石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

(連載)「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」(23)

2013-10-31 | その他

元本社重役の限界
 日本オイルエンジニアリング(JOE)の業績は回復するどころか下降線をたどる一方であった。ただ競合製品に押され業績が急速に悪化するメーカー或いは不良貸し付けが表面化し一気に倒産に追い込まれる銀行のようなケースと異なり、エンジニアリング会社の場合、業績は真綿で首を絞めるように徐々に悪化する。受注が低迷しても人材と蓄積した技術が売り物であるエンジニアリング会社では人件費に手がつけにくいからである。このため社員に危機意識が生まれず厄介である。合理化委員会なるものを立ち上げたが、話が人員整理に及ぶと「エンジニアリング会社は人材が命。希望退職募集などもっての他。」と技術サイドからは猛烈な反発を食らう。特に石油開発部門の技術屋には、自分たちが日本の石油資源の将来を担っている、と言う強烈なプライドがあり、業績低迷は経営者の能力不足だと言い張る。多少とも世間の荒波にもまれた筆者の目には世間知らずの甘えにしか見えないが、彼らは本当の世間知らずであるだけに始末が悪いのである。

 そのような中で親会社のアラビア石油が営業担当の専務取締役を会長として送り込んできた。現場の技術屋たちは親会社のテコ入れに大いに期待した。そして新会長自身も就任の挨拶で、自分には石油業界に強い人脈があるので先頭に立って仕事を取ってくる、と宣言した。営業経験の長い彼が顧客である石油精製業界と深いつながりを持っていることは間違いがなかった。

 しかし筆者自身は余り楽観していなかった。と言うのは精製業界にいる友人或いは仕事柄知己を得た業界紙の記者に聞く限り、アラビア石油に対する精製業界の評判が必ずしも良くなかったからである。それは本稿の第6回でも触れたとおり、アラビア石油のカフジ原油は硫黄分が多くガソリン溜分の少ない重質原油であり、日本の市場にマッチしていなかったことが最大の理由であったが、もう一つの理由はエネルギー自給率の向上を至上命題とする通商産業省(現経済産業省)が精製設備新設の許認可権をちらつかせカフジ原油を半ば強制的に引き取らせていたことにあった。精製業界はアラビア石油を政府がバックアップする企業とみなしていた。実際アラビア石油の社長が官僚の天下りであったからそのように見られるのも当然だったと言える。

 アラビア石油の営業担当専務が精製業界へのカフジ原油の売り込みに苦労したしたことは間違いないであろう。しかし相手側にとっては彼の肩書がアラビア石油専務取締役であったからこそ義理を欠かない対応をしていただけであり、JOE会長としての彼には何の義理もない訳である。そのようなことは企業社会では当たり前のことであり筆者が改めて言うまでのことはないであろう。

 不幸にして新会長の営業努力は結実しなかった。技術屋たちは失望し以前にも増して親会社から派遣された経営陣に対して不信感を抱くようになった。業績は年を経るごとに益々悪化していった。そのような中で筆者は2年後の1995年、別の子会社に移籍したのである。JOEはその1年後に大規模なリストラを余儀なくされた。筆者は後任となったJOE生え抜きの新管理部長から度々リストラの有様を聞かされたが、それはまさに修羅場だったようである。そのため彼自身も結局リストラが一段落したところで自主退職したほどであった。

 1989年からの数年間を振り返るとなぜか事態が急変する前に転勤を繰り返していることになる。即ちマレーシア赴任の前後を考えると、湾岸戦争の騒動に巻き込まれる直前に東京本社からマレーシアに転勤しており、また本格的なマレーシア撤退、つまり現地事務所を閉鎖し、資機材を売り払い、現地従業員を解雇する前に東京に帰任している。今回のJOEの場合も大規模な人員整理に手をつける前に別の子会社に配置換えになった。転勤はすべて会社の人事命令によるものであり、筆者はその命令を一度たりとも拒んだことはない。全ては流れに身を任せただけのことである。その結果、修羅場或いは愁嘆場を経験しなかったことは偶然のめぐりあわせとしか言いようがない。但しそのことに対して今でもかすかながら忸怩たる思いを覚えることがある。自分でも理由は解らないがそう思うのである。

 JOEに勤務した1993(平成5)年5月から1995(平成7)年5月までの2年間、世間では皇太子ご成婚(平成5年6月)、田中角栄元首相死去(同年12月)、村山内閣発足(平成6年6月)、大江健三郎ノーベル文学賞受賞(同年10月)、阪神・淡路大震災(平成7年1月)、地下鉄サリン事件(同年3月)などの出来事があった。

(続く)

(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
 前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
   Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
   E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp

 

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ニュースピックアップ:世界のメディアから(10月30日)

2013-10-30 | 今日のニュース

・イラク・バスラからの10月石油輸出量192万B/Dに回復。顧客の期待下回る

 

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ニュースピックアップ:世界のメディアから(10月29日)

2013-10-29 | 今日のニュース

カタールガス会長:LNG販売はスポット市場より長期契約で

・サウジアラビアKACSTと中国大学が初の石油精製フォーラム開催

 

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(連載)「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」(22)

2013-10-28 | その他

深窓育ちの技術者たち
 出向した子会社は石油開発のエンジニアリングを専業とする「日本オイルエンジニアリング」(Japan Oil Engineering、略称JOE)。国内にはエンジニアリング企業が多数あり、石油・石油化学の分野では日揮、千代田化工などの大手企業があるが、石油上流部門に特化しているのはJOEだけである。社員は百数十名で決して大手とは言えない。社長は歴代アラビア石油出身者であり、筆者はその会社の管理部長を命ぜられた。

 社員には地質、油層工学など石油開発分野の技術者が多く、しかも東大など一流大学の博士課程卒業生が少なくなかった。社内には事務屋を軽視し、技術屋ですら博士号が無ければ一人前とみなさない独特の雰囲気があった。また東大卒の技術者は入社数年を経ずして石油開発技術の本場である米国の大学に留学させる制度もあった。売上、社員数ともさほど大きくないエンジニアリング企業として異色の存在であった。

 戦後の高度成長期の日本は製造業や建設業などいわゆる「モノ造り」が中心であった。そのため大学の技術系学部も化学、機械、電気、土木建築などの学生が圧倒的に多く、一次産業を対象とした地質、油層工学などは学生の人気が薄い。裏返せば石油開発を学ぶ学生は母校に残ることのできるごく少数を除き、その他大勢組の就職先は限られている。JOEのような世間から見れば中小企業と言える会社に東大出の技術者が多数いたのはそのためである。

 筆者が出向した時は事務所の移転準備中であった。それまでの事務所は銀座のど真ん中にある旧リッカービルに事務所を構えていたが、親会社のダイエーが傾きビルが再開発の対象となったため立退きを求められていた。その結果、JOEはまとまった金額の補償金を得てJR大塚駅近くのビルに移転することが決まり、着任後の最初の大仕事が引っ越しプロジェクトとなった次第である。

 事務所移転は5月末に無事終わり管理部長としての本格的な仕事が始まった。それは合理化と言う難題であった。人材と技術が売り物であるエンジニアリング企業は技術者を優遇することが当然であるが、営利企業である以上採算を無視するわけにはいかない。当時のJOEは企業としては収支トントンであったが、内実は大株主の富士石油から製油所の定期修理などの大型工事を特命で請け負うことにより利益を確保していたのである。石油開発技術部門はその国際的な技術水準からみて海外からの受注は期待できず、また帝国石油等国内の石油開発企業も自社の技術部門で事足りているため、JOEが受注できる余地はない。結局海外の石油開発案件を金融面で後押しする石油公団(現石油天然ガス・金属鉱物資源機構、JOGMEC)や日本輸出入銀行が行う融資審査の技術査定が主たる業務となる。ただこれらの案件は1件数百万円止まりであり人手と時間を食う割には儲からない。

 ところが厳しい競争に晒されることのない石油開発の技術屋たちはプロジェクトの採算には無頓着である。良い仕事をすれば儲けはあとから自然についてくるものと考える世間を知らない深窓育ちの技術屋集団であった。加えて彼らは一流大学を出たエンジニアと言うプライドに取りつかれている。当時の社長は技術屋とは言え建築が専門なのでかれらは社長の言うことうを聞かず、まして筆者のような事務屋は歯牙にもかけないという有様であった。合理化は遅々として進まず、会社の経営は火の車であった。折角手にした移転補償金もあっという間に人件費に消えた。

(続く)

(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
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ニュースピックアップ:世界のメディアから(10月26日)

2013-10-26 | 今日のニュース

・中国Sinopec、カナダのシェールガス開発の権益50%売却の意向。単独開発の投資負担に耐えられず

 

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今週の各社プレスリリースから(10/20-10/26)

2013-10-26 | 今週のエネルギー関連新聞発表

10/21 JXホールディングス    「第44回JX-ENEOS童話賞」の入賞作品について http://www.hd.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/-.html
10/21 Shell    Shell announces successful bid for giant field in deep water Brazil http://www.shell.com/global/aboutshell/media/news-and-media-releases/2013/brazil-deepwater-bid.html
10/23    JOGMEC イラクの石油・天然ガス開発技術者を対象としたイラク研修を開講 http://www.jogmec.go.jp/news/release/news_10_000051.html
10/23 昭和シェル石油    「シェル美術賞2013」 グランプリ決定 および 表彰式、展覧会のご案内 http://www.showa-shell.co.jp/press_release/pr2013/1023.html
10/23 石油連盟    木村 石油連盟会長定例記者会見配布資料 http://www.paj.gr.jp/from_chairman/data/2013/index.html#id655
10/23 石油連盟    新たなエネルギー政策への石油業界の提言と石油産業が目指すこと http://www.paj.gr.jp/paj_info/press/2013/10/23-000656.html
10/24 出光興産    ニソン製油所・石油化学コンプレックス 起工式開催 について  http://www.idemitsu.co.jp/company/news/2013/131024.pdf
10/24 国際石油開発帝石    英国 第27次探鉱鉱区公開入札における探鉱ライセンスの追加取得について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20131024.pdf
10/25 出光興産    カナダの石油・ガス会社「ペトロガス社」への資本参加に関するお知らせ http://www.idemitsu.co.jp/company/news/2013/131025.html

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ニュースピックアップ:世界のメディアから(10月25日)

2013-10-25 | 今日のニュース

出光興産参加の日・ク・ベトナム石油精製・石化合弁事業が起工式。 *

*ニソン石油・石化事業は日本から出光興産(25.1%)、三井化学(4.7%)が出資。総投資額90億ドル。
2017年運転開始予定。
出光・三井化学共同記者発表参照:
http://www.idemitsu.co.jp/company/news/2013/131024.pdf

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(連載)「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」(21)

2013-10-24 | その他

1992(平成4)年、本社帰任
 マレーシアにおける石油開発は2本目の試掘井で石油が出た後、少し離れた場所に評価井として3本目の井戸が掘られた。評価井とは地下の油田の広がりを確認するためのものであり、先の試掘井と同じ深さまで井戸を掘り、首尾よく石油が出れば油田がその位置まで広がっていることになる。このような井戸を数本掘れば油田の広がりと油層の厚みが判明し商業生産に踏み出すことができる訳である。

 しかし3号試掘井は石油が全く出なかった。現場の落胆は大きく特に現地採用のマレーシア人達の間に沈んだ雰囲気がみなぎった。プロジェクトが失敗すれば東京に帰る日本人とは違い彼らには解雇が待っているからである。会社は直ちに4本目の掘削場所を前回とは逆の方向に求めた。油田が反対方向に広がっている可能性に一縷の望みをつないだのである。経費節減のため本社から現場業務縮小の方針が示され、管理部長の筆者は帰任を命ぜられた。

 二度目の海外赴任を終え1992年5月、本社総務部次長兼総務課長となった。湾岸戦争から一年以上経ち外見上本社の中は赴任前と変わらない様子であった。しかし社員の心の中には目に見えぬ傷跡が残っており、職場には何とも言えない「ざらついた」感触が漂っていた。利権終結の2000年まで残すところ10年を切った。前年3月小長副社長が社長に就任している。

 社業の立て直しと社員の士気高揚を図る一策として創業35周年記念の社史が編纂されることになった。社史のタイトルは「湾岸危機を乗り越えて~アラビア石油35年の歩み」と決められた。社史は二部構成とし前半の第一部で会社の35年の歴史を振り返り、後半の第二部は湾岸戦争勃発の経緯、戦時下の状況及び戦後の生産再開までを詳細に記録することとなった。社史と言えば社内に社史編纂室を創設し、会社の生き字引とも言えるような定年間近のベテランを起用するのが普通のやり方である。社史の内容は正確な記録を重視し年代を追って事細かに記述する余り、関係者以外の者にとっては面白味のない無味乾燥な代物となるのが普通である。

 しかしアラビア石油の場合、社長の強い意向により出来る限り読みやすいドキュメンタリー風の作品とすることと なった。ただそうなると社内に適任者が見当たらない。と言うよりも現役社員が自分の会社の出来事を読み物に仕立て上げるのは全く無理な相談である。そこで大手新聞社を退職しフリーライターとして活躍中の人物にお願いすることになった。社史編纂プロジェクトチームが編成され総務課が窓口となったため筆者もチームの一員に加わったが、実際の作業は部下のO君が専門ライターにつききりとなって働き、社内関係者とライターのインタビューに立ち会い、湾岸戦争と復旧篇の取材のためにサウジアラビア現地にも同行した。

 社史は翌1993年末に無事刊行されたのであるが、筆者は社史の完成を見ることなくその年の4月に子会社に出向を命じられた。本社の在勤期間はわずか1年足らずの短いものであり、これ以後利権期間が終結する2000年、60歳定年を待たず退職するまで二度と本社に戻ることは無かった。子会社或いは会社と関係の深い経済産業省の外郭団体を渡り歩いたのである。

(続く)

(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
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ニュースピックアップ:世界のメディアから(10月24日)

2013-10-24 | 今日のニュース

・米国WTI原油96ドルに下落。Brentとの値差は4月以来最大の13ドル

 

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ニュースピックアップ:世界のメディアから(10月23日)

2013-10-23 | 今日のニュース

・ブラジル深海油田入札でShell/Total/中国(CNOOC, CNPC)が受注。法改正で外国企業のうまみ乏しく軒並み応札辞退。国内では外資参入反対のデモも

 

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