夏休みの話題から一つ。早くしないと冬になってしまいます。
夏休み中の大学通信教育部のスクーリングにて、学外授業の日がありました。
私が個人的にも行きたいという思いが募っていた、唐古・鍵遺跡、箸墓古墳、纏向遺跡に、バスをチャーターして、連れて行ってくれるというのです。なんとタイムリーな!と本当にうれしく、楽しみにしていました。
特に、唐古・鍵遺跡は、少し交通の便が悪いので、自分だけでは行きにくいなと思っていたので、渡りに船でした。
唐古・鍵遺跡は、教科書的には、弥生時代の環濠集落に分類されます。教科書の本文に出てくるほどの扱いではありません。楼閣の絵が描かれた土器が発見されたことから、卑弥呼の邪馬台国では?という説もありました。1990年代頃でしょうか、佐賀県の吉野ケ里遺跡(同じく環濠集落で物見やぐらがある)こそ邪馬台国、と話題になり、唐古・鍵遺跡はその陰に隠れたまま、私も教員になり、唐古・鍵遺跡については授業では触れますが、格別意識に留めていませんせした。
しかし、昨年来、多くの本を読み進めていく間に、唐古・鍵遺跡の重要性について、個人的に認識が高まってきました。
ここ数年、纏向遺跡の一帯が邪馬台国で、箸墓古墳が卑弥呼の墓では?という説が話題になっています。私の興味がどこにあるかということについては、唐古・鍵遺跡は、纏向遺跡よりも先に成立していた弥生の集落です、ということだけここでは書いておきましょう。
唐古・鍵遺跡は、奈良県磯城郡田原本町にあります。近鉄橿原線石見駅下車徒歩20分(約1.5km)とのことですから、ちょっと行きにくい所です。しかも、他の遺跡・観光地とはちょっと離れていますから、奈良に短期間しか滞在しない場合にはオミットされやすいでしょう。
唐古・鍵遺跡は、風変わりな名前ですが、田原本町の唐古と鍵と呼ばれる地域にまたがっているのでそう呼ばれます。
スクーリングの学外授業の日は、あいにく雨でした。レジュメが雨でふやけてしまったのが残念ですが、その中から少し拾いながら紹介します。
遺物量・種類の豊富さは日本でも一、二であり、まだ1割も発掘されていないそうです。
ここでは、銅鐸などの青銅器生産も行われていて、奈良では唐古・鍵遺跡だけだとのことです。
愛知県や岡山県などの土器も持ちこまれていて、当時の物流センターの役割も担っていたようです。
絵画土器が大量に出土しており、先ほども書いたように、楼閣の絵の他、シカ、建物、舟、シャーマンなどの絵画が描かれています。
物流センターとしての拠点集落であるとともに、祭祀でも重要な役割を担った集落の可能性があります。ひすい勾玉の入った褐鉄鉱の容器も見つかっています。
バスを降りて、まず向かったのは、あの土器に描かれた楼閣を、実際に再現して造られた楼閣です。
『魏志』倭人伝には、邪馬台国には「楼観」があったと記されています。
唐古・鍵遺跡のシンボルのような建物です。というか、他には、ほとんど目ぼしいスポットは現地にはありません。
この楼閣、これまでにも存在は知っていましたが、なんか、嘘っぽいな、と思っていました。しかし、先生の説明を聞いて、なるほど、と新しく思う所があり、嘘っぽさは少し私の中で緩和されました。
この楼閣は、しゅるるんとひげのようなものが軒先に伸びています。土器に描いてある絵は確かにそうなのですが。本当にそんなのが付いていたんだろうか?と思ってしまいますが(そもそも材質は?)、授業でいただいたレジュメに、土器の楼閣の絵と並べて、お神輿の図が載っていました。そのお神輿をよく見ると、お神輿の屋根にもしゅるんと先が丸まった飾りが付いています。これは蕨手(わらびて)というそうです。確かにわらびみたいですね。
また、復元楼閣の手すり様の部分には、木でできた鳥がとまっています。これも、絵に描かれているから再現したそうです。土器をよく見るとS字型の鳥が描かれています。そして、お神輿にも、蕨手の先に、鳥がとまっています!
赤丸は私がつけました。
というわけで、唐古・鍵遺跡の楼閣と、お神輿とは、共通点があるのです。
土器の楼閣には、はしごも描かれています。
出雲大社の本殿を再現した模型や、鳥取県の稲吉角田遺跡で見つかった土器に書かれた高層神殿も、長いはしごが描かれています。
他にも、舟の絵とか、鳥取県その他の絵ととてもタッチが似ている絵画土器があって、まさか鳥取で描いた人とこの奈良で描いた人と同じ人が土器に描いたんじゃ・・・?と、見た瞬間、ドキドキしました(一応、しゃれです笑)。
唐古・鍵遺跡から少し車で移動すると、「唐古・鍵考古学ミュージアム」があり、ここも見学しました。田原本町の生涯学習センターの立派な建物の2階です。そこには、唐古・鍵遺跡から発掘された興味深い遺物が展示されています。
昨日今日と泊まりがけで出かけていたものですから、このあたりまで書いて、やっぱり疲れもあるので、唐古・鍵についてはもう1回書くことにします。それではまた。
夏休み中の大学通信教育部のスクーリングにて、学外授業の日がありました。
私が個人的にも行きたいという思いが募っていた、唐古・鍵遺跡、箸墓古墳、纏向遺跡に、バスをチャーターして、連れて行ってくれるというのです。なんとタイムリーな!と本当にうれしく、楽しみにしていました。
特に、唐古・鍵遺跡は、少し交通の便が悪いので、自分だけでは行きにくいなと思っていたので、渡りに船でした。
唐古・鍵遺跡は、教科書的には、弥生時代の環濠集落に分類されます。教科書の本文に出てくるほどの扱いではありません。楼閣の絵が描かれた土器が発見されたことから、卑弥呼の邪馬台国では?という説もありました。1990年代頃でしょうか、佐賀県の吉野ケ里遺跡(同じく環濠集落で物見やぐらがある)こそ邪馬台国、と話題になり、唐古・鍵遺跡はその陰に隠れたまま、私も教員になり、唐古・鍵遺跡については授業では触れますが、格別意識に留めていませんせした。
しかし、昨年来、多くの本を読み進めていく間に、唐古・鍵遺跡の重要性について、個人的に認識が高まってきました。
ここ数年、纏向遺跡の一帯が邪馬台国で、箸墓古墳が卑弥呼の墓では?という説が話題になっています。私の興味がどこにあるかということについては、唐古・鍵遺跡は、纏向遺跡よりも先に成立していた弥生の集落です、ということだけここでは書いておきましょう。
唐古・鍵遺跡は、奈良県磯城郡田原本町にあります。近鉄橿原線石見駅下車徒歩20分(約1.5km)とのことですから、ちょっと行きにくい所です。しかも、他の遺跡・観光地とはちょっと離れていますから、奈良に短期間しか滞在しない場合にはオミットされやすいでしょう。
唐古・鍵遺跡は、風変わりな名前ですが、田原本町の唐古と鍵と呼ばれる地域にまたがっているのでそう呼ばれます。
スクーリングの学外授業の日は、あいにく雨でした。レジュメが雨でふやけてしまったのが残念ですが、その中から少し拾いながら紹介します。
遺物量・種類の豊富さは日本でも一、二であり、まだ1割も発掘されていないそうです。
ここでは、銅鐸などの青銅器生産も行われていて、奈良では唐古・鍵遺跡だけだとのことです。
愛知県や岡山県などの土器も持ちこまれていて、当時の物流センターの役割も担っていたようです。
絵画土器が大量に出土しており、先ほども書いたように、楼閣の絵の他、シカ、建物、舟、シャーマンなどの絵画が描かれています。
物流センターとしての拠点集落であるとともに、祭祀でも重要な役割を担った集落の可能性があります。ひすい勾玉の入った褐鉄鉱の容器も見つかっています。
バスを降りて、まず向かったのは、あの土器に描かれた楼閣を、実際に再現して造られた楼閣です。
『魏志』倭人伝には、邪馬台国には「楼観」があったと記されています。
唐古・鍵遺跡のシンボルのような建物です。というか、他には、ほとんど目ぼしいスポットは現地にはありません。
この楼閣、これまでにも存在は知っていましたが、なんか、嘘っぽいな、と思っていました。しかし、先生の説明を聞いて、なるほど、と新しく思う所があり、嘘っぽさは少し私の中で緩和されました。
この楼閣は、しゅるるんとひげのようなものが軒先に伸びています。土器に描いてある絵は確かにそうなのですが。本当にそんなのが付いていたんだろうか?と思ってしまいますが(そもそも材質は?)、授業でいただいたレジュメに、土器の楼閣の絵と並べて、お神輿の図が載っていました。そのお神輿をよく見ると、お神輿の屋根にもしゅるんと先が丸まった飾りが付いています。これは蕨手(わらびて)というそうです。確かにわらびみたいですね。
また、復元楼閣の手すり様の部分には、木でできた鳥がとまっています。これも、絵に描かれているから再現したそうです。土器をよく見るとS字型の鳥が描かれています。そして、お神輿にも、蕨手の先に、鳥がとまっています!
赤丸は私がつけました。
というわけで、唐古・鍵遺跡の楼閣と、お神輿とは、共通点があるのです。
土器の楼閣には、はしごも描かれています。
出雲大社の本殿を再現した模型や、鳥取県の稲吉角田遺跡で見つかった土器に書かれた高層神殿も、長いはしごが描かれています。
他にも、舟の絵とか、鳥取県その他の絵ととてもタッチが似ている絵画土器があって、まさか鳥取で描いた人とこの奈良で描いた人と同じ人が土器に描いたんじゃ・・・?と、見た瞬間、ドキドキしました(一応、しゃれです笑)。
唐古・鍵遺跡から少し車で移動すると、「唐古・鍵考古学ミュージアム」があり、ここも見学しました。田原本町の生涯学習センターの立派な建物の2階です。そこには、唐古・鍵遺跡から発掘された興味深い遺物が展示されています。
昨日今日と泊まりがけで出かけていたものですから、このあたりまで書いて、やっぱり疲れもあるので、唐古・鍵についてはもう1回書くことにします。それではまた。