日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

終末期古墳の一例として・・・国指定特別史跡・文殊院西古墳(2019年1月訪問)

2020-07-18 18:30:53 | 古墳時代
ややごぶさたしてしまいました。
というか、もう前回の更新から1ヵ月半も経ってしまったのですね。学校が6月1日から再開していました。私は3年生の担任ですが、みんな元気で、楽しそうで、休む生徒もほとんどおらず、みんな学校が好きなのかなあと思わされます。3年生は本当に残された時間が少なくなってしまいましたから、一日一日を大切に、高校生としての日々を愛おしんでもらいたいと思います。

そんなわけで、春からブログを使って3年生の授業の内容を説明してきたのですが、学校で授業ができるようになったので、授業に即した内容の更新はすみませんがストップさせていただきます。学校が本格的に始まると、やはり時間がなくなって、こちらの更新がなかなかできなくなってしまいます。
もともと月1回も更新できるかなというペースでした。自分が書きたい、過去のまだアップしていない話題などを書かせてもらおうかと思います。

日本史の授業は今年から新しい2年生も担当するようになり、このブログも紹介させてもらいました。もともとの趣旨は授業で話しました。特に、教科書は文字ばかりで無味乾燥、記憶に残りにくいので、こういったブログの記事も読んで教科書の事項を印象に残してほしいと思うわけです。幕末に教科書に出てくる天理教に関する記事を授業で紹介したところ、さっそく見つけた関連の動画を教えてくれた生徒もいました。

過去の記事
「驚き・不思議の宗教都市・天理」

大人の方々も読みに来てくださっているので、最近は、誰に向けて書いているのかわからなくなってきました。すみません。とりあえず私が書きたいことを書かせていただきます。

今日は、終末期古墳の一例ともいえる、安倍文殊院(奈良県桜井市)の「文殊院西古墳」について紹介します。
もろもろ関係者の大学入試の合格祈願も兼ねて、2019年1月に安倍文殊院に行った時の写真です。この時は、京都の白峯神宮、晴明神社、奈良の當麻寺もあわせて東京から日帰りで巡ったという強行軍でした。

安倍文殊院の過去の記事はこちら
「センター試験前日。出題分野を予想してみる。」

安倍文殊院は広く、その敷地内にある「文殊院西古墳」は、飛鳥時代に造られたもので、国指定特別史跡となっています。
この特別史跡というものは、全国で61件しかなく、そのうち古墳で指定されているのは7件しかない、その一つがこの「文殊院西古墳」なのです。そんなにすごい古墳なのか?と、現地で見るまで存在すら知りませんでした。

解説の看板によると、「築造技術における古墳内部の美しさは日本一の定評がある。」とのこと。



入ってみて、とにかく石組みが美しくて驚きました。スパッと切られた石がぴったりとはめ込まれていました。天井の石は15㎡の1枚岩で「その巨大さに唖然とするばかりである。」とのこと。天井の写真をよく撮ってこなくてすみません。1300年前に造られたとは思えないような、すばらしい技術です。





「この古墳は、当山を創建した大化改新の左大臣、安倍倉梯麻呂公の墓と伝えられている。」つまり教科書では安倍内麻呂という名前で出てくる人物です。7世紀頃の古墳ということになりますか。

平安時代に弘法大師が造ったという「願掛け不動」がまつられ、ろうそくで明るく灯された古墳内部はあたたかな雰囲気を感じました。



全国で7件しかない古墳の特別史跡のうち、5件が奈良にあり、それは、この古墳の他、石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、巣山古墳とのことです。
そうそうたる古墳たちですが、巣山古墳だけが私はよくわかりません。特別史跡になるくらいですから、すごいものを秘めているのでしょう。今日は余裕がないので、今後調べてみます。

さて、来週から考査が始まります。本当ならば東京オリンピックが開催されるはずのこの時期でしたが・・・コロナの感染は拡大していますが、このまま突き進むならば、無事に考査を終え、梅雨も明け、部活も無事再開できることを願いたいと思います。
東京に暮らす者にとっては、コロナにかかるのは流れ弾に当たるようなものでしょうか。私はインフルエンザにもかかったことがないのですが、果たして逃れられるものなのか、どうなのか?
生徒の皆さんは、試験期間中はステイホームで勉強するのが一番安全ですね。がんばってください!

巨大古墳を見に行こう・・・古墳時代中期

2020-05-30 18:42:13 | 古墳時代
東京も緊急事態宣言が解除されましたが、日に日に電車は密っぽくなってきています。
私も従来の時間に出勤して仕事をして、慣らしていますが、職場で一日動いた日は疲れてすぐ寝ました。やはり在宅が長いと、体力も落ちているようで、少しずつゆるゆると再開していかないとですね。生徒の皆さんも、少しずつ慣らしていかないと、疲れると思います。

コロナ前は50分授業×6時間でしたが、今から思うと、それだけの長時間、しかも人数的にも教室にぎっしりの状態で、よくやっていたなと思います。コロナ後はもうそういう状態に戻らないでもらえたら、生徒も教員も助かると思います。特に、地歴公民科のような科目は、国数英のように習熟度別の少人数ではないので、かなりエネルギーを使うのです。ここで立ち止まって、これまでとこれからを考える時間が取れたことは、貴重でした。
少子化時代であることも生かして、40人学級はやめて、ゆったりと学べる環境に変えていってほしいですね。私は定時制高校で勤務したこともあるのですが、その経験から、学力には関係なく、少人数であるに越したことはない、少人数であればあるほどよい、と思うようになりました。

さて、3年生の日本史Bの授業の補足を続けます。来週から登校日はありますが、授業はまだもう少し先になります。

今日は古墳時代中期についてです。教科書はまず、p.25~28まで。

太字にしてあるのは、試験でも大切な部分なので、よく理解してください。
古墳時代中期は、5世紀を中心とします。とにかく古墳が巨大化します。
具体的な例は、少し前に世界遺産に登録された、大阪・堺市にある「仁徳天皇陵」=大仙陵古墳を含む「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」です。仁徳天皇陵と一般に呼ばれている大仙陵古墳は、日本最大の古墳です。
墳丘の大きさ486m。エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられます。古墳の陵域は濠を含めて約47万㎡で、甲子園球場が12個も入る広さ。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。(堺市ホームページを参照)それだけの人を動かす強い権力者が存在したということですね。

私も3年前の2017年に、仁徳天皇陵=大仙陵古墳を見て来ました。地上からは本当に山にしか見えません。エリアも広く電車の駅も二駅くらいに及んでいます。過去の記事をご覧ください。

そうだ、堺に行こう! その1(「仁徳天皇陵」へ)

そうだ、堺に行こう!その2(百舌鳥古墳群バーチャルリアリティーツアー体験)

堺には、千利休や豊臣秀吉、織田信長などにもゆかりの場所が残っていますので、一度行ってみてください。与謝野晶子の生まれた地でもあります。写真も載せてありますが、前方後円墳型カレーを、堺市役所最上階の展望コーナーで食べて来ました。私が行ったのは、まだ世界遺産登録前でしたから、今はもっといろいろな場所で古墳にちなむ食べ物やグッズが出ているものと思われます。

そうだ、堺に行こう!その3 前方後円墳型カレー、さかい利晶の杜など、堺探索


そして、中期の古墳の特徴としては、もう一つ、副葬品に武具や馬具が多くなるということです。前期は鏡や玉といった呪術的要素が強かったのですが、中期では戦いに使われた道具が多くなります。こうしたことから被葬者は武人的性格をもつといわれています。


乗馬の風習もこの頃日本に入ってきて、「騎馬民族征服王朝説」も教科書の注に記載されています。華やかな馬具の副葬品は確かに大陸の香りを感じさせます。この写真はさきたま古墳群にあった展示です。

大陸からの人々も多く渡ってきて、5世紀のこの頃にやってきた人達を渡来人といいます。渡来人は日本にさまざまな文化を伝えました。漢字も伝わってきました。

5世紀頃から漢字が使われていたことを示す文化財としては、教科書にも当然載っていますし受験でも覚えるべきものですが、まず、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀です。これは、東京国立博物館で見ることができます。
もう一つ、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣です。これは、行田市のさきたま古墳群にあり、そこにあるさきたま史跡の博物館で見ることができます。関東に住んでいる人は両方とも電車で行ける所で見ることができますので一度現物を見てください。
「鉄刀」と「鉄剣」の違いは、刀は「反り」がありますが、剣は「まっすぐ」という点です。
そして、そこに刻まれている文字に同じ王の名があるわけですね。「ワカタケル大王」と。これについては実際の授業でやりましょう。

5世紀は、今の私にとっても興味深い時代です。最初の大学で律令制度をやっていた頃は、飛鳥・奈良時代、つまり、7~8世紀に興味があったのです。国家としての始まりはいつなのかを考えるために、当時は律令というものに着目していたのですが、考古学の発展、発掘調査の進展などにより、より古い時代のこともいろいろなことが解明されてきました。5世紀あたりのこともよりわかるようになって、ここ数年は、私が興味を持っている出雲のこと、その出雲の痕跡を奈良に見つけるということをやりたくなり、その手掛かりが三輪山のあたりに漂っている、と考え、この地域を中心としてよく訪れるようになりました。

教科書に、石製模造品のことが簡単に記述されています(p.31)。こうした石製模造品を使って5世紀頃の祭祀がとり行われていました。この石製模造品の一つが、私が奈良大通信教育の卒論で取り上げた子持勾玉です。勾玉に、勾玉の子供がくっついたような形で、ちょっと見には気持ち悪いかもしれません。これは、10㎝前後と大きく、大体が1個ずつしか見つかりません。しかも古墳の中からはほとんど見つかりません。副葬品ではないのです。まだ全国で400個くらいしか見つかっていません。
これが、奈良県の三輪山周辺で多く見つかっている、そして、それがどちらかというと東日本に多い、ということに着目しました・・・でもあまりここで書くとネタバレ(笑)になるのでもうやめておきましょう。

とにかく、こうした石製模造品を使って祭祀が行われた跡も多く発見されていて、その付近に今も神社が存在している例があります。教科書には、三輪山のふもとの大神神社(奈良県)、沖ノ島の宗像大社(福岡県)などの例が挙げられています(p.31注①)。以前の教科書には、ここに出雲大社や住吉大社も入れてあったのですが、今は抜かれています。あまり根拠がないということになったのでしょうか。まあそれも納得です。

大神神社は本殿がなく、三輪山自体が御神体ということで、この時代は三輪山のような円錐形の整った形の山や、巨大な岩=磐座(いわくら)ですね、や、絶海の孤島などに神がやどる所と考え、祭祀の対象とした、と教科書にも書かれています(p.31)。

私は神社はあまり好きでなかったのですが、こうして、5世紀頃を起源として1000年以上もずっと祭祀が続いている場所(神社)もあるんだ、と知り、そういった起源の古い神社についてはとても興味を持つようになりました。
平安時代にまとめられた『延喜式』には、当時の神社(式内社)名が記録されています。「延喜式神名帳」といわれます。これに載っている神社も少なくとも平安時代から存在していたことがわかります。
高校の日本史では、こんな式内社だとかいう話は私も教わりませんでしたし、あまり知る機会がないと思います。私も数年前に知ったくらいです。
神社もいろいろあるということを知るとよいですね。また『延喜式』の神名帳を見てみると何か発見があるかもしれません。ネットでもある程度知ることができると思います。

子持勾玉が近くで出土している神社は結構あって、それがその国の一宮またはそれに次ぐ古社であることも多いのです。私のハンドルネームのツツコワケの元になっている陸奥国一宮の都々古別神社(福島県白河市)、大和国一宮の大神神社(奈良県)、この二つは円錐形の山のふもとにあります。関東では武蔵国一宮の小野神社(東京都多摩市)があります。小野神社なんて知らないよ?という人がほとんどだと思います。意外と一宮はもう今の時代ではあまり有名でない神社も多いんですね。このあたりも謎といえば謎です(笑 卒論では書いていますが)。私もツツコワケ神社は地元なのに、奈良大通信に入って勉強をしている中で知ったくらいです。

東京の小野神社を訪れた記事は以下です。

武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その1

起源は古い・・・武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その2

閑散としていて寂しい感じさえ漂う神社ですが、天皇家の菊の紋が神社の入り口にあったりします。神社の位置には諸説あるようですが、多摩川の近く、神奈川県との境界に近いです。

次に紹介する古墳は、これも中期・5世紀頃の前方後円墳、五色塚古墳です。
復元されてあまりにも整った古墳で、付近で子持勾玉が出土している古墳でもあるので、奈良大の学芸員の実習で来たついでに足を延ばして明石にあるこの古墳を見て来ました。
行く価値あり、です。

明石へ。五色塚古墳見学記 (2016年10月)

淡路島・明石海峡大橋を見はるかす絶景! 五色塚古墳見学記 その2

海を見下ろす、すごく景色のいい場所に古墳が造られています。交通の便も悪くないので訪れてみてください。そして、明石焼も食べてください。本場はおいしかったです。

関東の中期古墳として、ブログに書いたのは、野毛大塚古墳です。関西の古墳に比べたら、小さくてかわいい古墳です。大井町線等々力駅から歩いて行けます。帆立貝型古墳といわれます。


野毛大塚古墳(東京都世田谷区)


ブログには記事にしていませんが、埼玉県行田市のさきたま古墳群も関東の人にはお勧めです。ちょっと交通の便がよくないですが。ピクニック気分で行かれるとよいと思います。


のどかでいいでしょう?毎年ゴールデンウィーク頃に「火祭り」をやっていて、そののぼりが立っています。


鉄剣が発見された稲荷山古墳の前方部


後円部。

なんだか古墳の紹介ばかりになってしまいました。今回は中期の古墳限定です。
緊急事態宣言も解除されたので、古墳探訪もよさそうです。古墳は大きいので、「密」になる心配はないと思います。

今日は電車に乗って外出し、カフェにも入りましたが、座席が一つおきになっていて、お店としてはお客さんを本当はたくさん入れたいのでしょうけれども、客側としてはゆったり座れて、とても快適です。
今日は、日比谷に移転した島根県のアンテナショップ、日比谷しまね館に行きました。前は日本橋にありました。出雲が好きなので島根のアンテナショップはよく行きます。
アンテナショップで買っていたものが自粛中に在庫が切れそうになって、早く行きたいなと待ち構えていたところでした。行きたいのは奈良と青森のアンテナショップです。アンテナショップだけでなくて現地にももちろん行きたいですけどね。
マスク着用、手洗い励行、夜遊び禁止(笑)、で、なんとかコロナを食い止め、自由にどこでも行ける生活に早く戻りたいですね。

邪馬台国の時代からヤマト政権成立の時代へ・・・古墳時代前期

2020-05-23 15:19:54 | 古墳時代
ずっと在宅とはいえ、やはり土日は格別に開放的な気分になって、休息できているなと思います。そういうこともあってか、土曜日に更新することが続き、これで4週目です。
コロナも東京では感染者がひとケタになってきて、緊急事態宣言も解除が見えてきました。やっと、学校も少しずつ始まっていくのかなという所まできました。少しずつですね。
関西3府県も緊急事態宣言解除で、ほっとされているところでしょうか?

さて、3年生の日本史Bの授業代わりの補足を続けます。本校でも、オンライン授業はいずれ実施する方向ですが、当面は紙ベースで自習の形です。

卑弥呼の話は前回でおしまいにしまして、教科書p.23から、古墳時代に入ります。
教員になった最初の頃は、古墳時代が嫌いでした。もともと、最初の大学では飛鳥・奈良時代の律令制度などの文献史学を専門にしていたので、文字のない時代のことなど、確かなことはわからない。しかも古墳なんて要するにお墓のことなのに、どうして教科書ではこんなにお墓のことに延々とページを割いてあるのだ(10ページもある)?それより自分が研究していた、天武天皇や持統天皇の律令国家の形成のあたり(1ページしかない)にページを割いてよ。と思っていました。

ところが、奈良大の通信教育に編入学した6年前くらいから、自分で勉強するようになって、古墳時代が面白くなってきてしまいました。教科書に書いてあることだけの勉強では面白くない、ということを如実に感じたのがこの古墳時代でした。

奈良大の文化財学においては、「現地主義・現場主義」というポリシーがあり、私もスクーリングの講義で「現地に行って来てください。」という言葉を聞いて、いたく感銘を受けました。
文献だけで完結していた自分の学生時代とは大違いです。考古学を専攻する各大学の学生さんは、夏休みに何日も泊まり込んで、古墳の発掘などをやったりするとのこと。私も、奈良大で勉強して、考古学にも足を突っ込んだわけですが、本格的にやるにはもう若くないし、体力がありませんから、発掘までは難しいです。やはり、考古学者はアウトドア派で体力がなければなりません。
私の教え子が、考古学の道に進み、発掘作業をしている所に差し入れを持って行くのが夢です。誰か、お願いします!(笑)

授業では、古墳時代を前期・中期・後期に分けて、まとめて特徴を整理しています(プリントの表参照)。それを覚えるだけでもかなり問題は解けると思います。
大雑把に分けると、4世紀が前期、5世紀が中期、6~7世紀が後期です。4C,5C,6Cと100年単位です。覚えやすいですね。

ここでは、前期・中期・後期でブログの記事を1個ずつ書くことにします。

まず、古墳時代前期ですが、

教科書p.23に写真もあるように、卑弥呼の墓ではないかとも考えられている箸墓古墳が、出現期の前方後円墳として最大規模ということになっています。箸墓古墳はヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)という、孝霊天皇の娘の墓ということになっているので、宮内庁が所管しています。ですから、立ち入り禁止です。被葬者がどういう人だったのかといったことは、ほとんど調査できません。出土したという土器を調べることによって、いつ頃古墳が作られたかが推定されています。卑弥呼が死んだ頃とすると、3世紀の後半です。一応、このあたりも古墳時代と重なるということになります。

私が箸墓古墳を見学した時の記事はこちら。大きさを見てください。

卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から)

とにかく巨大です。東京に住んでいると、古墳はあまり身近にありませんし、この箸墓古墳は大きくて、古墳というより山というイメージで、その大きさに驚きます。鍵穴の形をした前方後円墳だなんていうことは、地上から見ても全くわかりません。上記記事の写真を参考にしてください。くびれはちょっとわかるかな、という程度です。

古墳時代前期を3~4世紀と考えると、この時代に関係するブログ記事は以下です。教科書は、p.23~24。

卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記

1997年ですから平成時代のこと、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面という大量の鏡がここで発掘されました。黒塚古墳は、奈良県の天理市にある古墳時代前期(4世紀初~前半)の古墳です。ここから大量に発見された三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏からもらった鏡ではないかと考え、ここが卑弥呼の墓であるという説もあります。箸墓でも黒塚も、奈良ですから邪馬台国畿内説の方になります。

この古墳の三角縁神獣鏡のように、前期の古墳から出土する副葬品は、鏡や玉など呪術的な要素が多いことから、この時期の被葬者は、司祭者的性格をもつ、と教科書にも記述されています。卑弥呼などがそのイメージですね。

そして、上に書いた、箸墓古墳の被葬者と考えられているヤマトトトビモモソヒメですが、これが卑弥呼ではないかという説があり、『魏志』倭人伝に出てくる「男弟」を崇神天皇にあてる説もあります。孝霊天皇は7代天皇、崇神天皇は10代ですので、ありえないことはないです。私もちょっと、同じように考えています。そして、前回書いたように、崇神天皇の時代に疫病が流行し、オオタタネコを探し出して祀らせたのが大神神社につながるということ、またヤマトトトビモノソヒメは、『日本書紀』に三輪山の神様・大物主と結婚するという話がありますので、卑弥呼の時代・古墳時代前期の頃の話なのだろうと考えることにします。

前回の記事も参照してください。
崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・

卑弥呼の死後、後を継いだのは、トヨ(壱与)という女性だと考えらえれていて、トヨの墓ではないかといわれているのがホケノ山古墳です。奈良大の学外授業で行った時の記事がこれです。

トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)

この古墳の被葬者は「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」と考えられていて、崇神天皇の皇女です。「とよ」という文字が入っているので「トヨ」かもしれないと思わされます。
こちらは、古墳の頂上まで簡単に登ることができます。古墳の裾に畑が作られていたりして、とてものどかです。奈良大のスクーリングの時には雨で上に登れなかったのですが、後で自分でレンタサイクルで回った時に登った時の写真はこちらにあります。
オオタタネコの神社・若宮社の写真もこちらです。あちこちに散らかっていて恐縮ですが、お時間がありましたらどうぞ。

お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC

以上、前期古墳の記事の紹介でした。前期(出現期)の規模の大きい古墳は、奈良(大和)に多いため、この大和地方を中心とする政治連合が形成されていたと考えられ、これをヤマト政権といいます。前方後円墳は、ヤマト政権の権威の象徴と考えられています。この形のお墓を作っていいと許された人だけが作ることができたという考え方があります。

どうしてあのような形をしているのか、古墳の向きには何か意味があるのか、など、解明してみたい謎はいろいろあります。皆さんも考えてみてください。

適当な写真がなくて、1年前の5月12日に、奈良大通信教育の同窓会の遠足で山の辺の道を歩いた時の写真から。



大神神社を後にして、歩いていくと、狭井川を通過しました。その橋のたもとで、ガイドをしてくださった方が、勢夜陀多良比売の絵を掲げながら丹塗矢(にぬりや)伝説の話をしてくださいました。


その狭井川のほとりで、大神神社のささゆり奉献神事(6月16日)、奈良市内の率川神社の三枝祭(さいくさのまつり)(6月17日)に使うささゆりが育てられているとのことで、写真にはそのお世話をしている方が写っています。ささゆりはまだ咲くのは先で、支柱がたくさん立てられていました。

三枝祭は世にも美しいお祭りということで、私もいつか見に行きたいと憧れるお祭りです。
http://isagawa-jinja.jp/omatsuri/saikusa/

ああこんなふうにささゆりは大切に育てられているんだなあと感銘を受けました。
とてもよいお天気で、写真のように、空気がきれいで、緑も、空もとても鮮やかな色をしていました。本当にすばらしい5月の一日でした。
今度はささゆりが咲いている季節に行ってみたいものです。

今日はこんなところで。

崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・

2020-05-16 15:18:24 | 古墳時代
東京もコロナの感染者数が目に見えて減ってきました。しかし、緩むとまたあっという間に増えてしまうでしょう。もし日本国内で新規感染者がゼロになったとしても、「鎖国」でもしないことには、海外から入り込んできてしまいますね。台湾では、コロナを完全に撲滅できたので、元の生活に戻って、夜市などで全然「密」を気にせず食事などを楽しんでいる様子を昨日テレビで見ました。なんともうらやましい。今の日本から見ると楽園のようです。台湾は、SARSの経験もあって、それを生かして今回、うまく対応できたのですね。日本も、今回の経験を生かして、次はよりよく対応できなければなりません。
・・・というわけで、同じ失敗を繰り返さないためにも「過去の歴史に学ぶ」ことは大切です。日本史もしっかり学び続けましょう。

ちょっと今日は、教科書の続きは一休みして、コロナ=疫病に関して、日本の歴史ともからめて少し現状で気が付いたことを整理しておきたいと思います。

日本史の教科書では、疫病のことは、藤原四子の死であるとか、そもそも奈良の大仏ができたきっかけであるとか、コレラ(当時コロリといった)のことなど、いくらかは記述されていますが、約100年前のスペイン風邪については記述されていません。今後の教科書改訂の際に、記述が付け加えられるのではないでしょうか。

疫病との戦いは歴史を振り返ってもたくさんあって、神社やお寺の神事・お祭りは、そういった疫病退散を目的としたものも多いのです。私が関心を持っている三輪山・大神神社にしても、崇神天皇の時代に疫病が流行り、どうしようもなくて困っていたところ、三輪山の神様、大物主神が、自分の子供であるオオタタネコに自分を祀らせればおさまるであろうと夢の中で告げられて、そのとおりにしたところ、おさまった、という話が、『日本書紀』『古事記』にあります。

『日本書紀』の方は、過去に引用した記事があるので、そちらを参照していただくとして、

今日は、『古事記』の方の該当箇所を紹介します。現代語訳でいきます。

崇神天皇の時代に、次のような話があります。

「この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、オホモノヌシノ大神が御夢の中に現れて、『疫病の流行はわたしの意志によるものだ。だから、オホタタネコという人に、わたしを祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう』と仰せになった。そこで急使を四方八方に分かち遣わして、オホタタネコという人を訪ね求められたところ、河内国の美努村にその人を見いだして朝廷にさし出した。そこで天皇が、『そなたはだれの子か』とお尋ねになると、オオタタネコが答えて、『私は、オホモノヌシノ大神が、スヱツミミの命(みこと)の女(むすめ)のイクタマヨリビメを妻としてお生みになった子の、名はクシミカタノ命という方の子の、イヒカタスミノ命の子のタケミカヅチノ命の子が、わたくしオホタタネコなのです』と申し上げた。
すると天皇はたいそう喜んで、『これで天下は穏やかになり、国民は栄えるだろう。』と仰せられた。そして、ただちにオホタタネコを神主として、三輪山にオホミワノ大神を斎(いつ)き祭られた。(中略)これによって疫病がすっかりやんで、国内は平和になった。
(次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社学術文庫)

ということで、オホタタネコ(オオタタネコ)は、『日本書紀』ではオオモノヌシの子ということになっていますが、こちらの『古事記』ではちょっと違います。私はこのオオタタネコにも興味があります。そのへんは飛ばしまして、要するに、国民が絶滅しそうなくらいに疫病が流行して天皇が困っていたところ、夢のお告げによって、オオタタネコを探し出して神主にして、三輪山の神様・オオモノヌシをまつったら、疫病もやんで、世の中が平和になったというのです。『日本書紀』はまた書いてあることがやや違いますがおおむね一緒です。

実は、今年の3月20日のお彼岸の日に、奈良に日帰りで行って来たのです。後から振り返れば、その三連休に国民が緩んで外出してしまったので、コロナ感染が拡大してしまったという時であったのです。その時、東京では感染者112人、奈良では4人。奈良は4人だし、大丈夫だろうと思ったのですが、東京から来た私が感染させるリスクの方が問題でした。5月14日現在、感染者は東京5,027人、奈良90人ですので、それぞれ3月20日と比較して約45倍・23倍に増加しています。

どうして奈良に行ったかというと、まず、お彼岸にいくつかの地点から二上山に沈む太陽を撮りたいということは以前からの私の課題であり(過去記事あり「春分の日 二上山に沈む夕日」)、晴れれば行きたい、ということはコロナ拡大より前から考えていました。また、コロナ退散を願って、疫病に関わる奈良の神様にお参りして来ようと思ったこと、それから、奈良公園のシカさんたちが、観光客が激減しておなかを空かせているのではないかと思って、少しでも鹿せんべいをあげて来たいと思ったからです。
シカさんたちがエサを求めていつもと違う場所に出没しているといったネット記事も見ましたが、実際の所は、鹿せんべいはおやつであって、観光客がいなくてもちゃんと食糧は足りているとのことです。最近は外国人の観光客も多かったので、鹿せんべいをたくさんもらいすぎておなかいっぱいだったのか、あげようとしても見向きもしないシカさんも多かったのですが、お彼岸に行った時は、やはり観光客が少なかったので、今までよりもシカさんたちの目の色が違って、鹿せんべいを持っていると見るや多くのシカさんが突進してきて、後ろから頭突きされたり、やや恐かったです。やっぱり、いつもよりはおなかを空かせているのだろうと感じました。飢えているというほどではないにしても。

上の引用文で省略した部分に出てくる墨坂の神(今の墨坂神社)も行ったことがないので、行って、コロナ退散のお願いをして来ようかとも思ったのですが、思うところあってやめました。3月20日には結局、大神神社には行き、コロナ退散を祈ってきました。それにしても、こういった記紀の世界は、日本全国というより、大和の国=奈良限定の話かな、と思って、国内が平和になった、とあっても、大和国が平和になっただけかな?疫病退散も大和限定の効果なのかな・・・と思ったりもしました。が、気にしないことにして、今なら日本全国をカバーしているはずだと思うことにして、そして、私は三輪山や大神神社を訪れるのが好きなので、ごあいさつをしてきました。オオタタネコを祀った若宮社にもごあいさつしてきました。若宮社については以前のブログでも写真と共に話題にしています。
「お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC」


写真は、昨年の5月の今頃、奈良大通信教育の同窓会の遠足で、山の辺の道を歩き、大神神社で正式参拝した時のもの。すばらしくよい天気・よすぎて夏のような暑さでした。

3月に、コロナが蔓延しつつあった東京の人間が奈良に行くということは軽率でした。当分、奈良には行けないな、ということで、しかし、行けなくても、シカさんたちの食事に少しでも足しになれば、と、「奈良の鹿愛護会」に入会することにしました。
入会金の他、エサ代も一緒に送ることができました。皆さんもいかがですか?
会員特典は、いくつかの美術館、春日大社国宝殿、興福寺国宝館、東大寺大仏殿などへの入場割引がある他、子鹿公開や鹿の角きり行事の入場無料などです。会員証が届きましたが、今年はコロナのために子鹿公開は中止との連絡も入っていました。
今年度の後半くらいにでも、一度は奈良に行きたいものです。年明け頃には、世の中はどうなっているでしょうか?また寒い季節にコロナ第二波が来ているのでしょうか?


写真は、奈良の鹿愛護会の会員証とともに届いたシールです。PCに貼ってみました。何の気兼ねもなく、奈良を訪れ、シカさんともたわむれることができる日が早く来ることを願って、今できること、今しかできないことをやっていきたいと思います。このブログも比較的たくさん更新できているのも今ならではだと思います。
おそまつさまでした。

卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記

2019-07-14 13:11:42 | 古墳時代
やっと、1学期末の主な業務も終わって、こちらも書ける余裕ができてきたかなというところです。
東京も曇天または雨天が続き、じめじめとして洗濯物も乾きにくい日々です。涼しいのはよいです。

さて、今日は、2年前の3月(2017年)に奈良大通信教育の科目習得試験を奈良大に受けに行った際に見て来た黒塚古墳の話題です。この日の夜に、東大寺のお水取りを見に行きました。その時の記事はこちら。
「春です。東大寺二月堂お水取り」

奈良大での試験が終わってから、黒塚古墳(天理市)に向かいました。JR柳本駅から徒歩5分もあれば行けます。黒塚古墳といえば、三角縁神獣鏡が33面も出土して、卑弥呼の墓ではないかとも騒がれました。それが1997年のことで、その後、2001年1月に国の史跡に指定されたということですから、結構最近のことなのです。私もこの時のニュースは覚えています。
万城目学『鹿男あをによし』(幻冬舎)でもこの古墳の三角縁神獣鏡が重要なモチーフになっています。

そもそも三角縁神獣鏡は、卑弥呼がもらったという鏡なのか?日本ではたくさん出ているけれども、中国では出ていないのだから、国産なのではないか?といった議論がなされてきました。

過去の記事をご覧ください。
「三角縁神獣鏡は国産」と初めて表明した大塚初重氏の講演!(埼玉県 ほるたま考古学セミナーにて その1)」


さて、柳本駅から歩き出して、この坂道になんとなくわくわくしました。


小ぶりできれいな古墳が見えてきました。
この黒塚古墳は、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)のものと推定されています。全長約130mの前方後円墳です。


黒塚古墳展示館です。


盗掘されずに残っていた石室の様子を復元したもの。



私も、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではなく、中国の鏡でもなく、国産ではないかと思います。
卑弥呼が魏から鏡をもらってきたのは確かなのでしょう。その鏡を元に、自分たちで鏡を作って、権威の象徴として、各地に配布したのでしょう。


ちょっと見えづらいし古いかもしれませんがあしからず。

鏡作神社という名前の神社が、田原本付近にいくつもあるのも興味深いです。
実際に鏡をそのあたりで作っていたのでしょう。

そして、伊勢神宮などで、ご神体として鏡が祀られていることも興味深いです。卑弥呼が中国からもらって、以来、日本人は鏡を大切に祀ってきたのですね。
そして、そんなことからも、卑弥呼はアマテラスではないかという考えが補強される気がします。

三輪山の真東に伊勢があり、三輪山の麓に箸墓古墳がある。三輪山と伊勢の間には、長谷寺と室生寺が一直線に並んでいる。とても興味深い地域です。




黒塚古墳の上にも登れます。


古墳の上からの眺め。
耳成山と畝傍山でしょうか。それから、箸墓古墳でしょうか。そういったものが見えました。


前方後円墳のくびれ部分のカーブもわかりやすいです。


柳本駅のホームから、二上山のふたこぶの頭がちょっとだけ見えました。奈良独特の家並みですね。



このあたりからは、崇神天皇陵や景行天皇陵も近いです。今度行ってみたいと思います。
古墳は緑がきれいな季節がいいでしょうかね。

それにしても、やはり仕事に終われて、博物館学芸員資格課程も手付かずなうえに、奈良に行こうという余裕もありません。しかし、今年に入って、2回奈良に行っているなら、それでよしとしなければならないでしょうか。