「翻訳はよい趣味だ」。
テキストのベタ打ちではなく、かるた風にしてみた。
Yesterdayは言うに及ばず、"day"の関係するタイトルに名曲が多いと言われるポール。
このSomedaysも、間断なく紡がれてゆくメロディのうえで、弦やオーボエの音がこれまた絶え間なく蠢いては、心象風景の大切さを語っている。
(アムステルダムの船上祝祭日)
自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
振り返ると、たしかに一直線に見える。
でも、実際は無数の転轍点(てんてつてん)があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかったプロセスと、そこから導かれる結論」がある。
分岐点まで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したもの」の背中を追いかけるというのは、ものを考えるうえで大切な仕事だ。
「起きてもよいのに、起きなかった出来事」のリストを思いつく限り長くすることは知性にとってたいせつな訓練だ。
「起きてもよいことが起きなかった理由」を推論する仕事は「起きた事が起きた理由」を推論するのとはかなり違う脳の部位を使用するからだ。
(内田 樹)
さすが、ウチダ先生、もっとブログに時間を割こうという決意表明までリーダブルだ。
起きなかった出来事の背中を追いかけたくなるのは、おじさん特有の心理なのかもしれない。
まもなく、46の誕生日を迎えようとしているが、
私にも、引きとめもしなかった背中、追いかけなかった背中、が沢山あるように思える。
~「あっ」と思って振り返ると、もう角を曲がりかけていて、背中の一部しかみえない。
アイデアや文章に限らず、自分が進んでいる道に「どうも展望がない」ということがわかったころには、ついてゆく背中は見えなくなってしまっている、
「そうだ、あの時の背中についてゆけばよかったんだ」、
そして「いっしょに角を曲がって、袖口をがしっとつかむんだった」、と思うようなことがある。
「小さな背中を引きとめもしなかった」、
格好よくも聞こえるが、今となっては背中を見失ってしまっただけなのかもしれぬ。
(やさしさの街角)
なんだか、ほろ苦い話だが、その背中はいつまでも見えてるはずもない
そういうもののような気がする。
これもウチダ先生の受け売りなのだが、やせ我慢こそがダンディズムらしい。
追いかける背中が見えないのでは仕方がない。
やせ我慢を続けるのも、まぁよかろう、と思うことにしよう。
「人生は自動販売機ではない」のだから、報いがないほうがむしろ当たり前のことなのだ。
(100円入れれば100円の缶コーヒーが出てくるわけではなく、持ち合わせの天賦が1万円分ほどあったとしても、1万円分の買いものができるわけでもない。)
だから、ことさらに不幸だったり、不運だったりするわけでもない。
イエス キリスト的な神話的構造を求めるほうがどうかしている。
街場の読書論 | |
内田樹 | |
太田出版 |
あ、あれは男性ゆえの美学なのかな・・。
女性がやると・・ただの意地っ張り?
(・。・)
パソコンの前でカタマッテシマイマシタ。。
お、急な電話で、明日は2時台の起床になってしまったので、寝ながら考えます。
(・o・)
全く深い意味なぞないので、イップスにならないで~
ただ単にちょうど数日前、意地っ張りだなって言われたもので
イップスってWikipediaで調べちゃいましたわ~。
イップスはゴルフ用語でしたね-_-b
でも便利なことばでしょ、
××イップスなので‥というと、
単なるサボりではない、とわかってもらえると思います、たぶん。
-_-b