日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

コスモス満開の藤原宮

2019-10-12 21:20:06 | 飛鳥時代
東京は、台風19号がそろそろ通過というところです。今日は、昼間から電車が運休、お店もお休み、という非常事態で、家にいるしかありませんでした。しかし、ちょうど、薬をもらいに近所の病院に行きたかったので、行って来ましたら、他に誰もいませんでした。とても珍しい風景でした。薬局さんも開いていてくださいました。
昨夜のスーパーも、ほとんどの棚が空っぽに近く、東日本大震災の時よりその程度はすごかったと思います。今夜が過ぎれば、また元の生活に戻ると思いますが・・・
皆さんご無事でありますように。

・・・というわけで、こういう日は、ブログを一つでもアップしておきましょうということで。
もう3年前になるようですが、奈良大通信教育で、博物館学芸員資格課程の実習に行き、その時にコスモス満開の藤原宮を訪れた際の写真を紹介します。ちょうど今頃でした。日付は、2016年10月15日です。

橿原神宮前駅近くで、レンタサイクルを借りて、走って来ました。
藤原宮と、橿原市藤原京資料室、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室をぐるっと巡ってみました。
しかし、走り出した直後は、自転車で走るための専用のレーンがあるわけでもなく、車がビュンビュン通り過ぎる横を走るしかなく、しかも、とても深い側溝のようなものもあったりして、気をつけないと落ちてしまいそうで、自転車をこぎながら、「恐い恐い」とつぶやき続けていました。ちょっと危険でしたね。

交通量が少ない道に来れば、お天気もいいし、のどかで、気持ちいいのですが。
しかし、暑かったです。私が奈良に来ると、というか、私が旅に行く先々は、どうも季節外れの暑さに見舞われることが多いのです。


藤原宮に到着。一度来てみたかったこのコスモス畑。すばらしかったです。


あまり山という感じがしない天の香具山。


藤原宮跡の柱を復元したもの。


耳成山。


畝傍山。

本当にここは大和三山が印象的に見える場所です。


この写真の、真ん中の山が三輪山と思われますが、ここからだとあまり存在感はありません。


二上山も見えましたがこれもあまり存在感は感じません。




のどかにピクニックに来ているような人達も多数。

台風が去ったら、コスモスでいっぱいの藤原宮を訪れてみてはいかがでしょうか?

それから、この10月15日は、天理市の石上神宮で「ふるまつり」が行われる日ということを知ったので、藤原宮めぐりの後に行ってみました。その写真はまた次回。
私が行った時は、観光客はあまりいませんでしたが、石上神宮のHPに「当神宮最大の祭典」と書いてありますので、もしご縁があれば、その日に合わせて行ってみてはいかがでしょうか?

私も行きたいですよ。しかし、本当に旅に出る余裕がないですねえ。10月22日はお休みですね。思い切って日帰りでどこか行ってみようかな?

薬師寺東塔のてっぺんが目の前に・・・奈良国立博物館「白鳳-花ひらく仏教美術-」

2015-08-12 23:21:14 | 飛鳥時代
現在、奈良国立博物館では、「白鳳-花ひらく仏教美術-」(開館120年記念特別展)を開催中です(9月23日まで)。私も6日に見て来ました。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html

白鳳文化といえば、頭に浮かぶのは、興福寺仏頭です。普段、興福寺にいらっしゃいますが、8月18~27日までこの特別展にお出ましになるそうです。期間中いつもいらっしゃるのは、薬師寺金堂の、高さ3m以上もある月光菩薩立像(一度東京にも来ました)をはじめとして、たくさんの白鳳仏です。

ちなみに、「白鳳」という言葉は、「白雉」という年号(650~654年)の別の言い方だという説明がされている古文書が展示されていました(正確なことを書けていなくてすみません 暑くて注意力が散漫に)。

「なら燈花会」に合わせて、15日までは、19時まで開館しています。しかも、17時以降は、一般の入場料が1500円→1300円と大幅に安くなってとてもお得です(他に毎週金曜日)。なら燈花会は、興福寺以外は19時から始まり、しかも、19時過ぎてもなかなか空が暗くならないので、出かけるのは遅くてもいいのです。それまでの時間つぶしに、この奈良国立博物館を観覧するのもいいですよ。

実際、私もそんな感じで入りました。奈良大学の学生の場合、キャンパスメンバーズということで、なんと400円で入場できました。かなりお得です。学生のうちに何度か行きたいものです。

白鳳仏は、そのポーズなどがどれもかなり似通っています。私も白鳳の時代、つまり飛鳥時代、天武・持統天皇の時代は好きです(好きでしたと過去形にしそうな今日この頃)から、おなかいっぱいになりました。

特に印象に残ったのは、薬師寺東塔のてっぺんについている、水煙と相輪が、現在解体工事中のため、この目の前に下ろされて、間近で見ることができたことです。
「檫銘」といって、この塔を建てることの由縁が刻まれたものも横にありました。
これらは、工事をしていなかったら、天高く塔の上に据えられていて、こんな近くで見ることのできないものですから、自分が生きている間に二度とない貴重な機会かもしれません。まじまじと見てきました。

この日も近畿地方は猛暑で、昼間、秋篠寺と薬師寺を見てすでに疲労困憊だったため、一つ一つをじっくり見る体力がなく、駆け足で、およそ40分で一回りしました。
全体に、展示内容はすばらしいものでしたが、暑くて疲れ切った状態でしたので、じっくり見ることができず残念でした。

見終わった後、燈花会にはまだ時間がありそうだったので、地下のカフェで夕食にしました。私は疲れて喉を通らなそうだったので、シンプルなパンケーキにしたのですが、たっぷりの生クリームが載っていて、とてもおいしかったです。上に飾ってある小さい板チョコレートを見ると、「La Pause」(ラ・ポーズ)の文字。これは、冬に宿泊したホテルの1階にあった、おいしいことで有名なケーキ屋さんのだ、と気が付きました。以前、校倉クーヘンの記事をここでも書きました。それを作っているお店です。紅茶もおいしくいただきました。おすすめです。

こうした、地下のカフェとミュージアムショップは、入場料を払わなくても入れますので、奈良公園散歩に疲れたら、休憩に使えます。椅子・ソファもたくさんあります。

というわけで、奈良国立博物館について今日は書きました。旅の全貌は、なかなか紹介しきれませんので。そして、同じ日の昼間に見た、秋篠寺と薬師寺の画像を少しお届けします。
秋篠寺は、私もだんなも見たことがなかったため、薬師寺は、だんなが見たことがなく、東塔が工事中で見られないといっても、だんながそれでもいいというので、行きました。まあ、珍しい風景ではありました。本当は、他に、唐招提寺や垂仁天皇陵、菅原道真さんの神社、西大寺など計画していたのですが、この炎天下では、全くムリ。でした。


秋篠寺は、秋に行くのがよさそうです。ただし、この炎暑の季節は逆に、お客さんが少なくてゆっくり心静かに見られるかも。とても落ち着いた、よい雰囲気のお寺でした。

中は撮影禁止なので外観だけですが、伎芸天は、一般に言われているとおりのイメージでした。首をかしげ、ほほえんでいるような表情は、独特の個性的なものでした。衣服に色が残っているのも印象的でした。


解体工事中の薬師寺東塔は、このようにすっぽり覆われていました。


東塔の代わりに西塔。

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興福寺仏頭展

2013-11-23 14:39:22 | 飛鳥時代
先日、東京藝術大学で開催されている興福寺仏頭展にやっと行ってきました。もう、明日24日で終了してしまいます。私は午後からの勤務形態なので、午前中の時間を使って見てきました。

東京芸大の美術館へは行ったことがなかったのですが、意外と大きかったです。
興福寺仏頭だけではなく、一緒に興福寺からやってきた国宝たちも展示されていました。
板彫りの十二神将と、木造の十二神将が勢ぞろいしていました。寺外でそろって展示されるのは初めてだそうです。

平日でもお客さんはたくさん。年配の人が中心でしたが、奈良の正倉院展の時よりは、若い人も多かったです(まだこちらには書いていませんでしたが、先日奈良に行ってきました)。
まず、国宝の板彫十二神将像を見ました。興福寺東金堂の薬師如来の台座を飾っていたようです。11世紀前半の作とのこと。厚さ3cmのヒノキの板に彫ってあります。ライティングの加減がとてもよくて、たった3cmの厚みなのに、そこに彫られている神将たちがとてもいきいきとして見え、奥行きさえ感じました。さすが国宝です。

地下3階から地上3階の展示室に移動すると、いよいよ興福寺仏頭との出会いです。かなり広い展示室があって、ああ奥に、仏頭が見えてしまった。後でゆっくり見よう、と、その周囲を守るように展示された木造の十二神将を一つ一つ見ていきました。13世紀に慶派の人々によって彫られた十二神将。今までにも何度か見たことはあったはずです。今回十二人を一挙に見て、体の一部に金箔が残っているのに気付きました。昔は金色に輝いていたのでしょうか。

そしてとうとう奥に鎮座していた興福寺仏頭の前へ。白鳳時代の作品で、私が大好きな仏像ベスト3の一つです。もう何度か見ていますが、今回はかなり久しぶり。
仏頭は、にこやかであたたかなオーラを発していました。周囲を圧倒するような存在感や崇高な雰囲気がはっきりとあって、お客さんたちも、もっと近くに寄れるのに、なんだかそばに近づくのを遠慮しているような感じも。

今まで興福寺などで見た時には、仏頭は低い位置に置かれていたように思いますが、今回は、ちょっと高めの台の上に展示してあり、見上げるような角度でした。
さすが東京芸大、ということなのか、ここも照明のかげんがよく、仏頭の表情がとてもよく見えました。

仏頭の前は、さっきも書いたとおり、お客さんも雰囲気に圧倒されて遠慮しているのか、極端に人が群がるということもなく、私は近くでじっくり、正面からも右からも左からも、また後ろからも、じっくり見ることができました。心の中で仏頭に話しかけたりもしました。
頬の肉づきが本当の人間のような質感を感じさせられました。そこは今回あらたに実感しました。若い人のほっぺたですね。
私が死んでこの世を去っても、この仏頭はずっと遠い未来まで、大切に保存されて残って行くのだなあ、たくさんの人々に見てもらって、感化を与え、すばらしいことだなあ、と考えたりもしました。

以前の記事でも紹介したように、山川の日本史Bの教科書では、7世紀後半から8世紀初頭の白鳳文化について、
「天武・持統天皇の時代を中心とする、律令国家が形成される時期の生気ある若々しい文化」
と記述されており、この興福寺仏頭についても、
「彫刻では興福寺仏頭などがおおらかな表情を伝え」
と記述されています。
同じ時代の文化財としては、高松塚古墳の飛鳥美人壁画や法隆寺金堂壁画や薬師寺東塔などがあり、どれも私は好きです。この時代の空気が好きなのです。

この仏頭は、数奇な運命をたどっています。
蘇我倉山田石川麻呂を供養するために造られ、天武14年(685)に開眼供養が行われました。当初は山田寺にあったのですが、興福寺の堂衆が文治3年(1187)に当時山田寺を所管していた仁和寺に無断でこの像を運び出してきて東金堂に安置しました。
応永18年(1411)に落雷で発生した火災のために、この像は頭部を残して焼失してしまいました。
その後行方不明となり、500年以上が経過した昭和12年(1937)10月に、東金堂の修理作業中に本尊の台座の中の木箱からこの仏頭が発見されたのだそうです。

頭部も損傷しているのは落雷の火災時のものだそうですが、顔の部分だけきれいに残ったのは奇跡的であり幸運でした。ミロのヴィーナスに腕がない方がかえって美を感じられるように、この仏頭も、胴体や頭部が完全に残っていなくてよかったと思います。頭部に「らほつ」があったかもしれないということですが、私としては(見られ)なくてよかった。

真正面を向いてにこやかに、おおらかにたたずんでいる仏頭から、ちょっとずつ離れながらおいとましました。何が起きても大丈夫、というような、安心を与えるような表情をしています。やっぱり見事な像です。

図録からこの仏頭の表現に関する記述を抜き出します。

「仏塔は、鼻筋から眉にかけての描線が非常にきれいで、全体の形は丸々として張り詰めた球体のようであり、青年のような若々しさが感じられる。古代的な品格のあるおおらかな表情である。」
「視線は遠方のかなたに向けられており、遠い理想をめざすような強い意志が感じられる。前述のように眼は上下の瞼がはっきりとした線でくくられているため、その表現には明瞭で理性的な一種近寄りがたい崇高さがある。白鳳彫刻でこれほど眼が強調される像は珍しい。」
「ここに追求されたのは、すがすがしい青年の姿を理想とする仏像の表現である。永遠を目指す眼差しと、衆生を包み込むようなおおらかさを同時にもっている。全体的に中国の隋から初唐彫刻の影響がみられるものの、それを日本的に十分に咀嚼し独自の新しい形につくりあげている。」

ホーソーンの「いわおの顔」の物語を、小学校の国語の授業でやったのですが、この話は、ある村の岩が崇高な人の顔に見え、いつかその顔そっくりの偉人が現れる、というお話でした。いつもその顔を眺めていると、それによって感化されていくということでした。『ホーソーン短編集』(岩波文庫)に「大いなる岩の顔」として収められている話です。
同じように、私もこの興福寺仏頭をいつも眺めて、感化を受けたいものだ・・・と、今回あらためて思い、絵はがきも買ってきました。どこかに飾っておきましょうかね。



奈良の興福寺に行けば、見られるものですが、今回の東京芸大の展示は、ライティングがとてもよく、崇高さやあたたかみが伝わるよい展示でした。
もう、明日しか東京では見られません。今頃のアップになって申し訳ありませんでした。
多分明日は猛烈に混むんでしょうね。平日でも結構なものでしたから。
またいつか、この仏頭に会いに行きたいと思います。

初々しい白鳳の役人

2013-06-27 00:27:46 | 飛鳥時代
6月15日に、興福寺仏頭に関して青木和夫先生の放送大学のテキストから紹介しましたが、もう一つ紹介します。

白鳳時代の初々しさがうかがえる話です。

「白鳳時代のおもしろさは、いわば“俺は俺”という考え方も発生したところにある。675(天武4)年、天武は当摩広麻呂(たぎまのひろまろ)と久努麻呂(くののまろ)の二人に、朝廷には顔を出すなと勅したが、久努麻呂のほうはその勅使に公然と反抗して官位を奪われた。

・・・持統朝では692(持統6)年、持統が伊勢・志摩へ遊覧に出かけようとすると、壬申の乱で活躍し中納言にまで昇進していた大三輪高市麻呂(おおみわのたけちまろ)が“今は春先で百姓は農耕が忙しくなるとき”と中止を進言した。しかし持統がこれを却下したために、高市麻呂は冠を捧げてまた諫言した。ところが持統はその冠を受け取って遊覧旅行に出かけてしまったというのである。

天皇に対して職を賭して諫言した例はその後にない。高市麻呂は中国の古典を読んで忠臣が諫死した歴史を知っていたのであろう。

中納言の納言とは、天子に正しい意見を納める職務である。日本と中国との差を考えずに、彼は信ずるままに行動したのである。白鳳文化の時期は、そのような初々しい時期であった。」
(青木和夫『日本古代史』放送大学教育振興会 p.68)

白鳳時代は、飛鳥浄御原令にはじまる律令制度の運用が開始されたばかりで、官僚たちも初々しく一生懸命だったのでしょう。今の役人にこういう人がどれだけいるか。

私も、この初々しさが感じられる白鳳文化の時代、天武・持統天皇の頃の時代が好きです。教科書で割かれているページが少ないのが不満です。ただ、今度の新課程の教科書では、「飛鳥浄御原令」が太字のゴシック体に変わったので、そこは満足です。
そして、私が高校生の頃は「近江令」が太字のゴシックで本文に記載されていましたが、今では欄外の注で、近江令について「その存在を疑う説もある」という趣旨の説明がされる程度になっています。「近江令」は太字どころか欄外に追いやられてしまったのです。私が教員になるために、約20年ぶりに教科書のこの箇所を見て、鳥肌が立ちました。

体系的な法典としては飛鳥浄御原令が最初であると唱えた青木先生の説に私も加勢して卒業論文を書き、「史学雑誌」をはじめとする場でとりあげていただき、その教科書の注にあるとおり「存在を疑う説」に加わらせていただきました。細かい話は、またいつか。

上の文章中に「納言」とは、という説明もあって新鮮でした。
青木先生のような丁寧な気持ちのこもった文章を書くことを心がけたいとあらためて思いました。先生は、ワープロではなく、手書きで一マスずつ埋めていくタイプだったようです。

興福寺仏頭

2013-06-15 21:41:11 | 飛鳥時代
図書館に行く余裕もできて、本をできるかぎり読んでいます。

近所の図書館で見かけた、大学時代の恩師の本・・・青木和夫先生(故人)は、放送大学でも講師をしていた時期がありました。拝見したことはありませんでしたが。その時の、放送大学のテキストが、図書館の棚に並んでいたのです。

青木先生の講義は、一言一言が血となり肉となり・・・深い講義でした。放送大学のテキストといえども、きっと内容の濃いものだからこそ、図書館に置いてあるのだろうなと思ったりして。概説かなと思いながらも、何か、読んでみれば得るものがあるに違いない、と思って、他の本と一緒に借りてきました。

白鳳文化のページに、このような文章がありました。私の好きな仏像ベスト3の一つ、興福寺の仏頭(と薬師寺の薬師三尊)について。

「・・・衆生を広く救おうという大乗の誓願が、いや、ほんとうに救えるのだという確信となって、仏像に表現されているようにさえ思われる。心の美しい青年の容姿といったらよいかも知れない。人それぞれの好みもあるであろうが、薬師寺東院堂の聖観音、法隆寺の夢違(ゆめたがえ)観音をはじめ小金銅仏に至るまで、白鳳時代の諸像はみな晴朗である。
(青木和夫『日本古代史』放送大学教育振興会 p.67)

なるほど「晴朗」ですか・・・と感じ入りました。
先生の理知的な文章の中で、ここだけが情緒的な文章のような感じがします。もちろん、よく読めば、先生は、全体に、古代の人々の気持ちにまでわけ入って、時代を描き出してくださっているのですが。

薬師寺東塔なども含め、白鳳文化は私も好きなところです。ちょうど、卒業論文でも飛鳥・奈良時代、特に天武・持統天皇の時代を中心に取り上げました。

この白鳳文化に関する教科書の記述も面白いのです。

「律令国家が形成される時期の生気ある若々しい文化で・・・」

と、この教科書(山川出版社『詳説日本史B』ただし新課程のものではない)も妙に情緒的(主観的?)な表現なのです。でも私もそうだそうだ、と強く共感します。
さらに、

「彫刻では興福寺仏頭などがおおらかな表情を伝え、」

と、ここも「おおらか」などという形容をしています。
私がこの興福寺仏頭(もとは山田寺にあった 天武14年開眼)が好きなのは、高校時代に日本史の授業で見て、当時、この仏像によくにた顔・表情の同級生(女子)がいて、似た人がいるくらいだからとても写実的で、本当にのびやかでにこやかでいい表情だなと強い印象が残ったからです。

そして、仏像の表情には当時の時代の空気が反映されている、と私は思うのですが、この白鳳文化の時代、天武・持統天皇の時代は、これから律令に基づく国づくりをしていくぞーっというはりきった初々しい空気を感じて、とても好きです。青木先生の表現「晴朗」な空気があったのでしょう。
同じ表情の仏像を、今作ろうったって、作れる人はいないでしょう。

そういうわけで、青木先生の文章も、教科書も、白鳳文化の所は、ちょっと他とは違う雰囲気があって、面白いなと思うのです。

この興福寺の仏頭に、先日、帰りの電車の中で思いがけず出会いました!とろんとした目が一瞬大きく見開きました(笑)。

「興福寺創建1300年記念 国宝 興福寺仏頭展」が、東京藝術大学の美術館で、今年の9月3日(火)- 11月24日(日)まで開催されるそうです。

公式ホームページ
http://butto.exhn.jp/

その前売券の販売の広告でした。9月ですからまだまだ先です。奈良で見るのが一番いいですが、せっかく東京に来てくれるのなら、会いに行きたいですね。逆に、その時期奈良にいないわけだから、間違えて奈良に見に行ってがっかりしないようにしなければ。
もし、覚えていたら、東京に来る興福寺仏頭に、会いに行ってみてください。

「会いに行く」とか「奈良にいない」とか、思わず書いてしまうくらい、人格があると思わせるような、親しみを感じる仏像です。私も、会えば、何かしら心の中で話しかけています。前に、東京に来てくれたことがあったと思いますが・・・

私の好きな仏像ベスト3、と上に書きましたが、この興福寺仏頭の他には、広隆寺の弥勒菩薩(飛鳥文化の南梁様式)、それと仏像ではないかもしれませんが、興福寺の阿修羅像(天平文化)です。法隆寺の百済観音(飛鳥文化の南梁様式)のスタイルのよさも好きです。

青木先生の本から、ずいぶん長々と書いてしまいました。もう一つ、後日、別の記事を書こうかなと思います。