日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

卑弥呼の実像に思いをはせて

2020-05-09 21:03:50 | 弥生時代
緊急事態宣言が延びてしまいました。6月1日には、次こそは・・・気を抜かないで過ごしましょう。

さて、3年生の日本史Bの教科書(自習)の補足を続けます。
p.21~邪馬台国と卑弥呼についてです。

これは書き尽くせないほどいろいろな論点があります。
実際に授業が始まったらそこで話もしますが、この場では、受験では直接関係ないかもしれない、まだ謎のままで答えがはっきり出せない、皆さんにも考えていただきたいテーマとして、挙げておきたいと思います。

例えばですが。
① 邪馬台国はどこにあったのか。近畿説九州説があります。
② 卑弥呼が魏に遣いを送った239年のことが『日本書紀』『古事記』では記述されていない。
③ 卑弥呼が魏からもらった銅鏡100枚は、三角縁神獣鏡なのか?
④ 卑弥呼の墓はどれなのか?箸墓古墳か、黒塚古墳か、または?
⑤ 纏向遺跡は邪馬台国と関係があるのか?
⑥ 卑弥呼は天皇家の祖先なのか。
⑦ 卑弥呼の死と日食
⑧ 卑弥呼とアマテラスオオミカミ

これらについて、すべて最近の研究成果や私自身の考えなどを網羅してあるわけではないのですが、一応、既存の記事で卑弥呼に関係あるもののリンクを挙げておきます。
丸数字の番号は、上の論点の番号と対応するものという意味合いで入れました。

唐古・鍵遺跡 絵画土器の楼閣はお神輿の原点?(学外授業から) →①

60年ぶり大遷宮 出雲大社 高層神殿の証拠 →③

卑弥呼さんはここにいたのか?―纏向遺跡(学外授業から) →①④⑤

卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から) →①④⑤

トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から) →①④⑤


纏向出現―邪馬台国東遷説を考える― 纏向学研究センター東京フォーラム その1
→①⑤

邪馬台国東遷はあったのか? 纏向学研究センター東京フォーラム その2 →①⑤

邪馬台国はキビの影響のもとに・・・?纏向出現―邪馬台国東遷説を考える その3
→①⑤

「三角縁神獣鏡は国産」と初めて表明した大塚初重氏の講演!(埼玉県 ほるたま考古学セミナーにて その1) →③

鏡作部の神を祀った神社・・・石見鏡作神社(奈良県・三宅町) →①③⑧

倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)
→①②③④⑤

お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC →①④⑤

卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記 →①③④⑧

平成から令和へうつりゆく今思う 天皇の祖先神・アマテラスオオミカミは・・・
→⑥⑦⑧

結構あるんですよ。卑弥呼や邪馬台国に関する記事は。

私自身は、邪馬台国が九州でも近畿(大和=奈良)でもそんなに興味がなかったのですが、考古学的な研究成果が少しずつでも進展してくる中で、私もどんどん興味を持つようになり、教員になったばかりの頃は九州説の肩を持っていましたが、今では大和=奈良かなあ、と思うようになりました。ヤマタイ=ヤマトと音が似ていますしね。
その他、私の考えについては、それぞれの記事を読んでいただければと思います。

一つ新しく書きますと、「天照皇太神」という掛軸をかけているおうちが結構あるのだな、と大人になってから気が付きました。アマテラスオオミカミのことですが、どうして男尊女卑であった日本において、天皇の祖先神は女性で、こうやってその女性の神様が一番偉い神様のように扱われているのかな?と素朴な疑問を持っていました。今の皇室典範では男性しか天皇になれないというのに、祖先神は女性だったというのは?じゃあ女性が天皇でもいいんじゃないの?と思いませんか?男性の方が偉いと思ったら実は女性の方が偉い・強いのか?
職場で話をしていたら、結構年配の先生でも、アマテラスオオミカミは女性だということを知らない先生がいらっしゃいました。偉い神様は男だ、という思い込みがあったりして?
天皇の祖先神は女性であるということの不思議。その女性とは・・・

教科書には、卑弥呼は247年かその直後に亡くなった、と妙に具体的な年号が入っています。しかも、今気が付いたのですが、「死んだ」ではなくて「亡くなった」と妙に丁寧な言い方をしています。他の箇所でも「亡くなった」などという言い方をしている箇所があるのかどうか。にわかに気が付いたことなので、今後確認してみます。
247年には、皆既日食があったことがわかっています。アマテラスの天岩戸隠れは、皆既日食がモチーフになっているといわれます。卑弥呼は皆既日食の年に死んだ、いや亡くなった。日食と関わりがあるということではアマテラスと卑弥呼は共通点があります。アマテラスは太陽神といわれています。アマテラスを祀っている伊勢神宮のご神体は鏡です。卑弥呼が魏からもらったものは鏡です・・・

きりがないので、このくらいにしておきます。
箸墓古墳の中を調べるわけにもいかないので、本当のこと、真実のことは永久にわからないのかもしれません。しかし、自分で空想したり?推理したりするのは自由です。
皆さんも、自由に考えてみてください。



写真は、過去の記事にも使用したもの。唐古・鍵遺跡にある楼閣です。『魏志』倭人伝には楼閣があったという記述があり、この遺跡から楼閣が描かれた土器が出土したことから、邪馬台国の候補地といわれています。ここも興味深い遺跡ですが、最近の研究で、纏向遺跡の方が、邪馬台国の候補として有力になりつつあります。

金印から、東大寺大仏さまリモート参拝まで・・・話題が散らかってますが・・・

2020-05-02 11:48:03 | 弥生時代
緊急事態宣言が延長される見込みとなり、学校で普通に授業ができる日がいつ来るのかも不透明な状況です。とりあえずゴールデンウィーク=ステイホーム週間もここで教科書の補足を続けます。

詳説日本史Bの教科書p.19~<小国の分立>では、日本(倭国)の様子がわかる中国の史書の記述が出てきます。p.21にある『漢書』地理志、『後漢書』東夷伝です。『漢書』地理志は、紀元前後の日本の様子がわかる史料。『後漢書』東夷伝は、まず57年に倭の奴国王が光武帝から金印を授けられるという記事、続いて107年に「生口」つまり奴隷を倭国の王が中国に献じた、という記事があります。

これらの史料は、暗記するくらい、何度も音読しましょう。重要な史料です。
『後漢書』東夷伝に出てくる金印は、現在福岡市博物館にあり、私も一度、東京に来た時に見ました。本当によく残っていたなあと感心します。ここに記されている「漢委奴国王」をなんと読むか、諸説あるようですが、教科書では、「かんのわのなのこくおう」と読むことになっています。
本当に57年に贈られた当時の金印なのか?というニセモノ説もありますが、金の含有量などを調べると、当時の他の金印と同じであるなど、本物であるという説の方が有力であると私も理解しています。
金印については、過去に書いた記事があります。金印の他にも国宝展で見てきた多数の展示物について書いてあります。それを最後まで全部読んでみてください。

金印 東京にお目見え―日本国宝展

博物館も図書館もやっていないというのは、つらい状況ですね。お天気がよいのは気持ちよいです。
明けない夜はない、と信じて、今、自分のやれることをやっていきましょう。普段やれないことにも取り組めます。
私は、毎日やることのルーティン化ができてきました。運動ももちろんです。体重が増えてしまいますし。もうちょっと読書ができるといいのですが。
高校時代は、ほとんど読書はしませんでした。現代文の問題を解く中でいい文章には触れていたと思いますが。天文雑誌と音楽雑誌は結構読んでいたなあとふと思い出しました。
もしかしたら、企業活動がかなり休眠状態ですので、夜は星がよく見えるかもしれませんね。

そういえば、こんなものがあるのを知りました。
公式
【リモート参拝】通常参拝停止中の東大寺から国宝・盧舎那仏像(奈良の大仏)生中継【479時間〜】
東大寺の大仏様を24時間インターネット生中継するというもの。ニコニコ動画でやってくれています。「リモート参拝」ですね!
こちらです。

東大寺のホームページからも行けます。
私もあまり見ていませんが、時々お寺の方?が通るのを見かけました。
毎日正午に、コロナウィルス終息と罹患された方々の早期回復、亡くなられた方の追悼のために読経されているようです。そろそろ正午です。見てみましょうか!?ともに、心を合わせて祈るひとときとしましょうか。
※追記:結構音を大きくすると聞こえます。12:12現在、お経が聞こえますね。

以下、東大寺HPより

東大寺では毎日お昼12時から大仏殿壇上に於て、新型コロナウイルスの早期終息と罹患された方々の早期快復、並びに感染により亡くなられた方々の追福菩提を祈る勤行を4月1日から開始致しました。僧侶が交代で『華厳経』偈文と『如心偈』を唱えます。皆様におかれましても、感染予防には重々ご留意いただくとともに、その時間に気持ちを合せて共にお祈りいただければ幸いです。 華厳宗管長・第223世東大寺別当 狹川普文

他にもリモート参拝いろいろありそうです。
不自由さの中でもさまざまな方法で楽しみましょう。



一度載せた写真ですが、再掲します。大仏殿の窓が開け放たれて、大仏さまのお顔が見えます。通常は、お盆やなら瑠璃絵の期間中だけですが、今般、参拝が不自由なので、最近も見られるようになっていたようです。

ヒトデ?コタツ?

2020-04-29 16:17:54 | 弥生時代
緊急事態宣言のもと、ゴールデンウィークに入りました。いろいろと状況は動いていきますが、自分の手元でできることを一日一日、着実にやりましょうか。

さて、日本史Bの授業ができないので補足を続けます。教科書p.17<弥生人の生活>からいきます。これも図説をよく参照して、農具の種類やお墓、青銅器の種類などを見ておいてほしいと思います。

その中で、教科書が改訂されて新しく付け加えられた事項のうち、私も以前から興味を持っていたものがここにありますので触れておきますと、p.18「四隅突出型墳丘墓」というものが太字扱いになりました。これは、鳥取や島根など山陰地方を中心にみられるお墓の形で、上部は四角くて、その四隅から足のように傾斜が延びているつくりで、ヒトデとかコタツ型といわれたりしています。古墳時代に入る前に作られた、お墓です。まだ古墳とは言いません。
私も見に行きたいと思いながらまだ行っていません。

島根県に西谷墳墓群という、大型の四隅突出型墳丘墓が密集している所があります。そこに、出雲弥生の森博物館があります。ホームページから、四隅突出型墳丘墓に関するページはこちら
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/html/common/5ea6a661017.html
この博物館には、「よすみちゃん」というマスコットキャラクターもいるようです。
出雲市内にあります。いつか、行ってみたいと思います。

鳥取県にもきれいな四隅突出型墳丘墓があります。
興味があるのが、妻木晩田(むきばんだ)遺跡です。弓ヶ浜という美しい海岸を見下ろす絶景の場所に、四隅突出型墳丘墓がいくつも見つかっています。
鳥取県立むきばんだ史跡公園HPより↓
https://www.pref.tottori.lg.jp/44362.htm

ここも行きたいですね。
弥生時代、出雲に王国があって、その王の墓がこの四隅突出型墳丘墓ではないかと、出雲に強大な力を持つ王がいた証拠であろうと考えられるわけです。

また、岡山県に楯築墳丘墓という、円形の墳丘の両側に突出部がある墳墓も教科書では太字になりました。これが前方後円墳の形につながっていくその原型ではないかと考えられています。これも、岡山つまり吉備の地に造られたという点で興味深いです。
吉備については、またの機会に、または過去の私の記事をごらんいただければと思います。

こうしたお墓について、教科書の記述が強調されるようになったということは、最近の考古学の成果が少し反映されてきているということです。私も、出雲についてとても興味を持っていて、出雲に王がいた、それは、奈良・大和に王権が確立する前に。そして出雲から大和に移ってきた人・モノが・・・といったことに興味があります。記紀、そして風土記も含めて、そこにみられる神話に書かれている内容も、全くの作り話ばかりではなく、何かの事実も反映されているのではないかとも考えられます。国譲り神話をはじめとして、出雲は興味深い地域です。こうした考古学の成果も裏付けになっていくと思います。
このあたりを書くときりがないので、簡単に触れるだけにしておきます。

以前も書きましたが、教科書には出雲の「い」の字もないのが残念です。以前は出雲大社が載っていたのですが。こちらのブログでその鬱憤晴らしという感じで出雲について語りましょう。

ここでも少し触れた、出雲と大和の関わりについて、1冊紹介します。
村井康彦『出雲と大和-古代国家の原像をたずねて』(岩波新書2013)
私が興味を持っている世界のことが網羅されています。なかなか、生きている間にすべてが解明されるとは思えませんが、自分なりに考えを組み立てて、こうなんじゃないか、と空想?できるのも楽しいのではないでしょうか。

このように書いていて、ふと、ある本のことを思い出しました。

高山貴久子『姫神の来歴』(新潮社2013)という本です。

以下、安易ですがAmazonの説明文より。

須佐之男命の妻ながら、わずかな記述しかない櫛名田姫(くしなだひめ)。天照大御神の妹神とされる丹生都姫(にうつひめ)は、なぜか、『記紀』にその名が記されていない。不可解な事実に着目した著者は、二人の姫神の来歴を辿り始める。博多から始まる探究の旅は、奥出雲に飛び、吉野、高千穂…。取材十年。圧倒的な説得力で解き明かされる古代王権の真実、逆転する「天つ神」と「国つ神」、須佐之男命の正体。「天孫降臨神話」の真相とは?略奪された姫神とは?そして卑弥呼とは。独自の仮説で日本古代史を根本から塗り替える劇的な一冊。

この高山(こうやま)さんについては、次のようなプロフィールがあります。

作家。1962(昭和37)年、熊本県に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。出版社勤務の後、2001 年、絵本『ワハムとメセト~ふたごの国の物語』を、2002 年に
絵本『ばらの谷』、詩集『時の祀り』を、かんげき屋より上梓する。
2011 年、「ばらの谷」が小学校の国語の教科書(東京書籍「新しい国語 六年・上」)に掲載される。本書に関する取材は2002 年から始まり、完成まで十年を要した。2013年3月急逝。

というわけで、「2013年3月急逝」とありますので、51歳で亡くなってしまったんです。写真を見ると、とても美しい方です。得てして、こういう方は早くに天に召されてしまう運命なのかな、などと悲しく思いながら、読んだ本です。10年も自分でフィールドワークをしてまとめたものだと。小説のような、紀行文のような、微妙な本だったと思います。興味をひかれました。その本を書くための努力・行動力がすばらしいです。
自分自身で、このように調べ、考えたことを、ロマンチックにでも、まとめて提示できたらすばらしいですね。

高山さんの著作は、小学校の教科書にも採用されているとのことで、この本を読んだときに興味を持ちながら、忘れてしまっていました。改めて、ここで思い出すことができましたので、本を探して、読んでみようかなと思います。皆さんももしこの『姫神の来歴』ご縁がありましたら読んでみてください。私は図書館で借りて読みました。『姫神の来歴』紹介ページ

※追記:文庫本にもなっているようです。新潮文庫


写真は・・・いまいちですが、出雲に関するものということで(笑)、
私の好きな出雲のお菓子、「若草」です。前にも載せましたっけ??
島根県のアンテナショップで時々買うのですが、今は残念ながらアンテナショップは休業してますね。
普通の日常が早く戻ることを願って、自分のやれることをやり、ステイホームを継続したいと思います。
弥生時代、あまり進みませんでしたが今日はこのへんで。

争いの時代へ・・・倭人登場

2020-04-21 13:49:04 | 弥生時代
新型コロナの緊急事態宣言から2週間です。授業があれば同じく2週間目です。自分を律して、勉強を続けましょう。と、自分にも言い聞かせつつ。しかし、考えてみれば、勉強さえしていればいいという境遇は、とても幸せなことだと思いますよ。健康管理に気をつけながら、勉強に打ち込みましょう。私も夕方、買い物がてら1時間近く散歩をしたりして、運動不足にならないようにしています。

さて、今日は、弥生時代に行きましょう。教科書は、p.15~

弥生時代の特徴は?

・・・というと、水稲耕作金属器の使用、の二つが挙げられます。
こうした新しい文化は、中国や朝鮮半島から伝えられました。

「九州北部や中国・近畿地方などで発見されている弥生人骨の中には、縄文人骨に比べて背が高く、顔は面長で起伏の少ないものがみられる。」(教科書p.16)

とあるように、朝鮮半島から渡来してきた人々は、背が高かったようで(そして面長で顔の凹凸が少ない)、その人々が日本に古くから住んでいた縄文人と混血して、「倭人」ができあがったと考えられます。

「初期の移住者は、世界各国どこでも同様であるが、そのほとんどが男性で、彼らのゆくさきの女性を容れて新しい社会を作るのである」と金関丈夫さんが述べています。(田中琢『倭人争乱』)

こうした倭人は、コメ作りの技術をたずさえて本州島を東進し、各地で縄文人と接触します。渡来人と、その系譜を持つ倭人は、ムラの周囲に濠をめぐらす習慣を持っていて、それを放棄することができませんでした。それは縄文人との遭遇が緊張関係をともなうものであったことを示しています。(以上『倭人争乱』を参考)

・・・ということで、弥生時代の社会には、環濠集落高地性集落という、戦いにおいて防御の機能を持った集落が出現します。縄文時代の人々は平和に暮らしていたようですが、弥生時代になって争いが恒常的に起こる時代に変化してきました。

環濠集落と高地性集落の代表例については、教科書p.20の囲み部分に解説がありますので必ず理解してください。環濠集落の代表は、なんといっても唐古・鍵遺跡(奈良)と吉野ヶ里遺跡(佐賀)です。どちらも卑弥呼の邪馬台国ではないかという説があります。

唐古・鍵遺跡は奈良大通信教育のスクーリングで訪れた記事がありますので参照してください。変わった名称ですが、田原本町に「唐古」と「鍵」という地名があるんです。私はこの田原本のあたりにとても興味を持っています。ちょうど奈良のど真ん中であり、田原本町のパンフレットのキャッチフレーズが「歴史のオーラが見えるまち」というのが好きです。交通の便があまりよくありませんが、レンタサイクルもあるようなので、いつかこのあたりをじっくり見て回りたいと考えています。

そして、高地性集落の代表は、紫雲出山(しうでやま)遺跡(香川)です。高地性集落は瀬戸内海沿岸に多いものです。そしてそこからノロシを上げたというのがなんだか目に浮かぶようで、戦闘の時代に入ったのだなあと感じます。

(唐古・鍵遺跡に関する過去記事)

唐古・鍵遺跡 絵画土器の楼閣はお神輿の原点?(学外授業から)

唐古・鍵遺跡その2 2000年に発見された大粒のヒスイ勾玉

リンク先にもありますが、唐古・鍵考古学ミュージアムも、よい展示で、立派な施設でした。また行きたいと思います。

ブログ内の弥生時代の記事としては、上に紹介した唐古・鍵遺跡の記事の他、三つほどあり、カテゴリから入っていただけばいいのですが、そのうち一つだけリンクを貼っておきます。卑弥呼の話はまた次回以降。

かんばこうじんだに!

島根県神庭荒神谷遺跡から大量に出土した銅剣について、現地を見学したときの記事です。
なぜ×印がついているのか?「×」は現代のペケの意味なのか?
解明したい謎は尽きません。若い人の柔軟な頭で探究してもらえたら、と思います。
銅鐸に描かれた絵も謎解きっぽいですね。



さて、写真は、弥生時代には関係ないのですが、吉野の桜に思いをはせて。吉野の桜が入ったリキュールです。何年か前に買ったものです。
今年の吉野はどんな状況なのでしょう?今年は、あのあたりの宿に宿泊して桜を観ている観光客はどのくらいだったのでしょうか?
桜は、人間の事情にかかわりなく、美しく咲いていたのでしょう。
私は、桜の季節に吉野に行ったことはなく、今年あたり狙い目?などと考えたりもしたこともあったのですが、今は、東京から奈良に出かけるなどということは、奈良にコロナウィルスを持ち込むようなことになりますから、いけませんね。しかし、観光産業の方々を応援したい、という気持ちはあります。
一日お客一組、など、感染に気を付けて宿泊してもらうとか。それにしても、たどりつくまでの旅程で、感染のリスクがあるという問題がありますかね。
自分自身がコロナに感染する、というのでなく、自分がコロナウィルスを持っていて、それを他の人に感染させるリスクがある、ということを自覚して行動しなければならないですね。
今はおうちで、過去の旅の楽しい思い出を振り返ったり、自粛が解消されて自由にどこにでも行けるようになった時にどこへ行こうかと考えたりして、楽しく、ポジティブな心持ちで過ごしたいですね。


トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)

2014-11-24 19:02:08 | 弥生時代
夏休みの大学スクーリングの学外授業の続きです。
箸墓古墳の南側を歩き、JR桜井線の線路を越すと、ホケノ山古墳があります。箸墓古墳の東側になります。私はこの古墳にも関心があって、こっちが卑弥呼の墓だったりしないのかなとちょっと思ったりもしていました。今でもその可能性がゼロとは言い切れないのではないかと思っています。

ホケノ山古墳は、箸墓古墳より少し古い3世紀中頃に造られた古墳です。
ご存じかと思いますが、前方後円墳の一番最初のものが箸墓古墳ではありません。最初の頃の前方後円墳として「一番大きいもの」だということです。ですから、箸墓古墳より古い前方後円墳はいくつかあります。そういうものの一つがこのホケノ山古墳です。

この古墳は、宮内庁が管理する陵墓には含まれていないため、内部の調査もされているようですが、誰の墓であるかは不明で、ただ、大神神社では「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」としているようです。『日本書紀』での表記は上記のとおりですが、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記されたりします。崇神天皇の皇女です。
名前に「豊(とよ)」の文字が含まれることから、トヨスキイリヒメ命を邪馬台国の卑弥呼の宗女、台与(トヨ・イヨ)に比定する説もあります。

全長80m、後円部径60m、前方部長20m、前方部幅23m、後円部高7.7m。
棺内外から多数の副葬品があり、画文帯神獣鏡1面、銅鏃38点以上、鉄鏃75点以上、素環頭大刀1口、鉄刀1口、鉄剣6口、その他鉄製品、土師器多数、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の破片
(以上学外授業のレジュメより)

これをレジュメから写している間に、この副葬品は、女性ぽくはないなと思いました。
レジュメには、また、
「箸墓古墳の被葬者を支えた有力者の墓」(画文帯神獣鏡の複葬から)
※画文帯神獣鏡は中国製で、製作は2世紀中葉から4世紀の間(樋口隆康氏)

とあります。箸墓古墳より古いのに、箸墓古墳の被葬者を支えた人の墓になるのか?と疑問にも思いますが、先に死んだんでしょうか?
地理的には、箸墓古墳の中心線の延長上にホケノ山古墳の中心があり、何らかの関係があるように見えます。

トヨの墓という説にも興味をひかれます。その場合、卑弥呼の墓として、ホケノ山古墳より古い墓がなければなりません。

いずれにせよ、女性の墓だという言い伝えの墓がこの地域には多いという印象です。



ホケノ山古墳の上に上がると、とても見晴らしがよく、箸墓古墳や三輪山その他が一望できるすばらしいロケーションらしいのですが、その日は雨で足場がよくないからということで上がれませんでした。というか、私は体力がぎりぎりで、上がると言われなくてほっとしたような次第です。涼しい季節に訪れて、ゆっくり見てみたいです。皇族の墓と宮内庁が認定していないおかげで、上にも上がれるのですね。
ホケノ山古墳は、あまり大きくはなく、ぼうぼうの草に覆われていて、木棺の模型でしょうか?それが露出して展示?されていました。



大体、こういったお棺は、北枕になっているとのことです。前方後円墳の向きがあっちこっちばらばらでも、それは結構統一されているらしいです。箸墓古墳もそうなんでしょうか。

中央のヤマト政権が採用したのが前方後円墳で、前方後円墳を作ることを許されなかった地域・勢力があって、そこでは前方後方墳を作るしかなかった、という説明を見ることがあります。その代表例として、出雲=島根県には、初期には前方後円墳がなく、前方後方墳がたくさん作られます。
前方後方墳が多い地域は、いわゆる「負け組」的扱いを受けているように感じられます。
しかし、今回の学外授業のレジュメその他を見ていて、ヤマト政権の中枢部にも前方後方墳があるじゃないか、と気が付きました。

あの纏向遺跡の特殊建物群の隣(南側)に、メクリ1号墳という前方後方墳があります。それも纏向遺跡の一部として去年国指定を受けています。
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/photodetail.asp
もし纏向遺跡が邪馬台国・ヤマト政権の宮殿跡だったとしたら、その中枢部に前方後方墳があるんですよ。こういう情報は、なかなかマスコミその他には出てきません。

他にも、箸墓古墳を含む「大和古墳群」の分布図を見ると、全部で40の古墳のうち、前方後方墳が6基ほどあります。
その名称は、矢ハギ塚古墳、星塚古墳、フサギ塚古墳、ノムギ古墳、波多子塚古墳、下池山古墳です。
近畿地方だからといって、前方後円墳一色ではない、ということを、確認しておきたいと思います。


箸墓古墳とホケノ山古墳の間を走るJR桜井線。単線ですね。

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