初稿間もないですが、素晴らしい映像を添えて。
2010/10/10(書いて並べるとキレイな数字だ)の後に起こった偶有性。
時は過ぎていく、ものですが、
「薄ぼんやり」となってしまう「今、ここ」だから大切にしたい感覚もある。 <(_ _)>
心の免疫力 ~ 書とことばから
<初稿 2010/10/10>
ある方のブログを見ていて、記憶が甦りました。
熱心な彼女のファンに誘われて、
ジャズ・シンガーの金子 由香利さんのコンサートを観に、お茶の水の小さなライブハウスへ行ったこと。
なじみの顔を見つけたせいか、幕間に私たちの座っているテーブル席まで
金子由香利さんがいらして下さって、お話もできました。
あとで、顔に" ほ "の字が見えるくらい夢中で喋ってた、とのご指摘をいただきましたが、
ほんとに素敵な方でしたよ。
ファンクラブの会員の方向けのものと思われる季節のお便り葉書まで折々に頂き、それは感激していたのですが、
忙しくなって、お返ししないまま、コンサートに出かけることもなく、いつしか途切れてしまいました。
こういう途絶え方は、しょっちゅうあることだけど、無念かも。
あの時、あの場所、「今、ここ」だったものが、
いつのまにか 薄ぼんやりとした過去になってしまう。
金子由香利 時は過ぎてゆく
あんまり、小難しいことを書き連ねるのもどうか、と思ったのですが、生命と偶有性 ~ 終章です。
人間の孤独を癒す量子論 ~ 偶有性が示唆するもの
starting over、もう一回始めよう。
ジョン レノンの新曲??
なんだか、茂木さんの言う「クオリア」がわかるようになってきた。
個々人の意識のフィルターを通して立ち上ってくる認識の質感のようなものを指しているようなのです。
~ 「クオリア」は私が世界と向き合う際の認識の最小の単位。
現実、仮想、そして偶有性。
そのような私たちが生きる上での問題群を一度経由してから、クオリアの問題に回帰すると、
そこにはふしぎな結び目が見えてくる。
国宝に指定されている火焔土器における、高度に抽象化された炎の表現、
はたして、現実の炎の写実なのか、
あるいは、抽象的な観念の空間を模したものなのか、判然としない。
あの、踊りつくように絡みつく形態と同じように、
お互いに結びつく密かな関係性が、現実と仮想、偶有性とクオリアを絡み合わせている。
五感で感じることで、現実の生々しい実在を支える、感覚的クオリアと、
外界からの入力によって生起される意味を担う、志向的クオリア。
どちらも、私たちの認識には違いないが、
たとえば視覚に関して言えば、「目を閉じたところからはじまるもの」が志向的クオリア。
感覚的クオリアの持つ、「今、ここ」の『具体』に縛り付けてしまう側面から意識を解放し、
『本質』(それは目に見えないものの中にある。)であるところの「イデア」を見失ってはいけない。
~ 現代的な用法によれば、目の前にある机やコップこそが「具体」であり、信頼に足るもの。
一方で、言語や数学、自我といったものは「抽象」であり実在性が低い。
しかし、プラトンの体系にしたがえば、具体と抽象の関係は逆転する。
目を閉じて思い浮かべる観念の世界のほうが、
よほど確固とした精神世界における「具体」=「イデア」につながっている。
目の前のコップなどは、イデアの不完全な影にすぎないのである。
~ 現実は、私たちの生存を支える不可欠な条件である。
しかし、仮想が現実に比べて劣るというのでは決してない。
モーツァルトやアインシュタインといった創造的な天才の中では、
むしろ仮想が現実よりも魂に近かったのではないか。
" 仮想と現実が絡み合う偶有性のダイナミクスこそが精神を豊かにするのではないか"
「今、ここ」の私から変わりうるのだという予感なしでは、生命というものの中心に至ることはできない。
脳の学習は「オープン・エンド」であり、どこまで進んでも必ず「その次」がある。
一方で私たちの脳の可塑性が、過去からの体験の積み重ねの上にあることも事実である。
私たちは昨日まで体験してきたことの文脈の上に今日を積み上げる。
私たちは過去の精神活動の造山活動の結果として、「今、ここ」に縛りつけられている存在。
しかし、"過去は育てることができる"のでした。
生命と偶有性 | |
茂木 健一郎 | |
新潮社 |
ご紹介下さりありがとうございます
昔心に響いたものは、「今、ここ」でも変わらないんだなぁ・・と
山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く
一期一會~ 雨の中あなたの笑顔を思い出しました
カラフルな夢に、只在れ、
ご縁ですね。染みました。