日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

「大古事記展」記念シンポジウム(2)

2014-09-23 12:09:19 | イベント
前回の続きです。
その他、『古事記』にまつわるさまざまなお話をまとめると、『古事記』は不幸な歴史書であると。神話であって事実が書かれているのではないと、あまりかえりみられなかった。

私自身もそんな印象がありました。天皇は神である、という皇国史観、天皇礼賛につながりかねないと、何となく自分自身も大学では、文字のない時代・古墳時代以前を忌避し、『古事記』をよく読むこともなく、研究対象にしたのは飛鳥時代以降、『日本書紀』や『続日本紀』を使いました。大学で学んだのは文献史学そのものであり、考古学的な方面は全く勉強しませんでした。しかし、今では俄然、飛鳥時代よりも遡る古墳時代以前に興味津々で個人的に勉強しています。人って変われば変わるものだな、と思います。

『古事記』や『日本書紀』の記事が絶対に正しいものではないことを念頭に置きながら、考古学的成果等も総合して検証していくと、解明できることがたくさんあるはずです。私自身も、大学時代に関わった、飛鳥時代以降の律令国家形成過程についてはだいぶ決着がついたからいいだろう、もっとさらに遡る時代に始まる「国家」の成り立ちについて明らかにできないものか、と思うようになったのです。

里中満智子さんのお話で印象に残ったことを断片的なメモから復元してみると、
『古事記』の登場人物たちは、女は強い、男はうかつ。男は女におだてられたりなだめられたりしながら、戦ったり政治を行ったりしている。本質は古代から今も変わっていない。
『古事記』には神話、伝説、歴史、民族の「癖」が描かれている。 民族アイデンティティ確立のために必要だった。
菅谷さんは、芸術家(=里中さんなど)と読み方が違う、研究者は研究成果をもとに味付けすることになる、と言っていました。

大学時代の恩師、青木和夫先生の説によると、『古事記』は、元明天皇が、孫の首皇子(おびとのおうじ)(後の聖武天皇)の帝王教育のために、日本の歴史を教えなければと考え、太安万侶に命じて編纂させたものだということです。これについてはあまり反論もないのでそのまま認められたのではないかと青木先生はおっしゃっています(『古典の扉 第1集』中公クラシックス別冊 2005年)。

『日本書紀』と『古事記』という、近い時代になぜ似たような歴史書があるのかというのは、よく考えると不思議ですが、青木先生の考え方でいくと腑に落ちるかも、と私も考えています。『日本書紀』は公式の歴史書、『古事記』は宮廷内の帝王教育などに用いる歴史書、という分け方で。だから、『古事記』には人間の・天皇の先祖でも、格好悪い姿でも赤裸々に?書き残されているのではないかと考えられます。よいことも悪いこともありのままに教訓として。
そのまま一般の人が読むものとして公刊されたら、天皇の権威をむしろ貶めるものになりそうな内容ともいえます。実際、『古事記』は近い時代まで存在が知られていなかったようです。
私自身も、やっと今頃になって、『古事記』から当時の人々の息吹を感じ取ろうと努力しつつあるところです。

写真は、8月末、大学のスクーリングの放課後、訪れた垂仁天皇陵と多遅摩毛理(たじまもり)の墓(小さい島の部分)。多遅摩毛理の話も『古事記』にあります。


「大古事記展」記念シンポジウム(1)

2014-09-21 15:34:06 | イベント
前回までの春の記事から少し、今の季節に近い所に飛びます。
夏休みも終わりに近づいた8月28日、有楽町朝日ホールにて、「大古事記展」記念シンポジウムが開催されましたのでそのレポートです。

「大古事記展」そのものは、今年の10月18日~12月14日まで、奈良県立美術館で行われます。そのPRのためのイベントだったのですが、ちょうど、夏休み中に東京で行われ、トークショーのパネリストの方々が、魅力的だったので、応募してみたら当選したので行って来ました。平日の昼間でしたので、休暇を取りました。

なんと、2500人の応募があって、600人が当選したとのこと。倍率は4倍以上?当選した方はラッキーです、とのこと。会場には、1000人前後はいたのでは?招待された人もいたのだと思います。
いただいたパンフレットを持参すれば、2名様まで「大古事記展」が無料になるとのこと。しかし、その期間、奈良に行くことがあるかなあ?

実は、今年の4月から、奈良大学通信教育部文化財歴史学科に編入学して、大学3年生として学んでいます。すでに、夏休み中に2回、スクーリングのために奈良に行きました。今年度あと2回は行く?しかし秋は・・・?

シンポジウムには、奈良県知事までお出ましになって、力の入りようが感じられました。
奈良は、「大仏商法」とか、「大阪の食いだおれ、京都の着だおれ、奈良の寝だおれ」などと言われ、大阪や京都に比べて軽んじられ、商売や観光PRも下手であったのは事実だと思います。そういう奈良が私はいとしいのですが・・・

トークショーのパネリストは、奈良県立橿原考古学研究所所長 菅谷文則さん、石上神宮宮司 森正光(まさてる)さん、マンガ家 里中満智子さん、コーディネーター?が元朝日新聞編集委員 天野幸弘さん、という顔ぶれでした。

里中満智子さんは、私が授業で生徒によく見せてきた「その時歴史が動いた」の称徳天皇と道鏡の「許されざる恋」のビデオにコメンテーターとして登場し、なかなか芯をついたコメントが印象的で、生徒も毎年ウケながら見ているし、他にも『天上の虹』という漫画も少し見たことがあり、古代史に造詣が深い方というイメージを持っていました。

石上神宮も七支刀で有名で、いろいろな意味で行ってみたい神社であり、その宮司さんがいらっしゃるというのも興味をひかれました。

そんなわけで、応募してみたら当たったこのシンポジウム、面白いお話が聞けて、記憶が薄れないうちに書こう、と意気込んでいたのですが、なにぶん、その翌日から通信制大学のスクーリングで奈良に出立したので、くたくたになって帰京し、学校が始まり、やっと疲れがとれてきた今になってしまいました。

『古事記』と私、というような切り口から、スタートはパネリストに平等に話を割り振っていましたが、途中から里中さんの独壇場のようになりました。男性陣はたじたじという感じ。何となく予想していましたが・・・

『古事記』は、天皇家の先祖のことであっても、必ずしも美しい話ばかりが書かれているわけではありません。みっともない人間くさい姿もたくさん描かれています。

トークショーで印象に残った話題をかいつまんでみると、

イザナギノミコトが妻のイザナミノミコトに会いに黄泉の国に行き、イザナミに追いかけられてイザナギが逃げる場面について。

研究者の菅谷さんによると、初期の古墳は竪穴式石室だったので、黄泉の国(葬られた人のいる場所)は垂直に降りて行くことになるが、後に、古墳は横穴式石室に変わって行く。黄泉の国へは横穴で、水平に移動するイメージで書かれているので、『古事記』の話が書かれたのは横穴式石室の時代以降だろうとのこと。

それに対して、里中さんが『古事記』を漫画で描く時には、黄泉の国への道は、垂直と水平の間をとって「斜め」にしている、という話は笑いを誘いました。最初からそういう話題に持って行こうとしてあったような雰囲気もありました。里中さんは、できるだけ史実に基づいて描こうとしているが、わからないものは想像して描くことになる、とのこと。漫画家さんはその点、学者さんより自由であり強みがあります。

黄泉の国、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)はどこにあったのか?いろいろな説がありますが、『古事記』には、ヨモツヒラサカは、「今、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂ふ」と書いてあります。これは今の島根県東出雲町揖屋(いや)町に揖夜(いや)神社があって、そのあたりではないかという説があります。

他に、『出雲国風土記』には、出雲郡宇賀郷の部分に、「黄泉の坂・黄泉の穴」のことが書かれていて、これは現在の平田市猪目町の海岸にある「猪目の洞窟」のことをいうという説の他、簸川郡大社町鷺浦の洞窟に比定する説もあるということです(荻原千鶴『出雲国風土記』講談社学術文庫)。実際に、この洞窟の中からは、弥生~古墳時代後期に及ぶ遺物や埋葬人骨が発掘されているそうです。

後日に続きます。

写真は、『古事記』にも出てくる、桜井市の三輪山です。
1枚目は、8月上旬に、大学のスクーリングの際に三輪駅近くに宿をとって、朝、駅から撮ったものです。
平成10年の台風で木が倒され、ご神体なので手をつけられず、そのためか、美しい稜線が
少しぎざぎざになってしまっているようです。



2枚目は、「唐古・鍵ミュージアム」から見える三輪山。スクーリングで唐古・鍵遺跡や箸墓古墳などを見学したときのものです。
唐古・鍵遺跡からも、三輪山は見えたのですね。


成田方面への旅(2) 房総のむら+成田山新勝寺

2014-09-13 15:10:57 | 旅行
前回の続きです。
101号古墳の近くには、美しい旧学習院初等科正堂(国重要文化財 1899年建築)があり、その近くに、こんな菜の花畑もありました。



「房総のむら」の中には、昔の建物を復元したエリアもあります。中には、現在の朝ドラ「花子とアン」の撮影に使われた場所(農家でしょうか)もあったようで、ポスターなどが飾られていました。

房総のむらは広くて、あまり時間もないので、商家の町並みのあたりを少し散策しました。そこだけならあまり広くありません。
日光江戸村と似ています。日光江戸村の方が町並みの規模は大きいです。





成田のホテルに1泊して、翌日は、成田山新勝寺に初めて行きました。以前書いたように、佐倉宗吾(惣五郎)の宗吾霊堂=東勝寺には何度も行っているのに、成田山は行ったことがなかったのです。どちらも真言宗のお寺ですが、「新勝寺」という名前からもうかがえるように、東勝寺の方が古いとのことです。ちなみに私の実家の住所も「○勝寺」といいます(笑)。これらのお寺は院政期の「六勝寺」とは関係ありませんけれども・・・
参道を歩いていると、うなぎが名物とあって、うなぎをさばいて見せているお店をはじめ、うなぎ屋さんがたくさんありました。延々と続く道幅の広い参道に本当にたくさんのお店が連なっています。

ちょうちんは浅草と似ています。



美しい彩色の三重塔。1712年建立の重要文化財だそうです。



広く庶民に愛されているお寺という感じがしました。
外国人観光客も結構いました。帰りに、「山車祭り」に遭遇しました。写真がなくてあしからず。
あまりお金もかかりませんし、千葉・成田方面に1泊旅行というのも気軽で新しい発見の旅になります。宿泊したホテルは外国人ばかりで驚きました。フロントの方も外国人でした。成田周辺は面白いです。

成田には玉作りの遺跡もあって、いつか行ってみたいと思っています。

成田方面への旅(1) 龍角寺古墳群

2014-09-06 01:02:32 | 古墳時代
ごぶさたしてしまいました。
ここを更新しない間に、春、夏が過ぎ、秋に入ろうとしています。まだ暑いですが、日差しの角度などが秋らしくなってきました。

ここではちょっと春に戻って、房総・成田方面で見てきたものをご紹介します。

千葉県の成田方面へは、私は江戸時代の義民・佐倉宗吾が好きなので、宗吾霊堂(東勝寺・真言宗)によくごあいさつに行きます。しかし、自宅からだとかなり遠く、行って帰って来るだけで半日がかりになります。
千葉は広いなあ、と、つくづく思います。こちらには国立歴史民俗博物館があるし、ちょっと電車で足をのばしてお出かけ、という時になかなかいい方面です。

他にもいろいろ見どころがあるのですが、日帰りではなかなか回りきれない、成田山新勝寺はいつも素通りで一度も行ったことがない、という状態でしたので、気軽に成田方面に1泊旅行してみることにしました。

千葉県立「房総のむら」は、日帰りではなかなか難しそうだと思っていたので、まずここに行きました。「房総のむら」へは、JR成田線安食駅からバスで8分。

ここは体験博物館と称しているように、勾玉作りや米作りなどさまざまな体験ができます。今回は体験が目的ではなく、この頃古墳が気になるので、ここにある古墳を見に行くこと、それから江戸時代の街並みが再現されているのでそういったものを見に行くことが目的でした。

ここではまず、龍角寺古墳群を紹介します。
「房総のむら」の中の「風土記の丘エリア」に龍角寺古墳群があります。 全部で114基のうち、敷地内には78基が保存されているとのことです。かなりの数です。バスの車窓からもいくつか見えました。

その中でも105号墳にあたる岩屋古墳(国史跡)は、一辺約78m、高さ約12mの全国最大級の規模をもつ方墳とのこと。日本第2位との情報(『古墳に秘められた古代史の謎』大塚初重監修 宝島社 2014)もありますが、1位がよくわかりません。



行ってみると、方墳といっても角ばってはおらず、なだらかな小山という印象でした。お墓ですので上に登らないでくださいという掲示があったので、登りたかったけど登りませんでした。



横穴式石室の入り口を見ることができます。



古墳時代末期のものとみられていますが、副葬品が全く出土していないため詳細な特定は困難とのことです。



古墳の被葬者についてですが、この龍角寺岩屋古墳の他、栃木県壬生町の壬生車塚古墳(径80mの円墳)も、7世紀前半から中葉に作られており、この前方後円墳造営停止後に造られた関東地方の大型方墳や円墳は、いずれも国造制の国を単位に一か所だけで造営されているらしく、このことから、これらの大型方墳や円墳は、新しく国造に任じられ、その地域の支配をゆだねられた首長の墓であろう、と白石太一郎氏は述べています(『考古学と古代史の間』筑摩書房2004)。

105号の岩屋古墳から少し歩いた所に、第101号古墳があり、ここでは、発掘調査に基づき、古墳が造られた当時の様子が復元されています。楯を持つ武人や猪、犬、馬、水鳥などを含め約100体の埴輪が並んでいます。春の陽光の中、埴輪が並ぶ様子は、なかなか楽しいのどかな雰囲気でした。







『風土記の丘資料館』でもさまざまな展示がされていて一見の価値があります。