日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・

2020-05-16 15:18:24 | 古墳時代
東京もコロナの感染者数が目に見えて減ってきました。しかし、緩むとまたあっという間に増えてしまうでしょう。もし日本国内で新規感染者がゼロになったとしても、「鎖国」でもしないことには、海外から入り込んできてしまいますね。台湾では、コロナを完全に撲滅できたので、元の生活に戻って、夜市などで全然「密」を気にせず食事などを楽しんでいる様子を昨日テレビで見ました。なんともうらやましい。今の日本から見ると楽園のようです。台湾は、SARSの経験もあって、それを生かして今回、うまく対応できたのですね。日本も、今回の経験を生かして、次はよりよく対応できなければなりません。
・・・というわけで、同じ失敗を繰り返さないためにも「過去の歴史に学ぶ」ことは大切です。日本史もしっかり学び続けましょう。

ちょっと今日は、教科書の続きは一休みして、コロナ=疫病に関して、日本の歴史ともからめて少し現状で気が付いたことを整理しておきたいと思います。

日本史の教科書では、疫病のことは、藤原四子の死であるとか、そもそも奈良の大仏ができたきっかけであるとか、コレラ(当時コロリといった)のことなど、いくらかは記述されていますが、約100年前のスペイン風邪については記述されていません。今後の教科書改訂の際に、記述が付け加えられるのではないでしょうか。

疫病との戦いは歴史を振り返ってもたくさんあって、神社やお寺の神事・お祭りは、そういった疫病退散を目的としたものも多いのです。私が関心を持っている三輪山・大神神社にしても、崇神天皇の時代に疫病が流行り、どうしようもなくて困っていたところ、三輪山の神様、大物主神が、自分の子供であるオオタタネコに自分を祀らせればおさまるであろうと夢の中で告げられて、そのとおりにしたところ、おさまった、という話が、『日本書紀』『古事記』にあります。

『日本書紀』の方は、過去に引用した記事があるので、そちらを参照していただくとして、

今日は、『古事記』の方の該当箇所を紹介します。現代語訳でいきます。

崇神天皇の時代に、次のような話があります。

「この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、オホモノヌシノ大神が御夢の中に現れて、『疫病の流行はわたしの意志によるものだ。だから、オホタタネコという人に、わたしを祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう』と仰せになった。そこで急使を四方八方に分かち遣わして、オホタタネコという人を訪ね求められたところ、河内国の美努村にその人を見いだして朝廷にさし出した。そこで天皇が、『そなたはだれの子か』とお尋ねになると、オオタタネコが答えて、『私は、オホモノヌシノ大神が、スヱツミミの命(みこと)の女(むすめ)のイクタマヨリビメを妻としてお生みになった子の、名はクシミカタノ命という方の子の、イヒカタスミノ命の子のタケミカヅチノ命の子が、わたくしオホタタネコなのです』と申し上げた。
すると天皇はたいそう喜んで、『これで天下は穏やかになり、国民は栄えるだろう。』と仰せられた。そして、ただちにオホタタネコを神主として、三輪山にオホミワノ大神を斎(いつ)き祭られた。(中略)これによって疫病がすっかりやんで、国内は平和になった。
(次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社学術文庫)

ということで、オホタタネコ(オオタタネコ)は、『日本書紀』ではオオモノヌシの子ということになっていますが、こちらの『古事記』ではちょっと違います。私はこのオオタタネコにも興味があります。そのへんは飛ばしまして、要するに、国民が絶滅しそうなくらいに疫病が流行して天皇が困っていたところ、夢のお告げによって、オオタタネコを探し出して神主にして、三輪山の神様・オオモノヌシをまつったら、疫病もやんで、世の中が平和になったというのです。『日本書紀』はまた書いてあることがやや違いますがおおむね一緒です。

実は、今年の3月20日のお彼岸の日に、奈良に日帰りで行って来たのです。後から振り返れば、その三連休に国民が緩んで外出してしまったので、コロナ感染が拡大してしまったという時であったのです。その時、東京では感染者112人、奈良では4人。奈良は4人だし、大丈夫だろうと思ったのですが、東京から来た私が感染させるリスクの方が問題でした。5月14日現在、感染者は東京5,027人、奈良90人ですので、それぞれ3月20日と比較して約45倍・23倍に増加しています。

どうして奈良に行ったかというと、まず、お彼岸にいくつかの地点から二上山に沈む太陽を撮りたいということは以前からの私の課題であり(過去記事あり「春分の日 二上山に沈む夕日」)、晴れれば行きたい、ということはコロナ拡大より前から考えていました。また、コロナ退散を願って、疫病に関わる奈良の神様にお参りして来ようと思ったこと、それから、奈良公園のシカさんたちが、観光客が激減しておなかを空かせているのではないかと思って、少しでも鹿せんべいをあげて来たいと思ったからです。
シカさんたちがエサを求めていつもと違う場所に出没しているといったネット記事も見ましたが、実際の所は、鹿せんべいはおやつであって、観光客がいなくてもちゃんと食糧は足りているとのことです。最近は外国人の観光客も多かったので、鹿せんべいをたくさんもらいすぎておなかいっぱいだったのか、あげようとしても見向きもしないシカさんも多かったのですが、お彼岸に行った時は、やはり観光客が少なかったので、今までよりもシカさんたちの目の色が違って、鹿せんべいを持っていると見るや多くのシカさんが突進してきて、後ろから頭突きされたり、やや恐かったです。やっぱり、いつもよりはおなかを空かせているのだろうと感じました。飢えているというほどではないにしても。

上の引用文で省略した部分に出てくる墨坂の神(今の墨坂神社)も行ったことがないので、行って、コロナ退散のお願いをして来ようかとも思ったのですが、思うところあってやめました。3月20日には結局、大神神社には行き、コロナ退散を祈ってきました。それにしても、こういった記紀の世界は、日本全国というより、大和の国=奈良限定の話かな、と思って、国内が平和になった、とあっても、大和国が平和になっただけかな?疫病退散も大和限定の効果なのかな・・・と思ったりもしました。が、気にしないことにして、今なら日本全国をカバーしているはずだと思うことにして、そして、私は三輪山や大神神社を訪れるのが好きなので、ごあいさつをしてきました。オオタタネコを祀った若宮社にもごあいさつしてきました。若宮社については以前のブログでも写真と共に話題にしています。
「お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC」


写真は、昨年の5月の今頃、奈良大通信教育の同窓会の遠足で、山の辺の道を歩き、大神神社で正式参拝した時のもの。すばらしくよい天気・よすぎて夏のような暑さでした。

3月に、コロナが蔓延しつつあった東京の人間が奈良に行くということは軽率でした。当分、奈良には行けないな、ということで、しかし、行けなくても、シカさんたちの食事に少しでも足しになれば、と、「奈良の鹿愛護会」に入会することにしました。
入会金の他、エサ代も一緒に送ることができました。皆さんもいかがですか?
会員特典は、いくつかの美術館、春日大社国宝殿、興福寺国宝館、東大寺大仏殿などへの入場割引がある他、子鹿公開や鹿の角きり行事の入場無料などです。会員証が届きましたが、今年はコロナのために子鹿公開は中止との連絡も入っていました。
今年度の後半くらいにでも、一度は奈良に行きたいものです。年明け頃には、世の中はどうなっているでしょうか?また寒い季節にコロナ第二波が来ているのでしょうか?


写真は、奈良の鹿愛護会の会員証とともに届いたシールです。PCに貼ってみました。何の気兼ねもなく、奈良を訪れ、シカさんともたわむれることができる日が早く来ることを願って、今できること、今しかできないことをやっていきたいと思います。このブログも比較的たくさん更新できているのも今ならではだと思います。
おそまつさまでした。


12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (瓊花)
2020-05-16 21:35:17
ツツコワケさん、こんばんは。

疫病について、日本古代史は結果論なのかな、とも思います。敗れた神に罪を着せたのかな、と。オオタタネコも内心いかばかりか。
三輪は、私にはおいしい素麺を買いに行く場所でもあり、生活を支えてくださる神様のひもろぎだと思っています。

鹿は、犬や猫より野生に近い獣なので、ときどきかわいそうになります。消化できないものまで丸呑みして、死んでしまう。
ツツコワケさんみたいな方が、本当に奈良を守ってくださっているのですよね。
返信する
朝から奈良にどっぷり! (ゆり)
2020-05-17 06:26:40
おはようございます。

私は地元の三輪大神のお祭りの日に生まれました(大神神社とは日が違う)
祖父が生まれた日に歌を残してくれていたので奈良大好き人間になりました。
新婚旅行で海外ならぬ奈良を選んだのです(笑奈良ホテルも泊まりました(40年以上も前)
自宅裏山(自宅山林)にもささゆりがあってササユリも大好き!

二上山・・・大迫皇女が弟と見るという歌も残してますね。
こういう奈良大好きで歩きたいのに・・・コロナばかりでなく、なかなか行けず残念です。
鹿のサイトへ行ってみます(*^^*)
返信する
Unknown (ツツコワケ)
2020-05-17 10:23:03
瓊花さん、おはようございます。
敗れた神に、という考え方はとても興味があります。私も敗者に肩入れする方です。
オオタタネコは、でもお役に立ったのですから意気に感じたのではないでしょうか?
私の卒論で扱った子持勾玉の分布も、敗者の側のような感じがしています。
オオタタネコ、を敗者とみて、ということについて何か参考になる文献がありましたら紹介してください。
鹿はとにかくかわいいですし、街の中で自由に闊歩しているという環境は貴重だと思いますので、いつまでも奈良の街で元気にしていてほしいですね。
返信する
Unknown (ツツコワケ)
2020-05-17 10:23:52
ゆりさん、おはようございます。
三輪の神様の神社は結構各地にあるようですね。私の実家のある福島県白河市には、三輪山のような円錐形の山(建鉾山 たてほこやま)があって、その麓に三森という地区があり、それは三輪山を「みむろやま」と言ったり「みもろやま」と言ったりするのが転訛して「みもり」となったと言われているようです。白河には三森さんとか三輪さんという苗字の人が少しいます。
私のツツコワケというのは、その円錐形の山の麓にある陸奥国一宮のツツコワケ神社(都々古別)からとっています。そしてその、三森地区から子持勾玉が出土しているんですね。そして実は、その出土地から見える三輪山に似た山の向こうに、二上山に似て見える山が見えるんですよ・・・というような話を卒論でも書いています。奈良の人が白河まで来ていたんだろうなと思うのです。

生まれた日に歌を作ってくださるおじいさんがいらっしゃったなんて、すてきすぎます。
奈良ホテル、いいですねえ。いつかとっておきに、と思っていまだに泊まったことがありません笑。
返信する
Unknown (瓊花)
2020-05-17 12:16:01
ツツコワケさん、こんにちは。
三輪王朝は一家言ある方々がたくさんいらっしゃるので、私は二歩も三歩も退いた地点でものを見ています。
私は単純に、古事記日本書紀など、正史をあなどってはいけないな、と思っています。あの時代、命がけで書記は接したはずです、正史作成に。嘘や偽りを混ぜたにしても、命がけで行ったはずです。
それでも滲むもの、消しきれないものに、私は敗者への追悼を覚えることがあります。
三輪の神様、オオモノヌシが私には中央にあって周縁にもある存在に思えてならないのですよ。小さい頃からずっと、二上山から真向かいの、三輪山を眺めていて。
返信する
Unknown (ツツコワケ)
2020-05-17 17:25:13
瓊花さん、こんにちは。
そうですね。古事記と日本書紀は、書かれた目的も違うようで、同じ事象について書いていても、比べると、それを書いた人・関わった人は何を大事にしたかったのかのポイントが違うと感じられます。
しかし、難しい、長い名前の人名や神様の名前など、詳細に書き残した日本人はすごいと思います。それを暗唱していたという稗田阿礼は特にすごいと思います。
私は大物主を知ってまだ10年も経っていません。教科書的な知識では、そして関東にいるとなかなか引っかかってこないこうした世界について、まだまだ勉強が足りないなと思いました。
返信する
Unknown (瓊花)
2020-05-17 21:13:46
ツツコワケさん、こんばんは。
いえ、私も三輪王朝に限らず、史学は全くの素人です。
ただ、三輪の神様が歴然たる「祟り神」ということだけ、知っているくらいです。

なぜ、祟る神様が日本国中に広まったのか。疫神だったんでしょうか、やはり。疫病は人が存在すれば必ず蔓延るものですし。目には目をのスタンスで、病でもって病を叩いた、のでしょうか。

頭がもつれてきましたが、有意義な楽しさも覚えました。
三輪山信仰について食わず嫌いはやめて、少し考えてみようと思います。
返信する
Unknown (ツツコワケ)
2020-05-18 20:35:09
瓊花さん、こんばんは。
そうですね、私も、三輪山の神様を見た、という人が、なんともいえないものだった、というような記事を見かけたことがあります。
以下、戯れ言・冗談ですが、オオタタネコを河内の国から連れてきて祀らせたというのが、時節柄、コロナで奮闘している大阪府知事はどこの出身なのかなと調べたら、河内のどこかのようで(笑)、河内出身の大阪府知事が中央政界進出して首相になるようなイメージかなと思いました(笑)。現代のオオタタネコ??
小池さんの方が現状では首相には近いですかね。
あの方は芦屋の出身だったような。
すみません変な話でした。
返信する
Unknown (たぬき)
2020-05-23 23:22:56
三輪山の大物主神さまが なぜ崇神天皇に祟る理由は、

先ず大物主神とは=事代主神。また、少名彦(生前の役職名で、出雲王国副王の称号)
因みに、大和に最初に神祭された(大和最古の神社)のは三輪山ではなくて葛城の鴨都波神社。
その神、お方は出雲王国第8代少名彦で松江の富王家当主で在られた八重波津身命。
少名彦は軍事を総覧する他の職掌に、各地の豪族や有力領主たちを説得して出雲王国に参画させることがありました
(あくまでも平和的な言葉による説得であり、軍事力や暴力、強大な勢力に訴えない)。
それを「言向/コトムケ」といい、
少名彦は「言葉で支配/統治為さる王」との意味から
「言治主/コトシロヌシ」と言いました。
事知主も事代主も意味は同じ。

副王、八重波津身命、主王(称号はオオナモチ)八千戈命の時に
秦帝国から始皇帝の勅を奉じた徐福が二千人の海童(少年少女)らを率いて渡来(始皇帝の勅命、不老長寿の仙薬探しは方便。それは直ぐに露になりました)
内親王(王女)との結婚を所望して許された徐福(ホアカリを自称)の下に高光姫命が輿入れ。
此れによりまんまと出雲王国の娘婿、王族(神族)に列します
直ぐに御子が生まれて、徐福の父親の徐猛の名を貰い「五十猛」と命名。
(後に子孫たちは誇りを持ってタケ、タケルを代々引き継いだ。子孫の海部氏勘中系図や尾張氏系図等にタケル、タケを名乗る人が多くいる理由)

徐福らに警戒していた出雲王国が御子が生まれた事で警戒が弛緩。
それを待っていた徐福ら秦帝国人らはとんでもないクーデターをお越して主王八千戈命と副王八重波津身命をほとんど同時期に拉致誘拐して殺害(洞窟に幽閉して餓死させた!!)


徐福の子孫や配下の海童らの子孫たちはこの先祖がやらかした極悪非道の悪事により落命した八千戈命(大国主)と八重波津身命(事代主/大物主神/少名彦命)の祟りを大変恐れました。
このお二方の子孫、菅原道真さまが死亡した後に異様に祟りを恐れられたのは、先の先祖の事が累積して災いし祟るとおもわれたためでは?
返信する
Unknown (kuragesuke)
2020-05-24 00:48:17
たぬきさん、こんばんは。
スクナヒコナですよね。私も何となく興味があって気になる神様です。ホアカリとかそのへんも気になります。
複雑すぎてわからないのですが。
一時期秦氏も含めていろいろ本を読みました。
籠神社の系図が気になります。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。