東大・京大で2年連続でもっとも読まれた本、ってコピーのついた思考の整理学 / 外山滋比古(とやましげひこ)で採り上げた方。
あまり経歴を意識してなかったのですが、文学を専門にされていた方でした。
中年記外山 滋比古みすず書房このアイテムの詳細を見る |
近頃、こんな題名の本に惹かれます。
「おじさん的思考」もそうでした。
おじさんとしての自分を自覚したいのかもしれませんし、居心地のいい、座りのいい場所を探しているのかもしれません。
正直あまりイレコンデ読むような本ではありませんでしたが、著者自身も後書きでこう述べています。
いつどこでどんなことがあったか、というようなことを細々書くのはわずらわしい。
生活にまつわることは最小限にし、それぞれの時期に考えて、文章として発表した主張、思考のあとをたどるのを眼目にした。浮世ばなれたことが多くなり、読み物としての色どりが乏しくなったのは是非もないが、本人にとっては深切な過去の記録である。振り返って、そのときどきのひたむきな気持ちがなつかしい。こういう本ながら 読んで下さる読者があれば、まことにありがたい。
そう、頭の中で考えていらした魑魅魍魎(ちみもうりょう)たる世界のことを本にしているので、伝わりにくい部分を危惧していらっしゃるのだと思います。
とはいえ、言いたいことはわかりますよ、先生、って部分も多々あります。
作者の言葉しか認めない一元的な文学観ではなく、読者の言葉を容認すれば、
読者は異本を創出することで、しっかり創造的でありうる。読書がほかに類をみない喜びを与えるのも、この創造のおもしろさである。
読者に創造性を認めることで、文学はダイナミックで立体的なものになる。
作者は表現する。読者は解釈する。
表現の言葉と、解釈の言葉は、おのずから異なっている。むしろ異なっているべきのものである。
作者の言葉を、読者が完全に理解することは人間業としてできることではない。
分からないところは、読者が見当をつけるほかない。解釈である。
自分の言葉で、自ら新しい作品を創り出す。それが形を備えた時、異本が生じる。
こういったプロセスを経て古典が生まれる。
作者ではなく、読者によって、古典は創られる。
人間の心も同じである。
入ってくるものをまったく変化させることなく、通過させるならば、それは存在しないことになってしまう。
存在する限り、変える、歪める、変化させなくてはならない。
その意味で、すべての人間はウソをつく。つかずにはいられない。つかなければ人間ではない。
異本、文学、という建付けのなかで語られていますが、人間文化の営みそのものを突いているように思えます。
読み手なり受け手がバリューを加えること、それは立派な創作行為になりうる、ということ。
人間の文化は進化するにつれて、2次的創造を、ときとして1次的創造以上に評価する。
編集者に限らず、映画の監督、オーケストラの指揮者、スポーツの監督、
彼らはいずれも、編集機能(エディターシップ)によって、芝居、演奏といった創出された1次的なモノに、プラス効果を創出する。
料理人は1次的生産者である農家よりもむしろ高い創造活動をしていると言ってよい。
エディターシップは、編集というかつてはノリとハサミといわれた仕事が、実は近代的な創造の営為であるという着目である。
これを2次的と見るか、メタ創造、昇華した創造と見るかは、」にわかに決することができない問題である。
その2次的創造がひょっとすると。第1次的創造以上になる可能性を秘めていることを指摘したかったのである。
さらに、われわれの日常も、編集活動だということができる。さまざまなことがあり、仕事があるが、それを各人は自分の一日分のページにまとめなくてはならない。親としてすること、社会人の行動、自分だけの内省などが適当にとり合わされ、取捨されて、ひとりひとりの一日が出来あがる。それが一週、一月、さらに一年となって、それぞれの目に見えない雑誌、書物をつくりあげていく。どういう人生にするかはその人のエディターシップにかかっている。
ヘレンケラーが素晴らしい言葉を残しています。
" 世界で最も素晴らしく美しいものは、見ることも、いや触れることすらできない。心で感じなければならない。 "
私たちのフィルターをいかに育み、エディターシップを鍛えていくか、ということなのだと思います。
心の筋力トレーニングを続けること、
外山滋比古先生も、力のぬけた書き方で相通ずるところを言われてます。
年をとると人間が劣化する。それを防ぐには、文章を書くのがいちばんである。衰える心にとって何かの薬になるかもしれない。
金もかけないで時間を使うにはもってこいである。
手の散歩は足の散歩に劣らず健康にもよいような気がする。
こういう風な一見とりとめのないテーマの読書を通した筋力トレーニングブログ、
たしかにお金のほとんどかからない、頭の散歩のようなところあります。
内田樹(うちだたつる)氏の本の中にも、後押ししてくれるようなフレーズがありました。
他人にいちばん伝えたいと思うのは、「自分が知っていること」ではないんじゃないかと僕は思います。
自分が知り始めていて、まだ知り終えていないこと。
何ごとかを直感したのだが、何を直感したのかは、言葉を統辞的に配列し、カラフルな喩えを引き、リズミカルな音韻を整えないと自分にもわからない。
そのとおり、書いてるうちに、何を書きたくて、どのあたりが着地点なのかがだんだんはっきりしてくる、ってことがあります。
外山先生の本と同じく、たぶん人には何が云いたいのか伝わりにくい、と思いますが。
(↓) ちびちびと、何度かフレーズを引いてきています。
最初にこの本を採り上げた時に、ちびちびいきますって書いたとおりになってる。
今日も前後を読み返していて、読ませる、考えさせるくだりがありました。これはまた別で。
ほっとけ。
心の色、多彩な失敗に学ぶ
厳しい寒さに似つかわしいシベリウス
ミラーニューロンと幽体離脱
邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)内田 樹バジリコこのアイテムの詳細を見る |
レコードの溝のこすれたようなノイズそのままの雰囲気の映像、
アルバムの正規テイクでは微かな音で遠くから迫ってくるピアノが、ここでは冒頭から朗々と鳴り、
ジョンレノンの声も、ノイズの中にしっかり居座っていて、ニュアンスまでクリアに伝わってきます。
いいバージョンです。
John Lennon "Love" (Single Edit-1982)
なかなかブログ書く時間がとれませんが、
次はコレにちなんだエピソードでも書いてみよかなと思ってます。
~ ~ ~ 出張で初めて行ったシアトル。(もう10年近くも前の話か…)
ホテルに置いてあったタリーズコーヒー飲み放題マシーン。
薄いのをアメリカンコーヒーと言ってた時代がありましたが、それが嘘のようなガツンとくる濃いアメリカンエスプレッソ(アメリカーナ)。
しかも、キャップの飲み口が小さくて、こんな熱いコーヒーがあるのか、って感じ。
その飲み口にすっかり魅せられたぼくは、
夜ガンガン飲んでたら、時差ぼけも手伝ったのか、ついには眠れぬまま夜明けを迎えてしまいました。
(↓)呑気に窓の外に咲いてる桜の写真を撮ってます。
線路の右手、北の方にはマウント・レーニアが見えてました。
(慌ててスキャンしたら、ボタン操作間違えて、絵画風になってしまいましたが、面白い効果が出てるのでそのままに。)
あろうことか、そこから心地よいまどろみに誘われたぼくは、
ミーティング開始時間を間近に控えた頃に、ホテルのベッドでお目ざめ。。(・o・)
ホテルのフロントで事情を話したら、
親切にも、すぐさまオフィスのミーティングルームの近くまでホテルの小型バスを走らせてくれました。<(_ _)>
滑り込みセーフというか、うまく紛れ込めた。
丁度シアトルにいたこの年の4月にイチローがシアトル マリナーズでメジャーデビューして、
TVでも結構イチローは話題の人。
またまたタリーズのコーヒー飲みながら、PCで物書きしながら夜更かししたぼくは、
翌朝、またホテルのフロントに向かうことに。
Oh、No~!アメリカ人がよくやるあのポーズ、そして昨日は女神のように優しかった表情は、
まるで、" ば~か "って言ってるみたい。
仕方ないのでタクシーを呼んで、向かいましたが、完全に遅刻です。
休憩時間が車で、ぶらぶらしていました。
(↓)記念に、タリーズのコーヒー(ここでもまだ飲んでたんですな~)と遅刻記念の時計の時刻の写真を。
(↓)たぶん、この後、やっちゃったよ、って写真撮ったものだと思います。ふざけたやつだ、まったく。
なぜ、こんなこと思い出したかっていうと、写真に写ってるオメガの時計、
只今、オーバーホール中。部品取り寄せやら何やらで半年位かかるかも、とのこと。
家内からもらった大事な時計だし、父もオメガを愛用してたので、6~7万円かかりますが、ゆっくり修理に出すことにしました。
(↓)緊急避難的に、今はめてるカルバン クラインの時計。
ド近視用の牛乳瓶の底みたいなレンズのユニークさが気に入って手に入れたもの。
オメガのSeamaster、永らく使ってきたこともあって、
かみさんが、そろそろ買ったら、って言ってくれました。
夏のボーナスが1ヶ月ちょっと分しか出ないという、史上最低の事態なのに、なんという大らかさ。。
で、調子乗って、物色中。
タグホイヤーって、クロノグラフや、いかにもスポーツウォッチって感じの太くてごついベゼルのイメージがあったのですが、
最近は、大人向けのモデルも出てきています。
タグ・ホイヤーが最近、若者の時計から大人の時計へと変貌を遂げています。
今回は、伝統的なメカニカル・ムーブメントとクラシック・デザインの復活という時計界全体の大きなトレンドに見事に乗ったタグ・ホイヤーの魅力をお届けします。
~ 年齢に見合ったバランス感覚を演出 ~
このように書くと、タグ・ホイヤーは過去の存在かと誤解されそうですが、とんでもありません。スイスの時計フェアでも、屈指の高級時計メーカーとして毎年興味深い時計を発表し続け、昨年などは自動車のエンジンにヒントを得た今までにない驚異的なコンセプト・ウォッチで話題を独占したほどです。
目立った傾向といえば、若者の時計から大人の時計へと年々変わってきた点です。伝統的なメカニカル・ムーブメントとクラシック・デザインの復活という時計界全体の大きなトレンドの中で、「カレラ」をはじめとして、前身のホイヤー時代の良きエッセンスを伝えるモデルが増えてきて、スイスでもその評判は上々。
こうした時計にふさわしいのは、やはり40代以上といえます。若々しさもまだ十分に備えつつ、年齢を重ねるごとに大人のセンスに磨きがかかる年代です。例えば、流行のファッションは卒業し、仕立ての良いクラシック・スーツや、職人技を堪能させる高級靴へと興味が向かう世代です。
この「カレラ」のパーソナリティーといえば、落ち着きとさり気ないスポーツ感覚。もちろん、タグ・ホイヤーがスポーツウォッチで培った高機能は健在です。40代にとって、年齢に見合ったバランス感覚をどのように身に付けるかが大切。そんなコツを教えてくれるのが今のタグ・ホイヤー。「お互いに大人になったもんだな」と顔を見合わせて、友情を新たにするような、そんな良い関係を築きたいものです。
「カレラ」シリーズ、いいです。
あんまり高価で華美なものもどうかと思うので、比較的リーズナブルなこちらが目下有力候補。
(人気のある限定モデル、かっこいいなぁと思って探してみたら、見事にどこもかしこもSold Out。
まぁ、格好いいけど高いしね。← 負け惜しみ。)
これまで白い文字盤のものが多かったですが、黒の文字盤に変えようと思ってます。
50代になってもさり気に似合いそうな、あんまり主張しすぎないのが気に入ってます。
TAG HEUER Carrera Automatic Calibre 5 (カレラ自動巻キャリバー5)Ref.WV211M.BA0787
大阪を愛した作家には違いないのでしょうが、この「神経」という作品の中に、
次のような一節が出てきます。
~ 私は江戸っ子という言葉は好かぬが、それ以上に浪花っ子という言葉を好かない。
(↓)生前のオダサクを知る人は、都会的でスマートなお洒落な人で、人を喜ばすのが好きな、明るい人だったとのこと。
実際に東京住まいもしているし、あんまり、大阪、大阪、っていうのもどうかと思う。
(↓)とはいえ、自分の住む土地には人一倍 愛着を持っている人だったようです。
抽象や観念に走るのを嫌い、同じ関西に生きた井原西鶴に通ずるような世相や文化を反映したリアリズムのある戯曲などを好み、
荘重厳粛主義的なものを嫌い、映画監督の川島雄三氏と日本軽佻派(軽佻浮薄派とも呼ばれるよう)を結成した新しもの好きな人。
小説「神経」の中でこうも言っている。
~ 紋切型がくりかえされるとうんざりするのは確かである。
人は退屈か、軽佻か二つのうちの一方に陥ることなくして、一方を避けることはできない、
軽佻を攻撃する気持ちは毛頭持ち合わせていない。
しかし、生きて行くにはいやが応でも社会の約束という紋切り型を守っていかねばならない。
軽佻浮薄(けいちょうふはく)も良しとするが、紋切り型も否定しないリアリストでもある。
「思想なき思想」、ヘンなポリシーに固執しない、同感。
(↓)オダサクつながりで、この辺りも併せ読み。
(谷脇理史・吉行淳之介/新潮古典文学アルバム)
人生の卍凶区藤本 義一青春出版社このアイテムの詳細を見る |