日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)

2014-11-24 19:02:08 | 弥生時代
夏休みの大学スクーリングの学外授業の続きです。
箸墓古墳の南側を歩き、JR桜井線の線路を越すと、ホケノ山古墳があります。箸墓古墳の東側になります。私はこの古墳にも関心があって、こっちが卑弥呼の墓だったりしないのかなとちょっと思ったりもしていました。今でもその可能性がゼロとは言い切れないのではないかと思っています。

ホケノ山古墳は、箸墓古墳より少し古い3世紀中頃に造られた古墳です。
ご存じかと思いますが、前方後円墳の一番最初のものが箸墓古墳ではありません。最初の頃の前方後円墳として「一番大きいもの」だということです。ですから、箸墓古墳より古い前方後円墳はいくつかあります。そういうものの一つがこのホケノ山古墳です。

この古墳は、宮内庁が管理する陵墓には含まれていないため、内部の調査もされているようですが、誰の墓であるかは不明で、ただ、大神神社では「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」としているようです。『日本書紀』での表記は上記のとおりですが、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記されたりします。崇神天皇の皇女です。
名前に「豊(とよ)」の文字が含まれることから、トヨスキイリヒメ命を邪馬台国の卑弥呼の宗女、台与(トヨ・イヨ)に比定する説もあります。

全長80m、後円部径60m、前方部長20m、前方部幅23m、後円部高7.7m。
棺内外から多数の副葬品があり、画文帯神獣鏡1面、銅鏃38点以上、鉄鏃75点以上、素環頭大刀1口、鉄刀1口、鉄剣6口、その他鉄製品、土師器多数、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の破片
(以上学外授業のレジュメより)

これをレジュメから写している間に、この副葬品は、女性ぽくはないなと思いました。
レジュメには、また、
「箸墓古墳の被葬者を支えた有力者の墓」(画文帯神獣鏡の複葬から)
※画文帯神獣鏡は中国製で、製作は2世紀中葉から4世紀の間(樋口隆康氏)

とあります。箸墓古墳より古いのに、箸墓古墳の被葬者を支えた人の墓になるのか?と疑問にも思いますが、先に死んだんでしょうか?
地理的には、箸墓古墳の中心線の延長上にホケノ山古墳の中心があり、何らかの関係があるように見えます。

トヨの墓という説にも興味をひかれます。その場合、卑弥呼の墓として、ホケノ山古墳より古い墓がなければなりません。

いずれにせよ、女性の墓だという言い伝えの墓がこの地域には多いという印象です。



ホケノ山古墳の上に上がると、とても見晴らしがよく、箸墓古墳や三輪山その他が一望できるすばらしいロケーションらしいのですが、その日は雨で足場がよくないからということで上がれませんでした。というか、私は体力がぎりぎりで、上がると言われなくてほっとしたような次第です。涼しい季節に訪れて、ゆっくり見てみたいです。皇族の墓と宮内庁が認定していないおかげで、上にも上がれるのですね。
ホケノ山古墳は、あまり大きくはなく、ぼうぼうの草に覆われていて、木棺の模型でしょうか?それが露出して展示?されていました。



大体、こういったお棺は、北枕になっているとのことです。前方後円墳の向きがあっちこっちばらばらでも、それは結構統一されているらしいです。箸墓古墳もそうなんでしょうか。

中央のヤマト政権が採用したのが前方後円墳で、前方後円墳を作ることを許されなかった地域・勢力があって、そこでは前方後方墳を作るしかなかった、という説明を見ることがあります。その代表例として、出雲=島根県には、初期には前方後円墳がなく、前方後方墳がたくさん作られます。
前方後方墳が多い地域は、いわゆる「負け組」的扱いを受けているように感じられます。
しかし、今回の学外授業のレジュメその他を見ていて、ヤマト政権の中枢部にも前方後方墳があるじゃないか、と気が付きました。

あの纏向遺跡の特殊建物群の隣(南側)に、メクリ1号墳という前方後方墳があります。それも纏向遺跡の一部として去年国指定を受けています。
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/photodetail.asp
もし纏向遺跡が邪馬台国・ヤマト政権の宮殿跡だったとしたら、その中枢部に前方後方墳があるんですよ。こういう情報は、なかなかマスコミその他には出てきません。

他にも、箸墓古墳を含む「大和古墳群」の分布図を見ると、全部で40の古墳のうち、前方後方墳が6基ほどあります。
その名称は、矢ハギ塚古墳、星塚古墳、フサギ塚古墳、ノムギ古墳、波多子塚古墳、下池山古墳です。
近畿地方だからといって、前方後円墳一色ではない、ということを、確認しておきたいと思います。


箸墓古墳とホケノ山古墳の間を走るJR桜井線。単線ですね。

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卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から)

2014-11-22 17:51:44 | 弥生時代
夏休みのスクーリング・学外授業の続きを紹介します。唐古・鍵遺跡纏向遺跡を見学した後、お昼をはさんで箸墓古墳に向かいました。

箸墓古墳は、高校教科書(山川日本史B)にも、「出現期の前方後円墳として最大の規模をもつ」として、写真入りで掲載されています。卑弥呼の墓とは教科書には書いてありませんが、卑弥呼の墓ではないかと考える人達もいます。



宮内庁では「大市墓(おおいちのはか)」=孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ)命の墓として管理しています。
『日本書紀』でも倭迹迹日百襲姫が箸墓に葬られたことが記述されています(崇神記10年条)。
宮内庁が管理している陵墓のため、古墳に立ち入って調査をすることは基本的にできない状態ですが、卑弥呼かどうかはともかく、女性が葬られている墓なのだろうと思われます。

小雨の中、バスで現地に到着し、箸墓古墳脇の、ため池に面した小高い場所に登り、先生の説明を聴きました。内容についてはあまり記憶がありません(笑)。

その特徴の一部をレジュメから抜き出すと、
「特殊器台型埴輪、特殊壺、二重口縁壺など吉備系の祭祀土器出土」
「出土土器が布留0式に属し、最近のC14年代測定では紀元240~260年とされる」(2009年5月29日付朝日新聞の記事のコピーもあり)
「後年、壬申の乱でここが戦地となった記述(『日本書紀』天武天皇元年7月2日条)

古墳は本当に巨大で、私が見た古墳の中では一番規模が大きいものでした(そもそも関西の古墳を見たのは初めてというくらい古墳に関してはビギナー)。
大きな山のようで、あの前方後円の、鍵穴型の形をしているかどうかなんて、全然わかりません。やはり上空から見ないとわからないくらい巨大なものです。
女性一人のために、こんなに巨大な墓を作ったのか・・・?と改めて考えさせられます。



お話を聴きながら観察していると、古墳の横に広がる大きなため池に、文字通り縦横無尽に、釣り糸のような透明な糸がはりめぐらされています。何の目的でそんな状態になっているのか、その場ではわからず、人間が舟などでこっそり池を渡って古墳に上陸したりするのを防ぐためかなあ、などと考えていたのですが、後で調べると、そのため池で金魚を養殖していて、鳥が金魚を食べに来るのを防ぐためらしいです。



その箸墓古墳の周囲の南側を歩いて通過し、JR桜井線の線路をはさんで向こう側にあるホケノ山古墳に向かいました。
箸墓古墳は入っちゃいけないのですけれども、地続きの部分は、厳重な高い柵などがあるわけでもなく、道路から簡単に入って行けそうな状態なので驚きました。もしかして、侵入すると赤外線か何かにひっかかって警備員が駆け付けて来るのかもしれませんけれども。
こういう場所のすぐそばで暮らしている人達は、どういう気持ちでこの古墳と共存しているのでしょうか?


↑簡単に入れそう

この日は雨で、夏にしては気温が低めでしたが、それでもいくらか蒸し暑く、普段運動不足の私は、くたくたでダウンしそうな気分でした。ホケノ山古墳まで歩き、また歩いて戻ると思っていなかったし。しかし、かなり高齢の方や、足が少し不自由そうな方も、みんな歩いているので、このくらい何でもないと思って歩くしかないかな、と考えました。もしカンカン照りだったら、私は間違いなくリタイヤしていたでしょう。天気が悪くてよかったのかもしれません。夏の奈良盆地での学外授業は過酷ですね。



纏向遺跡の時にも使った「卑弥呼さん」という呼び方は、講師の先生がしていたもので、なんだか親しみを感じてよいなと思ったので、ここでもそうしました。
今年は、関西弁・・・奈良弁てあるんでしょうか?それに接することの多かった年でした。科目修得試験を東京で行う時にも、職員は奈良からいらっしゃっていたようで、関西弁でお話しされるので和みました。大阪や京都ともまた奈良は違うんだろうと思います。私は、奈良の人達のお話しする雰囲気は、のどかで、気圧される感じもなくて、嫌いではありません。

いったんここで切りましょうか。箸墓古墳が「卑弥呼さん」の墓なのかどうか、私の考えについては、次の機会に整理したいと思います。
次は、ホケノ山古墳から続けて書きたいと思います。

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金印 東京にお目見え―日本国宝展

2014-11-18 21:04:17 | イベント
今日は休みだったので、ちょうど今日から展示が始まる、金印を見に、「日本国宝展」(上野の東京国立博物館)に行って来ました。期間限定の展示がいろいろあり、いつ行こうか?と考え、まだ見たことがなく、高校日本史でもポピュラーな、「金印」が展示されている時に行こうと決めていました。

展示初日ということもあり多かったのかな?お昼前に行って「30分待ち」という表示。私はもちろん大学生料金(笑)。一般は1600円ですが大学生は1200円、高校生は900円、中学生以下は無料。実際には20分ほどで入れました。

全体の中で印象に残ったものをいくつか紹介します。

入るとすぐに、法隆寺の「玉虫厨子」(飛鳥時代 7世紀)がありました。高校の修学旅行などで見ていますが・・・玉虫の羽はどこに貼られているのか・・・みんな目をこらして探していました。ある女性の方が、「あっ、あそこ!」といって、場所を周りの人に教えてくれました。私もそういった声を聞かなければわかりませんでした。いやー本当に、かすかな緑色の光が一点、きらっと光って見えました。あれ1枚しか残っていないのかな?どこにあるのか聞いても見つけられない人もいました。あれは、ある角度からしか見えないんじゃないでしょうか。ちなみにショップで本物の玉虫の入ったキーホルダーが売っていました。ちょっと不気味でした。

平等院鳳凰堂の上の壁の所に飛んでいる「雲中供養菩薩像」(平安時代 1053年)も二人来ていました。これも修学旅行で見たことがあるものですが、楽器を奏でている姿がかわいらしく、動きがあって、私はこれが結構好きです。会えてうれしかった。心の中であいさつしました。

藤ノ木古墳出土の「金銅製鞍金具」(古墳時代 6世紀)も、よく写真では見ていましたが実物を見ることができました。きれいな金色をしていました。

「僧形八幡神坐像」「神功皇后坐像」(平安時代 9世紀)も来ていましたが、何しろ国宝ばかりですから、とりたてて人だかりがあったわけでもありませんでした。教科書でもおなじみで、以前にも生で展示を見た記憶がありますが、改めて、小ぶりの像だなと思いました。

そして、「金印」(弥生時代 1世紀)ですが、部屋の真ん中あたりにその展示スペースはありました。とにかく、ガラスケースを囲んでおしくらまんじゅう状態。ちょっとあれは参りました。

その実物は、まさにゴールド・黄金の輝き。周りの人達も、「小さい」と口々に言っていましたが、小さいです。小さいですが、金色の存在感はさすがです。大きさは、一辺の長さが2.3cm、高さ2.2cm、重さは108.7gとのことです。ですから結構重いんですよ。そんな金の塊、持ったことないですから、実感はないですが、普通の卵の重さは60gくらい、と家庭科で教わったような気がします。その倍くらいの重さがあるんですよね。小さいのにずっしり重いんでしょうね。

彫られている文字は「漢委奴国王」。それが下にある鏡に映るようにして展示されています。それを見ようとして、みんな、正面の方に殺到して、ぎゅうぎゅうおしくらまんじゅうになるんです。そして時々、係員の女性が間に入って、「押し合わないで譲り合ってご覧ください」と言いながら、ガラスを拭いていました。お客さんがガラスに手(や顔?)を押し付けるので、ガラスを拭かねばならないのですね。
結構あれは危険です。そのうちガラスが割れるんじゃなかろうか?何か、展示・見学方法を変えた方がいいのでは?列を作って順番に流して行った方がいいかも?

私は、ぎゅうぎゅう押されながら最前列に行く気にはなれず、一応、すき間から鏡に映った印面を見ましたが、あんまり字ははっきり見えない。それでまあ、正面以外は結構ガラ空きだったりするので、反対側から、しゃがんで下の方から覗きこんで、印面を確認しました。反対側からでも印面は直接よく見えました。

先日の大学通信教育の科目修得試験で、「金印をめぐる諸問題について記せ。」という設題もあり、その解答も用意したのですが(以前説明したように、10問の設題の中から当日示される番号の問題を解答する)、そこで勉強したことからいくつかここにも書きますと、発見したのは、江戸時代、福岡藩の志賀島の百姓、甚兵衛さん。甚兵衛さんが田の溝を修理していた時に発見されたのでした。
こういうものを、自分のものにしてしまわないで、正直に届け出て、今の世に至るまで大切に保管されていたということは、すばらしいことですね。日本人の美徳だと思います。

これが、偽物ではなく本物だということは、印のサイズや金の成分などから確実なようですが、この印の読み方は、いくつか説があります。教科書的には、「かんのわのなのこくおう」と読む、ということになっていて、私も生徒にそう教えてきました。紀元57年に漢の光武帝から奴国が印綬をもらったという『後漢書』東夷伝の記事があり、それに該当するということで、読み方も「奴の国王」でいいということになりますが、これがほぼ定説でよいとは思いますが、これを、「漢のいとこく(委奴国)の王」と読む、という説もあるようです。「いとこく」は、『魏志』倭人伝にも出て来る「伊都国」になります。
まあ、確かに、にんべんがないのに「委」を「倭(わ)」と読むのか?という素朴な疑問はあるでしょう。
ここでは軽く、そういう説もあるということに触れるだけにしておきましょう。

さて、他の部屋で印象に残ったものですが、
「支倉常長像」は、よく見ると、左手の薬指に指輪がしてあって、結構おしゃれだね、と気が付きました。
「元興寺極楽坊五重小塔」も、こんなサイズのものが、国宝であったんだ、と再確認させられました。とても精巧です。
法隆寺の「広目天立像」(飛鳥時代 7世紀)は、今まで注目したことがありませんでしたが、顔が、あの同じ法隆寺にある百済観音と似ている、と思いました。作者か、作った人の出身国が同じなのかなと思いました。

そして、かなり大きな仏像もはるばる京都から来てくれていました。それは、今回のチケットやポスターにも代表的作品として写真が載せられている、京都三千院の「観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像」(平安時代 1148年)の2体です。
私は、興福寺仏頭をはじめ、飛鳥・奈良時代の仏像が好みなのですが、近頃、平安時代の仏像も、いくらか好みになってきました。嗜好(というのかな?)って、変わるんでしょうか。もちろん、飛鳥・奈良時代の仏像も好きなのは変わりませんが。

この三千院の二つの菩薩像は、とても穏やかで、微妙な、慈悲の表情を浮かべています。
「死者を極楽浄土に導くために来迎する阿弥陀如来に随う2体の菩薩です。膝を開いて正座し、上体を前かがみにする姿勢には、来迎像にふさわしい前方に向かう動きが感じられます。」(東博HPより)
とあるように、横から見ると、前かがみになっているのがわかります。そうやって、死者を迎えているのだそうで、そういう説明が、現地の説明板にも書いてあって、それを読むと、みんな、なるほどなと感じて、しげしげと仏像を見つめていました。手に持っているお椀(蓮華?)に死者を入れて極楽に運んで行く?というようなことが書いてありました。

この菩薩さんの表情がとてもよくて、死への恐怖のような気持ちも受け止めてくれそうな感じがしました。安心して極楽往生できそうな雰囲気です。父親はクリスチャンですし、私もキリストの言葉をよく読む方ですので、仏教の教えにはうといのですが、今日見たこの仏像は安らぎを感じ、ちょうど今日、亡くなったというニュースが駆けめぐった高倉健さんも、この菩薩さんに付き添われて、極楽に安らかに行ってくれていたらいいな、という思いがふとわいてきました。

いつも散財してしまう、ショップでの買い物ですが、金印は、レプリカ(木箱入り)が3,000円以上で、ちょっとどうかなと手を出しませんでした。代わりに原寸大で印面がゴム印になっているもの(710円)を購入しました。
私は以前から、ただのゴム印(原寸大)は持っていて、前の学校でちょうど金印について学習する時には、そのゴム印を回して、プリントに押したい生徒には押させていました。
今日買ったものは、蛇のデザインのつまみなどもそれなりにリアルなので、こっちを回覧した方が生徒もイメージを実感しやすいかなと思います。



その他、買おうか迷ってやめたのは、「縄文のヴィーナス」のぬいぐるみです。手触りがよくて、持っていると元気が出そうでしたが・・・小さいストラップのものは買いました。

それにしても、今回もいくつか見ましたが、土偶のデザインは、力強くて、芸術的で、見事ですね。縄文の底力を感じます。埴輪か土偶か、といったら、土偶の方が芸術性を感じます。東日本の宝ですね。

今回の国宝展は、日本中の国宝の10分の1が集結しているとのこと。11月21日からは、国宝土偶の「神ファイブ」も展示されるとのこと。
そして、金印は、今日11月18日から30日までの「12日間限定!」(HPより)です。

お客さんが殺到して見るのが大変な金印ですが、福岡市の博物館では常設展示されているらしいので、福岡に行って見れば、もっとじっくり見られるのでしょうね。





東博のマスコットは、ハニワのトーハクくんとユリノキちゃん。本館前の立派な木は、だからユリノキなんでしょうね。上野の紅葉は、まだもう少し先が見頃のようでした。

時間を忘れて博物館に滞在した、世の中は平日の、休日でした。


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卑弥呼さんはここにいたのか?―纏向遺跡(学外授業から)

2014-11-17 00:15:09 | 大学通信 スクーリング
夏休みの奈良大学スクーリングの学外授業から、今日は、纏向遺跡についてご紹介します。
ちょうど今日16日、よみうりホールで行われた「纏向出現―邪馬台国東遷説を考える―」という講演&鼎談(桜井市主催)を聴いてきたところでした。桜井市長も挨拶に来ていました。明日つまり17日、天皇・皇后両陛下が大神神社「御親拝」で桜井市にいらっしゃるのでお会いするのが楽しみですとのことでした。以前にも紹介しましたが、明日、天皇・皇后さまがいよいよ大神神社にいらっしゃるんですねえ。靖国神社には参拝されなくても、大神神社にはいらっしゃる。よいのではないですか?
今日の纏向遺跡のフォーラムの様子はまた後日。

さて、学外授業に戻りますが、唐古・鍵遺跡の見学に続いて、バスで纏向遺跡に向かいました。そもそもこのスクーリングの受講者は、大型バスで3台に分乗して行くという大人数でありました。
のどかな田園風景の中、ある地点でバスを降りて、説明をうかがうと、そこは纏向石塚古墳が西側に見える場所でした。纏向石塚古墳は、箸墓古墳よりも古いのではないかともいわれる前方後円墳です。後円部が大きいようです。纏向古墳群の中で、忘れてはいけない意味のある古墳です。



その纏向石塚古墳を西に見ながら斜め左手(南西)の方を見ると、印象的な形の山が重なって見えて、講師の先生の説明で、何という山と言ったか記憶にとどめられず、後で地図を見ればわかるかなと思って写真だけ撮りました・・・今、地図で見てみると・・・耳成山と畝傍山かなあ??



この日は雨が降ったりやんだりで、この奈良盆地の山々に天の羽衣のように霧がかかっていて、とても雰囲気がありました。
纏向石塚古墳の説明を聞いた後、歩いて移動となりました。田んぼや団地の間を、100人以上の大人がぞろぞろと歩いて行きました。すごくローカルな雰囲気でした。



先生の説明は、FMラジオを持参することでイヤホンで聴くことができます。どうやらあの、一時期産経新聞を中心にニュースになり、邪馬台国ではないかと騒がれた、特殊建物群の遺跡に到達したようです。
受講生が多かったり、雨で傘をさしながらでメモがとれなかったりで、十分には理解できなかったのですが、そこは、ちょっとした野原で、斜め右手に箸墓古墳が見え、またその向こうに三輪山が見え、正面には民家があったりJR桜井線の線路があったりという場所でした。



レジュメによると、ここ(辻地区)は、
「昭和53、平成20、21年の発掘調査で南北に軸をもつ東西にならぶ4棟の建物が見つかった。」
「建物の配置は整然とした企画性をもち、弥生時代の建物配置と大きく異なっている。」
「建物の廃絶時期は3世紀中ごろ」
とのこと。



一応、現地の看板の説明を拡大したものを載せておきます。



とにかく、のどかで、ただの草っぱらという感じで、立ち入り禁止になっているわけでもありません。
ここが王宮跡だったりするのだろうか?
講師の先生のお話の中では、「卑弥呼さんが云々」と、もう邪馬台国はここであったという前提のような調子でした。
確かに、図では、ほぼ東西に一直線・対称の形に建物が並んでいたようで、祭祀遺跡であったように思われます。



ここに近接する場所で、大量の桃の種が見つかったり、いろいろな不思議な出土物があるのですが、その内容は省略します。
この纏向遺跡は、2013年6月、つまり去年、国指定史跡になったばかりです。
謎の解明は、まだまだこれからですね。

私自身がどう考えるかですが、これがすなわち邪馬台国の宮殿跡で、卑弥呼がここにいて・・・とまでは確信していませんが、祭祀遺跡であったようだというふうには思います。時期的には卑弥呼が魏に使いを送った頃とほぼ同じですね。

現地は本当にのどかで、まだまだ地面を掘ったらいろいろ出てきそうな雰囲気でした。

とりあえず今日はここまでとします。
昨日まで、学校行事が土曜日のたびにあって、やっと一段落しました。ほっとしましたが、いささか疲れています。明日はお勤めですので、このくらいで失礼します。

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暗記モノの必需品

2014-11-08 09:08:52 | 受験
今年から、奈良大学通信教育部の文化財歴史学科の3年生に在籍していますが、4月から現在までに、18単位修得しました。明日、また2単位分の試験があります。

通信教育の大学の勉強も結構大変です。これまでにスクーリングで4単位、これは試験はなく、出席すれば大体単位がいただけます。

テキスト科目は、自分でテキストを読み、周辺を自分で勉強して、2単位ならば原稿用紙にして8枚分つまり3,200字、4単位ならば6,400字のレポートを提出し、合格したら科目修得試験を受けます。試験は、年度最初から設題集が配布されており、10問のうちからその日に読み上げられる番号の問題を解答するというもので、ですからどれが出てもいいように、10問分の解答を作らなければなりません。これも結構骨が折れます。

しかも、答案用紙がA3でかなり大きく、目安として3分の2くらい埋めるようにとのことで、私は淡白なのでそんなに書いたことないように思います。いつも、私は退出可能時間が過ぎるとさっさと出て来てしまって粘りがないのですが、他の受験者の様子を見ると、年配のおじさまおばさまが、一生懸命に膨大な文字数の解答を書いていらっしゃいます。

明日の試験のためにも、40行×40字くらいの設定で7枚分くらいの解答を用意しました。明日までにできるだけ暗記します。

こういう暗記を行う時に、私が使うのは、高校時代からそうなのですが「チェックペン」です。

濃いピンクのペンで重要語句をマークして、緑のシートをかけると見えなくなります。
高校時代は、日本史の教科書の太字部分をこれで消して、電車の中で何度も繰り返し読んでいました。
教員採用試験でも、学習指導要領は、ほとんど丸暗記するくらいの対応が必要なのですが、その時にも使いました。

チェックペンは、高校時代に売っていたものですが、ありがたいことに今でも同じように売っています。
前の学校の生徒はよく、授業のプリントに答えを赤やオレンジの文字で書き入れ、そこに赤いシートをかけて覚えるということをやっていました(今の定時制高校ではそこまでやって試験に備える生徒はいませんが)。

私の場合、このペンと緑のシートがないと、この大学通信教育の試験もダルマさんのように手も足も出ません、という感じです。

これを使ってあらあらを頭に入れたら、仕上げに1回(か2回)、丸写しでなくポイントが抜けないように、概要を手書きします。
手書きで全部写したらそれだけで疲れてしまいますし、フルタイムで仕事を持っている人間はそのような時間はないですから・・・
いずれにせよ、一度は手で書くということが必要かなという感じです。

このところ、イベント等で休日でも出勤ということが続き、今日もこれから出勤です。出勤前に軽く書いてみました。

暗記モノにはチェックペンをお試しください。



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