日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

ふるべ ゆらゆらと ふるべ・・・「鎮魂祭」の神社・・・石上神宮訪問記その3

2015-11-22 18:01:48 | 旅行
ドコモの地域情報のページで、奈良でアクセスの多いブログというのに取り上げられていたせいか、そこからいらっしゃる方がちらほらいて、それなのに、その期間、あまり奈良と関係のない記事(卒論)がトップ記事のままで恐縮です。

再び、奈良県・天理市の石上神宮について、さらに書きます。

この神社の神事で興味深いのが、11月22日に行われる、鎮魂祭(石上神宮HPでは「ちんこんさい」ですが「たましずめのまつり」ともいう)です。
鎮魂祭を行っているのは、石上神宮の他には、皇居(宮中)と、物部神社(島根県・石見一宮)、彌彦神社(新潟県・越後一宮)だけのようです。

物部神社のHPによると、

「この鎮魂祭を古くから伝承し斎行しています神社は奈良県石上神宮(物部の鎮魂法)・新潟県弥彦神社(中臣の鎮魂法)・島根県物部神社(物部・猿女の鎮魂法)の三社です。特に物部神社の鎮魂祭は宮中において斎行される鎮魂祭に最も近いものです。」

とのこと。
以下はWikipediaからの引用で恐縮ですが、鎮魂祭の概要はこのようなものです。

「宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。一般的ではないものの、宮中と同日に行われている石上神宮や、彌彦神社や物部神社など、各地の神社でも行われる例もある(うち彌彦神社は年二回)。天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた(太陽暦導入後は11月22日)。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある。第二次世界大戦以後は皇后や皇太子夫妻に対しても行われている。」

原田常治『古代日本正史』(同志社 婦人生活社 1976)という本があります。著者は、学者ではなく、アマチュアですが、大胆な説を開示したこの本は、知る人ぞ知る存在です。論証が十分でなく、決めつけが激しいので、多分学者の世界からは無視されているのかもしれないのですが、全国を駆け回って本当に多くの神社・遺跡等を調査したものだと驚きます。その中に含まれる面白い発想や発見は、私には小気味よく感じられ、参考にはしたいと思っています。

おととし図書館で借りて読んだのですが、今、検索するとなぜか「貸出不可」になっています。当時すでに多くの人に読まれてぼろぼろだったので、それがさらにひどくなって、貸し出せなくなったのでしょうか。

そのため、手元にないので読書メモなどを参考にしながら書くと、内容的に強烈なのは、現在の多くの神社の祭神が書き換えられているので、それを元に戻せという主張です。特に、ニギハヤヒを祀っていた神社が、今ではアマテラスなどを祀る神社に書き換えられているというパターンが多いです。

それについてはここでは触れないとして、今、石上神宮の話題ですから、そこに絞ります。『古代日本正史』を読んでいて、とても興味深く思ったのが、石上神宮の「鎮魂祭」を行う11月22日夜に、宮中(=皇居)でも同じく「鎮魂祭」を行っているという話です。
著者の原田さんは、宮内庁に電話して(笑)確認したそうですが、実際に11月22日の夜に行っているという回答があったそうです。

その時間が午後6時とのことで、ちょうど、私も、11月22日の午後6時「ぴったり」に生まれたので、なんだかすごく奇遇で、自分が生まれた日時に行われるこの神事に興味津々なのです。

石上神宮のHPによると、午後5時頃から関連の例祭が始まるようです。
以下、石上神宮HPから11月22日の鎮魂祭の流れについて引用してみます。

「当日午後5時、鎮魂にかかわりのある八神と大直日神(おおなびのかみ)を祀る天神社(てんじんじゃ)並びに七座社(ななざしゃ)の例祭が斎行されます。(※祝詞奏上などが行われ、これは午後5時30分すぎ終了)」

「宮司以下神職一同は本社拝殿に進み、鎮魂祭が斎行されます。祭典の内容は概ね玉の緒祭(2月1日実施 ※筆者ツツコワケ補注)と同じように進みます。」

「(前の方省略)・・・宮司の祝詞奏上の後、宮司・禰宜により招魂の儀が行われます。殿内及び周囲の照明が一斉に消され、殿内は結灯台のほの暗い明りだけとなります。
暗闇の中で、衣擦(きぬず)れの音と共に、呪言と鈴の音が微かに聞こえ、殿内に霊気が漲り神秘の世界となります。
御簾が巻き上げられると同時に点灯され、禰宜が十代物袋を取り付けた著鈴榊で参列者一同を祓います。
次に、宮司が玉串奉奠を行います。宮司に合わせて神職以下参列者一同が拝礼します。続いて神饌を撤し、宮司が柳筥に入った玉の緒と洗米を奉書に包み、神職2名を従えて本殿に納めます。最後に、宮司が幣殿の御簾を降ろし、殿内にて参列者に挨拶をして、午後7時前後に終了します。」

「この祭りは、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が天璽瑞宝十種(あまつしるしのみづのたからとくさ・10種の神宝)で、瀛津(おきつ)鏡・邊津(へつ)鏡・八握(やつか)剣・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死人玉(まかるがへしのたま)・道反玉(ちがへしのたま)・蛇比禮(へみのひれ)・蜂比禮(はちのひれ)・品物比禮(くさぐさのもののひれ)と鎮魂(たまふり)の神業とをもって、神武天皇と皇后の長久長寿を祈ったことに始まると伝えられています。
鎮魂の呪法には、猿女(さるめ)系・阿曇(あずみ)系・物部(もののべ)系などあり、当神宮は『先代旧事本紀』に記された物部氏伝来の鎮魂呪法で、宮廷の鎮魂祭にも取り入れられています。日常の生命力が衰微し枯渇する状態を克服するために、鎮魂(たまふり)がなされ、振り起された生命力に新たな力が宿ると考えた古代人の霊魂観の側面を窺うことができる神事です。」
(http://www.isonokami.jp/saiten/index.html)

「鎮魂」といっても、ここでは死者の鎮魂・レクイエム、という意味ではないのです。太陽の力が弱まるこの時期に、生きている天皇の、魂が元気になるように、振起するおまじないのようなものですね。

そのおまじないのような言葉にもひかれます。
またウィキペディアからで恐縮です。後でちゃんとした出典にかえたいと思いますが・・・
「布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。
『先代旧事本紀』の記述によれば、

一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部
(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)


と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。」(wikipedia 十種神宝 より)

この「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」という言葉、なにやら神秘的じゃありませんか。

それで、詳しいことは今日は省きますが、それを、まさに今日、この時間に、行っているのですね。
もうちょっと前に書こうかと思ったのですが、昨日までいろいろイベントがあって、やっとPCに向かう余裕ができたのが今なもので・・・

原田氏『古代日本正史』の文章をひくと、

「11月22日の夜、天理市のしゅうとをまつった石上神宮と、養子側の東京の皇居で、同じ鎮魂祭をやっている。神武が養子だったというこれほど確かな証拠はあるまい。」(p.442)

「しゅうと」とは、このばあい、ニギハヤヒになります。いきなりニギハヤヒが出てきてもさっぱりわからない人もいらっしゃると思いますが、今日のところは、説明は省略であしからず。

石上神宮のこの神事「鎮魂祭」には、一般の人も参列可能であるようなネット上の記事をかなり以前に見たことがあります。その後、今でも参加できるのかはわかりません。
でも、前回書いたように、チャボを抱かせてくれたり、若くて親切・フレンドリーな神職さんもいらっしゃったことだし、一般人にも開けた神社なのだろうと思います。

今、18時くらいです。ちょうど今、行われているのでしょうか。
可能ならば、一度参加してみたいですね。この不思議な言葉、本当に魂を元気にしてくれそうな響きを感じます。

やはりまだ終わることができないので、次回に続きます。

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卒論草稿が戻ってきました。

2015-11-14 18:16:23 | 大学通信 卒論関係
昨日、大学通信教育の卒論「草稿」が戻って来ました。卒論提出「許可」か「不許可」が判定されているのですが、「許可」に○がついていました。

草稿提出の後、抜け殻のようになって、この頃は卒論の顔も見たくないと思い始めていたところでしたので、宅急便を開封するのも憂うつでした。根拠も十分示さず大胆なことを書いたような意識があったので、厳しいコメントが先生から返ってくるかと思いましたが、そうではありませんでした。
先生のご専門ともちょっと違うし(時代が同じというだけ)、放任されているのかもしれません。

また、奈良大通信教育の場合、希望者は指導教員の面接指導を受けることができるのですが(20分程度)、今回の先生のコメントの最後に、面接指導は必要ありません、と書いてありました(笑)。
先生もお忙しいでしょうし、私もまあ平日昼間に休暇を取って奈良まで行くことは、できないこともないですが、ちょっとあわただしいし、大体の卒論の構成・書き方等に破たんはないようですので、まあ受けなくてもいいか、と思っています。

「未調査の場所もあるようなので、最後の仕上げをしてください」とのコメントどおり、あと2ヵ所、見るべき遺跡があります。そんなわけで、分析を深めるかどうかはともかく、遺跡の調査だけは、やる予定です。今月末と来月に行きます。

卒論の本番の〆切は、1月7日~14日必着です。あと2ヵ月、卒論が手元に戻ってきたことで、卒論にエネルギーを割く日々がまた始まります。元気に再スタートして行きたいと思います。

10月あたまの草稿提出後の卒論以外の動きですが、
「歴史文学論」の科目修得試験を10月12日に東京で受験し、一応合格しました。ただ70点と低くて、分量はそこそこ書いたのに、内容に間違いがあったり、求められている解答とずれていたりしたのか、よくわかりません。「○○について論述せよ。」的な設題が多く、どのような解答だとよかったのか・・・
10月24日には、奈良大学で「西洋史特殊講義」を受験し、まあまあ及第点をいただきたいと思っているところです。結果待ちです。試験を受けるついでに正倉院展の初日を見て来ました。

科目修得試験は打ち止めのつもりです。まさか、西洋史特殊講義が不合格だったら・・・想定したくないですが、どうしようかな、卒論が合格ならば、来年度は授業料を支払う必要がなく、科目履修生のようになるらしいので、受けられなかったスクーリングを来年度に受けようかな。いや、もう1回試験を受ければいいのか・・・卒業予定者の受験のリミットは1月末です。

あとはスクーリングを2回受ける予定です。もし受けられなかったら、卒業見送りです。

以上のような感じで、8、9月は試験を受けずに卒論に没頭する時間を確保し、草稿提出後の10月に2科目試験を受けて、また草稿返却の今、卒論に没頭する期間としました。まあまあスケジューリングとしてはよいのではないかな、と思います。卒論書きながら試験を受けたりレポートを書いたりすると、私の場合身が持たないですから。

明日は、よみうり大手町ホールにて、考古学関係の講演会に行って来ます。
寒くなってきましたが、暑いよりは体も楽で、思索を深めるのによい、充実した秋、という感じがします。
石上神宮の話も続きを書きたいのですが、記事の整理の都合上、大学通信教育の話題だけでまとめた方がよさそうなので、これだけにし、またすぐ石上神宮についての記事を書こうと思っています。


写真は、9月13日に卒論執筆の一環で訪れた南相馬市博物館に隣接する広大な公園の、1枚目は「栗」。
私が歩いていたら、目の前に、ボトッ、コロコロ。と、何かが落ちてきた、何だ?と見ると、この栗だったのです。自然が豊かでいい所だなあ、と、その静けさにひたりながら、この栗は、持ち帰って来ました。後で、これも放射能に汚染されているのだろうか?と思ったりもしましたが、今も手元にあります。


その公園の写真もう1枚です。
博物館に入る前に、公園の休憩スポットで軽く昼食めいたものを食べていたら、女性の二人連れの方もやってきて、同じ場所で食事をとっていました。震災で放射線量がいまだに高いのかもしれませんが、こうした自然を楽しむ人達も、ちらほら見受けられました。

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ニワトリが闊歩する神社・・・石上神宮訪問記 その2

2015-11-08 15:54:22 | 旅行
石上神宮の紹介が、もたもたしてやっと本題に入るという感じです。天理の記事で思わぬ反応がありましたが、信者でない我々も、観光地の一つとして訪れてみるといろいろ有意義ではないかと思いました。都道府県ごと?の信者の宿泊施設を、信者でない一般人も宿泊できるようにしていただけないのかな?奈良県は意外なことにホテル(宿泊施設)が日本で一番少ない県だとか。今後も奈良には毎年のように旅をしたいと思っていますので、よい宿が増えるのを願っています。

さて、石上神宮ですが、拝殿が国宝になっています。ホームページの説明によると、石上神宮への崇敬が厚かった白河天皇が、鎮魂祭(ちんこんさい)のために、永保元年(1081)に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えられているとのこと。建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられるそうです。いずれにしても拝殿としては現存する最古のものだとのことです。そうですか、伊勢神宮や出雲大社などの神社は式年遷宮などでよく建て替えられていますから、建て替えられないできたのは珍しいですね。


私が昔から神社に興味がなかったのは、寺院とは逆に、その建物が古くなく、仏像などの芸術品もないためです。古いものほど価値がある、と考えていたのです。
最近では逆に神社に興味がわいてきているのですが、伊勢神宮などの式年遷宮の場合は、20年ごとに行うことによって次の世代に技術を伝承していくのだという理屈にも感心しましたし、神社の場合は建物そのものよりもその立地に大きな意味があるように思うようになったためです。また、すべての神社が天皇陛下万歳というような皇国史観などに染まった神社ではなく、天皇家以前の、弥生時代・古墳時代から続いている信仰の跡も確認できる場合もあるためです。

石上神宮のある地域は、天理市の広い範囲にわたる布留遺跡に含まれています。布留遺跡は、縄文・弥生・古墳時代にかけて繁栄した遺跡です。この遺跡で初めて発見された土器に命名された「布留式土器」は、古墳時代の初期に使われ、全国で出土する土器の年代を判定する基準となっています。私が現在卒論のテーマとしている考古遺物も、この布留遺跡からも出土していますので、多少そんなことも意識しながら石上神宮を訪れたわけです。
後にも書きますが、私はこの「布留」という言葉を見聞きするだけで何かわくわくするような、不思議な気持にとらわれます。
要するに、石上神宮の信仰は、相当古い時代からのものであると考えられ、私にとっては一度は訪れてみたい神社だったのです。

また現実の石上神宮の話に戻りますと、神社よりまだ下の方にある駐車場で、もう第一村人・・・いやニワトリ発見!石上神宮境内にはニワトリが自由に闊歩しています。奈良公園・春日大社はシカ、ここではニワトリです。なんだかのどかでいいですね。
東天紅、烏骨鶏、レグホン・ミノルカなどがいるとホームページには書いてあります。

これが烏骨鶏かな



これが東天紅かな?

どちらも天然記念物とホームページに書いてありますが・・・

拝殿のある境内に足を踏み入れると、平日の午前中でもあったためか、ほとんど人の気配がありませんでした。「神宮」と名のつく延喜式内社ではありますが、境内はこじんまりとして小規模といえます。


楼門は雰囲気があってかっこいいです。これは後醍醐天皇の1318年に建立されたとのこと。

様々な出土物のあった禁足地も気になりましたが・・・様子はわかりませんでした。





静かな山の中腹にある神社です。このような場所に、白河天皇も行幸したのですね。1092年とのことなので、上皇になってからのことですね。とてもひっそりとした雰囲気の場所なのですが・・・あまり観光地化していなくて逆にとてもよいです。あまり交通便利にしない方がいいのでしょうか。

お守りなどを売っている場所に行くと、観光客のお二人連れが、若い神職さんとお話ししながら、ニワトリを抱っこしていました。おとなしく、逃げようともしません。私も一緒にニワトリさんを抱えさせてもらいました。とてもやわらかく、暖かい感触でした。


ニワトリの寿命を尋ねたのですが、10年くらいとのことだったかな・・・?早く書かないとどんどん忘れて行ってしまいますね。この抱かせてもらったニワトリさんは、かなり老齢で、もう長くはないだろうとのことでした。そうなのか・・・ちょっとしんみりしました。
せっかく神職さんと言葉を交わせたのだから、もうちょっとこの神社について突っ込んでお聞きすればよかったかなと思うのですが、暑くて疲れて頭が回らなかったです。

ここでは、あの七支刀をデザインした御神劔守(ごしんけんまもり)が「起死回生」のご利益があるとの説明書きが目にとまり、買うことにしました。普通とちょっと違った形をしていて面白いし、「起死回生」をうたっているものは珍しいし、私も猛暑で倒れたりしないようにとちょっと切実だったので・・・「起死回生」の由来は、神武天皇のピンチ脱出の話からきているようです。

すでに長くなってしまったので、続きは次回にしようかなと思います。
昨日もイベントのため出動で、8時間ほとんど立っていたので久しぶりの疲労感でした。
早めに回復を図り、また続きを書きます。

七支刀はなぜ教科書の扱いが小さいのか・・・石上神宮訪問記 その1

2015-11-04 23:45:20 | 古墳時代
おとといの記事をアップしてから、アクセスが異常に増えて、驚いています。私、何かまずいことを書いたでしょうか?熱心な宗教関係の方々なのかなと思いますが、ご意見ご感想ももしよければお願いします。キリスト教には内村鑑三の無教会主義というのがあって、教会に行かなくても信仰は持てる、という考え方なのですが、私も天理教の教えには少し関心はあり、教会に行かなくても、どんな本を読むといいのでしょうかね。
それにしても、アクセスが多すぎて気持ち悪いです。私も、このブログをやめた方がいいかなと即断した時には、パッとブログを消滅させますのであしからず。

さて、同じく天理市内にある石上神宮訪問記です。今のPCで、「いそのかみ」とタイプして「石上」と出てこないのがくやしいですね。私は、アマテラスや伊勢神宮の祭祀が定まる以前からいた神様に関心が深いので、この石上神宮についても桜井市の大神神社や出雲の出雲大社などと並んでとても重要な神社として興味を持っていました。

石上神宮がどのような神社であるかは簡単には書き尽くせません。いつか、もう少しここを書き足しておきたいと思いますが、今日は、8月に見てきた印象などを中心に書きたいと思います。

とりあえず、石上神宮の由緒について、ホームページなどを参考にまとめますと、石上神宮は、「日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち」と記載されていて、物部氏と関わりの深い神社であるということがいえます。

『延喜式神名帳』にも載っている式内社です。『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけだそうで、創建が古い神社であることがうかがえます。

祭神についてですが、「韴霊(ふつのみたま)」という神剣(布都御魂剣と書かれたりします)があり、そこに宿っている神様を布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)といいます。
一応ホームページから「布都御魂大神」の解説をそのまま引用させていただきますと、
「韴霊(ふつのみたま)とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣です。
またその後では、神武天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。
神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。」

祭神は他にもいらっしゃって、
「布留御魂大神」(ふるのみたまのおおかみ)については、またホームページを引用させていただきますと、
「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。
天璽十種瑞宝とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟というお力が秘められておりました。
後に饒速日命の御子 宇摩志麻治命がこの神宝を用いられ、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈られました。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになります。その後宮中で韴霊(ふつのみたま)と共にお祀りされていましたが、崇神天皇7年に韴霊と共に現地、石上布留高庭に遷されました。」

「布都斯魂大神」(ふつしみたまのおおかみ)は、これもホームページによると、記紀神話に見える、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するのに用いた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿る神様とのことです。

「当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。」(HPより)

これを読むだけではわかりにくいですが、明治時代に、神宝が埋められているという言い伝えのとおりに、禁足地を掘ってみたら、本当に出てきたというのです。

石上神宮には、有名な国宝の「七支刀」があります。これについても語れば長いし、急いでいて引用元が正確に示せないので、概略だけにします。
一応このブログは「日本史学習の拾遺」ですので日本史学習とからめて書きますと、手元の『日本史B用語集』(山川出版社)には、「369年百済王が倭王のためにつくったといわれる61字の銘文は最古の金石文。」とあります。「最古」とあるけれども山川の教科書『詳説日本史B』では、本文にはこの七支刀は登場せず、巻頭のカラーの口絵に出てくるだけです。

教科書的には、5世紀頃に漢字使用が始まった例として、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣や江田船山古墳の鉄刀に「ワカタケル大王」の文字が見えるという話題が出てきて、試験にもよく出ます。しかし、石上神宮の七支刀は、教科書にも説明が出て来ないので、授業で私も触れて来ませんでした。時代が4世紀と古いのと、日本でつくられたのではなく百済でつくられたという点で稲荷山の鉄剣などとは性格が異なりますから教科書の流れの中では仕方ないのかもしれませんが。

しかし、高校日本史的には「謎の4世紀」といわれることの多い時代の、希少な文化財であるこの七支刀が教科書などで扱いが小さいのは、以前から納得が行っていませんでした。そこに記されている銘文は今回は引用しませんが、そこに書いてあることを認めていないのだろうかと勘繰ったり、物部系の神社の神宝だからとりあげないのか(?)と思ったりしてきました。ふと思ったのは、『日本書紀』に「七枝刀」を百済の使者が持ってきたという記事があるのですが、それは神功皇后の時代(神功52年)で、神功皇后の時代の事蹟については、韓国等との関係もあるし、事実かどうかも難しいので、教科書では書きにくいのかなと思いました。
このあたりの時代は歯にものがはさまったような記述が見受けられます。加耶諸国と「密接な関係」『詳説日本史B 』(p.26)というのも・・・

ちなみに、七支刀の記述のある『日本書紀』神功52年は、いろいろ調整すると372年に該当すると一般に解釈されており、そうであれば、369年に百済王の太子が製作させた七支刀が3年後に百済の使節によって日本にもたらされたということになります。

こういう話は、教科書にはありません。高句麗好太王碑文は391年の出来事を記しているということは教科書に出てきますけれども。
まだ教科書に書けるほど、外交関係などが学術的にも定まっていないということなのでしょうか。

受験勉強の知識の中では取り上げにくいけれども、授業ではもっと取り上げるようにしましょうかね。私も今の学校では日本史Aしかなく、古代の授業はやっていないので、その時が来たら・・・ですね

また長くなってしまいました。8月10日当日のレポートに戻らなければ・・・そういうわけで、前回の続きですが、天理教の本部を後にして、さらに東の山の方へ向かって自転車を走らせていきました。途中、どこから曲がったらいいのか、表示がわかりにくくてちょっとだけ迷いました。ここに来る観光客って少ないのかなあ?と思うくらいのわかりにくさでした。

猛暑の平日だったせいもあるのか、観光客はまばらで、いたとしても私のように自転車で来るのではなくて、自動車の人がちょっといたくらい。かなり急な坂道を登ります。とても静かで、のどかで、観光地として俗化していない所はいいなあと思いました。

今日はもうすでに長くなってしまったので、石上神宮の入口到達の写真までにとどめておきましょう。


古社の趣が感じられる石柱。


「布都御魂大神」の文字が見える鳥居。

ニワトリさんはまだです。また次回。

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驚き・不思議の宗教都市・天理

2015-11-01 20:28:54 | 旅行
日が経ってしまいましたが、8月の5~10日まで5泊6日で奈良のウィークリーマンションに滞在していた時のことを書きましょう。大学通信教育のスクーリングはいつも前泊などもせず観光する暇がないので、今夏こそは、いや、今夏しかできないのではないか(こんなにゆとりのある夏休みは今年だけではないか)と考え、ウィークリーマンションを使っての長期滞在を決行しました。

その滞在中に見た、
京都の伏見稲荷大社・三十三間堂
秋篠寺・薬師寺
なら燈花会
の記事は以前にアップしました。

今回は、最終日、8月10日に訪れた石上神宮について書きます。
何しろこの旅の期間は近畿地方も東京も猛暑の絶頂期で、近畿地方の寺社観光には適しない時期だと実感しました。暑さで消耗してあまり動き回ることができません。

今までスクーリングが終わればその日のうちに東京に帰っていましたが、今回は贅沢にもう一泊、後泊したわけです。しかし、暑すぎてあちこち動き回る元気はありませんので、観光も一点に絞って、余力を残して東京に帰ることにしました。
当初は、天理大学附属の天理参考館という大きな博物館も見るつもりでしたが、やめて、石上神宮だけにしました。

8月10日もうんざりするほど暑くてよいお天気でした。JR奈良駅からJR線を乗り継いでJR天理駅へ。ホームにあるコインロッカーに荷物を預け、駅の裏手にあるレンタサイクルのお店へ。とても和やかなご夫婦が営んでいるお店でした。私の他に、リクルートスーツを着た女性(学生さん?)も自転車を借りるところでした。その格好で自転車に乗ってどこへ??
私が石上神宮に行くとお店のお母さんに言ったら、今日はなんだか多いねえ、とのこと。

旅先で、レンタサイクルで街を走るのはわくわくします。そんな気持ちでいざ天理の街を走り出しました。

今回の奈良のウィークリーマンションには、オプションで自転車がついていて、無料で使用することができました。暑くて自転車を乗り回す元気もありませんでしたが、一度、なら燈花会を見に、夜、奈良の街を走りました。自転車に乗っていたので地元民と思われたのか、観光客に東大寺はどっちの方ですか?と道を聞かれたりもしました(笑)。

やはり、真夏ではなくて、春や秋など気候がいい時に自転車で走るならよさそうです。
そういえば、私が自転車で奈良県を走るのは通算3回。一度は桜井で借りて山の辺の道を走り、2回目が奈良市内、3回目が天理です。7月に宿泊した大和郡山のホテルでは、無料で使用できるレンタサイクルがあって使いたかったのですが、やはり昼間の学外学習(考古学特殊講義)で疲れ果てて、朝も夕も自転車に乗る元気はなく、残念でした。

さて、天理の街のサイクリングに話を戻します。
石上神宮への道は、まっすぐ伸びる商店街を行きます。この商店街がすごい。とてもゆったりとした空間のアーケードが、延々と続きます。天理市はいうまでもなく天理教の本部のある宗教都市です。

日本史の教科書にも、幕末に生まれた教派神道の一つとして、金光教や黒住教とともに天理教は記述されています。教祖は中山みき。「陽気ぐらし」が大切な教義だそうで、私は天理教をくわしく知りませんが、この「陽気ぐらし」というのは、なかなかすてきなことではないかなという印象を持っています。授業でこうしたことに触れたところ、うちは天理教だよと教えてくれた生徒がいました。東京にも少ないですが信者の方がいらっしゃいますね。


信者が雨に濡れないでお参りできるようにということなのでしょうか、アーケードは非常に長いです。天理教の関係の神具を売っているお店も多いし、高校野球では強豪でおなじみの天理高校のユニフォームは紫色であることを私も知っていますが、この商店街も紫色で彩られています。「ようこそ おかえり」の文字が目につきます。

天理教ホームページによると、

「天理教信仰の中心である『ぢば』の一帯は、もとは大和の国の庄屋敷村(しょやしきむら)(現在の天理市三島町)という小さな村でしたが、やがて多くの人々が寄り来るようになり、『親里(おやさと)』と呼び親しまれるようになりました。親里・天理は、子供である人間の“里帰り”をお待ちくださる“親なる神様”がいます、人類のふるさとなのです。」

こういうことから、「ようこそ おかえり」になるのでしょうか。私は天理教信者ではありませんが、そういう言葉を目にして、なんとなくあたたかい気持ちになりましたし、この商店街も、夏休みの平日で、人通りも少なめでしたが、「陽気ぐらし」をしている人々が営むお店が並んでいるのかなと思うと、いい所なんだろうなと思いました。そもそも暑い・熱い夏の太陽を遮ってくれているだけでもありがたいのですが、このアーケードの空間は、穏やかですがすがしい空気が流れているように感じられました。


アーケードの出口には大きく「陽気は幸せの種」という横断幕。実際、陽気ぐらしを実践できたら、幸せだろうと思います。「陽気」って、いい言葉ですね。

さて、石上神宮に行く途中にあるものですから、この天理教の本部にも立ち寄ってみることにしました。


自転車をとめて、広大な敷地に建つ大きな神殿に向かって、砂利を踏みしめながら歩いて行きました。和やかな友人連れのおばさまたちなどが三々五々神殿に向かっていました。一応、事前にネットで天理についての情報を見て、信者でなくても中に入ってお参りしていいらしいということを知っていたので、上がらせてもらいました。高校生くらいの少年が、神殿の前で案内係なのか、立っていて、靴を脱いで上がる時にあいさつされ、私もあいさつを返しました。陽気ぐらしなので、信者のみなさんは、朗らかなのだろうと思いながら。

畳敷きの広間のような所があって、さらに奥の方にも人が集っている場所がありました。ネットで見たある人の話では、信者でなくてもお祈りしている横で座っていても何も言われないというので、私もちょっと畳に座って、周囲を観察しました。家族がおじいさんから子どもまで、連れ立って訪れ、座って、不思議な手の動き=手の平をひらひらくるくるさせる、をしながら、何かを唱えています。
怪しいというよりは、のどかな感じがしました。
その広間の窓際などに、お兄さんが立っていて、御用係なのかよくわかりませんが、監視しているわけでは決してないでしょうが、お祈りするわけでもないのに何となく長居するのも悪いかなと思って、少しだけで退出しました。

靴を履こうとすると、先ほども書いた、神殿の前で立っていた少年が、近寄って来て、「靴べらどうぞ。」と言うのでした。そのために立っていたんですね。なんか、遠目に見て、短い棒をひらひら振っていると思ったのは靴べらでした。私は靴べらはいらないので、いや、大丈夫です、ありがとうございます。と断ったのですが、なんだか天理教の方々は親切なんですね、と思ったことでした。
その後、神殿からのびる参道のような所をちょっと行ってみようかと思って歩いていたら、すれ違った若い大学生くらいの女性が「こんにちは。」と明るくあいさつしてきました。私ももちろん返しましたが、道端を歩いているだけの人にもあいさつするのか・・・天理教の方は・・・となにやら感心しました。あいさつの感じは、怪しいどころか、明るく、自然で、感じのよいものでした。


その神殿の参道の、普通の神社だったら鳥居にあたるような門、のつくりがこの写真です。ものすごく巨大で、おそらく祝日などには巨大な日の丸が掲げられるのだろうかというような大きな黒白のポールが印象的で圧倒されました。

この鳥居だけでなく、天理教関係の建物が周囲に至る所にあるのですが、とても独特な外観をもつ建物群です。各都道府県等から来る信者の宿泊所が多いようでした。


天理大学もやはり同じようなデザインで威容を誇っていました。

神殿は、365日・24時間お参りが可能だそうで、信者にとってはとてもよいですね。
江戸時代においては新興宗教であったわけですが、すでに180年ほど経過しても残っている宗教ですから、立派なものですね。市の名前に宗教団体名が使われているのは日本でここだけのようです。
「おぢばがえり」とか「ひのきしん」といった独特の言葉もホームページなどで目にとまりました。一応記録しておきます。

人にとって、信仰は大切なものであり、他の人に危害を加えたりするようなものでなければ、それぞれ自由な信仰があっていいと思います。
どんな宗教でも、人が集まる組織というのは、いろいろな問題を抱えているのでしょうが・・・

以上、紫に染まる、不思議な宗教都市・天理について、通りすがりの印象として書きました。

・・・というわけで、すでに長くなってしまって石上神宮にたどりつかなかったので、次回にします。

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