日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

京都・方広寺と豊国神社、そして耳塚 その3

2016-09-29 01:13:18 | 安土・桃山時代
前回の続きです。

豊国神社の鳥居の所では、何かのドラマの撮影をしていました。

その鳥居を出て、斜め左手方向、約100mの所に耳塚があります。

前に書きましたように、文禄・慶長の役(1592~98)で日本兵が朝鮮から持ち帰った耳や鼻が埋葬されている場所です。

かなり大きな土盛りです。見上げるような高さでした。
観光客等の姿はなく、あたりはしーんと静まり返っており、一人の男性が、裏の方で立ってタバコを吸っている姿だけが目に入りました。


生花も捧げられて、韓国のお酒もお供えされているようでした。韓国の方もいらしているのでしょう。ハングル文字でも説明がされていました。


三十三間堂や京都国立博物館、豊国神社は観光として訪れる人は多いでしょうが、ここまで来る人はほとんどいないのでしょうね。
私も、日本史の教員をしていなければ、ここに関心を持って、訪れるまでには至らなかったでしょう。

文禄・慶長の役で秀吉の兵が朝鮮の人々の耳や鼻をそいで持ち帰ってきたこと、それによって耳や鼻のない朝鮮の人々が大勢出たこと、朝鮮の人々はその所業をずっと忘れず、明治時代に至っても、福沢諭吉が「脱亜論」で嘆いたように、日本に対する怨恨の感情は根強いものがあって、消えない、ということ・・・こうした話を授業ですると、毎年必ず、生徒がしーんと静まり返ってしまうという現象が起きます。

日本の高校生にとっても、この史実は相当衝撃的であるということです。朝鮮の人々に400年前の日本人が、ひどいことをしたんだ、ということは、生徒は確かに感じています。

そのように私は毎年話をするだけで、時には、京都に行った時に、興味があったら耳塚を見て来てください、などと言っていました。生徒に話すだけで、実際に耳塚を見ていないというのでは、いけないかなと思っていました。やっと、見に行くことができました。

このようなネガティブな史跡は、ハワイの真珠湾を日本人が訪れないのと同じように、一般的には、観光の一つの場所として訪れることはないかもしれません。
誰もが実際に訪れることは難しいかもしれないので、この記事によって、このような所なんだなということを、感じていただければ、と思っています。

地図は再掲しておきます。


下は、耳塚について書かれた記事のリンクです。参考に、読んでみてください。

http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0202/mm.htm

京都・方広寺と豊国神社、そして耳塚 その2

2016-09-22 11:36:33 | 安土・桃山時代
前回の続きです。

豊国神社と隣接して、というのか、同じ敷地内に、というのか、神社の奥の方に、方広寺があり、あの大坂の役の原因となった大きな鐘がありました。

低い位置に釣り下げられていて、かなり大きいです。もし、鐘が上から落ちてきて、この中に閉じ込められたら、私の自力では出てこれず、死ぬでしょう(笑)。


家康がいいがかりをつけたという「君臣豊楽」「国家安康」の文字の部分は、白い枠で囲んであり、文字も白く塗ってありました。スマホカメラで撮ったので、あまりはっきり写っておらずあしからず。それにしても、こんな小さい文字をよく見つけて、いいがかりをつけたものだと思います。

方広寺はまた、秀吉の刀狩とも関係があります。
刀狩令の第一条で、百姓は刀など武具のたぐいを持っていると一揆を企てたりして本来の耕作を怠ったりするから、これを取り上げると言っています。
そして、第二条では、

一、右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度 大仏建立の釘、かすかひに仰せ付けらるべし。然れば、今生の儀は申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。
(小早川家文書)


とあり、「大仏建立」とは、この方広寺の大仏のことでした。取り上げた刀や脇差は、無駄にすることはなく、大仏を作るための釘やかすがいの材料に使うから、現世はもちろんのこと、来世までも百姓は救われるから安心しろ、と言っています。

そういうわけで、方広寺は、刀狩、耳塚、鐘銘事件と、秀吉関連の事跡を振り返るうえでも、重要な場所なのですが、あまり、一般的な観光スポットとしては有名ではありませんね。

秀吉はそのようにして、奈良の東大寺にならって1585年に大仏・大仏殿を作り始め、1595年には高さ18mの木製大仏が安置されたのですが、翌年の伏見大地震で大仏は倒壊してしまったとのことです。
その後、秀頼が1612年に大仏を再興したのですが、家康の、鐘銘へのいいがかりによって大坂の役が始まり、豊臣家は滅亡してしまいます。
この大仏殿は、2000年の調査により、奈良の東大寺よりも大きいものであったということが判明したそうです。

その大仏殿跡も、裏手の方にあったので、写真を撮ってきました。ちょっとした公園のような空間があり、説明板が設置されていました。

京都を歩く会、のような団体さんと遭遇したのですが、この大仏殿跡のあたりは皆さん素通りして足をとめる人はごく少数でした。耳塚は後にも書きますが、おそらく近くにも寄らなかったことでしょう。

方広寺の鐘や大仏について詳しくは、説明板の写真の解説や、以下のリンクを参考にしてください。

http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm

集中力が切れましたので、ここまでとします。耳塚については次回に。

追記 明日9月23日の歴史秘話ヒストリアで、この大仏の話をやるようですね。「京都 まぼろし大仏の旅」(NHK総合 毎週金曜 午後8時)さっき知りました。19:00

京都・方広寺と豊国神社、そして耳塚 その1

2016-09-21 01:30:56 | 安土・桃山時代
半年以上前のことで恐縮ですが、2月の大学スクーリングで京都に1泊した時に見たもののうち、豊臣秀吉にまつわる話題です。

毎年、授業で話をすると、必ず生徒がしーんと静まり返ってしまうエピソードがあります。

それは、豊臣秀吉の「朝鮮侵略」にからむ「耳塚」の話です。

秀吉が文禄・慶長の役(1592・97)によって朝鮮を侵略した際、日本の武士は、慣例として、自分が敵を殺した証拠として首を切って持ち帰ってきますが、海の向こうの朝鮮から持って来るには、首は大きく重いので、代わりに耳を切って持って来ることにしたのですが、耳は二つで一組なので、何人分か証拠になりにくいということで、最終的に鼻を削いで塩漬けにして持って来ることにしたというのです。
そのため、朝鮮には耳や鼻のない人が大量に発生したということです。

朝鮮の人々にそのような残虐なことをしたので、韓国では豊臣秀吉に対する怨恨は深く、2010年に韓国併合100年を振り返る番組がNHKで放映されたとき、韓国の人々が知っている日本人は?という質問の答えは、1位が浅田真央、2位と3位が伊藤博文と豊臣秀吉のそれぞれどちらかでした。

1位は当時フィギュアスケートで金メダルを争うキム・ヨナのライバルであった浅田真央であるのはわかりますが、2位や3位がどうしてそうなるのか、日本人からすると意外に思われるのではないでしょうか。

伊藤博文は、1905年に置かれた統監府の初代統監になりましたが、1909年に、安重根に暗殺されています。安重根は韓国人にとってはヒーローです。
豊臣秀吉の朝鮮侵略は、現代からは遠い時代のことではありますが、知っている日本人の上位に来るということは、その所業が、韓国の人々の記憶に強烈に刻まれ続けてきているということです。

秀吉の朝鮮侵略=文禄・慶長の役で持ち帰って来た朝鮮の人々の耳・鼻を埋めて供養したのが「耳塚」です。これは、秀吉ゆかりの豊国(とよくに)神社・方広寺の近くにあります。方広寺にあると解説している図説などもあります。

2月のスクーリングの際に京都に前泊できることになり、少し時間的余裕ができたので、この耳塚に行ってみたい、しかも方広寺といえば、豊臣家が滅ぼされた大坂の役のきっかけとなった鐘銘も見たいし・・・ということで、行ってみたわけです。

京都・京阪本線七条駅から徒歩6分ほどで三十三間堂があります。その三十三間堂を右手に見ながら道路(七条通り)をはさんだ左手向かい側にある京都国立博物館の敷地の角を左に曲がり、まっすぐ行くと、豊国神社・方広寺・そして耳塚がある一帯に着きます。

耳塚前の案内板から地図をトリミングさせていただきました。

この京都国立博物館を右手に見ながらまっすぐ行くと、豊国神社があります。



豊国神社の鳥居。

豐国神社は、秀吉を祀る神社です。朝鮮侵略で兵たちが残虐なことをしたという歴史はありつつも、織田信長の草履取りから始まって、知恵を働かせて数々の戦いに勝利し、最終的に天下統一を果たす秀吉は、私自身、昔から歴史上好きな人物の一人です。先祖が、関ヶ原の戦いに出ており、西軍・石田三成=豊臣方であったということも、潜在的にあるのかもしれません。



ここの唐門(国宝)は、元は伏見城の遺構であり、二条城から南禅寺の金地院を経て、こちらに移築されたと説明板に書いてありました。

意外と長くなりそうで、夜も更けてまいりましたので、今日はここまでにさせていただきます。