日本史学習拾遺

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倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)

2016-10-09 11:39:22 | 旅行
まず近況ですが、博物館学芸員資格課程の、自主見学レポートが、どうにか合格しました。
3日前くらいに届きました。とりあえずよかった。ただしこれから、今月中に、現在3回に分けて受けている実習のレポートを7つも書かなければなりません。三つくらい書きましたが・・・来週日曜が、最後の学内実習で、また奈良に行きます。

さて、先日耳塚の記事を書き終わって、次に何を書こうかと考えていると、去年3月のお彼岸の時に奈良・桜井市で見た、神御前神社のことを書け、と、心の声が・・・というか、しきりに心に浮かんでくるので、書くことにしました。もう1年半も前のことで、古い話で申し訳ないのですが。

この1年半前の3月のお彼岸の奈良日帰り旅については、何度か書いています。

春分の日 二上山に沈む夕日

崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)

遅ればせながら、この「弾丸ツアーB」として書くことにします。

この旅は、崇神天皇の宮跡(磯城瑞籬宮)あたりから、お彼岸には二上山の雄岳と雌岳の間に沈む夕日が見られるという話を目にしたことから、ぜひ見たい!と考えて実行に移したものです。詳しくは、上記のリンク記事をご参照ください。

他にもいろいろ目的はあったのですが、とにかく日帰りで、ちゃんと夕日が沈む所が住宅などに邪魔されずに見える所はどこだろう、と、日没までの間にチェックするために、レンタサイクルで桜井駅を出発して、主に山の辺の道を通りながら、北は箸墓古墳・ホケノ山古墳のあたりまで自転車で走り回りました。

そして、桜井駅にレンタサイクルを返すために南に向かっている途中の細い道で、いきなり「神御前神社」という文字が目に入り、思わず急ブレーキでストップしました。見ると、とてもこじんまりとしたスペースに、鳥居と、その向こうに、とてもよい感じに三輪山が!


たまたま、のどかな、趣のある集落の中を通り抜けたいと思って適当に通った道で、そんな名前の神社の存在は知りませんでした。しかし、なんだかすごい名前の神社だなと心を奪われ、自転車を停めて、その5×5平方メートルもあるかというような狭いスペースの神社に入って行くと、ここは、大神神社の摂社で、「御祭神」は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)、つまり、あの箸墓古墳の被葬者で、三輪山の神様、大物主と結婚した女性です。卑弥呼では?ともいわれている人ですね。

何しろ、民家が建ち並ぶ中で、ぽっかりとその小さなスペースが開かれていて、三輪山がバックに本当にいい位置に見えるのがとても印象的で、これは絶対に三輪山を意識して、お祀りするためにここに造られた神社だ、ということが感じられました。神御前とは三輪山・大物主神の御前ということですね。

有名ではないけれども、いい神社、というか、いい場所にある、信仰の場所だなあと、とても心ひかれました。
祭神も倭迹迹日百襲姫命さんだけというのが興味深いです。

写真の「御由緒」を読んでいただければと思いますが、一応その中から抜き出しますと、

「鎮座地の茅原は崇神天皇が百官を率いて八百万神を祀った『神浅茅原(かむあさぢがはら)』の地とも言われ、三輪山を拝む好適地です。」

とあります。

この神御前神社について書かれたブログ等は調べるといくつもあります。同じような説明がされています。ここでは、少し、『日本書紀』のその崇神天皇の神浅茅原で八百万の神を祀った記事の部分を紹介します。現代語訳ですが。

「(崇神天皇)7年春2月15日、詔して『昔、わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政はなく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占によって災いの起こるわけを究めよう』といわれた。
天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万(やおよろず)の神々をお招きして占いをされた。このときに神明(かみ)は倭迹迹日百襲姫命に神憑りしていわれるのに、『天皇はどうして国の治まらない事を憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう』と。天皇は問うて『このようにおっしゃるのはどちらの神ですか』と。答えていわれる。『我は倭国(やまとのくに)の域(さかい)の内にいる神で、名を大物主神という』と」。
(宇治谷孟『日本書紀 上 全現代語訳』講談社学術文庫 p.123)

この続きには、お告げのままにお祀りしたが、効果がなく、再び神に尋ねると、大物主は、わが子・大田田根子(オオタタネコ)に祀らせなさい、と答えました。そして大田田根子を見つけ出して、大物主神を祀らせたところ、疫病も収まったということです。

以下は、今度は日本古典文学大系新装版『日本書紀 上』(坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注)から、該当箇所の注釈の一部を紹介します。

神浅茅原について、

「カムは、神聖の意。聖域とした所の意。アサヂハラは、まばらに茅の生えた原。これを地名とみて、桜井市笠の浅茅原、同市茅原などを当てる説がある。」

と注釈があります。

この神社の300mくらい北に、茅原大墓古墳があり、三輪山の麓、真東にあるので、位置的には箸墓古墳よりも三輪山との関わりが深くて、何か大きな秘密が隠されているのではないかと個人的に考えたりしている地域なのです。茅原大墓古墳についてはまた次の機会に話題にします。

このように『日本書紀』にも出てくる地名が今も残っている場所であり、三輪山がよい位置に見えるのですから、『日本書紀』のこの記事も全く嘘ではなく、このあたりなのだろうと思われます。

また、倭迹迹日百襲姫命についての注釈も一応紹介しておきますと、

「孝霊天皇皇女。崇神朝におけるその地位と巫女的性格から、これを、魏志倭人伝に見える女王の卑弥呼に比定し、崇神天皇を女王の男弟に比定する説もある。」

とあります。系図を見ると、倭迹迹日百襲姫命の甥っ子(開化天皇)の子供が崇神天皇なので、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だとして、崇神天皇は卑弥呼よりも年下であるということは言えそうなので、『魏志』倭人伝の「男弟」にあたると考えることもできるかもしれません。

この頃は、建物とか仏像とかよりも、現地で見ることのできる風景・・・特に神社の、ですね。その立地に興味があるので、本当に、その立地に心をひかれた、小さな神社でした。しかも祀ってある方が、とても興味深い方でした。
たまたま通りかかって出会うことができて、よかったな、と思いました。

何か書き漏らしている気もしますが、後で書き加えるとして、これで終わりにします。茅原大墓古墳などの話はすぐ次回に。

ここ数日、「卒論草稿 書き方」的なキーワードで検索してこのブログにいらっしゃる方などが多かったのですが、もう〆切の頃と思いますが、大丈夫だったでしょうか?
私も、この後、明日までの休日の間に、残りのレポートを書いたりして、有意義に時間を使いたいと思います。

4 コメント

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二上山 (普通検索観音)
2016-10-12 00:30:58
 ツツコワケさん。こんばんは。
 二上山。少しずつでも、親しんでいきたい場所のように感じています。神御前神社、奈良には不思議な場所があたりまえのようにあるのですね。
 話はころっと変わりますが、日本映画専門チャンネルで「鹿男あをによし」などという10年近く前のドラマをやっていて、全話は見ていませんが、思わず見入ってしまいました。奈良大入学後、スクで先生のお話を聴いていたところなどけっこう出てきていました。
 学芸員のレポート大変そうですね、試験はもちろんでしょうが。試験で回答の分量は学部時代とは違う感じなのでしょうか、お尋ねしたいことがぽちぽちでてきそうです。私にはまだ先のことなのでしょうが、試行錯誤の日々ではあります。
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Re:二上山 (ツツコワケ)
2016-10-12 11:30:48
普通検索観音さん、こんにちは。通勤途上です。
二上山は、見れば印象的な形ですし、東に三輪山、西に二上山、という場所を都に、と考えた古代人の気持ちもわかる気がするし、ああいう山がうまい具合にある場所をよく見つけたなと思います。
奈良盆地は、雨の時など三輪山をはじめとして山々の裳裾に幻想的な霧がかかって、神さびた地、特別な地、という感じがします。
『鹿男あをによし』は、私は大好きで、小説も読みましたし、テレビドラマも普段あまり見ないのですが、あれだけは毎回きっちり見ていました。
玉木宏と綾瀬はるか、多部未華子と、なかなかよいキャストだったと思います。
作者の万城目学さんは、他にも歴史ものの小説をいろいろ書いていて、それぞれかなり面白いです。映画にもいくつかなってますね。
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Unknown (たぬき)
2018-09-13 07:58:02
淡路島のたぬきです。(淡路島や四国はたぬき(原初から現代に受け継がれる幸之神)の島。三輪山も幸之神様が本来の神様です)
こちらから東の方を望んだとき、葛城連山の北の端に特徴的な二上山が見えています。
あぁ、あの二上山の向こう側が大和の都だと誰の目にも判る文字通りのランドマークです。
また、関空の東の葛城、金剛山(元来は高天山と言った。金剛寺が建立された事から改ざん)の向こう側が、、、、
ああ、、、、いにしえの高天原(意味は国の首都)、葛城/高尾張の都(大倭国。初代大王はホアカリの孫、天村雲命(系譜上の神武はこの方)。初代大王后には出雲王国から葛城に移住した出雲神(カモ)族(王族)の天日方奇日方の御妹君で三輪山の初代祭主/日女命の媛鞴踏五十鈴媛命(所謂、事代主/大物主の御子(遺児))が都した)なのだなあ、、、
その頃には、現在の奈良盆地の平野部には湖水を満々と湛えた古大和(奈良)湖が広がるばかり(奈良盆地から大和川の流出部が崩落して大和川が塞き止められていたため)。
大和三山は正に湖に浮かぶ小島でした。
、、、平野部に古代の遺跡や遺稿が少ない理由でもあります。


因みに、信貴山は二上山と左右反転したかのようなお姿で西の海浜には住吉大社。(~淡路島北端の石屋神社(元イザナギの幽宮伝承地(岩山の麓の洞窟)))
信貴山を挟んで大和側には法隆寺(蘇我本家宮殿跡)~石上神宮(古代唯一の神宮(伊勢神宮の成立はずーっと後))

、、、石上神宮は物部イクメ大王=垂仁天皇(実際の神武天皇(九州から侵攻して大和(の同族の磯城王朝(天村雲命(初代)~11代の彦道主大王)を倒して)を平定した大王)で、キキ神話では九州から出ていない父親の物部王イニエ(崇神/開化天皇(9代の大ヒビ大王)の御子にされていますが真っ赤な嘘です)、山幸彦、他に分身改ざんされて文字通りの八面六臂の大活躍)の宮都が置かれた旧跡。
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Unknown (たぬき)
2018-09-13 09:17:21
モモソ日女命は三輪山の祭神(累代の母系、葛城の出雲神(カモ)族で三輪山祭神、大物主神/事代主神の直系子孫である登美家は初代の天村雲命から大王家に歴代の后らを輩出)の子孫。

神の妻では無くて、神主で祭主、大巫女=日女命(ヒルメの命)/大倭日女命。
出雲族は三輪山(原初は伯耆大山)から刺し昇る朝日を拝む習慣から太陽の女神信仰になり、三輪山のような丸く秀麗なお山は女神の山との信仰と合わさり三輪山は太陽の女神、大日霎貴命の坐す山となり、
また、それに仕える巫女は同等に崇められて

大日霎貴命(大日女命/大倭日女命)、、、天照大神。(太陽神?が女神の理由)
モモソ日女命も何代目かの大日霎貴命、、、ヒミコ。
磯城王朝第10代彦坐大王の媛御子、佐保媛命が最後の大日霎貴命(ヒのミコ)。

九州から侵攻して来た物部イクメ王(垂仁)は生駒山に本陣を構えて虎視眈々と大和平定に邁進。
大和掌握の要として佐保媛命(大日霎貴命/大倭媛命。三輪山の祭主)と政略結婚しました。
物部イクメ王らに攻め込まれた彦坐大王は丹波?に逃避、
跡を継いだ第11代彦道主大王も侵攻軍の軍門に降り、媛御子のヒバス媛を后に差しだして降伏。天村雲命から11代約300年続いたプレ大和王朝は滅亡しました。

物部イクメ王と連合していた豊国勢力がやや遅れて大和に入り、三輪山の外山の霊峙を占拠。
三輪山の従来の祭祀を停止させる暴挙にでます。
代わりに豊国宇佐族が奉祭する月読神の信仰を檜原神社で広めました。
祭主にらイクメ大王の異母妹で豊国の女王、豊媛命(トヨ)、豊来入媛命(キキ神話等は、豊鋤入媛命)が奉仕。日の巫女、大日霎貴命に対して稚日女命/稚日霎貴命と称えられた。
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