ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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いい人をやめると楽になる/曽野綾子

2009年05月11日 | 読書ノート

本のタイトルがあまり好きになれないですが、曽野綾子さんが自身の著作を出典にしてまとめられた本です。(これも図書館で借りました)
よくある自己啓発本より濃くて深いもの、それでいて、さらっとした爽やかさを感じました。
率直で、自己啓発本に書いてあるような内容とは逆説的な、物言いですが、その中に、大人のほんとう、があるような気がします。

この率直さ、がなぜかジョン・レノンっぽく感じました。

*****例によって、気になったフレーズの抜き書きです*****

・いい人をやめたのはかなり前からだ。理由は単純で、いい人をやっていると疲れることを知っていたからである。
 それに対して、悪い人だという評判は、容易にくつがえらないから安定がいい。
いい人はちょっとそうでない面を見せるだけですぐ批判され、評価が変わり、棄てられるからかわいそうだ。

・私は自分の心を眺めて、性悪説をとることにしたのである。
 自分の性格の嫌らしさに苦しむことはあっても、いい人に出会えてよかった、とういう喜びは多いのである。
 つまり性悪説のほうが結果的にはいつも深い自省と幸福を贈られるという皮肉である。

・私は悪を興味本位で書くのでもないのだ。
 印象派は、光が本来描けないものだから濃い絵を描いた。
 それと同じで、私たちの心を射る強い光を描写するためには、暗い陰を描かねばならない
 というのが、私の小さな決意になった。

「ほどほどの悪」と共生して生きるという認識は、私の中で、重大な意味を持つ。
 自分がかなりの人道主義者だなどと思ったら、その時から、誰もが、腐臭を放つようになる。
 「ほどほどの」とう形容詞がつく状態ほど、愛や許しを思わせるものはない。
 しかし、現代には、そのほどほどの悪を自分にも他人にもけっして認めない自称ヒューマニストがいる。
 生きることは、これまた、ほどほどに人を困らせることでもある。
 ほどほどに他人の受ける権利や幸福の分け前を、力で収奪することである。
 その疚しさを、ほどほどに減らそうとする時、初めて人間は少し人のことを考える行動を取れる。

いささかの悪の匂いのするものを、我が身に許していることを自覚している人といのは、誰でも感じのいい顔をしていますね。
 引け目というのは人間的なのでしょう。
 自分は悪いことなど一切していない、と思ってる人より、私はどれだけ好きかもしれません。

・自分の内面の美学や哲学には不純であってはならないけれど、
 生きていくための方途については誰も理想どおりやっていないのだから、
 その誤差をおおらかに許せる人のほうが好きなのである。

・自分に愛想をつかすと少し楽にならない?
 原因は、ただただその人が勝手に持つことにした向上心のせいなのである。疲れて人間を失うのは当たり前である。
 嫌われたら嫌われていればいいのだ。無能だと判断されたら、無能な顔をしてればいいのだ。
 真実は、真実以上でも以下でもない。

 人の評判はどうあろうと、私はただ限りなく私であるだけであって、それ以上でもそれ以下でもないであろう。

・私はいろいろなことを諦めたが、中でも割と早くから、人に正当に理解されることを諦めたのである。
 つまり、社会が、ある人を正しく理解し、その当然の結果として、公平かつ平等に報いる、などということは、実際問題としてはほとんどあり得ないことだということを、ほとんど本能的に知ったのである。このことはけっして、私になげやりな態度をとらせもしなかった。

・日本ではいい人はどこから見ても傷のない人であるべきなのだ。
 栄誉ある軍人墓地に葬られる人は終世正しい人でなければならない、という感覚を持っている。
 アーリントン墓地にはさまざまな人が葬られているはずだ。
 妻を裏切った女たらし、手形詐欺をやった人、怠け者、非常識で自分勝手な学者など。
 他人を全体的に理解することはほとんど不可能だ、という認識があると、社会や人生を部分的に評価して、過不足ない現実を掴む。
 しかし、その人の道徳性などで判断すると、人間の全体像はますますわからなくなる。

・善人が不幸になったら、正義を掲げて叫べばいいのだ。
 しかし、そこにいささかの計算のずれがないと
 (善人がひどい目に遭い、悪人がのうのうと裁かれもせずはびこる部分、計算外の部分、が少しは残されていないと)
、、、この世はたぶん幼稚になってしまう。

・時には人を侮蔑することでつまらない自信をつけ、精神の風通しをよくすることもある。
 ほんとうは人間というのは誰でも五十歩百歩なのだが。

・この世で、私の身の上に初めて起こったというような恥はない。
  私が苦しんでるような恥は、もう、数万、数十万の人が苦しんだことなのだ。

・ささやかな悪行が、ささやかにできる場所にいないと、人間は囚人になってしまう。

・勝負に勝っても負けても、それはその人の生き方の正しさや不正の結果ではない。
 関係は皆無ではないかもしれないが、運命はそれよりももっと深く見えざる手で導かれている。
 現世で正確に因果応報があったら、それは自動販売機と同じである。 

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