地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本百名山 27、巻機山(1960m)

2013-12-06 | 日本百名山

日本百名山 27、巻機山(1960m)

今は、JRの普通線も新幹線も、そして高速道路も『清水トンネル』で谷川岳の下を快適に通過しています。
しかし、その昔(明治の中ごろ)、越後と上州を結ぶため清水峠越えの街道が計画されましたが、雪崩のためポシャてしまい、そのまま放置されているそうです。

それだけの難工事なのに、なぜその都度、別々にトンネルを掘るのでしょうかね?
一緒に工事すればいいのに!

 さて、その清水峠越えの拠点に『清水』があり、そのすぐ上に、この辺では、「最も高く、最も立派な」巻機山があります。

 

「山間の僻村清水はこの巻機山の真下にある。
から少し登ると、巻機山の前に、天狗岩(あるいは黒ツルベ=割引岳)と呼ばれる黒々とした岩峰がニョキと立っているのが印象的である。
その右裏に、頂きの平らな巻機山がゆったりと伸びている。」

設定:カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:春山の追分、高さ強調1.3倍、仰角20度

 

 

「巻機山に登ったのは(昭和11年)四月八日であったが、村はまだ深い雪の下にあった。

上越線の塩沢駅で下車して、登川に沿って、最奥の清水までの長い道を歩き、そこで一泊して、翌日、案内荷担ぎを一人雇って登った。
初っぱなから檜穴ノ段(ひのきあなのだん)と呼ぶ急斜面は辛かったが、それを登りきると、思わず歓声を発するような気持ちのいい広々とした雪原に出る。
それからもう一度、上檜穴ノ段の急坂を登ると、間もなく前山(ニセ巻機山)である。」

 

前山を「ニセ巻機山」とも呼ばれているのは、清水から登ると、巻機山はほとんどこのニセ巻機山と重なり、ニセモノを目指して登るからだそうです。

「前山から巻機山の頂上まで三十分足らずだが、その鞍部は、雪が消えると、お泉水(池塘)が幾つも現われ、ナンキンコザクラの敷き咲く気持ちのいい所である。
頂上は広々としている。・・・」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

  

次の山名は、今の地形図とは一致しないが、
天狗山(黒ツルベ)は、割引岳の事か、「・・・黒々とした岩峰がニョキと立っているのが印象的…」とある?

また、「檜穴ノ段」「上檜穴ノ段」とあるのは、六合目への急な取り付け道と、その背後の前山への急な尾根道の事か? このコースは井戸尾根コースといわれています。

その他にもいろいろあって、コースを尋ねるのに難儀をしています。

 


日本百名山 26、平ヶ岳(2140m)

2013-12-03 | 日本百名山

日本百名山 26、平ヶ岳(2140m)

ここは、日本海側へ流れる阿賀野川と、太平洋側へ流れる利根川の分水嶺です。
新潟県側の豪雪地帯との境でもあります。

 

そして、書き出しに

「・・・あまり人に知られていないが、十分にその(百名山の)資格がある。

第一、    利根源流地域の最高峰である。・・・
二千百米を超す山は、平ケ岳と至仏山と武尊岳しかない。・・・

第二、    その独自な山容。長く平らな頂上は甚だ個性的である。・・・

第三は、・・・どこの山へもワンサと人が押しかける時代に、まだろくな登山道もない・・・。」

筆者は、この三つを百名山にした理由に挙げている。

 

 

「残雪を踏んで行く頃が一番登り易い。・・・(しかし)残雪期を逃した私は秋のさ中に、遂に多年の念願を果たした。
越後側から登って、上州側へ下った。・・・
小出から枝折峠を越えて石抱橋までバス、それから舟で近年ダム湖(奥只見湖)になった北ノ又川の支流・中ノ又川へ入った。・・・
そこから名だたる越後の山の籔との悪戦苦闘が始まった。・・・

翌日も猛烈な藪くぐりが続いた。方角が解らなくなると、木によじ登って行衛を定める。
ようやく池ケ岳の気持ちのいい草原に出てホットした。
そこから中ノ岐の源流を渡って,又しても藪の中に入ったが、うるさい枝を掻き分け掻き分け登っているうち、ひょっこりきれいな空地に出た。そこが平ケ岳の頂上であった。・・・

 

頂上のテントで明けた朝は、素晴らしい天気に恵まれた。
ところどころ小池をちりばめた草原には、あの忌まわしい屑類一つなく、汚されない自然のままの美しさで広々と続いていた。・・・」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

ここに出てくる藪との戦いは、人跡未踏の山では特に厳しいようです。

「方角が解らなくなると、木によじ登って行衛を定める。」とありました。

先日登った榛名山・箒部ケ岳の藪(むしろ笹の部類)などは、問題外のようです。

以前、旧東海道を小田原から箱根峠経由三島へ下ったことがありますが、三島からは背丈以上の藪の中を歩きました。そこは足元に旧街道の石畳があったからよかったのですが、そんな道の向かいからザワザワ何者かに出くわすと怖いですよね。

さて、尾根を伝っても、花崗岩特有の岩塊に出くわすと、なかなかその先には行けません。

花崗岩は一名御影石ともいわれ、古くから石材にも使われた緻密でかたい岩石です。ちなみに三角点や石橋にも使われています。国会議事堂もそうです。

籔とそんな岩塊と闘いながら頂上を目指しました。

 

そうかといっても、沢に下りるのはさらに危険です。
そして、その下り路ががさらに?・・・しんどいとか・・・。
私には無理!

 ところで、地形図では、多くの湿地帯や池が散見できますが、所謂『池塘』です。

 
近くの尾瀬沼もそうですが、これは豪雪のために出来る泥炭地・湿地帯であり、水たまりです。


日本百名山 25、魚沼駒ヶ岳(2003m)

2013-11-23 | 日本百名山

日本百名山 25、魚沼駒ヶ岳(2003m)

魚沼三山と云うのは、駒ケ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、八海山(1773m)の事です。
今では、越後三山と呼んでいます。 

清水トンネルを抜けると見えてくる新潟県の雪山です。

「古来修験道の山はたいてい岩山であって、その険阻な個所に鎖や鉄梯子をとりつけ、登拝者の肝を寒からしめる所に、その功徳を誇っているように見受けられる。
八海山も例外ではない。・・・
八海山は信仰の山だから頂上には数多くの石碑や修験者の像が立っており、・・・
中ノ岳の丸みをおびた柔らかい山容に引きかえ、駒は切り立った大峭壁の上に大きく立っている。」


修験者たちは、鎖場や鉄梯子のあるような山でないと、登った気がしない様ですが、
登山者の多くも、それがないと登山とは言い難いようです。
人間の持つギリギリの体力、精神力に挑戦し、克服しないと満足しないようですな~。

私には、前からそんな気は全くありません。後で一杯を楽しむ安全第一の山登りです。

「信者の中で勇気のある者は、八海山から中ノ岳、それから駒ヶ岳へと、三山を巡礼する。
この順路は普通三日ないし四日を要した。
しかし近年は、逆路を採る者が多くなったのは、その方が楽だからである。私も楽な方を選んだ。」
  

「雪の上のテントで明けた翌朝は無風快晴、勇躍して中ノ岳の上に立った。
そこからの展望は越後中の山々がことごとく見えたといっても過言ではない。

仲ノ岳から八海山までの縦走は、予想以上の厄介な道であった。
痩せた尾根を急激に下ったり登ったりする。いったん八百米もグンと下って、それから八海山への登りも楽ではなかった。
八海山は岩の連なりで、最初の二、三の岩峰は鎖に頼るほかなかった。その八つの峰を終わった時には夕方になり、麓の大崎口の社務所へたどり着いたのは、夜の九時過ぎであった。」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 (入道山から駒ケ岳、中ノ岳を望む)

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:登山地図、高さ強調1.3倍、

 


日本百名山 24、那須岳(1917m)

2013-10-22 | 日本百名山

日本百名山 24、那須岳(1917m)

「那須五岳と称えられるのは、南から、黒尾谷岳、南月山、茶臼岳、朝日岳、三本槍岳を指すが、
その中枢部の茶臼、朝日、三本槍を、所謂那須岳と見なしていいだろう。

茶臼は名の通り臼型のコニーデであり、朝日は峨々とした岩の盛り上がりであるのは、かっての噴火の火口壁の名残だという。
三本槍はその名から察して鋭い岩峰を思わせるが、
実はそうではなく、なだらかな頂きを待っているのは、その北肩が下野・磐城・岩代の三国境になっていて、
封建時代に黒羽藩、會津藩、白河藩の武士が所領を確かめるため、五月五日の節句にそれぞれ槍を携えて登山し、山頂に三本の槍を立てた行事から来た名ごりだそうである。・・・

那須七湯(湯本、北、弁天、大丸、三斗小屋、高雄、板室。現在はこのほかに、旭、八幡、飯盛、新那須の四つを加えて十一湯となっている)はこの火山脈のおかげである。・・・

そしてそれらの温泉を根城として登山の出来ることが、那須岳の大きな特徴であろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 


  

この解説書には、筆者が登ったコースの説明はないので、私が20代の頃登ったコースを辿ってみましょう。

赤いコースは、確かな記憶ではないですが、三斗小屋に泊まったのは間違いございません。

 

やっと山頂近くにたどり着いたら、ハイヒール姿の若い女性達がハッシャイでいたのには、参りました。
ロープウエイで登ってきたのですね。うんざりした覚えがあります。




日本百名山 23、会津駒ヶ岳(2132m)

2013-10-15 | 日本百名山

日本百名山 23、会津駒ヶ岳(2132m)

「私が初めてこの山を親しく望んだのは、尾瀬の燧岳の頂上からであった。
北にあたって長い山稜をもった山が見える。
一頭地を抜いた峻抜な山の形には見えないが、その尾根の長いおだやかな山容が私を魅惑した。
そこで私は会津駒ヶ岳へ向かった。
昭和十一年(1936年)六月のことである。」

一寸、恰好付けた山登りの動機ではあるが、まあ~、いいか。
下山の際、苦労したそうですから。・・・

下のカシバード写真は、その燧岳から望んだ会津駒ヶ岳の山容です。

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、

登った山の地図とその行程断面図は次のようです。

 


 「快晴に恵まれた私は早朝桧枝岐の宿を出て山へ向かった。・・・

登山道は細い尾根をグングン上っていた。

広葉樹が針葉樹に譲るあたりから、残雪がきれぎれに現われ、やがて雪はベッタリ、続いて木立も疎らになり、
前面に目の覚めるような景色が現れた。
会津駒ケ岳の全容である。

どこが最高点か察しかねるような長大な山が伸びていて、それがおびただしい残雪で輝いている。
会津駒を天馬の疾駆するさまに見たのはその時である。・・・」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

次の写真は、その眺めをカシバードで具現化した想定図です。どうですか?

 (駒ヶ岳小屋から山頂を望む)

設定:カメラ:PRO、レンズ:2mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.3倍、
 

筆者はこの後、道に迷い、えらい苦労をして桧枝岐に下ったようです。

「・・・とうとう私は気を腐らして谷川へ下った。
そして未知の谷へ軽率に足を入れることが、いかに愚かな所業であるかということを、それからの三時間の悪戦苦闘で思い知った。」

 原因は

「・・・(山頂で)どちらを向いても山ばかり、その山々を名指すことで一時間は素早く過ぎた。・・・
少し有頂天になり過ぎたのかもしれない。
下山に際していい気持ちで残雪を駆け下って行くうちに、登山道に移る接続点を見失ってしまった。・・・」

こんなベテランでも、山道に迷うことはあるようですね。
山は怖い! 
「慌てふためいた行動」 これが一番危険なようです。
原則は、 ‘谷へは下らない 。もと来た道へ帰る。’ だそうですが・・・。


日本百名山 22、磐梯山(1819m)

2013-10-10 | 日本百名山

日本百名山 22、磐梯山(1819m)

「明治二十一年(1888年)七月十五日の朝、磐梯山は大爆発をした。
噴きあげた濃い灰のため、暫くは四方暗黒、遠くから眺めると、柱状をなした煙の高さは磐梯山の三、四倍に達した。・・・
爆発の箇所は、主峰の北にあった小磐梯山で、その山形は吹っ飛び、溶岩は北に向かって流れた。
桧原村の村落はその下に埋没し、死傷五百余人、・・・
山北数里の地は変じて高原となり、川は堰かれて幾つかの湖を生じた。」
と書き出された、裏磐梯の爆発の情景です。

「・・・私の得た最もみごとな眺望は、湖の東南側にある額取山から高旗山に続く丘陵山脈上からであった。・・・」
それは、おおよそ下の写真のような姿でしょうか。(高幡山山頂より カシバード)

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:八ケ岳の風景、高さ強調1.5倍、

同時に、3年前、山の連中と磐梯山に登り、山頂から眺めた猪苗代湖と、その裏の裏磐梯との眺めも忘れられない光景です。
 

設定:カメラ:PRO、レンズ:16mm、風景:草原の風景、高さ強調1.5倍、

 

さて、
「表口の登山は猪苗代町から始まる。・・・
明治二十一年の裏磐梯の大爆発の時、見禰まで泥流が来ての一部を埋め、大きな噴石をもたらしたが、それがいま見禰の大石として天然記念物となっている。・・・
次第に傾斜が強くなり、赤埴山を越えると、鏡沼というひっそりした沼のほとりを過ぎ、沼ノ平の湿原へ入る。
ここは大昔の噴火口の底にあたる所で、そこから急峻な斜面を登る。・・・
沼ノ平から旧火口壁を登りきると、草原風の古い尾根になり、やがて弘法清水という甘露の水の湧き出ている所へ着く。ここで裏磐梯からの登山道と一緒になるので、にわかに登山者が多くなる。・・・」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

ここにある弘法清水は、弘法大師(空海)が杖を立てて清水をわかせたという伝説のあるわき水です。
ここで水を飲んでおかないと、この先には水飲み場はない所です。

 

 このコースを地図で辿ると次の赤線になります。

 

私も、この山には裏口から登りました。
初日は八方台までバスで行き、そこから猫魔ケ岳を経て雄国沼へ下り、だらだらと檜原湖へ下りました。

そして、翌日は、八方台から中の湯、弘法清水を経て磐梯山の頂上に登りました。その往復です。
今から思うと、2,3年前までは、まだ健脚だったのだなーと、驚いています。


日本百名山 21、安達太良山(1700m)

2013-09-16 | 日本百名山

日本百名山 21、安達太良山(1700m)

安達太良山で思い浮かぶのは、先ず『安達太良山の鬼婆』と千恵子抄ですが、
筆者は千恵子抄のことにしか触れていないので、先ずはその辺から・・・。

高村光太郎夫妻が二本松の裏の崖に腰をおろして、
「パノラマのような見晴らし」
 (二本松駅手前の新幹線路上より)

設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:地図との合成表示、高さ強調1.5倍、


を眺めた時の絶唱 『樹下の二人』 の一部を引用すると、

あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川、
・・・
 ここはあなたの生まれたふるさと、
 あの小さな白壁の点々があなたのおうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸おう。
・・・
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。 


さて、その登山の案内であるが、
まずその地図と径路断面図を示しておこう。

 

「私は二本松から山麓の岳温泉まで車を駆り、そこから安達太良山に向かった。・・・
(スキー場の)斜面を登りきると、林の中の平らな道が続くが、やがて又急坂になって、勢至平(せいしだいら)
と呼ぶ茫々とした原に出る。・・・

行手に黒々とした岩で厳めしく立っているのが鉄山である。
そのすぐ下にくろがね小屋があった。
だいぶ古びた
山小屋だが、熱い温泉の湧いているのが何よりであった。・・・


小屋で一泊した翌朝は、・・・
雪と岩との急斜面を登って稜線へ出ると、そこは鉄山と矢筈の森との鞍部である。・・・
鞍部から馬ノ背を辿って、大きな岩の立っている矢筈の森を超えると、稜線はゆったり広くなって、やがて乳首の下に出た。
鉄梯子のかかった岩場を登ると、安達太良山の頂上であった。・・・

帰途は岩代熱海の方へ下った。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)


そして、いよいよ歌舞伎で有名な、『安達ヶ原の鬼婆』の昔語りに移ろう。

《安達ヶ原鬼婆伝説》
安達ヶ原の鬼婆は、その名を『岩手』といい、都のある公卿屋敷の乳母であったとか。

幸せに暮らしていたが、手塩にかけて育てていた娘が病にかかってしまう。
我が子の病を治したい一心から、『妊婦の生肝を飲ませれば治る』という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどりついたのが安達ヶ原であった。
(京都にいて福島の地を思う心は、多分、当時最北の地と思われていたからでしょうか?) 

木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどきのこと。
伊駒之助・恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を乞うた。
その夜、身重であった恋衣が俄に産気づき、伊駒之助は薬を求めに出て行った。
老婆『岩手』は、待ちに待った妊婦の肝を取るのはこのときとばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き、生肝を取ったが、
苦しい息の下から 『私たちは小さい時、都で別れた母を探し歩いている』 と語った恋衣の言葉から、
持っていたお守り袋を見て驚愕する。
これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまった。

以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らうようになってしまったが、
数年の後、紀州熊野の僧『阿闍梨祐慶東光坊』によって射殺されてしまったという。

鬼婆が埋葬されたといわれる黒塚には、杉の大木が生えており、
また、平兼盛が詠んだという歌の句碑も建立されているそうです。

 みちのくの 安達ヶ原の黒塚に
  鬼こもれりと 聞くはまことか

 

 

 

 


日本百名山 19、吾妻山(2024m)

2013-09-13 | 日本百名山

日本百名山 20、吾妻山(2024m)

「一口に吾妻山と呼んでも、これほど茫漠としてつかみどころのない山もあるまい。
福島と山形の両県にまたがった大きな山群で、人はよく吾妻山に行ってきたというが、それは大ていこの山群のほんの一部に過ぎない。・・・」

よく聞く話に、『私は百名山に登った・・・』という話があるが、こうした山塊があちこちにあることからすると、よく耳を澄まして聴く必要がありそうです。

私も、八ケ岳にも西穂高にも登ったことはありますが、実情は硫黄岳であり、ピラミッドピークだけです。
余り自慢げに話さないほうがよさそうですね。

 五色沼から見た吾妻山山塊
設定:カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍、


 左図は西吾妻山周辺です  


「(四月上旬)白布高湯を発足点として、その宿屋の前からスキーがはける位まだ雪があったのに、それから頂上までのあいだ、快晴の土曜日にもかかわらず、独りの登山者にも出あわなかった。
まだリフトが全くなかった頃である。
二人はスキーで森林地帯の急坂を登り、人形石の峰に立つと、当の西吾妻山は気の遠くなるほど遥か向こうにある。
そこまで行く山稜は、稜線というより広大な高原で、ここへきてはじめて吾妻山西部の雄大なスケールを見た。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 


日本百名山 19、飯豊山(2128m)

2013-09-10 | 日本百名山

日本百名山 19、飯豊山(2128m)

「私は教えられて磐越西線の車窓からあざやかに眺めた。見えたのは飯豊本峰から大日岳へ続く長大な稜線で、真夏にも拘らず、山腹にはまだ多量の残雪をおいていた。
会津側が飯豊の表登山口となったのも、そこから一番よく山が見えたからだろう。」

 (喜多方市から見た飯豊山峰)

設定:カメラ:PRO、レンズ:50mm、風景:雪の季節、、高さ強調1.5倍、

 

「私たちはまず北側から杁差 (えぶりさし) 岳に登り、地神山、門内岳、北俣岳などを経て、最高峰大日岳に登り、更に御西岳から飯豊本峰に至って、帰りは、牛ケ岩山の尾根を辿って、五枚沢へ下りた。・・・
全行程中、山小屋一泊、テント三泊、そしてその始めと終わりには雲母(きら)温泉と熱塩温泉という結構な宿りがついた。」

 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用

山小屋一泊、テント三泊の行程はすごいですね。
山登りって大体はこんなものでしょう。
我々のグループが行く登山は、誰やらが云ってたように、ハイキングですね。

 

行程に入っている雲母温泉とは?

「雲母」は「きら」と読みます。発見した人の名前に由来するそうです。

荒川をはさんで高瀬温泉の対岸にある温泉です。
山には登れそうにもありませんが、名称につられて、この温泉には行ってみたいですなあ~!

 

さて、この飯豊山峰には、三国の境・『三国岳』があります。

今で云う、山形県(羽前、・・・)、新潟県(越後)、福島県(岩代、・・・)の境です。

その境が、廃藩置県の際、ちょっと揉めて、変な境界になっています。
その形は次の地図の如しです。

 通常の2.5万分一地形図

 福島県境の詳細

 

廃藩置県の際、飯豊山神社の奥宮(新潟県側)が麓宮(福島県側)と分離されました。
そのことで、一の木村(現・福島県喜多方市)が、『飯豊山神社は、奥宮と麓宮で一宮である』として反発したそうです。

その結果、内務省裁定で飯豊山神社までの参詣道は福島県側になり、現在のような変な県界になりました。

三国岳付近から飯豊山を経て御西岳の西にある御西小屋付近に至る約7.5kmの登山道と
飯豊山頂の神社境内地は福島県に属しました。

また、三国岳から御秘所(おひそ)、御前坂に至る約4キロメートルは、幅約91cmの道だけであり、
飯豊山頂と飯豊山神社付近は最大300mほどの幅になっています。

 

同じようなことは、全国に結構あるようです。

大阪市と松原市の境(盲腸市境)も奇妙ですね。

いずれ纏めてみましょうかね???

 

 


日本百名山 18、蔵王山(1841m)

2013-09-04 | 日本百名山

日本百名山 18、蔵王山(1841m)

 「蔵王には、鳥海や岩手のような独立標高の姿勢がない。
群雄並立といった感じで、その群雄を圧してそびえ立つ盟主がない。
山形から見ても、仙台から見ても、一脈の山が長々と連なってるだけで、その中に取り立てて眼を惹くような、抜きんでた高峰がない。・・・
だからわれわれが蔵王と呼ぶ時には、この一連の山脈を指して云う。・・・
もしも最高点を盟主とするならば、それは熊野岳・・・」

  仙台市から望む蔵王山

設定:カメラ:PRO、レンズ:50mm、風景:雪の季節、、高さ強調1.5倍、

 

「高湯から登り、熊野岳、刈田岳を経て峩々温泉に下るのがコースで、この二つの峰の間が馬の背と呼ばれている。
高原状の広々とした尾根で、冬吹雪に会うと迷いがちなのでスキーの難所とされているが、夏は公園のようなのんびりした遊歩場である。・・・」

 

「お釜と称する山上湖は蔵王の宝玉ともいうべき存在で、それのために馬の背の逍遥は一段と精彩を加える。
直径三百六十米、ほぼ円形の湖水で、そのふちの東半分は、削り取ったように断崖になっていて、その崖に横縞に入っている色彩が、何とも云えぬ微妙な美しさを呈している。鉄錆色と云うか、それを主調に、いろいろの色が混じっているので、一名五色沼の称がある。
 刈田岳から望む御釜(五色沼)

お釜の水は怪しく濃い緑色で、噴火口特有の一種凄惨な趣がある。」
 (新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)

 

何年か前、会社の同僚たちと行ったことがあります。その時は素晴らしい御釜を見る事が出来ました。
多分、刈田岳の駐車場から眺めたのでしょう。
また、近いうち(11月上旬)に行きます。今度は鉄錆色の断崖を注意して見ることにしましょう。