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鎌倉・源氏山ハイキングの計画

2010-09-05 | 日記
鎌倉・源氏山ハイクの計画

この秋訪れたい、源氏山ハイクの計画を建てています。

距離は3~4Km、 ゆっくり観光して歩いても 2~3時間の行程です。
そのあと、仲間と小町通で一杯やるのが楽しみです。

さて、行程ですが、地図は下のようなしだいです。



訪問先のガイドをまとめて見ますと

先ず、北鎌倉駅前の円覚寺から

②円覚寺:
正しくは臨済宗の寺で「瑞鹿山大円覚興聖禅寺」(ずいろくさんだいえんかくこうしょうぜんじ)です。
起源は蒙古襲来の文永・弘安の役の両軍の死者・菩提を弔う目的で、時の執権・北条時宗が創建したと伝えられています。
現在は、関東禅界の中心的存在であり、近くの浄智寺、東慶寺、瑞泉寺、大慶寺などはこの末寺です。
座禅道場「居士林」では夏目漱石も座禅をしたそうで、それを真似て私もと思い、案内書を見ましたら、泊り込みですし、結構蚊もいるようですし、年寄りには無理で、お断りされてるようです。
また、少し東にそれた小高い岡の上の鐘楼「洪鐘」(おおがね)も見ものです。国宝だそうです。

③東慶寺 :
 かけこみ寺、縁切り寺ともいいます。
松岡山・東慶寺は臨済宗・円覚寺派に属する寺です。
明冶35年に至るまで男子禁制の尼寺で駆け込み寺または、縁切り寺として、不憫な女性を救済してきた寺です。
今でも、寺の左側には宿舎らしきものが残っています。実物ではないでしょうが。
江戸時代、夫と別れたい女性が、この寺で3年間修行し、幕府公認の離婚ができたそうです。
宝蔵には三行半(みくだりはん)の離縁状が陳列されていました。
ここはまたの名を「花の東慶寺」といわれ、秋には 萩、彼岸花、コスモス、秋明菊、紫苑(しおん=菊の種類)などが咲いています。

またここには、著名人が多く眠っています。
なんとここの墓石には戒名でなく生前の名前だけが刻まれています。
私もそうしたいものです。
主な墓石の名前を挙げると、
鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、安倍能成、田村俊子、和辻哲郎、佐々木茂索、太田水穂、高見順、小林秀雄、野上弥生子、・・・
その位置や、向き、配列が面白いとか・・・?

④浄智寺 : 
臨済宗円覚寺派で、鎌倉五山の一つ。
樹木が豊かで起伏に富んだ素晴らしいお寺です。国の指定史跡。
裏庭のトンネルを抜けると、洞窟に七福神の一である“布袋さま”が祭られています。
また、背後の谷戸(ヤト)も見ごたえがあります。

鎌倉は、戦国時代、江戸時代と、鎌倉時代から遠ざかるにつれ、世から忘れられ単なる農漁村になり、寺院の多くは寂れ、さらに関東大震災で決定的といえる打撃をこうむりました。
現在の姿に復興したのは、文化財保護と軍国主義興隆のなせる業でしょうか?

浄智寺を裏山に辿ると、葛原ケ岡ハイキングコースに出ます。
このコースの一箇所だけ、一寸落差の大きい岩道がありますが、あとは楽な山道です。
1000m、約10分も歩くと、平らな源氏山公園に出ます。まず、葛原岡神社へ

⑤葛原岡神社:
ここは後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。
日野俊基は鎌倉幕府の倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑されました。
近くにその処刑場跡があります。

日野俊基は1323年(元享3年)に後醍醐天皇に抜擢され蔵人になり、日野資朝とともに後醍醐天皇の側近として倒幕計画を先導し、武士団を組織しました。
正中元年(1324)の正中の変(1325)で倒幕計画が漏れ、日野資朝・日野俊基が捕らえられ鎌倉に連行されました。俊基は、証拠不十分で罪を許され、資朝は死罪を免ぜられ、佐渡へ配流になりました。
俊基は、後醍醐天皇の下で再び北条氏倒幕計画を進めたが、元弘元年(1331)の元弘の変で六波羅に捕らえられ、鎌倉に護送されて、翌年元弘2年(1332)に葛原岡で処刑されました。

そのときの辞世の句が残っていました。

“秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ”

⑥、銭洗弁天 : 
頼朝が飢饉に苦しむ世の救済を祈願したいわれから、その霊水でお金を笊にいれて洗うと2倍になると言う信仰が生まれたとか・・・

⑦、源氏山公園:
八幡太郎義家(頼朝の祖先、平安時代の武将)が山上に白旗を立て戦勝祈願をしたと いう伝説から、源氏山(白旗 山)と呼ばれたそうです。
ここは桜の名所でもあります。

⑧、化粧坂(けわいざか):
「化粧」とは 「身だしなみを整える」意味ですが、鎌倉へ入る境のこの坂道(切り通し)で身だしなみを整えたんだそうです。
また、お化粧姿の女性がたむろしていたと言う説もあります。
元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道です。
わずか80m程の坂道ですが幕府軍の抵抗は激しく新田軍は、4日後になっても突破できなかったそうです。
雨が降った跡や、氷ついた冬は、滑りやすく、一寸通りにくい所です。

⑨、英勝寺 :
尼寺に相応しい佇まいを見せている寺ですが、昨年、私が訪れたときは改修工事中で、なかは見れませんでした。

⑩、寿福寺:
寿福寺は臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位です。
参道が素晴らしく、こころ洗われる心地がします。

ここは昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願したと云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地であり、また源頼朝の父・義朝の居館があった所でもあります。

裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、
さらにその奥の“やぐら”(鎌倉特有の横穴式墓所)には北条政子と源実朝の墓・五輪等があります。
ただ、夫・頼朝の墓と離れているのが疑問ですが・・・?

⑪、日本料理・かまくら山路:
ここで一杯呑みながら食事するつもりです。一寸値段が張りますが、いい気分で休めます。
鎌倉在住の友達に教えてもらいました。

近い内に、下見を兼ねて訪問するつもりです。