日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

朝鮮京城の日赤病院で手術をうけた話

2011-07-11 10:06:45 | 在朝日本人
思いがけず急遽入院して三週間すぎた。その間点滴液だけで命を保っているが、「人工生物」に変身していくようでなんだか気味が悪い。でも手術日が15日に決まったので、いずれは点滴チューブから解放されるだろう。もう少しの我慢である。

私が手術をうけるのは実は二回目である。と言っても最初はもう六十年以上も前で、国民学校四年生の時であった。生来脱腸がありなにかあると腸が外に飛び出すのである。だから脱腸帯なるものをよく着用していた。日常生活にとくに支障はなかったが、肩身の狭い思いをしたのは体操の授業で、調子が悪いなと思った時は先生に申し出て、三坂国民学校のあの藤棚のしたで見学することであった。身体の錬成が少国民の務めであるべきなのに、それを怠るようでは非国民と蔑まれるのではと気にしたように思う。いずれにしても鬱陶しかった。

その手術のために日赤病院に入院したのである。両親がおそらく時期を考えてくれていたのであろう。入れられたところは二人部屋で、間がカーテンで仕切られていた。私が子供のせいだったのか、なんと相客は出産をひかえた妊婦であった。妊婦を診察している医師や看護婦たちの会話が筒抜けに聞こえてくる。その中に分かる表現もあった。 指の長さで何かを測っているのであろう、時間とともに変わっていく様子を読み上げているようでその言いまわしが面白くて覚えてしまった。退院してから母にそのことをとくとくと報告したら、子供がそんなことをいうものではありませんと叱られてしまった。

私がベッドに一人だけの時に病院の人が入って来て、私を手術室に運んでいった。私の覚えているのはそこまでである。ははが病室に来た時は私のすがたが見えないので驚いたそうである。どこかで連絡の行き違いがあったのだろう。暢気な時代であった。

手術のおかげで私は人並みになり、体調を気にすることがなくなった。五年生になってからの疎開に引き揚げの過酷な情況もこの身体があってこそ乗り越えることができた。私がこれからうけようとする手術はその頃には思いもよらなかった高度なものであろう。贅沢さがふとそら恐ろしくなった。