川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

PTAパトロールなるもの

2005-03-16 18:31:53 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
年に何回か、近所をまわります。

蛍光グリーンや蛍光イエローのたすきをかけてまわります。

人があんまりいないところをまわります。

不審者がいそうなところをまわります。

でも、不審者をみつけたことはないので、まわってるぞーと見てもらうのが役割です。

よって、たすきは大事です。

PTAパトロール中と書いてあります。

これつけないと、ぼくも不審者です。

終わったら、次の人にまわします。




思わず、祝! とい書いてしまうのはなぜだ

2005-03-16 17:52:04 | トンデモな人やコト
asahi.com: ニッポン放送株、ライブドアが過半数超す 議決権ベース?-?ビジネス

とうとうここまできましたね。
フジサンケイの迷走ぶりをみていると、これでよかったんじゃないと思うことしきりです。

フジテレビ、あなたたちは幸運だよ、「変わるきっかけ」をこんなかかたちですら手に入れたわけで。
ぼくはつくづく、古巣の日本テレビにアプローチしてほしかったと願うもの。愛情ゆえるに。

皮肉でもなんでもなく、フジテレビがうらやましいですわ。


二つのカフェに思うこと

2005-03-15 04:59:59 | 日々のわざ
カフェについて思うことがあると、です。

世の中には二つの独立した「カフェ文化」があるのではないでしょうか。

ひとつは、アメリカ西海岸に端を発したもので、スターバックス、タリーズなどに代表されるもの。

もうひとつはヨーロピアン・スタイルで、カフェ・アプレミディあたりを、嚆矢とするもの。

たぶん、カフェ・ブームという時のカフェというのは、後者の方ですか?
一般的な言葉づかいでカフェといったとき、前者も後者もごちゃーっと一緒になっているのかなあと思うのですが、そういう認識で正しいでしょうかね。
より正確に言うと、個々人の行動の範囲によってそれぞれが指す「カフェ」が別物であるということ。カフェについて語りつつ、片方の頭にはスタバが、もう片方にはアプレミディがあるというようなこともありそうですね。

前者はカジュアル、後者はちょっとオサレ。
前者は禁煙、後者は煙もくもく。
そんな違いもあって、ぜんぜん違うものなのに、同じ言葉で語られてしまう不幸を感じます。

さてさて、ここからが本論。
よく打ち合わせなどでカフェを使うことが多いわけですが、スタバなんぞですとなんとなく心が貧しい気分になります。
やっぱ、仕事の打ち合わせはもっと落ち着いた雰囲気でやりたいです。ざわざわした雰囲気がうれしいのは、別の局面でしょう。
しかしながら、アプレミディ的なところはたいてい喫煙天国で、10分もいられない。仕事にならん、わけです。
じゃあ、どうすればいいか。
禁煙のアプレミディ、みたいなものがあればいいわけですよね。
この前、アプレミディにいって煙で死にそうになったんで、かなり切実にそういうのさがしてます。

どこかありませんか。
新宿・渋谷・下北沢あたりで、ご存じの方、情報をこう、です。



「瞳を閉じる」ことについて、その歴史のまとめ、です

2005-03-13 17:56:21 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
まとめます。しのぶんやHoly Grailさんが調べてくださったことなども入れ込んで、「瞳を閉じる」という用例の起源を探すと……。

まず大正時代に、小説で「瞳を閉じる」用例があるようです。

素木しづ『青白き夢』(大正4年)
「……彼女は、目の前に黒い影をチラと見たまゝ、又瞳は自然に閉ぢられて行った」

菊池寛『青木の出京』(大正7年)
「……が、今でも意識して瞳を閉じると、その女の顔が(略)記憶のうちに蘇ってきた」

この場合あきらかに「目」の意味で使われており、「ひとみ」ではなく「め」と読まれていた可能性もあります。
このあたりのこと、詳しい方いらしたら、是非教えていただきたいです。


さてさて、歌の中で「瞳を閉じた」のは、橋本淳氏。

ブルーコメッツ「青い瞳」(昭和41年)
ヴィレッジ・シンガーズ「瞳をとじて」(昭和42年)
ザ・タイガース「銀河のロマンス」(昭和43年)
ヤンガース「恋を教えて」(昭和44年)

といった曲でその表現を使い、いっきに日本語歌詞の中で、「目を閉じる」の詩的表現として「瞳を閉じる」を一般化させました。
ちなみに、ヴィレッジ・シンガースの「瞳をとじて」は、「亜麻色の髪の乙女」のカップリング曲。

さらに、ぼくなんかの世代にとって決定的だったのは、
荒井由美の「瞳を閉じて」(昭和49年)だってたってことになるでしょう。

以降、この表現は、本当に嫌になるくらい、「歌詞の中」「広告の中」でだけで使われる詩的表現として、かなり無批判なまま継承され、きょうにいたるわけです。

以上、まとめ、でした。

なぜこんなことを書いているのか、ぴんとこない方には、こちら過去ログをどうぞ。

リヴァイアさん、日々のわざ: たのむから瞳は閉じないでほしい
リヴァイアさん、日々のわざ: 「青い瞳」が起源なのか


近視矯正をめぐって、調べたこと。その3、PRKについて

2005-03-13 17:06:00 | きうらきら光ったりするもの
今の近視矯正手術のファーストオプションはレーシック、ということになっています。

角膜を薄くスライスしたものを蓋(フラップ)として残し、その内側にレーザーをあてて角膜の屈折率を変える、と。
痛くないし、翌朝目が覚めるともう視力が出ている、画期的な手術、ということで、今後もファーストオプションとして扱われるでしょう。

でも、このフラップというのは、のちのち再接着するとはいうものの、完全にくっつくわけでもなく、交通事故などで強い衝撃がかかるとずれてしまうという報告があるそうです。特に最初の1年くらいは気をつけなきゃならない。
そのあたりが嫌だなあと思って、ほかのやり方に興味を持ったのですね。

角膜と水晶体の間に眼内レンズを入れるやり方は、現在のところはレーシックでは矯正不可能な強度の近視の場合にのみ薦められるようです。もっとも、レーシックで問題になる見え方の質の低下(暗いところで見えにくかったり、まぶしさを感じやすくなったりする)も、眼内レンズを使えば起こらないので、今後、もっと普及する術式かもしれません。
とはいっても、ぼくがこれを選ばなかったのは、水晶体というデリケートなものの前に直接レンズを置くことの影響がまだよく分からないから。白内障になりやすいのではという懸念を抱く眼科医もいて、これもやめておこう、と。

結局、選んだのはPRKと呼ばれる手術です。
レーシックのようにフラップは使わず、角膜の表面に直接レーザーをあてて、屈折率を変えます。
角膜を保護している表面の層ごといったんはなくなるので、術後三日間は痛いというのが問題なのですが、フラップを作らずに済むというのが大きくて、まあ三日くらいならがまんしよう、と。

より正確には、epi-PRKという術式。
でもまあ、これはそんなに本質的な問題ではないです。
今、ちゃんと見えている目にメスを入れる(レーザーをあてる)わけで、多少の「痛さ」と引き替えにリスクが減るなら、そっちを選ぶというかんじて、レーシックではなくPRKにしました。

すでに予約済み。
手術を受けたら、人柱報告、する予定です。


猫さんに触発されて、カワバタがライブドアvsフジ問題をゆるーく語ってみます

2005-03-12 05:19:18 | トンデモな人やコト
世の中には、「ライブドアvsフジ」ウォッチャーやら、マツリ的サイトが沢山あると認識しておりまして、人混みが嫌いなぼくは、あえてここで話題にしようとも思っていなかったわけです。

しかし、「猫が好き」さんのコメントに触発されて、エントリを立ててみようかな、と。

この「対決」のディテール、それほど知りません。
Yahoo Japanのトップにリンクが出るような時のみ、フォローしております。

というわけで、ぼくが述べることが出来るのは、20世紀の最後の10年間弱、いや、正確には8年と2ヵ月、テレビ局員だった実体験に基づいた「ああだこうだ」につきます。

というわけで、ぶっちゃけ述べておきますと……

フジテレビ、支配されちゃってもいいんじゃない、ということ、ですね。

正直いうと、ぼくは古巣の日本テレビが「支配」されちゃった方がもった楽しかったのだけれど、行きがかり上、仕方ないです。

免許事業であることにあぐらをかいて、殿様商売をしてこられた各テレビ局は、もうそれでは立ちゆかないところに来ているわけです。でも、とりあえずは、今この瞬間も、広告もガンガン入ってくるし、社員の超高給を維持できる程度には、殿様ではあります。

しっかし、これからは、そうはいかんよ、と思うわけですよ。
なら、いっそ、ドラスティックに、変わっちゃった方が勝ちです。
失敗したっていいじゃない。
給料が半分になったって、同世代のメーカー勤務の人なんかよりずっと実入りが良い訳だし、波瀾万丈はたのしいよ。きっと。

そうそう、メディアの公正さを、ライブドア支配によって失いかねないと、フジテレビは懸念しているようですが、それは心配無用。

ライブドアは、ある意味、大変公正に、法律の範囲内でできることを狙ってくるので、放送法があるかぎり、フジテレビは「法律で規定されるところの公正」は維持できるでしょう。

いいんじゃないですか。

メディアのありようが、ただ一つではない、と、教えてくれるに違いないし、ね。

しかし、書いていて、我ながら、ざるのような議論ですね。
すみません。
とにかく、ぼくはトリックスター・ホリエモンを楽しむというスタンスに一票ですわ。

なお、猫さんには、著作権関連の話題にもっていったほうが、このブログらしいのではないかという提案をいただいているわけですが、そいつはおいおいコメントにて。


ジャニーズにしてやられる

2005-03-11 01:36:07 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
ブログで議論してきた、学童のお祝い会の曲、最終候補は以下の三曲です。

世界でたったひとつの花

WAになっおどろう

100パーセント勇気

なんだかジャニーズやられてますね。
でもね、みんなでぶっつけ本番で歌えるというと、どうしてもここに落ち着いてしまうわけです。

ほかには、キロロの「未来へ」、D51の「No more cry」なんかも話には出たのだけど、ブッツケというわけにはいかないし、ね。

それにしても、全部、ジャニーズだ。まいった。

つい先ほど、最終決定。
うたうのは、「100パーセント勇気」になりました。


とうとう花粉にやられる

2005-03-10 05:04:22 | 日々のわざ
二月からずっと花粉症の治療薬を飲んでいて、これまでまったく症状も出ず快調……だったのが、とうとう来ました。鼻がやや、ぐしゅっとしてる。ティッシュ必携ってほどでもないけど、ちょっと気持ち悪い。

やはり、花粉量が「非常に多い」あたりから、持ちこたえられなくなるみたいだ。
ちなみに、ずっと飲んでいるのはクラリチン。

人に会う時なんかは、さらに強い抗ヒスタミン剤をのまなきゃだなあ。
医者に行かなきゃ。


「青い瞳」が起源なのか

2005-03-09 23:55:59 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
青い瞳 ブルー・コメッツ

昭和二年に日本やって来たアメリカ人形は、「青い目の人形」と呼ばれました。
昭和41年の「青い瞳」は「青い目」じゃなく「瞳」でした。

この瞳はまだ「閉じる」能力を獲得していないのだけれど、瞳=目というような用例のはしりだったのではないか、と。

ユーミンの「瞳を閉じて」は、昭和49年の作品のはず。今ちょっと調べてみた。

さて「青い瞳」との8年間に、少なくとも歌詞の世界、そしておそらく広告の世界で、瞳は目になり、閉じられるようになったのかなあ、と。

もしも、なにか発見ございましたら、継続的に報告します。


たのむから瞳は閉じないでほしい

2005-03-09 05:43:38 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
レミオロメンの「3月9日」という曲を聴いていて、なかなかの佳曲なのに、サビで「瞳を閉じて」ときたところで脱力。

なんで、我が国にはかくも言葉に無神経なシンガーが多いのだろう。もちろん、それを受け入れている側も問題なのだけど、平井堅の「瞳を閉じて」なんて、国語審議会が問題にしないのが不思議くらいのトンデモ歌だと思うのですよ。

なぜなら、

瞳は閉じられない。

からです。

閉じることが出来るは、まぶた、です。
あるいは、目を閉じる、というのでもいいでしょう。

でも、瞳は、断固として閉じない、です。
まぶしくて、きゅっと絞まることはあるにしても。

「瞳を閉じる」という表現、歌詞でしか使いませんよね。
この表現を大々的に広めたのは、ユーミンの「瞳を閉じて」だと思うのですが、それ以来、延々と、単に「響きのよさ」という理由だけで、無批判、無批評なまま使われ続けているわけです。
日本語歌詞の、クリシェになっているのですね。

使うな、とは言いません。
ただね、使う以上、確信犯であれ、とは思うわけです。

ぼくには、ほとんどの「瞳を閉じて」が、まったく確信犯には聞こえないのです。
単に、日本語歌詞のレガシーを無批評・無批判なまま継承しているだけ、だと。

その意味で、バービーボーイズは偉かったです。「瞳の奥でまばたくな」は、名曲です。
瞳はまばたかないという、解剖学的な真実をふまえた上で、その奥で「自分を見ているにもかかわらず、見ていない」相手について、そのように表現する。
これぞ、歌詞って、思うわけですよ。

そうだ。
「瞳を閉じて」の起源。実はユーミンじゃないんです。ユーミンは広めただけ。
それ以前、URC系のフォークで用例があるんです。一度、きいて、あ、たぶんこれが最初のだ、と思ったことがあって……。
でも、それが誰のどの曲なのか思い出せない。
もどかかしいっす。
どなたか、ピンときませんか。


近視矯正をめぐって、調べたこと。その2、眼内レンズの是非

2005-03-08 06:30:07 | きうらきら光ったりするもの
レーシックやらPRKやらが、角膜にレーザーをあてて、屈折率を変えるのに対して、目の中に人工レンズを入れて、もっと直接的に近視を矯正してしまうやり方があります。Ohakik-IOL、フェイキック・アイオーエル、と呼ばれています。

これは、もともと白内障で水晶体を摘出し人工レンズを入れる手術の発展系。
そういう意味で、かなり実績があるものと言えるわけですね。

レーシックなどに対するメリットとしては、

水晶体と角膜の間にレンズを入れるだけなので、後で取り外すこともできる可逆的な手術だということ。
それにつきます。
白内障手術での「実績」も含めて、安心度が高い、と。

デメリットは、

今のところ、手術は片眼ずつになること、ですね。
ひとつ入れて、それが安定してから、もうひとつ。一ヵ月くらいのラグがあって、とすると、その間、極端なガチャ目状態になるわけです。ひどく疲れそう。手術前なので、コンタクトレンズも制限ができてしまいます。それまで使っていた、メガネの片側を素通しにして、対処するとかしかなさそうですね。

それと、レンズを入れるのだから、ターゲットの視力にきちんとなりそうなものですが、レンズの位置によって視力が変わってしまうので、実はそれほど安定した結果が得られないというのもデメリット。

実はですね、ぼくは、この手術を最初、真剣に検討してました。
しかし、こういった、メリット・デメリットの検討を吹き飛ばすような驚愕の事実が……。

最近、いくつかのトラブルが報告されているそうです。
人工レンズは水晶体に接する形で置かれます。
そして、水晶体というのはとてもデリケートな構造物です。

いかに生体適合性の高い素材を使っていたとしても、その刺激が水晶体によかろうはずがない……。
というわけで、人工レンズ挿入後、水晶体が白濁する、つまり白内障になってしまう症例が報告されているのだそうです。
白内障になったら、水晶体をとりだして、人工レンズに替える、と。
つまり、人工レンズが人工レンズを呼ぶ、構造。

もちろん、これはただの症例です。
人工レンズを入れなくても白内障になった人かもしれず、たしかなことは疫学研究を待たなければなりません。
でも、そういう症例が複数報告されていたら……やっぱり、ひくよね。

というわけで、ぼくはこの手術はしないことに決定。


子供たちの言葉遣いが乱れているのは事実@学童。でもさ、学校の校長先生にどうこう言われる問題じゃない

2005-03-08 05:20:36 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
うちの学校では、というか、うちの自治体では、小学校の中に学童保育の拠点があるわけです。
学校の一部を借りて、学童保育を実施している。それは、自治体側の方針で、学童保育以外の「放課後の遊びの拠点」と、通常の学童保育を、一緒にやってしまおうというわけです。

だから、時々、学校側・学童側・PTA・学童保護者会・地域の方などが、集まって話をする連絡協議会、というのが開かれます。

そこで、校長先生から指摘されたこと。

学童での言葉遣いが乱れている。学童の先生を、呼び捨てたりして、なっておらん。

たしかにその通り。
ベースには学童保育が「家庭的な雰囲気でやりたい」という長い伝統があって、学童の先生は「先生」と呼ばれないのです。学校を終えて学童に来た子供たちは、「おかえりなさい」と迎え入れられる美しい伝統(?)と、「先生と呼ばない」ことは、表裏一体なわけですね。(こういうのって、ほかの地域の学童ではどうなんでしょうかね)

とはいっても、それが昨今、言葉の乱れに繋がっている。
言葉自体がラフでもそこに敬意が込められていればいいのだけれど、ただ乱暴で、先生の側だって思わずむっとしてしまう局面もあるらしい。
たとえば、「××しろよ」とか「ふざけんなよ」とか、とうてい目上の者に語りかけているとは思えない言葉遣いをする。

どうになかしなきゃ、ですね。
敬意を取り戻す、という意味で。

とはいえ、このエントリの主旨は別のとこにあるわけですよ。
こういったことを問題として認めつつも、それを学校の校長先生に言われる筋合いはない、とちょっとむっとしてしまったのです。

当たり前だけど、学校は教育の場。
そして、学童は保育の場。

それぞれ、違う人たちが、違う目的の元に、違う誇りをもってやってます。
それをたまたま、自治体の方針で同じ場を使っているからといって(たぶん校長の意識としては、使わせてあげている、のだと思う)、中身の問題にまで口をだしてくるのはどうか、と。

こういうのって、あまりにもシチュエーションを限定しすぎたローカルな憤り、ですかね。