石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(174)

2024-06-29 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(7

 

174 「アラブの春」の訪れ(3/4)

そのような庶民の絶望感がチュニジアで2010年12月、ある事件を引き起こした。生活のため已む無く路上で野菜を売っていた失業中の一人の青年に対して警察官が当局の許可がないことを理由に商品を没収した。当時のチュニジアの失業率は14%と公表されていたが、実際にはもっと高く、特に青年層では25~30%と言われるひどい状態であった。生活の糧を奪われた青年は市役所前の広場で抗議の焼身自殺を図った。焼身自殺そのものはイスラーム世界でもさほど珍しいことではなく、そのままであれば地元の新聞に小さく扱われただけだったと思われる。

 

しかし偶々通り合わせた市民が一部始終を動画に収めてYouTubeに投稿したため騒ぎが一挙に拡大した。SNSは一端ネット上に掲載されると際限もなく拡がる。事件の一部始終をネットで見た若者たちは直ちに抗議活動に立ち上がり、デモを呼びかけた。デモはたちまち首都チュニスから全国に広がった。デモ隊は23年間にわたるベン・アリ大統領の退陣を求めた。デモ参加者の殆どは生まれた時からずっと同じ大統領である。彼らは「もう沢山だ(ファキーア)!」と叫んだのである。燃え盛る反政府デモに押され、ベン・アリ大統領はわずか1か月後政権を放り出してサウジアラビアに亡命したのであった。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(173)

2024-06-27 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(6

 

173 「アラブの春」の訪れ(2/4)

勿論そこには独裁者による巧妙な世論操作もあるが、大統領の多選を禁じた憲法は圧倒的多数で改正され彼は終身大統領となる。こうなれば国家は独裁者の思うままである。彼の権力基盤は盤石となり長期政権が延々と続く。さらに権力の世襲化も起こる。2000年に父親のハフィーズから息子のバシャールに大統領を引き継いだシリアのアサド政権に続き、リビアのカダフィ、そしてエジプトのムバラクも息子に権力を譲ろうと画策した。

 

しかし権力は必ず腐敗するものである。政治社会組織にはほころびが目立ち始め経済は長期低落の罠に落ち込む。人気取り政策でパンやガソリン代、水道電気代は安く抑え込まれるため庶民の日常生活は一見支障のないように見えるが、街には失業者があふれ、庶民は明日の見えない閉塞感に襲われる。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(172)

2024-06-25 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(5

 

172 「アラブの春」の訪れ(1/4)

イラクのフセイン政権崩壊後もアラブ諸国の多くは強権的な独裁国家或いは世襲の君主制国家のままであり、西欧型の民主主義国家と言えば北アフリカのアルジェリア、中東のレバノン及び米国によってフセイン政権が叩きのめされ民主化にもがいていたイラクだけと言っても過言ではなかった。リビアのカダフィ政権、シリアのアサド政権、イエメンのサーレハ政権、エジプトのムバラク政権、チュニジアのベン・アリ政権はそれぞれ30年前後もの間独裁政権を続けていた。

 

独裁者は大衆の心をつかむのがうまい。多くの場合独裁者は国家が乱れ国民が社会的経済的な混乱に右往左往している時に颯爽と登場する。混乱に倦み疲れた国民は彼が独裁者であると薄々わかっていながらも、社会に安定をもたらしてくれることを期待する。独裁者は強権的な手法で社会に秩序を打ち立て、さらに人気取りのポピュリズム政策で大衆の心をしっかりとつかむ。国民は熱狂して彼を支持し指導者として終生とどまることを求める。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(171)

2024-06-22 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(4

 

171 もう沢山!長期独裁に倦んだ大衆(4/4)

このような長期支配体制の国では1970~1980年代生まれの若者たちは物心ついた時の国家元首が成人になってもなおそのままである。若者たちは停滞感と閉塞感に包まれた社会の中で大人になる。彼らが一様に口にするのは次の言葉であった。

「もう沢山だ!」。アラビア語で言えば「キファーヤ!」。

 

「キファーヤ」はエジプトでムバラク政権に抗議する運動のスローガンとして2000年代初めに広がった。この言葉はインターネットのSNSを通じ各国で形を変えて若者たちの間に深く浸透していった。それが実際の革命運動にまで転化したのが2011年の「アラブの春」であった。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(169)

2024-06-18 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(2

 

169 もう沢山!長期独裁に倦んだ大衆(2/4)

MENAで最初に独裁者の地位を得たのはリビアのカダフィであった。カダフィのことは第4章でもふれたが、彼は1969年にクーデタで当時の国王を倒して最高指導者となった。若干27歳であった。彼はそれから42年間もその地位を保ち、2011年に内戦で69歳の人生を終えた。

 

彼の後に現れたのがシリアのハフィーズ・アサドである。シーア派の一派とされるシリア北部のアラウィー派の少数部族出身のアサドは空軍将校を経てバース党内で頭角を現した。1971年に大統領に選出されたハフィーズは長期政権体制を確立し次男のバシャール・アサドを後継者に指名して2000年に心臓まひで死亡した。バシャール・アサドは現在も同国大統領の座にある。親子で通算するとすでに半世紀以上経過している。

 

このほか1970年代に一国のトップに駆け上り、その後長期間にわたり独裁を続けた人物にイエメンの故サーレハ大統領とイラクの故フセイン大統領がいる。サーレハは陸軍総司令官を経て36歳の時の1978年に統一前の北イエメン大統領に就任、南北統一後も大統領の座を守り2011年のアラブの春で失脚した。彼は下野した後も反政府のフーシ派と連合勢力を結成、首都サナアを占拠して復活を狙っていたが、2017年にフーシ派によって暗殺された。2011年までの大統領在任期間は33年に達する。そしてイラクのサダム・フセインはバース党幹部から1979年にイラク大統領に就任した。その後、イラン・イラク戦争さらに湾岸戦争をしぶとく生き延びたが、2003年のイラク戦争で失脚、裁判によって処刑された。彼の大統領在任期間は24年間であった。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(168)

2024-06-15 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

第7章:「アラブの春」―はかない夢のひと時(1

 

168 もう沢山!長期独裁に倦んだ大衆(1/4)

中東と北アフリカはMENAと総称されるが、このMENA地域が政変の少ない地域であったと言えば奇妙に聞こえるかもしれない。2011年のいわゆる「アラブの春」以来、この地域は激しい政治変動の嵐に見舞われている。しかし1973年の第4次中東戦争以降「アラブの春」までの40年近くMENA各国の政治は安定し、政変どころか政権交代さえなかった国が少なくない。各国で長期独裁政権が続いたのである。長期独裁政権はエジプト、シリアなどの世俗軍事政権だけではない。湾岸諸国を含めMENAに今なお残る君主制国家を含めてのことである。

 

MENA諸国はトルコ、イラン及びイスラエルを除きアラブ民族の国家であり、同時にトルコ、イランを含めムスリム(イスラーム教徒)が多数を占める国家群である。長期独裁政権を生む素地がアラブ民族と言う血(DNA)の絆とイスラームという信仰(心)の絆のいずれにあるのか、或いは両者があいまって政治的安定と言う名の長期独裁政権を生んで育てたのか。答えは簡単に出ないが、西欧諸国と比べた場合、どうしてもこの二つの要素が浮かび上がるのである。

 

そしてもう一つ、これらMENA諸国の政治的安定が各国の経済的繁栄や科学技術の進歩をもたらさなかったことも指摘できる(石油ブームで繁栄を勝ち得た湾岸諸国は例外)。似たような強権体制でありながらタイ、インドネシアなどの東南アジア各国が経済的繁栄を享受したのとは異なった道を歩んだのである。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(167)

2024-06-13 | 中東諸国の動向

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(目次)

 

第6章:現代イスラームテロの系譜(22

 

167 敵と味方を峻別する一神教(6/6)

米国は帝国主義時代の英国、フランスに次いで中東で大きな問題を起こした。これが間違っていたかどうかは今後の歴史が決めることである。キリスト教中世のプロテスタント異端論争ですら問題が落ち着くまでに数百年が必要であったことを考えれば、中東イスラーム世界で現在起こっている事象の正誤を判断するにはまだ相当の年月を要するに違いない。

 

中東イスラーム世界の異教対決、宗派対決、異端対決が第二次大戦後のわずか100年足らずで円満解決の大団円になるはずはない。しかるにこの世に正義と神の国を実現せんとして真っ向から対決する米国もISも解決を急ぎすぎている。

 

甚だ無責任な言い方に聞こえるであろうが、ここしばらくは「奢れるものは久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」の心境で事態の推移を見守るほかないようである。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(166)

2024-06-11 | 中東諸国の動向

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(目次)

 

第6章:現代イスラームテロの系譜(21

 

166 敵と味方を峻別する一神教(5/6)

ところがイラク戦争は全く別の次元で始まり、別の次元で終わった。米国がイラク戦争の開戦理由とした大量破壊兵器は見つからず、またフセイン政権とアルカイダとの関係も証明できなかった。湾岸戦争ではクウェイト解放という大義名分があったが、イラク戦争が何だったのか米国は答えられない。

 

それでも米国は戦争により圧制者サダム・フセインの政権が倒れ、イラクに民主政権誕生の素地が生まれたと主張した。しかしフセイン政権崩壊後のイラクはまるでパンドラの箱を開けたかのごとき様相を示した。3年後の2006年、サダム・フセインは公開裁判を経て処刑されたが、イラクはスンニ派とシーア派が攻守を変えた政争に明け暮れている。そこに付け込んだのが「イラクとシリア(或いはシャーム)のイスラム国(略称ISIS)」であり、後にアブ・バクル・アル・バグダーディが自らカリフを名乗る「IS(イスラム国)」となって猛威を振るっている。

 

(続く)

 

荒葉 一也

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(165)

2024-06-08 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

第6章:現代イスラームテロの系譜(20

 

165 敵と味方を峻別する一神教(4/6)

イスラームの場合、原理主義はムハンマドの布教初期の精神に立ち返ろうと呼びかけるサラフィー主義、つまり復古主義である。原理主義者たちは教義と組織を近代社会に合わせようとしているのではなくむしろその逆である。

 

なぜそのような復古主義が大手を振ってまかり通るのか。それはイスラームがたかだか7世紀余り前、すでにある程度の世界規模の通商体制が整った14世紀に生まれたためと考えられる。原理主義者たちは7百年前の当時に戻ることが可能だと説く。キリスト教にも原理主義はあるが(元来「原理主義」という言葉は米国福音派の機関紙名が起源である)、キリスト教が生まれた今から2千年前は農耕牧畜の農奴社会の時代であり、生活のすべてを復古することはあり得ず、ただキリストの教えの原点に立ち返ろうということになる。ところがイスラームの原理主義者たちはできるだけ昔の生活を取り戻そうと本気で考える。

 

原理主義者たちは自分が絶対正しいと信じ込んでいるだけに拙速に自分たちの理想の実現に取り組む。この結果、彼らは対決する相手だけではなく、一般市民からも敬遠される。それでも彼らの勢力が衰えない間は、彼らは一般市民を無理やり従わせようとする。従わない者は「異端者」或いは「背教者」として暴力的に排除される。そして彼らの思想に同調或いは感化された過激な若者をテロリストとして利用し、自爆テロで命を落とした場合は「殉教者」として祭りあげる。教義に逆らえない一般市民はただただ過激な原理主義の嵐が通り過ぎるのを耐えて待つことになる。

 

(続く)

 

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(164)

2024-06-06 | 中東諸国の動向

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(アラビア語版)

 

(目次)

 

第6章:現代イスラームテロの系譜(19

 

164 敵と味方を峻別する一神教(3/6)

これら三つの対決をイスラームの側面で見ると、異教対決とはイスラームとキリスト教及びユダヤ教との対決となる。イスラエルとアラブ諸国の間の中東戦争、或いはアル・カイダが911同時多発テロを始め世界各地で引き起こした対米テロ事件は異教対決のケースと言えよう。ソ連共産主義と対決したアフガン戦争は一神教対無神論の対決として一種の異教対決と見ることができる。そして二つ目の宗派対決はシーア派対スンニ派の対決としてのイラン・イラク戦争がその典型と言える。

 

三つ目の同一宗派内の異端対決は現代イスラム世俗主義とイスラム原理主義(サラフィー主義)の対決となるが、こちらは少し問題が複雑になる。何故ならこの対決ではお互いに自分たちこそ正統派であり、相手方を異端者、背教者と呼び合う。それぞれが自分たちこそ教祖ムハンマドの正しい教えに従っていると主張して互いに譲らない。妥協の余地は全くないと言ってよい。

 

異端対決は中世キリスト教社会でも起こった。カソリック対プロテスタントの対決である。しかし西欧キリスト教社会はこの対決を克服し、相互不可侵の形で共存している。しかるにイスラームではどうしてこの対決を克服できないのであろうか。

 

(続く)

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

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