星のひとかけ

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ジェニーの肖像 / ロバート・ネイサン著

2016-12-15 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先日書きました ポール・ギャリコの『スノー・グース』(>>)、、

孤独な青年画家ラヤダーと少女との心の交流の物語を読みながら、、 二十数年前に読んだべつの本のことを思い出していました。。 やはり、 貧しい画家の青年の前にあらわれた不思議な少女の物語、、 『ジェニーの肖像』。

、、ギャリコの『スノー・グース』のときに、、 結局、読み終えて・・・好きになれなかった、、と書いたけれど、、 それは 物語のラヤダーや少女が好きになれなかったのではなくて、 ギャリコの創作の意図を 私なりに感じ取ってしまった結果、 好きになれなかったのでした。。

、、それは、 物語の最終的な持っていきどころが、 障害を持ったラヤダーにとっての「アイデンティティ」の問題になっているように私には思えて、、 でも、物語の中で呼吸している人物ラヤダーのものというよりも、 結局、 作者ギャリコが求める = よしとする「価値」の追求だったのだと、、 そう感じられた部分が、納得できなかったんです。。

、、で、、 画家と少女、という設定だけの共通項で、、 だけどもう読んだ記憶も遠くなっていた『ジェニーの肖像』、、 どんなだったかしら・・・ と読み返したくなって、、

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二十数年前に読んだのは、 一番上の 偕成社文庫、 山室静 訳 でした。 
、、2005年に 新訳で 創元推理文庫からも出ているのを知り、 今回は そちらも読みました。 (大友香奈子 訳) 、、 この創元推理文庫の中には、 もう一作品 『それゆえに愛は戻る』も収録されてて、 そちらも読みたかったんです。

、、 で、、 山室訳と、 あまりにも印象が違ったので、、 いったいどうしてだろう・・・と思って、 さらに 過去に出ていた ハヤカワ文庫の 井上一夫 訳、 のまで取り寄せてしまった、、と。。。

、、でも、 それぞれの訳についての話は、、 今しばらく横において置いて・・・

 ***

12月9日は 百年目の漱石忌でしたね。

、、 (墓の傍で) 「百年待っていて下さい」・・・ 「また逢いにきますから」
・・・と言う 黒い瞳の女性を、 漱石は『夢十夜』で書きましたね、、。

、、同じように、 『永日小品』の中の 「心」という作品の中でも漱石は、、

 「たった一つ自分のために作り上げられた顔」をした、、 「百年の昔からここに立って、 眼も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。 百年の後まで自分を従えてどこまでも行く顔である。 黙って物を云う顔である」

、、 そんな女性を描いていますね。。

どうしても、 そのことを想い出してしまったのです、、『ジェニーの肖像』を読み返しながら、、。

 「あなたが来てほしがってるんじゃないかって思ったの、イーベン」(第6章 大友訳)

、、 そんなふうに 画家の青年の部屋にあらわれ、、 そして 

 「できるだけ早く戻ってくるわ・・・」 「待っててね」(第9章) 、、と 告げて また時の狭間に消えてしまう、、少女。。


、、漱石がもし 『ジェニーの肖像』を読んだら、、 或いは(1948年の映画にもなっていますね) 映画をもし漱石も見たら、、 などと考えてしまいます。。 だって両作家とも、 作品に込めた思いは同じ、なのですもの。。。

漱石ばかりではありませんね、、 エドガー・アラン・ポーの詩でうたわれる女性や、、 今年の夏に読んだ、 ヨハン・テオリンのミステリー  『冬の灯台が語るとき』(>>)も、、 主題としては 最愛の人との時空を超えた魂の交流、、 というものがあったと感じています。

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『ジェニーの肖像』・・・ 考えてみれば、 画家イーベンは、 ある日 ふいに少女と出会うのですが、、(言い換えれば 少女はふいにイーベンの前へ姿を現すのですが)、、 何故イーベンなのか、 という説明はどこにも無いんですよね。。。 イーベンは特別な男の人でもなんでもない、、 (特別な才能を秘めた駆け出しの画家なのかもしれないけれど) まだ全然絵も売れず、 家賃も払えない貧乏な画家、、  都会にはそんな男性は・・・ 山ほどいるはず、、 

何故 イーベンのもとへ・・・?

、、 漱石だって同じことです。 何の根拠も無いけれども 「たった一つ自分のため」だけに 現れてくれる女性・・・ 

 「あなたが来てほしがってるんじゃないかって思ったの」・・・  そんな文章を 臆面もなく書いてしまう男の人って・・・すごい、、(笑) 、、男の人ばかりじゃないのかしら・・・ でも 今まで読んだのは全部、男の人が書いたもの、よね? 

、、決して茶化しているのではないです・・・

創元推理文庫版の解説(恩田陸による)の中でも、 その点には触れられています、、 「愛するものを失うこと」 「予め喪われていること」、、の意味、、

画家イーベンの前に少女があらわれてくれるのも、 夢十夜の墓の前で百年待つ男の前に 白百合が咲いてくれるのも、、 まさに 「こんな夢をみた」、、という 「夢」の物語であり、 想像とも 理想とも 憧れとも、 幻ともつかない・・・ そんな儚いものがたり。。

だけど・・

・・・だから、、 ゆえに、、

、、ひとが 物語を永遠に求める意味も、、 そこにあるのではないかしら、、と・・・

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先にあげた『冬の灯台が語るとき』の中で、、 クリスマスの本来の意味のこと、 書きました。 贈り物を介した〈今ここにいない人〉との魂の交流、、のこと。 
、、 夜中にトナカイの橇に乗ってやって来るサンタさんの為に、 窓をほんの少し開けて クッキーと紅茶を添えておく、、 という習慣が西洋にはあるようですが

それは もともとは、 子供たちにプレゼントを届けてくれるサンタさんではなくて、 もしかしたら天上の馬車が連れてくる〈誰か〉の魂のこと、、だったのかもしれないな と想います、、、 そのようにして物語がつむがれて 受け継がれて、 サンタさんがうまれて、、

、、だから、 今年は そんな本来の想いも込めて、、 クリスマスを迎えようと。。 星々になった魂を想って・・・


、、翻訳の話は、、 また今度ね。