初出:2007.8.22
再録:2019.2.27
(注)以下の人名、肩書はいずれも2007年当時のものです。
(第15回)サウド家の有力家系(4):ファハド前国王家(スデイリ・セブン3)
ファハド第5代国王[1]は1923年(1921年説もある)にアブドルアジズ初代国王の10男として生まれた。名門スデイリ家出身のハッサ王妃の最初の男子である。スデイリ妃は彼を含め7人の王子を産んだが、彼らは「スデイリ・セブン」と呼ばれ、後に国家の枢要なポストをほぼ独占する巨大な勢力となり、2005年にファハドが亡くなった後もサウド家の中で穏然とした勢力を保っている。
ファハドは二十歳を過ぎてから度々英米を訪問する機会に恵まれ、第二世代王族随一の親米派となった。1953年に教育相として入閣、1963年には内務相に就任した。翌年ファイサル第3代国王が即位すると、ハリド皇太子兼第一副首相に次ぐNo.3の第二副首相に任命され次期皇太子の地位を確かなものにした。そして1975年にファイサルが暗殺されハリドが国王に即位すると共に皇太子兼副首相となった。ハリド国王(首相兼務)が病弱であったためファハドは既に皇太子時代から実質的な首相として国政を取り仕切ったのである。そして1982年にハリドが亡くなると、ファハドは正式に第5代国王となったのである。
1970年代の二度にわたるオイルショックにより、70年代後半から80年代前半にかけてサウジアラビアには膨大なオイル・マネーが流入した。ファハドはこの豊かな資金を駆使して道路や港湾、学校、病院などを建設、国内のインフラを整備した。例えば島国のバハレーンを海上橋で結ぶ道路もその一つであり、彼の名前に因んで「キング・ファハド・コーズウェー」と呼ばれている。オイル・マネーはこのようなインフラ整備だけではなく、最新鋭戦闘機など米英からの近代兵器の調達にも費やされた。その取引で米英の武器メーカーから多額の闇献金があったことは紛れもない事実であり、ファハド及び彼の実弟スルタン国防相を含むスデイリ一族の懐を潤した(第13回「スルタン皇太子」参照)。このような民生、軍事両面のバブルによりファハド家は膨大な富を蓄積し、当時の米国の雑誌でファハド国王は英国のエリザベス女王やブルネイのハッサン・ボルキア国王と並ぶ世界的な富豪として扱われたほどである。
彼は1986年に「国王」と言う世俗的な称号に加えて「二大聖都の守護者(Custodian of Two Holy Mosques)」を名乗ることを宣言した。イスラームではマッカ、マディナ及びエルサレムを三大聖都としているが、ファハドは、このうちサウジアラビア国内にあるマッカとマディナの二大聖都の守護者である、と宣言したのである。これはサウド家に宗教的権威を持たせることにより、イスラーム諸外国及び自国民の支持を得ることが目的だった。
彼の行政手腕が優れていたことは万人の認めるところである。彼はサウジアラビアを近代国家とするために、インフラの整備に加え法制度の整備も行った。1992年に制定した国家基本法、諮問評議会法及び地方制度法のいわゆる統治基本三法がそれである。国家基本法は国家の統治制度、国民の権利義務、財政など民主国家の憲法に相当する法律である。基本法ではサウジアラビアの政体を君主制とし、国王はアブドルアジズの直系男子とすること、国王が首相を兼務することなど、サウド家の絶対支配体制が明文化された。また諮問評議会が開設され、地方行政の手続きが定められた。これらは民主国家の立法府及び地方自治制度を模倣したものであるが、諮問議会の議員及び州知事の任命権はすべて国王にあり、ここでもサウド家の絶対支配が保たれている。その意味で統治基本三法は真の民主主義と程遠い、いわゆる「コスメティック・デモクラシー(化粧を施した擬似民主主義)」と言うべき代物である。
ともあれファハド国王はサウド家王族、特にスルタンなど血の繋がった兄弟と共に拡大期のサウジアラビアを取り仕切ってきた。しかし彼は90年代半ばに重度の心臓病を患い、以後は実質的な権限をアブダッラー皇太子(現国王)[2]に委ねざるを得なくなり、そして2005年8月、遂に亡くなったのである。
ファハド国王には3人の王妃との間に7人の王子がいる[3])。アル・アヌード王妃との間に生まれたのがファイサル、サウド、スルタン、ハリド及びアブドルラハマンの5人である。ファイサル王子は青年福祉庁長官を務めたが1999年に死亡、スルタンが後を引き継ぎ、またファイサルの息子ナワーフ王子が副長官となっている。サウド王子は中央情報局副長官を務めていたが、父の死後退任している。
ジャウザ妃の1人息子ムハンマドは東部州知事である[4]。東部州はガワール油田(陸上)、サファニア油田(海上)などの大油田を抱えておりサウジアラビアの富の源泉である。サウジアラビアでは行政の中心であるリヤド州、聖地マッカと同国の商業の中心ジェッダを擁するマッカ州及び石油の東部州が三大州と呼ばれているが、スデイリ一族はそのうち、リヤド州(サルマン知事[5])と東部州(ムハンマド知事[6])の二州を押さえている。
ジョーハラ妃との間に1971年に生まれたのが末子のアブドルアジズ王子である。他の王子達はいずれもファハドの20代の時の子供であるが、アブドルアジズは彼が48歳の時に生まれ、異母兄弟たちとはかなり年齢が離れている。ファハドは寵妃ジョーハラの息子アブドルアジズを溺愛し、アブドルアジズ王子が若干27歳で国務大臣(無任所)になったのはファハドの強い願いの産物である[7]、と言われている。ファハドは病状が進行して判断能力が衰えた後も首相として車椅子に乗って閣議に出席したが、常に彼の後ろに控え車椅子を押していたのがアブドルアジズ王子であった。
余談ではあるが、ファハドの死後、その遺産の大半はアブドルアジズが相続したと言われ、それに不満を抱いたムハンマド王子(東部州知事、上記)との間で裁判沙汰になっている、とのゴシップが西欧の報道機関から流れている。ファハド家内部に亀裂が生じているようである。
(続く)
本件に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
荒葉一也
Arehakazuya1@gmail.com
(再録注記)
[1] 2019年現在の国王は第7代サルマン・ビン・アブドルアジズ(第14回「サウド家の有力家計(3)2.サルマン・リヤド州知事家参照」)
[2] 第6代国王、2015年没。
[3] 「ファハド第五代国王家々系図」参照。http://menadabase.maeda1.jp/3-1-8.pdf
[4] 1985年就任、2013年退任
[5] 2019年2月現在のリヤド州知事はFaisal bin Bandar bin Abdulaziz(初代国王11男故バンダル王子子息)
[6] 2019年2月現在の東部州知事はSaud bin Naif bin Abdulaziz(故ナイフ皇太子・内相子息)。
[7] 2011年退任。