「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「茱萸・ぐみ」

2008-05-02 12:40:18 | 和歌

 「うつろ庵」の「ぐみ」が沢山の花を付けた。

 「ぐみ」は、漢字では日頃お目にかかれない茱萸(しゅゆ)と書くが、なかなか思い出せなくて難儀した。その昔、漢詩を読んでいた頃この文字に出合ったことがあったが、遠い昔のこと。大辞林と漢和辞典のお世話になった。

 ぐみの花は小振りで、花にも葉裏にもごく小さな星状毛が散在するので、離れて観ればくすんで目立たぬ存在となる。まして開花後二・三日もすれば、白い花びらも亜麻色に変色するので、 なおさらだ。


           
           この花に華はあらぬと人いうも

           君にや問む 華とは何ぞと 



 春が過ぎて、やがてそろそろ梅雨を迎える頃になれば、「ぐみ」の枝には赤い小さな実が鈴なりになる。

 赤く熟した瑞々しい果肉は、「たべて食べて」とせがむかの様だ。手を伸ばして一つ二つを摘み口に入れると、甘酸っぱい味が口に広がるが、暫くすると渋みが舌に残るのが特徴だ。


           
           目をとじて赤き果肉のぐみの実の

           さ枝にたわわな初夏を思いぬ



 冒頭に触れた漢詩が見つかった。1300年ほど昔、王維がまだ十代で、初めて
家族と遠く離れて学んだ頃の七言絶句だ。

            九月九日憶山東諸兄弟

            独在異郷爲異客 毎逢佳節倍思親
            遙知兄弟登高処 遍挿茱萸少一人

 初めて読んだ当時、漢和辞典で「茱萸」を調べたら「ぐみ」だと書かれていて、それを信じて今日に到った。九月九日・重陽の節句に「茱萸・ぐみ」の枝をを挿す??  当時も奇異に感じたが、「1300年も昔の中国の習わし」かしらんと、無理ムリ納得させて読み飛ばしたことを思い出した。

 それにしても、横須賀で6月に熟す「ぐみ」の枝を、中国・山東ではどうして秋・重陽の節句の、穢れ払いに使うのであろうか? あれこれ調べた結果、王維の漢詩に詠まれた「茱萸」と、「うつろ庵」の「茱萸・ぐみ」はどうやら別物らしいことが判明した。

 嘗ての中国では、重陽の節句には家族を挙げて高台に登り、ご馳走を食べ菊酒を飲み、芳しい「茱萸」の小枝を挿して、邪気を払ったらしい。漢詩に詠われたのは「呉茱萸」で、漢方薬にも使われる辛味と芳香のある「かわはじかみ」だと分った。

 「はじかみ」は山椒の和名だが、呉茱萸は山椒に似ているが中に種がなく、皮ばかりなので「かわはじかみ」と名づけられたらしい。「ぐみ・茱萸」と「かわはじかみ・茱萸」は何処かで混同されたに違いあるまい。
一説によれば、その元は貝原益軒だともいうが、詮索は何方かにお任せしたい。

 地味で目立たぬ「ぐみの花」ではあるが、朝日を受けて気品を湛える姿には、プライドすら感じさせるものがある。





           
           花を観て華なきというその人に

           見せばやぐみの華の姿を