たちの上に降りかかった。彼らの多くは難民となってヨルダンに雪崩れ込み、その数は百万人に達した。
ナセル大統領は敗戦の責任を取って6月9日夜あらゆる公職からの辞任を表明した。しかしエジプト国民のナセルに対する思いは敗戦で消えるどころか、むしろエジプトを救えるのはナセルしかいないという熱思いが噴出した。辞任表明の直後からカイロ市民はナセルの翻意を求め街頭に繰り出してデモ行進を始めた。真っ暗な灯火管制の中で巨大な群衆の渦が生まれた。辞任表明からわずか3時間半後、ナセルは問題を国民議会の決定に委ねるとの声明を発表した。翌10日早暁、国民議会はナセルに国家元首としてとどまるよう要請し、ナセルは大統領職を続けることになったのである。
8月、アラブ諸国はスーダンのハルツームでアラブ首脳会議を開き、三つのノー(No)と呼ばれるイスラエルに対する強硬路線を採択した。すなわち「ユダヤ人国家は承認しないというNO」、「イスラエルとは交渉しないというNO」、そして「アラブとイスラエルの和平はNO」と言う居丈高な宣言であった。実はエジプトもヨルダンも米国を仲介役とする話し合いでイスラエルから領土を取り戻したいと願っていたが、虚勢としか言いようのないアラブ各国首脳の掛け声に押し流されたのである。
ナセルはその後3年近く大統領の座を保ったが、本人自身がレームダック(死に体)であることを最も良く理解していたに違いない。1970年8月、イスラエルとの停戦を実現すると、その翌月現職大統領のまま52歳の若さで心臓発作により急死したのであった。
(続く)