北島康介選手の世界新での金メダルは文句なし、また私は名前も知らなかった女子バドミントンで末綱・前田ペアが前回アテネ大会金の中国チームを破るという大番狂わせに興奮したり、やはり勝つというのは眺めていて心地よいものである。しかし勝負事である以上勝ちもあれば負けもある。それが分かっていても谷亮子選手の銅なんて見たくなかった。反町ジャパンの試合を長々と見たあげく負けてしまっては、時間を無駄遣いしたという後悔に苛まれた。私が見たいのは文句なしの勝ち試合だけなのである。というわけでテレビをダラダラと観るのは止めて、NHKの午後七時のニュースだけに絞ることにした。
それにつけてもこのNHKテレビの今日の番組を見てご覧じろ。べったりとオリンピック番組である。しかしこれに驚いてはいけない、NHK衛星第一にいたっては全部がオリンピックである。常軌を逸している、と私は思うのだが、NHKの考えは違うようである。どのような考えなのか私には分からないが、オリンピック番組に喰われてしまった日常流れている番組が、あってもなくても良いようなものであることを実証したことだけははっきりしている。占領下日本でGHQが推し進めたとかいわれる日本人愚民化の3S政策(Screen,Sports、Sex)なる言葉が私の頭を横切った。
戦後ヘルシンキで開かれたオリンピックで水泳の古橋広之進、橋爪四郎両選手の活躍を日本中が手に汗を握って注目しものである。テレビはまだなく、ラジオだけが試合の様子を伝えてきた。民間放送も始まっていたのかも知れないが、私たちが耳を傾けるのはNHKラジオだった。夜も更けて子供が普通なら寝静まる時間になってオリンピック放送のテーマ音楽が流れ出す。夏の夜、エアコンなんてない時代である。近所みなガラス戸に障子を開け放し、その頃はそれが当たり前であった天然の涼風を家に誘い込む。その風に乗ってどこの家からともなく皆がつけているラジオから実況放送が耳に届いてきた。短波を長波に変えていたのだろうか。今もその時の状況がなまなまと記憶によみがえってくる。
オリンピックが終わっても夏になると、その時に流れたテーマ音楽が私の頭の中で鳴り響く。幻聴ではなく現実にもっと一般性のあるテーマ音楽として流れていたのかも知れない。それぐらい私の脳裏に焼き付いた、そして私にはこの上もないノスタルジックな曲なのである。あるときそれがヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti)のヴァイオリン協奏曲であることが分かり、LPを手に入れた時は毎日のように聴いたものである。そうだ、LPは手元にあるはずなので探し出して久しぶりに聴いてみよう。そうすると第何番の協奏曲だったのかも分かるだろう。
それにつけてもこのNHKテレビの今日の番組を見てご覧じろ。べったりとオリンピック番組である。しかしこれに驚いてはいけない、NHK衛星第一にいたっては全部がオリンピックである。常軌を逸している、と私は思うのだが、NHKの考えは違うようである。どのような考えなのか私には分からないが、オリンピック番組に喰われてしまった日常流れている番組が、あってもなくても良いようなものであることを実証したことだけははっきりしている。占領下日本でGHQが推し進めたとかいわれる日本人愚民化の3S政策(Screen,Sports、Sex)なる言葉が私の頭を横切った。
戦後ヘルシンキで開かれたオリンピックで水泳の古橋広之進、橋爪四郎両選手の活躍を日本中が手に汗を握って注目しものである。テレビはまだなく、ラジオだけが試合の様子を伝えてきた。民間放送も始まっていたのかも知れないが、私たちが耳を傾けるのはNHKラジオだった。夜も更けて子供が普通なら寝静まる時間になってオリンピック放送のテーマ音楽が流れ出す。夏の夜、エアコンなんてない時代である。近所みなガラス戸に障子を開け放し、その頃はそれが当たり前であった天然の涼風を家に誘い込む。その風に乗ってどこの家からともなく皆がつけているラジオから実況放送が耳に届いてきた。短波を長波に変えていたのだろうか。今もその時の状況がなまなまと記憶によみがえってくる。
オリンピックが終わっても夏になると、その時に流れたテーマ音楽が私の頭の中で鳴り響く。幻聴ではなく現実にもっと一般性のあるテーマ音楽として流れていたのかも知れない。それぐらい私の脳裏に焼き付いた、そして私にはこの上もないノスタルジックな曲なのである。あるときそれがヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti)のヴァイオリン協奏曲であることが分かり、LPを手に入れた時は毎日のように聴いたものである。そうだ、LPは手元にあるはずなので探し出して久しぶりに聴いてみよう。そうすると第何番の協奏曲だったのかも分かるだろう。