日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

太安万侶ゆかりの神社 多神社を訪ねて その3

2018-06-30 23:38:16 | 旅行
前回の続きです。2016年9月25日に多神社を訪れた記録です。

事務連絡。また考査の日が迫って来ました。2年生の皆さん、勉強してますか?教科書を読むことは基本です。チェックペンで太字を塗りつぶして、3回くらいは読んでほしいですね。チェックペンは、日本史だけでなく、暗記モノの勉強にとても有効です。チェックペンを使った勉強法は、こちら→「暗記モノの必需品

さて、戻りまして、前回の続きですが、多神社の境内から、東側の方に出てみました。東には、三輪山が見えるはず、ということで。


田んぼの向こうに、山並みが見えましたが、あれが三輪山、ということがすぐに識別できなくて、あれ~、おかしいなあ?・・・・・あれがそうか、この程度の見え方なのか?と、少しがっかりしました。
もっと、はっきりとした存在感があるのかと思ったのですが。

ちなみに、唐古・鍵遺跡も同じ田原本町ですが、奈良大学のスクーリングで唐古・鍵遺跡のミュージアムに行った時、三輪山がとても印象的に見えました。冬至の頃に太陽が昇って来るあたりではというような方向でした。


一方で、神社入口から西の方角を見ると、二上山が結構大きく、はっとするような存在感で見えていました。少し開けた場所を求めてもう少し西の方に歩いて行くと、こんな風景に出会いました。


これは、以前にも写真のみ紹介したことがある場所です。二上山が、とても美しく、印象的な形で見えました。
この山の形を見て、何も思わない・感じない人はいないのではないでしょうか?

なにげなく図書館で手にとった、『古代大和を歩く』(和田萃 吉川弘文館2013)が、ここ数日読んでいて、結構面白いな、と気付いたこの頃、その中にも多神社、そして三輪山・二上山の景観のことが書かれていました。

東の三輪山、西の二上山。偶然のことではあるが、三輪山と二上山はほぼ東西に位置している。私などは偶然などとは考えずに、「造化の神の妙なる手業」とさえ思う。奈良盆地中央部の中和地域―昔から人々は愛着を込めて「国中」(くんなか)と呼ぶ―に住む人たちは、朝は三輪山に上る朝日を、夕方には二上山の彼方に沈む夕陽を見る習慣があるように思う。

そうですね、「国中(くんなか)」と言いますね。
続けて、桧原神社からの眺めについて、

春と秋の彼岸の中日には、雄岳と雌岳の間の撓(たわ)に夕陽が沈む。一度眼にすると、生涯忘れえぬ光景となる。

さらに、多神社に触れられていて、

多神社付近からだと、彼岸中日には、三輪山の頂上から朝日が上り、夕日は雄岳と雌岳の撓に沈む。

とあります。
筆者の和田さんは、この多神社も存在する田原本町のご出身のようです。地元の方ですからいろいろ深いことをご存知なのだろうなと思われますが、多神社については、このくらいでした。この本の全体的に、(学術的にも)興味深い内容がぎっしりで、またいつか奈良を歩く時に、参照したいと思います。


多神社の前の道路を渡ったところに、小杜(こもり)神社という、太安万侶を祀った小さな神社がありました。


本当に、小さな森の中にある、こじんまりとした神社です。


東側に鳥居があって、こちらからの方が三輪山がよく見えるように思います。鳥居の真ん中に見えました。


水草がびっしりと水面を覆っている、石でできた鉢がありました。気持ち悪いけれども気になって撮影、しかも拡大して載せちゃいます。あたりは人もなく、しーんと静まり返っていました。


改めて、多神社前の道から見た、東・南・西の風景です。三輪山、畝傍山、二上山が見えます。

東の三輪山


南の畝傍山


西の二上山


特徴のある山に囲まれた、まさに「国中」です。
盆地は、その地形から、強固な政治勢力が作られやすいと以前ふと考えたことがあります。例えば山梨県の甲府盆地は武田信玄の本拠地、福島県の会津盆地は会津藩、それぞれの地を訪れた時に、山に囲まれた小国のような雰囲気・守られているような安心感を感じました。地域の人々の「団結」も強まるような気がしました。奈良はそれほど高い山に囲まれているわけではありませんが、形が独特・美しい山が各方角に見え、天気によっては霧のような雲がその裾野にたなびく様子は、神さびた土地、という印象を持つことができます。
古代の人々が、奈良盆地を日本最初の都の地に選んだのも、考え抜かれてのことかも、と思います。

都として、ということは別にしても、毎日仰ぎ見る山が、その地域に住む人々の情操に影響を与えるということはあると思います。例えば、毎日美しい富士山が見える地域に住んでいる人には、やはり富士山が人格形成などによい影響を与えているのではないかとうらやましくなります。静岡の人は、オレオレ詐欺の被害が一番多いと聞いたことがあります。人がいいんでしょうね。私の祖母も、三島の生まれ・熱海育ちで、富士山の見える所で生まれ育ち、のんびりした性格だったと聞いています。

東京からは山がほとんど見えません。山ではなくて東京タワーとかスカイツリーがその代わりになるかもしれません。私の場合は、実家の白河からは、那須の山が西の方に絵画のように見えていました。やはり故郷の山は、すぐに心に思い浮かべられるものです。

話がどんどん脱線して恐縮ですが、私の奈良大通信教育の卒論は、子持勾玉の出土地について書いたのですが、そこでは山のことも重要な話題です。その中で私は、白河市にあって陸奥国一宮である都々古別(ツツコワケ)神社が麓にある円錐形の山・建鉾山(たてほこやま)を奈良の三輪山、西にある関山(せきさん)を二上山になぞらえて、論を展開しました。関山が、ある角度から見ると、二上山のようにも見えるのです。現地に行って驚きました(これについてはまたいつか)。

奈良の三輪山と、白河の建鉾山との共通点は、円錐型・つまり神奈備型の山であるということと、麓にそれぞれ、大和国の一宮と陸奥国の一宮があるということ、そして付近で子持勾玉が見つかっているということです。
そして、ついでに書いてしまうと、その建鉾山・ツツコワケ神社のある付近には、三森(みもり)という地名があるのですが、それは、奈良の三輪山をミムロ山とかミモロ山というように、そのミムロやミモロが転訛して「ミモリ」になったという考え方もあるというのです。
この話は、いつか詳しく書きたいと思っています。三森さんという苗字の人が、白河地方にはちらほらいることは昔から認識していました。地名としてもあります。それが、奈良の三輪山・御諸山と、もしやつながりがあるとは・・・?と、ワクワクしたのです、今もですが。
三輪さんという苗字の人もいます。

かなり脱線してしまいました。
まとめると、その地に立って見える、山の見え方、それを確認することは、私にとってはとても重要なことであり、そこに立つことで、古代の人々と同じ気持ちになることができるかもしれない、という思いがあります。そういう意味合いから、この多神社付近を歩いてみたことは、私にとって、一つ大きな収穫となりました。


この地域のマンホールのデザイン。唐古・鍵遺跡の楼閣のデザインです。


多地区の歴史を記した看板。
弥生時代の拠点的な集落跡でもあったということで、太安万侶の時代(奈良時代)などよりもっともっと古くから、やはり、重要な地域であったのですね。
観光客の多くない場所として、景観を損ねる建物もなく、残されているのは貴重だと思います。また訪れてみたいと思います。

それではこのへんで。試験勉強の人はがんばってください。私も自己研鑽に励みます。

太安万侶ゆかりの神社 多神社を訪ねて その2

2018-06-24 15:19:39 | 旅行
前回の続きです。2016年の9月25日に多神社を訪れた記録です。


ほぼお彼岸の時期でしたので、ヒガンバナがあちこちで咲いていて、趣がありました。


多神社のあたりは、条里制の田んぼの区画も残っていて、まっすぐな昔の道の、交差点表示がありました。私の感覚では、ディープな奈良・大和の心臓部のような気がするのです。これといって派手な、見て面白いものがあるわけではないのですが。奈良観光でここまで来る人は、ごくまれでしょう。

多神社までの道すがら、田んぼに大きく実って垂れている稲穂を見るのは久しぶりで、とても和みました。


私が多神社に来たかったのは、そこから見える風景がどんなものか、自分の目で確かめたかったからです。真東に三輪山、真西に二上山。そして、現地で南の方にも印象的な山があることに気が付きました。畝傍山でした。地図上で見ると、多神社の真南です。

私は、ここ数年、神社に興味を持ち始めたといっても、建物にはほとんど興味がなく、その立地に興味があります。そこから太陽がどのあたりに昇って沈むのか、どんな山があって、現地ではどう見えるのか・・・古代の人々が、その土地を選んだ理由は・・・?
奈良大通信教育の「現地主義」の実践です。


多神社の入り口です。


「多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社」の標柱。


説明の看板に、興味深いことが書いてありました。

社領古くは方六町を占める。現在も条里小字名に現境内地より
北8町(約864m)の田原本町大字新木に小字「大鳥居」
南7町(約756m)の橿原市大字新堂に小字「トリイ」
東7町(約756m)の田原本町大字多に小字「北鳥井」
西7町(約756m)の橿原市大字飯高に小字「下鳥井」がありこの範囲は
南北17町、東西15町に及び 面積255町歩。


とのこと。東西南北に鳥居があったのでしょう。
1町はおおよそ1haとして、かなり広大な面積です。東京ドーム5,6個分くらいあるかな?私の適当な推算です。古代のみならず、中世の頃そうであったようです。その神威の大きさといいますか、この地域の人々がこの神社をとても大切にしてきたことが想像されます。






またここの鳥居にも「正一位勲一等多大明神」の文字。


多神社の建物自体は、古いものではありません。


太安万侶にちなんだ「まろちゃん」ですか。

今日はこのへんまでとさせていただきます。続きはまた。


太安万侶ゆかりの神社を訪ねて その1

2018-06-04 01:08:28 | 旅行
授業で使うこともあるだろうと詳しめにやってきた韓国シリーズもどうにか終わりました。これでやっと、奈良の話題に戻ります。しかも2年前の。

奈良大博物館学芸員資格課程を2016年から受講し始めました。まだチンタラやっております。やはり、今の職場の仕事が忙しくて、普段の日は時間が取れません。今日書くのは、2016年9月から10月にかけて毎週のように奈良大に学内実習に行った、その旅について、その1回目です。

9月25日(日)が学内実習の1回目(計3回)でした。この実習は、いつものスクーリングのように10時始まりではなく、9時開始のため、朝、東京から来たのでは間に合わないので、前泊することになります。そのために、土曜日はまるまる気楽な観光に使えるので、とても楽しい秋でした。

気候のよい季節に奈良に行くのは新鮮です。だいたい、スクーリングでは酷暑か厳寒の季節ですから。しかも、ほとんど前泊も後泊もしませんでしたので、観光らしい観光もできませんでした。
それが、この時は、朝から観光のために時間が使えました。本当にうきうきして奈良に向かいました。

今回は、以前から行きたかった、多神社(おおじんじゃ)を選びました。地理的に、スクーリング中には行きづらい場所でした。

正式には「多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社」といいます。この地域を拠点としていた多氏の祖神である神八井耳命(かみやいみみのみこと)を祀ったとされています。多氏は、『古事記』を筆録した太安万侶(おおのやすまろ)もその一族になります。「多」と「太」で違いますが、「おお」という音が一緒ですね。

この神社については、とにかく、立地に興味津々で、一度現地に!という思いがずっとありました。どういう場所なのかというと、真東に三輪山、真西に二上山が見えて、私の思いとしては、弥生・古墳時代の奈良・大和の、ど真ん中にある重要地点なのです。

ちょうど、9月24日といえば、ほぼお彼岸であり、真東の三輪山から日が昇って真西の二上山に沈む頃ですから、その様子が見られるか、という期待も以前からしていたのですが、お天気が悪かったので、無理かとあきらめ、夕方などの時間はやめて、昼間に訪れました。

多神社へは、近鉄橿原線の笠縫駅から歩いて行きます。この「笠縫」という名前も興味深いものがあります。

『日本書紀』崇神天皇6年に、「笠縫邑」が出てきます。

崇神天皇が、天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りしたが、その神の勢いを畏れて、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った・・・(以上、宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫 を参照)

この『日本書紀』の記述だけでも、興味深い点はたくさんあります。天照大神が卑弥呼ではないかと私は考えるのですが、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の後、中国との外交に出てくる女性が、卑弥呼の宗女・壱与(台与 トヨ)ということになっています。こちらは自信はありませんが、トヨは豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)ではないかとも私は考えています。トヨスキイリヒメの墓は、ホケノ山古墳ではないかという説もあります。ホケノ山古墳は、箸墓古墳のすぐ近くにあります。以前この古墳についての記事を書きましたのでそちらもご覧ください。

「トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)」

豊鍬入姫が天照大神を祀った笠縫邑がどこか、ということについては、諸説あるようです。
檜原神社、多神社、笠縫神社、笠山荒神社、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社、小夫天神社、穴師坐兵主神社、飛鳥坐神社、長谷山口坐神社、がWikipediaに挙げられています。安易にWikipediaから引いてきてすみません。

このうち、私が興味深く思っているのは、多神社の他、志貴御県坐神社、穴師坐兵主神社です。
笠縫神社というものがあるならば、そこで決まり、という考え方もあると思いますが、この地において、駅名にわざわざ笠縫という文字を使っているのは、それなりに考えられて、由縁があってつけられているのだろうと思います。ちょっとそこまで調べられませんでした。

笠縫駅から少し歩くと、コメダ珈琲店があることをリサーチしていましたので、そこで腹ごしらえをしてから多神社に向かうことにしました。コメダ珈琲店に入ったのはここが初でした。シロノワールを食べてみたかったのですが、大きいのと小さいのがあるんですね。よく知らずに大きい方を頼んでしまって、やや苦労しながら食べました(笑)。一人で食べるなら、小さい方で大丈夫だったんですね。
繁華街では全然ないこんな場所にコメダ珈琲店があるのは不思議でしたが、空いていてちょうどよかったです。



川のほとりの、多神社に続く一直線の道に、趣のある鳥居が建っていました。そこを透かして、ちょうど二上山が見えるような向きに建っているようでした。



そこの鳥居にかかっている額の文字

「正一位勲一等多大明神」とあります。この上ない「エライ」神社のようですね。

夜も更けて参りました。今日はこのへんでストップさせていただきます。また次回。