日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

3.11に糸川英夫『逆転の発想』を読む

2020-03-15 13:18:45 | 読書
新型コロナウィルスでさまざまな活動が抑制されているために、例えば卒業式や入学式などの式典が行われないので、お花屋さんやスーツ屋さんが困っているとか、給食の食材が余ってしまって、玉ねぎを安売りするとか、一方でレトルト食品が売れるとか、世の中というのはちょっとしたことでバランスが崩れてしまうものだなと感じさせられます。就職の内定まで取り消されてしまうとは、東京では桜の開花宣言が出たというのに、なんともやるせない春です。

3学期の日本史の授業では、世界恐慌から昭和恐慌という流れもやりました。昭和の初めは、金融恐慌に始まり、恐慌が相次ぐわけですが、毎年この授業のときに、「歴史は繰り返すか、一回限りか?」ということを生徒の皆さんに問いかけています。「繰り返す!」という答えの方が多いでしょうか。織田信長が明智光秀に本能寺の変で殺されるということは一回きりしか起こりませんが、「恐慌」という現象は繰り返し起こります。繰り返すのか一回限りかということについては、どちらもそうだといえばそうです。
アメリカの株価暴落と上昇というニュースが大きく取り上げられています。日本も株価が下がっています。時は令和の初め。これからどうなっていくのでしょうか。

さて、なんとなく、糸川英夫さんの『逆転の発想』(新装版 プレジデント社 2011年7月)という本を手に取りました。書名はぼんやりと知っていたのですが、読んだことがありませんでした。
糸川英夫さんは、ロケットの開発者ですが、多彩な才能を発揮された方です。最初に出版されたのは40年以上前の1974年、幅広い分野について現代を予言していて、それが今でも色あせていないというのです。私がこの本を読もうと思ったのは、経済とか科学とかの分野の勉強のためではないのですが、それは置いておいて、読んで印象に残った所を記しておこうと思いました。

「エネルギー問題の未来」という章があります。そこに、原子力発電についての記述がありました。
「核分裂による原子力発電は根本的にムリがあり、技術は放射性廃棄物の問題を解決し得ないだろう。ウラン235とウラン235をぶつけてエネルギーを得る方法は縫い目のほころびているお手玉を作るようなもので、縫い目から放射性廃棄物がぽろぽろとこぼれてしまう。これを完全に縫い合わせることはむずかしい。核分裂は爆弾としてはすばらしいが、平和利用には不向きであり、平和利用は核融合が完成するまでおあずけ。それは2000年以後となろう。」(p.223)
私は詳しいことはわからないのですが、放射性廃棄物の問題を解決し得ないので、核分裂による原子力発電は根本的にムリ、と1970年代に糸川さんが言っていて、今でもその指摘が当たっていて、それが克服されていないことが、東日本大震災での原発事故でも大きな問題として露呈しているわけです。
糸川さんは、続けてニューエネルギーについても言及しています。
「発想の転換」というタイトルのとおり、多方面にわたって面白い発想がたくさんつまっています。かなりのスピードでさらっと読めてしまいました。博物館学芸員資格の本はさらっと読めないんですけど・・・

この本を読んでいたのは、ちょうど東日本大震災から9年になる3月11日頃でした。この本が新装版として出たのが震災のあった2011年の7月です。こういう、原発の問題を予見する内容を含んでいるので、震災の直後に復刊されたのではないかなと思ったりしました。
茂木健一郎さんが「復刊によせて」として巻頭に文章を書いているのですが、そこには原子力発電にからむ記述は全くありません。「組織の『へそ』をつかむ」と題した文章になっています。専門外であるからということもあるかもしれませんが、著名人が原発問題に触れるといろいろと支障があるので、触れることはしなかったのかな、などと妙な憶測をしてしまいました。
「本書が、糸川英夫という類希なる天才の思想、感性、その人柄に触れる資料として、現代によみがえることは、深い意味があると思う。日本が直面しているさまざまな困難。その解決に向けての智恵と勇気を得るためにも、多くの読者が、糸川英夫さんの『逆転の発想』に触れることを願ってやまない。」
と、茂木さんは2011年5月に記しています。2カ月前の3.11も意識されていないわけはないと思います。
そんな、今年の3.11でした。

さて、何か写真を・・・と考えたのですが、1月に杉並の大宮八幡宮で見た、新春除魔神事「小笠原流 蟇目の儀・大的式」の写真でも。


この儀式の詳しいことはこちらをご覧ください。
https://www.ohmiya-hachimangu.or.jp/596

蟇目(ひきめ)は鏑矢(かぶらや)で、放つとヒューンと音がするものです。魔障を払うといわれ、その音を聴くと幸せな1年になる?というような解説がありました。
その音はなんともいえない、意外と野太い音で、ひょーん、という感じ、コーラなどの瓶を口で吹いて鳴らした時のような音にもやや似ていました。
せっかく動画で撮ったのに、後で再生したらなんと音が入っていませんでした。
大ショック。音が大事なのに。生徒にも見せ、聴かせようと思っていたのですが。
魔障を払うというその音が聴こえないとは、なんだか不吉な気持ちになったのです。今年1年大丈夫かな?と。
ちょうど、コロナ問題もあって、今こそ、弓によって病魔を退散させたい、またその音を聴きたいけどなあ、というところです。
明けない夜はない、という気持ちでもう少し、時を待ちましょう。

堀辰雄『大和路』より

2016-10-13 01:54:11 | 読書
また今週末は奈良へ、博物館学芸員資格課程の学内実習の3回目を受講するために向かいます。これが今年最後の実習です。

少しずつ、秋が深まっていくのを感じるようになったこの頃ですが、奈良でも秋をしっかり感じてきたい、と思っております。

そんな中、たまたま堀辰雄の『大和路・信濃路』(新潮文庫)という本を手にとりました。奈良の紀行文としては、他にも和辻哲郎の『古寺巡礼』などがあります。堀辰雄のは、読んだことがなかったようで(私が買ったのではない)、前から家にあるのは知っていて、改めて開いてみると、ちょうど季節が今頃=10月に堀辰雄が奈良に逗留した時のものでした。今回、私は同じ場所は訪れないと思いますが、今後も参考のために、堀辰雄が今頃と同じ季節にどんな所を巡ったのか、簡単にここに整理しておこうと思います。

堀辰雄は、雑誌『婦人公論』に掲載するために奈良に滞在し、このような紀行文を書いたようです。

「1941年10月10日、奈良ホテルにて」という文章から始まっています。

堀辰雄が37歳の頃ですね。しかし、改めてよく見ると、1941年といったら、12月8日に日本は真珠湾攻撃をして太平洋戦争が始まった年ですから、その2カ月前に、こんなのどかな・思索的な旅ができた人もいたんですね。
以下、日付とともにおおよそどこを訪れたのか書いておきます。

10月11日
新薬師寺、唐招提寺
10月12日
転害門(東大寺)→法蓮→佐保路→海竜王寺
柿をかじりながら佐紀山方面→歌姫
10月13日
博物館で飛鳥仏、阿修羅、虚空蔵菩薩等
10月14日
秋篠寺→西大寺駅→西ノ京駅→薬師寺→唐招提寺
10月18日
奈良ホテルで雨の荒池をながめながら、折口信夫の「古代研究」などを読む。
10月19日
東大寺戒壇院、三月堂
10月20日
高安の里
10月21日
博物館、東大寺
10月23日
法隆寺で壁画模写の仕事を見る。百済観音
10月24日
浅茅が原、高畑
10月25日
博物館
10月26日
法隆寺 夢殿 中宮寺
10月27日
奈良を立つ

その後も、日付はありませんが、奈良にまつわる短めの読み物が続きます。

この本の、私の印象としては、まず、雑誌向けということもあるのか、堀辰雄の文章をあまり読まないので他の文章もそうなのかわかりませんが、商業的な雰囲気のする文章だということです。技巧的な感じで、心の底から感じて書いているような感じは強くないということです。
それから、訪れている場所が、奈良公園周辺と、法隆寺、唐招提寺など、学校の修学旅行などでおなじみの場所が多いということです。

私も奈良といえばここに出てくるような場所をまず訪れていましたが、この頃ではこのあたりは卒業して、もう少し古い時代の歴史の舞台に関心を持つようになりました。
和辻哲郎の『古寺巡礼』も、よくぞこのような観察眼をもって、すばらしい表現力で文章が書けるなあと感心しましたが、仏像鑑賞も、私は卒業したような気がするこの頃です。

なんといっても、10月の10日から27日まで、奈良に長期滞在して、好きな所を見て、奈良ホテルでは小説の構想を練って・・・という生活を送れるなんて、うらやましい限りです。しかも日本が太平洋戦争に突入する寸前の時に。
堀辰雄は、この12年後、50歳にも至らずに亡くなってしまいます。

全体の中で、印象に残った箇所をいくつか抜き出してみます。

「そうだ、僕はもうこれから2,3年勉強したうえでのことだが、日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の侘びしいうしろすがたを一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫(るたく)の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。」(p.128)

この箇所は、ウィキペディアなどでも紹介されているので、よく知られている箇所なのかもしれません。私は自分でなんとなく、日本に仏教が渡来してきて、その新しい宗教に追いやられる古代の神々、というところが琴線に触れたので、取り出してみました。ただ、「遠い田舎のほうへと」、というのは、そうかな?とちょっと思いましたけれども。
この小説の構想は実現には至らなかったようです。

もう一つ。

「どうも大和のほうに住みつこうなんという気にはなれない。やっぱり旅びととして来て、また旅びととして立ち去ってゆきたい。いつもすべてのものに対してニィチェのいう『遠隔の感じ(パトス・デル・デイスタンツ)』を失いたくないのだ。」
(p.163)

私も、奈良に住みたいな、という思いもありますが、堀辰雄の言っていることが、こうやって読んでみると、納得できるような気もします。距離があったほうが、いいのかもしれません。ニーチェの言葉を、さらっと引いてこれるところが、さすがですね。

奈良に行く前に、整理してしまおうと思いましたので、今、アップします。ご参考までに。
まあ、それぞれに自分が好きな、行きたい所を見つけて、そこに行ければいいですよね。
今日はこんなところで。

写真は、9月末の学内実習の前日に、個人的に訪れた、田原本の多神社の近くから見た、二上山です。雨上がりです。
堀辰雄も、こっちの方は行ってません。