日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

病室でのくらし

2011-07-07 08:41:27 | Weblog
検査入院が2週間をすぎた。一応検査はすべて終わり、やがて手術の日取りが決まり、腸の一部を切り取ることになりそうである。あとはうまく行くことを祈るのみである。

ところでこの度改めて思ったことであるが、私てなんてずぼらな人間だろうということである。ハンドルネームのlazybones、まさに体を表している。たとえばこういうことである。すでに多くの検査を受け、それぞれの説明を聞いた来たが、検査の種類を始め手元にメモ一つすらのこしていない。そのような気が起こらないのである。よく医療訴訟などで患者側が残した綿密な記録がその主張を裏付けたなんて話があるが、すごく几帳面な人がいるものだと感心してしまう。でももしかするとそれが普通で
、私がおかしいのかもしれない。必要があれば主治医に聞いたりカルテを閲覧させてもらえば済むことである。

あっという間に今の病院に入院させられたので選択の余地がなかったが、しっかりした説明を聞かせていただき、選択を求められた時は意見を述べ、私自身まあこの病院に任せてみようという気になったので、心当たりに意見を求めることはあえてしなかった。となると後はあれこれ考えることもない。お任せするのみである。

私の入っている病室は鍵型のフロアの短いウイングにある個室で、周辺は病院関係者の宿直室とか休憩室とか倉庫で、ほかからほとんど孤立している。それを良いことにして最近はほどほどの声で歌を歌っている。姿勢もよくなるし運動がわりにもなる。それよりなにより気分がいい。これで一弦琴を持ち込めればいうことがないがあまり贅沢は言わないことにしよう。まずは手術が節目なのである。



村井宮城県知事はなぜ松本龍大臣を待たせたのだろう

2011-07-05 08:06:54 | Weblog
病室では嫌になるほど時間がたっぷりある。普段なら考えないことまで考えてしまう。今度の松本復興相の被災地での放言と報じられる一連のできごとについてもそうである。

「客」とは《そこえたずねて(招かれて)来る人》と「新明解」にあるようにそのままの意味で使うが、客を迎えるのにいろんな出迎え方がある。かってクリントン米国国務長官が皇居を訪問されたときは天皇・皇后両陛下が玄関先でお迎えになった。今回は儀礼でもないので知事が大臣を県庁玄関先まで出迎える必要はないと思うが、普通なら大臣を知事室まで案内して、そこから大臣を応接室までお連れするとか、または応接室で待ち受ける知事の元に直接お連れするのではなかろうか。客を応接室まで案内し、間もなく主人が参りますからしばらくお待ちくださいと伝え、待つ間もなく主人が現れるという迎え方もあるだろう。客を待たせるのは失礼であるとの常識が根底にあるのは言うまでもない。

松本復興相は「僕は呼ばれて(応接間に)入ったのに、3、4分は出てこなかった」と言っている。彼の感覚的時間であったとしても、遠来の、それも同じ公務での客を迎えるにしては村井知事のほうが礼を失しているのではないかと私は思った。待たされた松本大臣が予定の時間より早く到着したのであれば仕方のない面もあるだろうが、この辺りの事情はわからないので、私の想像のままに話をすすめる。テレビでその場面を見たが、遅れて部屋に入って来た村井知事が無言のまま握手を求めて松本大臣に近づいたが、当たり前なら「どうもお待たせしました」の挨拶はあってしかるべきだろうと思った。

それからテレビで繰り返し放映される「長幼の序」発言が出て来る。確かに松本大臣のあの「もののいいよう」は知事を叱りつけているようなもので、これで省と県をそれぞれ代表する公人同士のの話し合いがうまく行くのだろうか危惧の念を抱くと同時に、松本大臣の人間としての資質に疑問を抱いた。国民の多くも同じ思いであったと見えて、だからこそマスメディアも格好のゴシップとして取り上げたのであろう。

しかし肝心の会談の内容は、カメラマン達が退席してからあったはずである。その中身がゴシップに覆い隠されてほとんど伝わってこない。マスメディアが元来伝えるべき内容を伝えずにゴシップだけでまた世間を煽り立てている。国会議員までもそれに乗って松本発言を国会で追求すると意気込んでいる。なんのために国会会期を延長したことやら。

それにしても松本復興大臣の経綸はいかばかりのものだろうか。


紙の新聞で日常を取り戻す

2011-07-02 19:42:12 | Weblog
かねてからの計画だからと友達と黒部方面に出かけていた妻が、4日ぶりに新聞を病室にとどけてくれた。新聞に目を通すと、不思議なことに食事もなし新聞もなしの生活がなんだかピリッとしてきた。脳が刺激されてきたのである。ふだんは新聞を鵜呑みにしないのが私の流儀であるが、記事を読んでいて引っかかるところがあればあるほど脳が活発に働き始めるのである。これまで意識した事がなかったが、これは面白いと思った。

大学の教養で中村幸四郎先生という風貌も歌舞伎役者のような先生の数学の講義を聴講していた。説明がとても流暢でむつかしいはずである内容が抵抗もなく頭に入ってくるまさに名講義であった。ほとんど完全に理解できたつもりで、定期試験にも意気揚々と臨んだのであるが、結果は惨憺たるものだった。話を聞いて分かったような気になったから、それで理解できたつもりで、自分の頭で考え直す事をしなかった報いであった、

新聞記事には読んですぐわかるというような記事はほとんどない。これまでおりに触れて私もそのような記事に苦情を呈してきた。読んで素直に分からないものだから自分の頭であれこれ考えざるを得ない。実はそれが脳を刺激するのだと思う。私にとっては不完全な記事が刺激となって、これまでもブログに取り上げるきっかけになったのであろう。これからちょっとした事をあまりあげつらうのはよそうかという気になった。もちろん新聞は正確な事実を伝えるべきではあろう。「新聞はは事実を伝えるものではない」との言い回しを今読んでいるKen Follettの小説で見つけた。これでは新聞社に気の毒な気もするが私も少しは鷹揚になってみよう。

新聞紙で脳も刺激されたが日常性も取り戻す事ができた。考えて見たら国民学校の頃、植民地朝鮮の京城で発行されていた「京城日報」を読み始めて現在に至るまで、新聞紙を開くことで一日が始まったようなものである。習慣性とは大きなもので、朝食の代わりに新聞紙に目を通すだけで生活にメリハリができたのである。iPhoneで無料の産經新聞は毎朝見ているが、長年慣れ親しんだ紙の新聞とは比べるべきもない。習慣としてはまだまだ定着するには早いのである。それに記事全体を見渡せないのが思考の連続性を妨げているように思う。私は新聞にせよ本にせよ、紙の媒体から離れられそうにもない。

停電が当たり前だった頃

2011-07-01 18:29:16 | 昔話
昭和20年11月の末、朝鮮から引き揚げて来て落ち着いたのが兵庫県高砂市にある鐘紡社宅であった。台所の土間には竈があり、水道は家にあったのかもしれないが、屋外の共同井戸から水を汲んできた覚えがある。部屋は二畳、四畳半、六畳の三間でトイレはかろうじて付いていた。いわゆる工員住宅であった。そこに親子六人が住んでいたが、父は大阪の本部に単身赴任で、時々週末には帰ってきた。通勤できる様な交通事情ではなかったのである。

戦後間も無い頃で停電が日常茶飯事であった。予告なしに電気が消える、そのためにろうそくが用意されていた。停電の原因はもう一つあった。電気の使いすぎでヒューズがよくとぶのである。それを修理するのは私の役目であった。ヒューズ箱を開けて切れたヒューズをとりかえるのである。ヒューズと言っても細い鉛のハンダ糸のようなもので、容量は5アンペアはあっただろうか。その頃一般家庭でニクロム線の電熱器がよく使われていた。わが家ではせいぜい頂き物のおかきを焼いたりカラメル焼きを作るぐらいだった。時には小さなやかんでお湯を沸かした。いちいち七輪をおこすわけにはいかなかったからである。この電熱器の容量はどれくらいだったのだろう。大きくても2、3百ワットではなかっただろうか。うっかり余分の電灯を消し忘れてこの電熱器を点けるとヒューズがとんだのである。

電熱器のニクロム線もよく切れた。すると市販の接着剤でつなぐのである。接着剤というのは白い粉状のもので、切れたニクロム線同士を接触させそこに粉をまぶし通電すると粉が溶融し、ものの見事にニクロム線が接着して機能が回復したのである。この作業がなかなか面白かったことを思い出す。

昭和21年の夏神戸に転宅した。やはり停電がよく起こる。中学生になった頃だろうか試験の時期になりそれでも容赦なく停電する。ところが町の交番署だけはあかあかと電気が灯っている。一人ではいく勇気がなかったので友達を誘い、試験勉強をさせて欲しいとたのんだところ、こころよく許してもらった。理解のあるお巡りさん達で時々遊びに行くようになった。

今日は7月1日、東日本では電力使用制限が始まったとのこと。そのニュースについ昔のことを思いだした。