日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

三輪山・二上山との位置関係・・・?石見鏡作神社 その2

2017-08-28 01:30:50 | 旅行
前回の続きです。この石見鏡作神社から見ると、冬至の日に、三輪山山頂から朝日が出て、夕日は二上山の鞍部に沈むといわれています。真南に多神社があるということに着目している人もいます。多神社については、いずれ紹介したいと思いますが、太安万侶に縁のある神社で、三輪山が真東、二上山が真西にあります。

以下のサイトなどに興味深い話がまとまっています。
http://kamnavi.jp/mn/nara/iwamika.htm

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/46386865.html



石見鏡作神社はそういうわけで、冬至の日に三輪山の方角から日が昇るということですから、私が訪れた2月も太陽の位置は似たような所から昇ると思われ、太陽が見える場所は・・・と、神社の向かって右手奥の方に行ってみました。


すると、「遥拝所」と刻まれた石柱がありました。ここから三輪山の方角を遥拝していたのか??と、ちょっとわくわくしました。そこから三輪山の方角と思われる方向を見ると、民家が建ち並んでいて、三輪山が見える感じではありませんでした。昔は見えたんでしょうか?


そろそろ帰らねば、と、神社を出て、裏手の方を回りながら帰ったのですが、表からは入れない、見えない場所に、小さな三つのおやしろなどが隠れるような形で建っていました。

別の田原本町の鏡作神社も三つあるようですし、三つということに、祀られている神様の意味があるようですが、これは他のブログなども参照していただければと思います。
石見駅まで戻って来て、電車が来るまでの間に、ホームから、二上山はどう見えるのだろうか?と確認しました。

道路が走っていて見えにくいですが、見えました。


冬至の日にはおおよそあそこに夕日が沈むのでしょうか?鏡作神社からは見えそうもありません。いつか、冬至の頃にこのあたりに来てみるとしましょうか。
三輪山は見えませんでした。

以下の写真は、スクーリングも終えて、帰る前に奈良町などを放浪した時のもの。

身代り申がつるしてあったりして、おもむきがあって、静かで、すてきでした。


ひがしむき商店街だったか、もちいどの商店街だったか、の、細い路地から三笠山方面を見ると、月が昇って来ていました。いい風情だな、と、それを撮ったつもりだったのですが、月がうっすらとしか写りませんでした。

というわけで、鏡作神社。今後も多神社をはじめとして、神社の立地等に関する私の興味関心に基づく記事を書いていきたいと思いますが、鏡作神社に関する小さいまとめを終わりたいと思います。

『万葉集』を読んでいると、三輪山(三諸山 みもろ みむろ)を詠んだ歌がたくさんあります。二上山もです。
例えば
「三諸の神の神杉夢のみに見えつつ共に寝(い)ねぬ夜ぞ多き」(156番 高市皇子)

これの次の歌も「神山」とありますが、これは三輪山をさしています。
「隠口(こもりく)」の「泊瀬(はつせ)」とかいう言葉もよく出て来て、このあたりに関心のある私はその語感にわくわくします。

授業の拾遺という感じでもなくて自分の興味のおもむくままに書いてしまいました。
高校日本史の授業では、奈良の興福寺や東大寺、法隆寺などの建物や仏像等に関する学習はしますが、三輪山周辺(桜井)の話題にはなかなか及びませんし、万葉集の中の歌までは具体的に見ている暇はありませんので残念です。日本という国のはじまりは、このあたりからだったのかもしれないのです。
大人になってからでも、各自でこちら方面を探求してみてもらえたらと思います。私も目が向くようになったのはつい最近ですので。

鏡作部の神を祀った神社・・・石見鏡作神社(奈良県・三宅町)

2017-08-26 21:16:10 | 旅行
2016年2月の歴史地理学スクーリングの3日目の朝に訪れた、石見鏡作(いわみかがみつくり)神社について紹介します。

全日制高校に戻ると、夏休みも講習と合宿などで気の休まる完全な休日というのがごく少なく、それでもやる気のある生徒の皆さんと関われるのは取り組みがいのあることです。そんなわけで、なかなかこちらも更新できないでいますが、昨日今日などは余裕がある方なので、一つ書こうかというところです。

歴史地理学スクーリングの際に、橿原神宮前駅近くのホテルに宿泊して、その付近を探索しようと考えていたのですが、放課後に大雨が降るなどして動けませんでした。それでも、スクーリング3日目の朝に、以前から気になっていた石見鏡作神社を訪問してから大学に行くことができました。
奈良市内に宿をとると、このあたりをスクーリングの始業前や放課後に訪れるのは難しいです。

この神社の住所は、磯城郡三宅町石見650で、石見駅から300mほどの距離にあります。

早めの時間にホテルをチェックアウトして、荷物をガラガラ引っ張りながら、石見駅から歩いて石見鏡作神社を目指しました。

ちょうど日本史学習の教材のような、環濠集落と条里制の解説看板が立っていました。このあたりはそういう地域なのですね。




板張りの壁が趣のある街並みです。環濠集落というだけあって、濠というか、水路が確かにあります。





鏡作神社の前まで来ました。



鏡作神社という名前の神社はこのあたりにいくつかあって、『延喜式神名帳』にある「鏡作坐天照御魂神社(大和国・城下郡)」に比定される式内社の論社とのことです。つまりはこの式内社にあたる可能性のある神社だということです。
いくつかある中から行ってみようと思ったのは、駅から近かったからです。スクーリングの朝でも行けそうだったからです。田原本町にある鏡作神社にも行ってみたいのですが、これはスクーリングの滞在中に行けるような場所ではありません。

「鏡作」ということは、あの卑弥呼が魏から鏡をもらってきて、以来、といったらいいのか、国内でも鏡を作り、それを権威・支配の象徴として、支配下の者に配った、その鏡を作った関係者が周囲に住んでいたことを示していると思われます。

具体的には、石見鏡作神社の境内にある由緒の掲示板を写したこの写真をご参照ください。


「石見」は今の島根県であることから、その地方から移り住んできた人々がいたのではないかと推測している人もいるようです。

「鏡作」などという名前の神社があることは、つい数年前まで知りませんでした。そもそも、神社というものは、私にとっては、靖国神社とか、明治神宮のように、後から(最近の時代に)人を祀るために作られたもの、というイメージが強く、祀られている神様にしても、嘘っぽい。神話など嘘だ。と頭から決めてかかっていました。
しかし、この4年くらいにいろいろ勉強しながら、『古事記』や『日本書紀』の神話の中に、「本当のこと」も含まれているのではないか(全部が本当というのではなく)、と考えるようになりました。

関東には、あまり由緒の古い神社が多くないせいもあって、神社について冷ややかだった私ですが、奈良や出雲の神社を訪れたり勉強したりしている間に、古墳時代といった古い時代からの信仰がずっとその地で続いている場合もあるのだなと見直しました。

アマテラスオオミカミの天の岩戸の話にしても、それは日食の現象と関わりがあるのではないかと考えられます。銅鏡については、考古学的にも発見されているし、『記紀』にもよく出てきます。そうした鏡を作る人達に関わる神社があって、それが現代まで残っているということは、非常に興味深いことであり、そしてまた、その神社の存在している位置についても、興味深いものがあります。それは、簡単にはすべては書けないのですが、私が興味を持ったのは、小川光三『増補 大和の原像』(大和書房)(1980年)という本によってであると振り返ることができそうです。

「三輪山頂から西北西30度を求めて線を引くと田原本町石見の鏡作神社に至った。
ここでもまた大変面白い事は、この社の真南がまたまた先の多神社に当たり、先の大きな三角形とシンメトリックに全く同形の三角形ができることである。この二つの大三角形を合わせると・・・巨大な正三角形が現出するのである。」(p.39)

「またまた」とか「三角形」とか、よくわからないと思います。私も今その本が手元になく、借りた本から抜き書きした部分しかないので、完全には覚えていないのです。要は、三輪山の西北西30度の所に石見の鏡作神社があるというのは、その神社から見ると、冬至の日に三輪山山頂からの日の出が見られるという意味合いがあるのです。

古代からある神社というか信仰の場所は、そのように、太陽の方向を意識しで場所が定められているようだということに近年注意を払うようになりました。
そういう視点で、この鏡作神社に行ってみたわけです。

すでに長くなってしまったので、今日はこのへんで失礼します。続く。