日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その1

2015-06-21 23:04:33 | 平安時代
平安時代の『延喜式』神名帳に載っている神社を延喜式内社といいます。『延喜式』の完成は927年であり、そこに名前があるということは、その頃から存在していた古い神社であることがわかります。

また、「一宮」とか「一之宮」といって、出雲国とか武蔵国という国ごとに一つずつ、最も社格の高い神社が選ばれています。それらはみんな「式内社」でもあるようです。これが決められたのは『延喜式』よりも後の時代のことですが、いつ頃、何のために決められたのかはっきりしないそうです。
一の宮の起源は、国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある、というのが通説のようです。国司が一番にお参りする神社が一の宮になります。

一の宮だとかということは一般には気にとめる人は多くはないかもしれません。
一応、代表例を挙げておくと、出雲(島根)は出雲大社、大和(奈良)は大神神社、常陸(茨城)は鹿島神宮、など、その地域の代表的な神社が一の宮になっています。

それでは、東京・武蔵国は?というと、簡便的にウィキペディアを見ると、小野神社(多摩市)と氷川神社(埼玉県)が一の宮ということになっています。
氷川神社は比較的有名ですが、小野神社をご存じでしたでしょうか?
意外と、知られていないと思います。
一の宮と聞けば、何となく、お正月に初詣に行く代表的な神社のように思われますが、東京の人は、初詣で有名な所といったら明治神宮や浅草寺ですよね?小野神社は、さて初詣には、東京23区内の人は目が向かないのではないでしょうか?

しかも、小野神社は多摩川をはさんで二つあって、どちらが先にあったのかもよくわかっていないようです。

私は、ある考古遺物に興味があり、それが出土した地点と、小野神社が近いことに興味があり、小野神社に行ってみました(2月の末のことです)。その記録を以下に簡単ですがまとめます。




京王線聖蹟桜ヶ丘駅を降りて、少し歩くと、「一ノ宮渡し」と書かれた石碑がありました。
このあたりの地名は「一ノ宮」というんですね。その地名の由来などが書かれた銘板がありました。


またその近くにもう一つ、説明板があり、そこには
「神奈川県水量標識の由来」
と書いてありました。


近くに、文字が書かれた石が埋め込まれていて、その石(水量標識)についての説明でした。
要するに、このあたりは、100年前は神奈川県所管の地で、多摩川の水位を測る目安になっていた石だということのようです。確かに「神奈川県庁」は読めます。



また、すぐそばにある大きなケヤキの木についての説明もあり、これは小野神社の御神木であり、昔はこのあたりに小野神社の一の鳥居があったとのことです。
結構大きくて雰囲気のある木でしたよ。

今日はこのくらいにして、続きはまた後日。

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承和の変は藤原氏による他氏排斥ではない?

2013-08-10 11:17:14 | 平安時代
暑中見舞い・・・ではなく、すでに立秋は過ぎて、残暑、となってしまいましたが、謹んで、残暑お見舞い申し上げます。しかし、東京は暑いですねえ。
こちらへのアップも滞っていて、申し訳ありません。

今週は、現在の勤務校の定時制高校で、世界史の補習をしていました。前の学校のように受験対応ではなくて、成績不振者のための補習です。何人来ることか・・・と案じていましたが、ちゃんと来ました!(来なかった生徒もいますが)しかも、毎日人が増えているという・・・
この夏休みのど真ん中、忘れずにちゃんと、予定通り来て、熱心に勉強している生徒達の姿を見て、感動しました!
どんな学校でも、自分の気持ち次第で、未来を明るく自分の手で変えていけると思います。教員は、そういうがんばりを後ろから後押しさせてもらいます。

さて、学校の先生達は、政府の政策として、教員免許の更新講習というのを、10年に1度は受けなければならないことになっています。政権交代などもあって、いつその制度がなくなるか、と期待していましたが?私の順番の年が来てしまいました。そのために、先週は、大学で5日間、朝から夕方までみっちり講習を受けて来ました。公立や私立、中学校や高校、地方の先生など、いろんな先生が一堂に会して、討論もしたりして、勉強にはなりました。
今どきのキャンパスも探検できました。立派な施設でした。大学生の皆さんは、それぞれの大学に高い学費を納めているのですから、めいっぱい施設を活用し、勉強にサークル活動に励んでください。

その大学の図書館は、朝9時~夜22時まで開いているそうで、キャンパスツアーで見学させてもらった時も、熱心に勉強している学生がいました。私なぞ、この齢になってから、勉強したくて仕方なくなってきて、ああ図書館に入り浸って本が読みたい、勉強したい、と、学生さんがうらやましくなってしまいました。リアルタイムで学生をやっている時には、勉強できるありがたみがわからないものなのかもしれません。

さて、免許更新講習では、必修と選択講習に分れていて、選択の方ではいろいろな内容が選べるのですが、私は日本史研究の最前線について大学の先生から講義を受けて来ました。
確かに最新の研究成果を踏まえて新しい考え方をいくつか学ぶことができました。
例えば、古代では、
○長屋王の変は、光明子を立后(皇后にする)するという目的のために藤原氏が起こしたのではない
○摂関期のはじまりに、承和の変などが起こり、それを教科書では伴氏や紀氏などの古い豪族を排斥(他氏排斥)するために藤原氏が起こしたというふうに書かれているが、そうではない

ということなど。

一つめの、長屋王の変と光明子立后を結び付ける件は、教科書そのままでは直接的にそう書かれてはいないので、私も教科書に沿って教えていましたが、前の学校にいた時に、ある同僚の先生の試験問題で、長屋王の変は、藤原氏が何のために起こした事件かというのを答えさせる問題があって、光明子を皇后にするため、というのが解答だと聞き、違和感を感じたということを思い出しました。
それではどういうことかという詳しい話は、今日は保留ということにさせていただきます。

二つめの他氏排斥は、確かに、当時の伴氏や紀氏は、あまり有力な貴族ではなく、どちらかというと、藤原氏同士の内部抗争だったようです。高校の授業的には、他氏排斥としておいた方が、まとめやすい、わかりやすい話になるのは確かです。でも、細かく見ていくと、そうではないのです。

どうしても、これまでの日本史は、藤原氏中心史観になってしまいがちで、別の、裏側からの視点というのも必要だと思います。私も、今、そのようにしてさまざまな本を読みあさって、わくわくしながら自主的に学んでいるところです。


今日は、おそまつさまですが、これにて。
写真を何か、と思いましたが、今年の5月に、実家で撮ってきた土星の写真など(笑)
口径12.5cmの反射望遠鏡に、携帯電話のカメラを押しつけて撮りました。不鮮明ですみません。天文は、一応私の趣味です。

土星の輪がわかるでしょうか?
では、引き続きよい夏休みを。


日本のインテリにきらわれた空海?

2013-02-21 04:03:10 | 平安時代
ちょっとブランクができてしまいましたがお元気でしたか?この間、合格発表が連日あって、連絡が来なければ、落ちたのか?と心配になり、合格した、と連絡があれば、本当にうれしくなって私も元気になり・・・という、一喜一憂の日々でした。こういう日々は、まだ続きます。これから試験に挑む人もいます。
補習に熱心に参加していた生徒も、しっかり志望大学の合格を勝ち取ったことを知り、うれしいです。例えば、英語が苦手なので国語と日本史で勝負し、それで高倍率の競争をくぐり抜けて第一志望に合格した人も。
ここまでまだ思うような結果が出ていない人も、まだリベンジの機会は残されています。最後まであきらめないで努力を続けてください。努力は必ず報われます。

さて、自分のクラスの学級だよりでも、空海の言葉について少し取り上げ、注目したところだったのですが、ここにも書いておきたくなりました。

空海は、真言宗の開祖で、日本史では弘仁・貞観文化で最澄とともに出てきます。お習字も上手で、三筆の一人ですし、庶民のための私的な教育施設「綜芸種智院」も作ったり、嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)をもらったりと教科書的にみてもさまざまな事績が挙げられます。弘法大師ともいい、「弘法も筆の誤り」ということわざもあります。
空海は、魔法使い・スーパーマンと言ってもいい人です。魔法対決に勝ったりもしています。
いろいろと興味深い人なのですが、意外と、空海自身の著作物や、関連書籍が世間一般にあまり出回っていないのが不思議です。簡単に読める本を探したのですが、なかなかありません。
例えばこういう本が手元にありますが。梅原猛『空海の思想について』(講談社学術文庫)
これを改めて読んでいたのですが、一部紹介します。本文ではなく、簡潔にまとまっている解説の部分から。

「<日本のインテリにきらわれた空海>(章のタイトル)では、俗に『大師は弘法にとられ』といわれるように、空海は宗派を越えて一般庶民大衆の信仰と尊崇の的であったことを著者は指摘する。しかも加持祈祷の本領において空海は霊威をもった超自然的な絶対者として仰がれてきたのである。少なくとも江戸時代までは空海は聖徳太子とともに庶民にとっては霊威の人物であり、救済主であった。
近代人は霊威の存在、万能の天才に懐疑の目をむける。近代人は個別的な天才をたたえる。
このようなわけで、親鸞・道元・日蓮は近代の知識人の好むところであったが、空海は全く疎外されていた、と著者はいう。事実、今日でも知識人のなかには体質的に空海を嫌悪するひともいるようである。」(p.121)

確かに、日蓮は日蓮宗や創価学会などの組織でその教えを広め、信仰する人々の存在感がありますし、道元は、「只管打坐」の言葉が有名で、永平寺をはじめとして座禅修行がポピュラーになっています。親鸞も、悪人正機説によって有名ですし、倉田百三が『出家とその弟子』という本を書きベストセラーになったりしています。

空海も、弘法大師という呼び名で親しまれてはいます。近いところでは西新井大師、川崎大師など人々の信仰を集めていますが、空海その人自身について、知識人が取り上げ、高く評価するという扱いはあまりされてこなかったかもしれません。魔法使いという部分も信じられないのかもしれませんし、あまりに天才すぎて、すべてを把握できないのかもしれません。
そもそも、岩波文庫に空海関連の本がないようです。岩波文庫が悪いというわけではないのですが・・・

道長の極楽往生への願い

2013-01-28 02:51:04 | 平安時代
勉強がんばってますね?私も高校時代は夜更かしして深夜放送を聞きながら勉強するのが好きでした。しかし、それはそれとして、朝寝坊していいということではなく、太陽が出ている間はちゃんと起きて活動・勉強しましょう。

今日もZ会『テーマ史』の「豆ちしき」を参考に。

現世で栄耀栄華を極めた藤原道長は、死後の世界でも極楽往生を願いました。『往生要集』を愛読した彼は、法成寺に念仏の場として阿弥陀堂を建立しました。そして1027(万寿4)年、62歳で臨終を迎えた道長は、金色九体の阿弥陀仏の手と結ばれた五色の糸を握りしめ、数多の僧侶が唱える荘重な念仏に包まれながら往生しました。これ以後、上流貴族の間では、荘厳な阿弥陀堂を建立することが流行するようになったとのことです。

2年生の授業の時にも話しました。平安貴族の食事は栄養も偏っていたので、道長も、糖尿病であったらしいということ。それで、あまり長生きもできませんでした。道長のビデオも、時間数の関係で見せられないクラスもあったように思いますが、見た人達は、道長が、晩年には死ぬのが恐くなって、『御堂関白記』に、「念仏十四万辺」などと書いてあるというのを覚えていると思います。一日は86,400秒だから1秒に1回でも十四万回は無理、という話もしました。

道長が死んでから阿弥陀堂建立が流行するようになったとのこと。道長の息子の頼通が平等院鳳凰堂を完成させたのは1053年、末法元年(1052年)の翌年でした。道長が死んで26年、だいぶ経ってからのことですね。1051年には奥州で前九年合戦が起きています。
都の貴族たちも末法思想や現世の戦や疫病などに不安を感じていたために、阿弥陀仏信仰にすがったのでしょう。
この浄土教信仰が地方に広がって阿弥陀堂が地方で見られるようになるのが院政期ですね。