日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

淡路島・明石海峡大橋を見はるかす絶景! 五色塚古墳見学記 その2

2018-09-24 13:07:59 | 古墳時代
昨日の続きです。


五色塚古墳は、兵庫県で最大の前方後円墳(墳丘長194.0m 高さ18.8m)で、造られた時期は、埴輪の形などからみて4世紀後半頃とのことです。案内板にも書いてあります。
住所は兵庫県神戸市垂水区五色山。
日本で最初に復元整備が行われた古墳とのことです。きれいに整いすぎていると最初は思いましたが、そもそも古墳築造当時はそんな感じだったんでしょうかね。


案内板によると、墳丘は三段になっており、
「下段の斜面には古墳付近で集めた小さな石を葺き、中段と上段の斜面には淡路島から運ばれた大きな石を葺いていました」
とのこと。



そうなんです。この古墳からの眺めは最高です!南に淡路島、そして明石海峡大橋がとても印象的に、一望できます!絶景です!これは絶対に淡路島を見はるかすことを意識して古墳を作ったのだということが現地に行くとよくわかります。
淡路島の石を葺いている(中段と上段)、という説明に、そうか~、被葬者は淡路島と縁のある人だったのかなあ、と思いました。

古墳の麓には管理事務所があって、出土した遺物が少し展示してあります。


私は、子持勾玉はあるかなとわくわくして見ると、ありました!親切な、親しみやすい女性の係員の方がいらっしゃって、写真を撮ってもいいですかと確認して撮りました。この子持勾玉は、古墳の中で出土したのではなく、古墳のくびれ部分から出土しているということです。ここには二つ展示してありましたが、四つ出土したようです。1ヵ所で四つも出たのは多いです。全国で500個足らずしか見つかっていません。

子持勾玉は、大きさは10cm前後と大きく、勾玉がいくつもくっついたような異様な形をしています。石製模造品の一種で、古墳内部ではいくつかの例を除いてほとんど発見されません。一応、穴も開いているし、勾玉なのですが、他のヒスイや碧玉などの勾玉が古墳の副葬品として発見されるのとは異なり、子持勾玉は、副葬品ではなく祭祀のために作られ、用いられたようです。
この五色塚古墳でも、古墳のくびれ部分からの出土で、しかも、展示の解説にもあるように、6世紀のもので、五色塚古墳が造られてから150年も後のものだとのことです。
子持勾玉などの石製模造品は、5世紀に盛んに作られました。6世紀は遅い方です。
古墳の築造の時期とは全然違う時期に、子持勾玉を用いた祭祀をここで行ったということですね。

それから、以前、ふと見かけて気になっていた記事を自分の整理のために載せておきます。
どこに私の興味があるかは機密事項(笑)のため伏せておきます。

「日本辞典」というサイトの記事です。五色塚古墳の被葬者はわからないとのことで、だからといって播磨(このあたりの地域・兵庫)国造が関係あるかは私も調べていないのですが、この記事の中のある人が出てくることに、ちょっと反応したので、いつかきちんと考えようということでとりあえずここに載せさせていただきます。

針間国造 ( 播磨 )
針間国造とは針間(播磨)国(現・兵庫県南部)を支配したと言われ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、景行天皇(12代)の皇子・稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の孫である伊許自別命(いこじわけのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。また「姓氏録」の右京皇別の佐伯直(さえきのあたい)の項に、稲背入彦命の後、御諸別命(みもろわけのみこと)が針間別(はりまのわけ)の祖であり針間鴨国造の祖となり、阿良都命(あらつのみこと)の一名・伊許自別命が針間別佐伯直の祖として登場するが、彼ら2人で針間を中分したと考える説が一般的のようだ。

http://www.nihonjiten.com/data/263278.html

また、この五色塚古墳のことではないかとも考えられる記事が『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条にあるとのこと。引用は省略します。これも自分の覚え用とします。


それから、たこ壺も展示されていました。翌日の実習で、たこ壺のスケッチをすることになるし、明石でたこ焼きを食べたのですが、これは平安時代と書いてありますね、1000年以上前から、この地域では営々とタコを捕って食べていたんだな、と、おかしみを覚えました、というか感慨を深くしました。

このくらいで今日は失礼します。続きはまた。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (たぬき)
2019-02-23 15:42:27
五色塚古墳は明らかにあるモノの方向を意識して築造されたモノのようです。
そのあるモノとは対岸の淡路島の北端に見えている小さな岩の小山。
古くは三対山といい、戦国時代に池田氏により城が築かれた事から城山とも言いますが、
これがただ者ではないのが、麓の洞窟≒岩屋が伝承ではイザナギ大神の幽宮の元地だと言われ、山上には石屋(イワヤ)神社が鎮座坐していました。
先の城が築かれたさいに石屋神社の120強有った摂末社の内の一つ、白石神社に本宮が遷されて現在の石屋神社となっています。
それゆえにか、地名も岩屋です。
三対山と一組の名勝、絵島(いわゆる弁天さん?)と大和島の岩礁の三つで一組(三位一体)の日本(≒出雲)の最高神三神々の坐す所。
伝説では、崇神天皇(実際は、物部イニエ王、九州都万で崩御。九州からは出ていない)が祀り、垂仁天皇(物部イクメ大王。リアルな神武天皇はこの方)は石屋神社と奉り、
成務天皇(ワカタケル大王。神功皇后の本当の婿殿。戦死なさる)は勅を発して三対山石屋神社の神を対岸明石浦に祀れ。
明石浦の海人らが石屋神社の神を御座船を仕立てて御分霊(御遺体?)を奉迎して明石の岩屋神社が創建
(その当時の模様を今に伝えるのが明石の岩屋神社の大祭でリプレイされる奇祭のオシャタカ神事。昔は実際に海峡を渡り岩屋迄往来したらしい)。

また、神話?の舞台でもあり、古代の天皇が狩りして獲物が全く捕れず困惑して
神占したところ「島神のイザナギ大神」が現れて宣く。
、、、吾の祟りで天皇には獲物を捕らせていない(「イザナギ大神」は天皇家と大和王朝に祟り為す神)。
天皇は早水の水戸(明石海峡)に真珠があるから其を吾の神前に奉れば多に獲物が獲られよう云々。
早速、天皇は阿波国から潜水上手と名高い海士の長尾某を召し出して海底を探らせると確かに大きな真珠がありました。
長尾某は深呼吸して海底の真珠を取って再浮上。天皇に真珠を手渡した刹那に息絶えて溺れ死んだとか。
天皇は早速、大神の神前に真珠を奉祭。とたんに獲物が大猟となった云々。
その溺れ死んだと言う長尾某を手厚く葬ったと言うのが五色塚古墳からも遠望できた?石の寝屋古墳(今は周辺が整備されて公園)。
キーワードが天皇が淡路島に狩りにきた。阿波の海部。長尾某。
これらは先行大和王朝の磯城王朝に由縁の有力な豪族/王族(神(カモ)族)が天皇家に滅ぼされた事を暗喩したモノではなかったか?


もとい、
五色塚古墳はコチラを強く意識して築造されたと考えます。
更に、古墳から三対山(今は恵比須さんがお留守番。洞窟にはイザナギ神宮の摂社、岩楠神社が坐す。強い霊気が、、、)
を結んだ線の遥か南には淡路島第一の霊山、淡路富士の先山があります。
返信する
Unknown (たぬき)
2019-02-23 17:11:43
播磨国や大吉備国は元々は古代出雲王国の直轄地だったといいます。

時代は、いわゆる倭国大乱の時代。半年から辰韓国(後に新羅に併呑される。これが神功皇后の三韓国征伐の動機)の王子(長子)ヒボコが渡来します。
先ず、当時の出雲王国がヒボコに出雲王国の「八重書き」(ヤエガキ。法律やしきたり、命令)の遵守を諮問するとヒボコは(辰韓国の王子たる吾に蛮族ごときの言う事を聞く謂われは全くない!と)ことごとく拒否してしましまい。
出雲王国直轄地である石見、出雲、伯耆、因幡等への上陸、入植を拒否されます。(出雲王国と出雲族らに深い逆怨みを抱く契機となった。子孫らにヒボコの恥(身から出た錆びの逆怨み)を晴らす事が家系に引き継がれる)
当時は沼湖や泥沼が拡がるばかりの但馬に何とか入植。伝、しばらくは船上生活を余儀なくされたらしい。
円山川の河口の津居山を掘削して泥水を日本海に流してやっと平地を得て一帯を苦労して開発していきました。
それだけなら地域を開発した正に英雄ですが、
どうした訳か(更なる活路を見出だすために)、立ち入りが禁じられていた出雲王国の直轄地で有った播磨国に雪崩れを打って怒涛の侵攻をして最初、防御が手薄だった播磨国内を無人の山野を行くが如く占領していきましたが、
出雲王国本国と分家の倭国磯城王朝等の連合軍が組織されて但馬のヒボコ軍に反撃を開始。
すると但馬のヒボコ軍はじり貧状態となって敗戦退却を余儀なくされた末に播磨灘(瀬戸内海)岸に追い詰められ、やむを得ず淡路島に逃げ込んで一件落着。
したかに見えたのも束の間、連合軍を解散して出雲本国軍は帰郷していきましたが、
倭国磯城王朝軍(孝霊天皇軍)は戦後PKO軍よろしく、色々理由を付けて播磨国にそのまま軍を駐留させて半ば占領状態とします。
この情勢が落ち着きを見せ掛けた矢先。
こんどは西から磯城王朝の遠い親戚の物部王国勢力が攻めて来ました(第一次物部侵攻)。
磯城王朝側も事前に察知して防衛線をはり待ち構えて一度は迎撃に成功して物部勢力を押し返します、
その際、物部勢の三兄弟の一人が負傷~戦死なさります。
侵攻軍は海上から迂回して熊野に上陸。
そこで待ち構えていた磯城王朝側の紀伊国造勢(高倉下の子孫ら)に迎撃、さらに執拗なゲリラ戦を仕掛けられてジリジリと追い詰められて、気がつけば熊野川の大きな中洲に孤立していました。
そこに戦死した兄弟を祠に祀り、これが後に熊野本宮大社になります。
頑強な一枚岩かと思われた倭国の磯城王朝ですが、内実は王家王族や豪族らが権力闘争に明け暮れているらしい事を知った
侵攻軍の物部兄弟は磯城王朝の副王家、登美家(出雲王国富家の分家)の建津ノ身に密使を送り道案内と内応とを依頼。
磯城王朝内の権力闘争に嫌気が差していた建津ノ身は外部の力で体制を刷新できるならば?と
申し出を受諾して登美家の領地、勢力地域を案内してほぼ無傷で吉野~紀ノ川を渡り侵攻軍は磐余の地に着陣。威勢をはり軍威を誇示しました。

事此処に至り倭国(奈良、近畿)を維持出来ない事を察知した孝霊天皇は側近らを引き連れて倭国から逐電。
抵抗していた磯城王朝軍の大将、いわゆる大彦、
、、、彼は中曽大根に邸宅を構えていた事から中曽大根彦とも呼ばていたのをキキ神話は長脛彦と卑下したようです。
大彦らは物部侵攻軍に抗いキレずに倭から北に退却。更に追撃を受けて大彦は北陸に逃避してソコで没しました。
子孫らは更に東に逃避、退却を繰り返して最終的に、
津軽地方に至り定着。
日ノ本国を号して津軽を都=日本中央と定めたらしい。
結局、奈良の大仏を造営する為に大量の銅や金等を大和王朝側が東北地方に欲するまでは
大和王朝と日之本国の2つの国が日本列島に長らく平和に併存していました
安東氏、安倍氏、佐々木氏他は大彦の末裔に当たります?



御子らのいる播磨国~親戚の出雲王国直轄地だった吉備地方(山陽地方。岡山、広島の東部)を占拠して大吉備王国をたて、初代王となります。

北の出雲王国は孝霊らを本拠地(倭国)を逐われた可哀想な親戚位にしか思っていなったため気を許していて、
吉備王国に対して防衛準備を全くしていなかったらしい。
まさか、その吉備王国が出雲を攻めて来るなど思いもよらず、、、
そのマサカが本当になりいきなり大軍が出雲王国に雪崩れを打って怒涛の侵攻して来ました。
、、、孝霊らは出雲王国の特産品、鉄を欲した事によるとか。
全く防衛準備をしていなかった出雲側は総崩れとなり、先ず西出雲が吉備国に平定されて西出雲の神門臣王家は降伏。以降、属国化してしまいます。
しかし、出雲のもう一方の東の王家、富家は徹底抗戦を唱えて軍備を整えて反抗に移ると、いよいよ東出雲軍と吉備軍とは一進一退の膠着状態となりました。
本陣本営を伯耆大山の麓の小高い山(岡)に構えていた孝霊(元)天皇は戦況にいよいよ嫌気が差して堕落。
土地の美人と酒食に耽る様になり外界とは一切の面会謝絶を厳命。
心配して遠路はるばる陣中見舞いにきた后の細(クワシ)媛や吉備津彦ら御子らも門前払いされる始末。
やがてその陣中で孝霊天皇は崩御なさいました。
小高い山は後に孝霊山と呼ばれて現在にいたります。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。