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石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(198完)

2024-08-24 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

エピローグ(10

 

198 見果てぬ平和(3/3)

現状で見る限りアラブ世界では学生たち民主主義勢力の成果は部族勢力或いは宗教勢力が引き継いでいる。民主主義勢力は「成果を横取りされた」と嘆くが、それが現代アラブ・イスーラム世界の現実である。アラブ・イスラーム世界では部族という「血」の絆、そしてイスラームという「心」の絆は強く根を張っているが、民主主義に代表されるイデオロギーという「智」の絆が欠けている。イデオロギーは智(=頭脳)の産物であるが、中東にはそれが無いのである。だが「血」の絆、或いは「心」の絆では対立は解消されない。イデオロギーは必ずしも西欧流の民主主義である必要はないが、中東に何らかのイデオロギーが生まれなければ次なる平和への展望は開けないように思われる。

 

「アラブの春」以前の独裁政治の長い窮屈な時代が今よりも平和であったという庶民の声が聞こえる。現実の混乱状況(カオス)の前ではそれは確かに一面の真理を突いている。「自由な平和は短く、窮屈な平和は長続きする。」ということであろうか。皮肉なパラドックスである。

 

戦後七十五年、歴史は目まぐるしく変化した。変化の速さに慣れた現代人は、自分の生きている間に歴史が動くものと錯覚しているのかもしれない。その錯覚の先にあるのが永遠の平和であろう。中東の平和は見果てぬ夢なのであろうか? 夢で終わらせずいつか平和の女神から月桂冠を受け取る偉大な指導者が中東に現れることを願ってやまない。

 

(完)

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(197)

2024-08-22 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

エピローグ(9

 

197 見果てぬ平和(2/3)

「国破れて山河在り」というのは東洋思想である。しかしイスラームの一神教の世界ではそのような自然観を持つことも難しいようである。アラブの年配者たちの間では「これもすべてアラーの思し召し」とばかり運命をあるがままに受け入れる者も多いが、現世の矛盾と不平等に内心の怒りをたぎらせる若者はアラーが約束した来世の天国に急ぐため、「殉教」の名のもとに自爆テロに走る。

 

ITの世界を好む若者たちはテロリストにはならずインターネットのSNSを通じて社会改革を求める。彼らはSNSで独裁者打倒の反政府デモを呼びかける。呼びかけに応じて多数の若者が街頭に繰り出し独裁者の退陣を勝ち取ったのが「アラブの春」であった。しかしその後が続かない。それはなぜだろうか。インターネットで呼びかければ世の中がかなり簡単に動くことは実証された。しかし世の中を動かすことは簡単であっても、世の中を変えることはたやすくない。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(196)

2024-08-20 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

エピローグ(8

 

196 見果てぬ平和(1/3)

 皮肉にも「アラブの春」が中東でそれまでにない大量の難民を生んだ。故郷で名も無くつつましく暮らしていた彼らはやむを得ず国境を越えて逃げ延びた。そもそも彼ら庶民にとって「国境」は自分たちが生まれる前に英国とフランスがサイクス・ピコ協定を結び自分たちの手の届かないところで勝手に線引きしたものであった。そして今、「IS(イスラム国)」によって自分たちの目の前で国境が「溶けて」行こうとしている。

 

 国境があるがために紛争に巻き込まれ故郷を追われる中東の難民の苦悩は、周囲を海に囲まれ地上の国境線を持たないがゆえに当たり前のように平和を享受している日本人には理解することはとても難しい。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(195)

2024-08-17 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

エピローグ(7

 

195 増え続ける中東の難民(3/3)

彼らは着の身着のままで地中海を渡ろうともがく貧しいアフリカ難民とは異なり、難民ではあっても無一物ではなかった。難民の定義づけではアフリカ難民は経済難民であり、これに対してシリア難民は政治難民である。そのシリア難民が命の次に大切にしたものがスマートフォンであった。徒歩で西に向かう彼らはスマートフォンで現在の居場所を確認するとともに、先を行く知人友人からどこの国境検問所が難民を受け入れそうか、或いは国境が閉鎖されている場合は無断越境が可能なルートを探る。さらにそれらの情報を自分たちの後を追っている友人や親戚に知らせる一方、すでにヨーロッパに移住している親族と連絡を取り合って落ち着き先を探す。スマートフォンはまさに命綱であった。

 

 しかしヨーロッパ各国の難民の受け入れも限界に近付いたようである。各国の経済負担の限界を超えたというよりもむしろ大量の移民がもたらす市民自身の失業に対する不安感或いはイスラームテロなどに対する政治的社会的恐怖心が蔓延してきた。すでに多くのアフリカ難民がヨーロッパの大都市周辺に定住し、そこで生まれ育った移民二世たちの失業率は高く、彼らのある者はイスラームの過激思想に染まり、自暴自棄に陥り都市での自爆テロに走るようになった。他方、白人たちの不安を掬い取るように極右勢力は移民排斥、イスラーム排斥を主張して国民の支持を集めている。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(193)

2024-08-13 | 中東諸国の動向

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エピローグ(5

 

193 増え続ける中東の難民(1/3)

国家間の戦争或いは国内で内戦が勃発すると何の罪もない市民に多くの犠牲者が出る。それは戦火に巻き込まれる死者や負傷者という形だけではなく、戦火に追われて住み慣れた土地や家を失い異郷を彷徨う難民になる者も少なくない。

 

第二次大戦後の中東で難民が最初に発生したのはイスラエル独立戦争(第一次中東戦争)であった。彼らはパレスチナ難民と呼ばれ、イスラエル国内のパレスチナ自治区と周辺のヨルダン、レバノンに逃れた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に登録されたパレスチナ難民は450万人に達するとされる。レバノンには十二の難民キャンプがあり45万人が劣悪な環境の中で暮らしている。

 

パレスチナ難民問題が解決しないまま、さらに大規模な難民が発生した。「アラブの春」を契機にシリアで政府軍と反政府軍が衝突、さらに過激なイスラーム原理主義組織が「イスラーム国」(IS)の樹立を宣言するに及んで、シリア、イラクにまたがる紛争地帯で大量の難民が生まれたのである。「難民」を「量」として十把一絡げにしてしまう「大量の難民」という言い方には良心の呵責を感じるがほかに適切な呼び方が無い。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(192)

2024-08-10 | 中東諸国の動向

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(目次)

 

エピローグ(4

 

192 東と東の遭遇(4/4)

パレスチナからヨルダンさらに湾岸諸国へと東に移動したシャティーラは今度は一足飛びに西半球の米国に移住したのであった。彼はそこで豊かとは言えないが、平和な生活を手に入れた。キリスト教国の米国でイスラーム教徒が生活することは決して楽なことではなかったが、米国はやはり平和と安全に守られた世界一の国であった。

 

米国とヨルダンの間で手紙と電話が頻繁に交換された。遠く離れたヨルダンに住む両親やかつての同僚とはこれから先、顔を合わせることができるかどうかはわからない。それでも彼らの「血」の絆がゆらぐことはない。父親からの手紙でかつての隣人アル・ヤーシン家の娘ラニアがカイロ留学から戻り、ジャーナリストとして活躍している時、ハシミテ王家の皇太子に求婚され現代のシンデレラになったと知らされた。パレスチナ人の血とイスラームの始祖ムハンマドに連なる由緒ある家系ハシミテ家の血が一緒になったのである。それは新しい時代を予感させる出来事であった。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(191)

2024-08-08 | 中東諸国の動向

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(目次)

 

エピローグ(3

 

191 東と東の遭遇(3/4)

彼らは温厚で誠実な日本の企業で働くことができたことに素直に感謝していた。そして第二次世界大戦に敗れ焦土と化したその国が奇跡的な復興を遂げ、今では自分たちの身の回りに自動車、テレビ、カセットレコーダー、冷蔵庫など日本製品があふれていることに驚異と称賛を惜しまなかった。さらに日本人たちが人種の差別なく平等に扱ってくれることがうれしかった。それはこの会社に入るまでには無かった経験であった。

 

会話が弾む中、背後のカセットレコーダーから聞き覚えのない澄んだ女性歌手の歌声が流れてきた。メロディーはどうも中国の歌曲のようである。シャティーラが隣席の日本人に聞くと、歌手は有名な台湾女性で歌曲名は「ホー・リー・チン・ツァイ・ライ(何日君再来)」と言うらしい。愛する人との別れを惜しみ、いつの日か再会できることを願う歌だそうだ。

 

人生難得幾回醉,不歡更何待!

(人生で幾度も酔えるものではない、ためらうことなく今を楽しみしましょう)

來、來、來,喝完了這杯再説吧。

(さあ、さあ、さあ、まずこの一杯を飲み干しましょう)

今宵離別後,何日君再来?

(今宵別れたら、君はいつまた来るの?)

 

パレスチナ人にとって「君」とは「平和の女神」であった。「平和」はいつも彼らのもとを足早に通り過ぎる。甘く切ないメロディーと歌声がアラブ音楽とはまた一味違う郷愁を呼び起こした。中東(Middle East)と極東(Far East)の名も無い人々の心が触れ合う一夜。それは東と東が遭遇するひと時であった。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(190)

2024-08-06 | 中東諸国の動向

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(目次)

 

エピローグ(2

 

190 東と東の遭遇(2/4)

クウェイトとサウジアラビアの国境地帯で操業していた日本の石油開発会社で働く3人のアラブ人たちも決断を迫られた。ヨルダン人のカティーブはパレスチナ人のザハラを誘って、実家のあるアンマンに帰ることにした。出稼ぎ中に貯めた資金を元手にカティーブはアパート経営を、ザハラは自動車修理工場を立ち上げるつもりであった。残るもう一人のパレスチナ人シャティーラは米国で働く弟を頼って移り住むことにした。東へ東へと向かっていたパレスチナ人たちは、一転して西へと移動し始めた。

 

ある一夜、日本人の同僚が三人のために送別会を開いてくれた。日本人専用の社宅のためサウジアラビアでは御法度のアルコールもふるまわれ一同は思い出話にふけった。勤務年数は最も長いシャティーラで三十年、カティーブでも二十一年に達し人生の壮年期を日本企業で働いたことになる。出稼ぎ者の彼らがこれほど長く一つの会社に勤めることは珍しい。普通のクウェイトやサウジの企業であれば、オーナーの気まぐれで首になったり、或いはオーナーの横暴に耐えかねて転職していたに違いない。しかし日本人の会社は落ち着いて働ける会社であり、職場環境は居心地が良かった。政府と会社の利権契約が2000年までであり、彼らはできればその時まで働き続けたいと思っていた。しかし歴史に振り回されてきたパレスチナ人たちは今回の国外追放も運命の一つとして淡々と受け入れたのであった。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(189)

2024-08-03 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

エピローグ(1

 

189 東と東の遭遇(1/4)

イスラエルとの戦争でヨルダン川西岸のパレスチナの地を追われ東隣のヨルダンに逃げ延びたパレスチナ難民たちは、生活のため1960年代前後に石油ブームに沸くクウェイト、サウジアラビアなど豊かな湾岸諸国に出稼ぎ者として移り住んだ。そこはヨルダンからさらに東方であり、この時期パレスチナ難民は東へ東へと向かったことになる。彼らはもちろん湾岸の地を終の棲家にしようとしたわけではない。湾岸諸国は彼らの永住を認めなかったし、彼ら自身も石油の富を鼻にかけた無能で尊大なだけのベドウィンの国は我慢できなかった。パレスチナ人の多くは国際社会の仲介でイスラエルとパレスチナが平和協定を締結し二国家共存体制になれば祖国の地に帰還できると期待していた。

 

しかし度重なる中東戦争でパレスチナ独立の夢はむしろ遠のいた。それに追い打ちをかけたのが1990年のイラクによるクウェイト進攻であった。世界中がフセイン政権の暴挙を非難し、とりわけサウジアラビアなど湾岸の王制国家はクウェイトの次の餌食になるのではないかと強い危機感を抱いた。ところがヨルダン政府とPLO(パレスチナ解放機構)はイスラエル打倒を叫ぶフセインを支持したのである。その結果湾岸戦争の後、当然のことながらクウェイト及びサウジアラビア政府は出稼ぎのヨルダン人及びパレスチナ人全員を国外追放処分にした。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(188)

2024-08-01 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(21

 

188 シリア情勢:敵の敵は味方か敵か?(5/5)

しかし最近になって諸外国の共通目標がIS(イスラム国)の壊滅に絞られた。これに対して劣勢に立ったIS(イスラム国)が欧米やロシアに住むムスリム(イスラーム教徒)に自爆テロを呼びかけている。さらにIS戦闘員が自国に戻ってテロ活動を行う恐れも大きい。前者はホームグローン・テロ、即ち「ご当地テロ」であり、後者は「里帰りテロ」ということになる。これら「ご当地テロ」と「里帰りテロ」を防ぐためにもできるだけ早くISを壊滅しなければならない。そのISに今対抗できるのはシリア政府の正規軍とシリア民主軍のクルド人部隊しかない。ただクルド人部隊は米露トルコいずれも支援する立場にない。

 

結局奇妙なことに米国など欧米諸国は空爆でIS(イスラム国)の拠点を叩くだけで、アサド政権退陣の要求はひとまず棚上げし、シリア政府とロシアの軍事行動を黙認することになる。シーア派のアサド政権が最大の敵であり、消去法で已む無くリベラル反政府勢力のシリア民主軍を応援してきたサウジアラビアなど湾岸諸国は米国からはしごを外された格好である。

 

敵の敵は味方か、それとも別の敵か? 混迷深まるシリア情勢は先の見えない中東情勢そのものと言えよう。

 

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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